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7
「明凛――大丈夫か?」
はっと、明凛は目を開けた。
目の前に、心配そうに覗き込んでいる顔がある。
「――直斗……」
「びっくりした。学校の帰りに倒れたって聞いて」
夕暮れ。秋の空は、もう暗い帳に覆われている。
身を起こそうとした明凛は、軽く息を吐いて、再びベッドに頭を沈めた。頭が重い。まだ、身体に力が入らない。
「誰に聞いたの」
「紫凛から。今、来てんだ。あいつ」
「………」
双子の妹の紫凛とは、10歳の時に両親が離婚して以来、ずっと離れて暮らしている。
紫凛は県北に住む父方の祖母に引き取られ、明凛1人が母親の元に残された。
ただ、祖母と折り合いが悪いのか、休みの度に泊まりに来る紫凛は、実家よりむしろ母親の家の方が居心地がいいようだった。
「……紫凛、なんて?」
「お前のこと、心配してたよ」
直斗の目が少しだけ優しくなる。
何故かその目が直視できず、明凛はぎこちなく顔を逸らしていた。
「私は平気。ただの貧血だと思う。試験近くて、最近ろくに寝てないから」
「無理すんな……って言っても、お前は無理するもんな」
反論しようとした明凛は、そんな気力もわかないままに息だけを吐いた。
その通りかもしれない。
心配性の直斗には言っていないが、三年になって、貧血で倒れたのはこれで二度目だ。
小学校の頃ひどかった貧血は、中学にあがる頃には改善され、そこからの数年は、意識を失うほどひどい状態に陥ったことなどなかったのに。
ぽん、と頭を叩かれる。
「お前はギリギリまで無理するからいけないんだよ。しかも顔には全く出さないし」
「……それは判ってるんだけど」
「お、珍しく素直に認めるんだな」
「こんな状態で、強がっても仕方ないでしょ」
受験勉強にピアノに部活。確かにこの半年、息をつく間もないほど忙しかった。
無理をしすぎている、というのは自分でも判っている。
「部活は、もうやってないんだろ?」
直斗の問いに、明凛は小さく頷いた。
「こないだようやく引退した。人が足りないから、秋の定演まではってことで続けてたんだけど……その定演も、先週終わって」
「それも紫凛からきいたよ」
苦笑して直斗は立ち上がった。
「教えてくれればよかったのに。俺も観たかったよ、明凛のリサイタル」
「そんな大袈裟なものじゃないわよ」
明凛はようやく半身を起こし、そして初めて、今日直斗がここにいる理由を思い出していた。
「あの、……直斗」
「なに?」
背を向けた直斗は、明凛の本棚に視線を巡らせている。
「明日なんだけど、本当にごめんね」
「いいよ」
背を向けたままの直斗が、肩だけをすくめる。
「急に、母の実家に顔を出さなきゃいけなくなって――今度、埋め合わせは必ずするから」
「いいって。大切な孫の誕生日だもんな。そりゃ、行けよ。ばぁちゃんのところに」
「……ごめん」
本当は嘘だった。
明日の十五歳の誕生日、明凛は母親にも内緒で、ある人と一日を過ごす約束をしてしまったのだ。
ただし、やましい相手ではないし、直斗にだけは本当の事情を話しても一向に差し支えはない。
なのに、つい直斗にも嘘を言ってしまったのは――
「本当に気にすんな。明日は友達でも誘ってどっかに行くから。だいたい、お前まだ受験中だもんな。俺は合格ほぼ間違いないって感じだけど」
「まだ一次に通っただけでしょ」
「ばーか。一次が一番難しいんだ。あとはもう、人柄で楽勝だよ」
振り返った直斗と顔を見合わせ、はじめて明凛は笑っていた。
「直斗?」
その時、階下から、明るく華やいだ声がした。
「直斗、悪いんだけど、ちょっといい?」
紫凛の声だ。
明凛は無意識に、自分の笑顔がこわばるのを感じた。
顔も爪も、髪質までも瓜二つの双子は、声と性格だけが致命的に違う。
低くて暗い明凛の声と、軽やかな鈴を振ったような紫凛の声。
生真面目で融通のきかない性格の明凛と、あっけらかんとして奔放な紫凛。
明と紫。名前だけはその真逆の形でつけられたというのに。
「おう、今行く」
そう返した直斗は、その明るい表情のまま、明凛に視線を向けた。
「悪い。今、紫凛の勉強みてやってんだ。あいつ、馬鹿以下だろ。昔から」
「それは言い過ぎ」
「受験せずに働くとか言ってたけど、そもそも高校卒業できるかどうかも危ういんだってさ。あの馬鹿、どんだけ遊んでんだよ」
それにはなんとも言えず、明凛は微かな苦笑をかえした。
男性に対しても奔放な紫凛に、これまで紹介された彼氏の数は十指を超える。
明凛が通う学校では誰もが軽蔑するような低レベルの私立に補欠合格したものの、その学校もさぼって、毎晩繁華街あたりを遊び歩いているらしい。
昔からそんな紫凛は、明凛からみれば、全く理解できない異星人だった。
「お前も降りてこない? 今夜はおふくろさん遅くなるから、紫凛が飯作ってくれるんだってさ」
「ん。あとでね。急いで片付けておきたい問題集があるから」
「そんなもの後でも」
階下から、再び紫凛の声がした。直斗は一瞬非難するような眼差しを明凛に向けたが、すぐに諦めたように扉の方を振り仰いだ。
「判った。今降りるから」
歩き出した直斗の背中が、扉の方に向かっていく。
待って。
不意に明凛は、その背にすがり、腕を掴みたい衝動にかられた。
時々、そんな夢を見る。
夢の中、背を向けて去っていくのはいつも父親で、必死で伸ばす明凛の手はどうしたって届かない。
今、その相手は直斗である。
今見ているものが夢か現実か、一瞬明凛は判らなくなった。
待って。行かないで。
紫凛のところに行かないで。
行かないで。ずっと私の傍にいて――
「――柏原課長」
はっと、明凛は目を開けた。
「課長?」
なに、これは。
夢の続き?
夢でない証拠に、明凛の手はその人の上着の袖をしっかりと握りしめている。
「……大丈夫っすか」
「…………」
しばし、呆然と瞬きをした明凛は、自分に覆いかぶさるようにして見下ろしている男の顔を、再度まじまじと見た。
何故?
仰向けになって倒れている自分。それを上から覗き込んでいる男。
暗く陰った畳敷きの部屋。明凛の身体の上には薄いタオルのようなものがかけられている。少し離れた場所から聞こえてくる賑やかな宴会の声。
「…………」
何故???
きゃーっっと叫んで、この場から逃げ出したい衝動。
が、そんな感情はおくびにも出さず、明凛は努めて冷静に――なろうと自分に言い聞かせつつ――沢村烈士の腕から手を離した。
冷静に。そう、もちろんこれには、理由のつく経緯があるに違いない。それをまず確かめなければ。
「あっらぁ、目が覚めたの。明凛ちゃん」
その時、閉じられていた襖が勢い良く開いた。
沢村が身を起こし、明凛も同時に、その方に視線を向ける。
廊下の照明を背に立っているのは観光課の課長、綾森美和である。
「ダメね。度を越してあんなに飲むからよ。立場があるんだから、自分の酒量はわきまえないと」
反論を飲み込み、明凛は黙って頭を下げた。
頭が痛くて気分は悪いが、酔っている感じは少しもない。だが、酒の席で倒れてしまったのだけは間違いないようだ。
「おたくの課長さん、随分ストレスたまってるんじゃないの? 若いお嬢さんが倒れるまで飲むなんて、普通じゃないわよ」
それには沢村が軽く頭を下げた。その沢村を意味ありげに見てから、綾森は笑顔を明凛に向ける。
「私が知らせたのよ。管理課に電話したら、彼が出たから」
「……それは、……お気遣いありがとうございます」
なんのために?
そうは思ったが、それも堪えた。
考えたくもないが、部下の信頼を無くさせることが目的かもしれない。
就任以来トラブル続きの若い女性課長が、泥酔して部下を呼びつけた。こんな構図で噂が広まれば、たちまち明凛の評判は地に落ちるだろう。
女同士の足の引っ張り合い。仕方ない。意識をなくした時点で自分の負けだ。
「ごめんね。迷惑だった? でもしょうがないの。明凛ちゃんの自宅の連絡先が判らないでしょ。とにかく課の人になんとかしてもらおうと思って」
「いえ、助かりました」
全く――どうにもこうにも最低の一日だ。
「ありがとうございます。申し訳ありませんが気分が優れないので、今夜は先に失礼させてください」
明凛は急いで言って、立ち上がろうとした。が、驚くほどバランスがとれずに前のめりになる。隣の沢村の手が、明凛を支えた。
「大丈夫っすか」
「……ありがとう」
何故かひどく動揺して、明凛はその腕を押し戻した。同時に少し苛立ってもいた。
馬鹿じゃないの。綾森課長の前で。
意識しすぎといえばそれまでだが、相手は明凛の弱みをあまさずつかもうと目を光らせている猛禽同然の女である。
そもそも、どうして、こんな場所までこの男は来たのか。自宅の連絡先なら、阿古屋補佐には知らせてある。その番号を、綾森課長に伝えてくれるだけでよかったのに。
「大丈夫よ」
その綾森が、不思議ににこやかに笑って、明凛と沢村を交互に見た。
「私なら誰にも言わないで黙っておいてあげるから。……そういう関係なんでしょ。二人?」
――は?
抗議しようとした明凛を遮るように、綾森は続ける。
「いいからいいから。実は私、知ってるの。お正月休みにね。私も家族でコンサートにいったから。その時二人でいたでしょう? 明凛ちゃんと沢村君」
「………」
一瞬、言葉に窮した明凛を追い詰めるように、綾森は口を広げて嘲笑った。
「ほら、ビンゴ。隠しておきたい関係なら、あんな公の場所でデートなんかしちゃダメよ」
いや、それは――あの時点では、特段隠す必要もなかったから。
明凛は言葉と共に唾を飲み込んだ。
いや、この場合、言い訳すればするほど分が悪くなるのは私の方だ。
この人は今、私の心の中に爪をたて、それをさらに引き寄せようとしているのだ。
「どう? 気分がよくなったんなら、もう少し飲んで帰らない? よければ年下の彼氏も一緒に」
明凛と沢村を交互に見ながら、勝ち誇ったように綾森は続けた。
「大丈夫よ。実は女性課長会の後半は、若い男性職員が合流するのが恒例なの。いつも職場じゃ、嫌な上司にお酌なんてさせられてるんでしょ? 今夜はその逆。ここからは男女同伴で楽しみましょうよ」
――はい?
今度こそ明凛は、心の底から唖然としていた。
なんなの、それは。
「楽しいわよぉ。本庁の中でも若くてかっこいい子ばかり選んだから。みんな、明凛ちゃんと飲めるのを楽しみにしてるし」
ただ立ちすくむ明凛の手を、綾森はやんわりと握りこんだ。
「それとね。この会の幹事、これからは明凛ちゃんに任せたいのよね。一番年下だし、構わないでしょ? 今日はほら、私から明凛ちゃんへの引き継ぎってことで」
そう言いながらも、ちらちらと沢村を見る綾森の目は、完全に明凛を脅しにかかっているようだ。
もう何を言い訳しても無駄なような気がして、明凛は力なく額に手を当てていた。
「……すみません。今日はひとまず、失礼してもいいでしょうか」
「じゃ、了解?」
「返事は明日にさせてください。今は、頭が働かないので」
「もちろん、良い返事を待ってるわ」
にっこりと笑って、ようやく綾森は、明凛の手を離してくれた。その時だった。
「――綾森課長」
不意に、沢村が口を開いた。
その声が、低いくせに野太く、異様な威圧感があったので、明凛も思わず沢村の方を見上げている。
「なぁに」
綾森も、どことなく不審そうだ。しかしその目は、まだ勝利者の余韻を湛えてもいる。
数秒、沢村は無言だった。
奇妙な、息詰まるような沈黙――明凛は沢村が、綾森になんらかの暴言を吐くのではないかと思ったし、綾森もそれを危惧しているのか、目元が心なしか強ばっている。
不意に、沢村の野性味を帯びた横顔が、柔和な笑いを浮かべた。
「綺麗な、髪ですね」
――………なによ、それ。
緊張が一気に安堵に変わる。
明凛は長嘆して額を押さえた。
だめだ、この人。
まさか下手なお世辞でも言って綾森に取り入る気だったのだろうか。もういい加減にして、と思いながら顔を上げた明凛は、――驚いて瞬きをした。
それまで余裕たっぷりだった綾森課長の笑いが、明らかに凍り付いていたからだ。
「そ、そう? それはどうも、ありがとう」
うつむく綾森の、視線はあちこちに彷徨っている。
一体何があったのか、動揺を懸命に隠そうとしているのがはっきりと判る。
しかも、「それから――」と、沢村が切り出しただけでびくっとしている。なんなの、この反応は。
「それから、課長会の幹事の話ですけど、うちの課長にはちょっと無理なんじゃないかと思います。今はうちの内部が非常にごたごたしていまして」
「ああ、そう――そうなの。それじゃ仕方ないわね。ええ」
とんでもなく早口の綾森課長。
明らかに、おかしい。
「じゃあ、まぁ、早く、あなたの大切な上司を家まで送ってあげるのね。――お疲れ様」
ひどく狼狽えながら、そう言い捨てた綾森が足早に出て行ったので、部屋には明凛と沢村だけが取り残された。
「――何?」
明凛が眉を寄せて沢村を見上げると、沢村は笑いを堪えるような目で明凛を見下ろした。
「なんでも。帰りましょうか。タクシー、拾いますから」
「なんでもないってことはないでしょう。綾森さんに何をしたの」
「だから何も。見てたでしょ、課長も」
それは、見てたといえば見てたけど。
沢村がさっさと部屋をでたので、明凛も少し慌てて後を追った。
「ちょっと、理由を説明しなさい」
「いや、だから本当になんでもないんですって」
「なんでもないわけないでしょう」
「なにかあったとしても、言えるわけないじゃないですか」
――やっぱり、何かあるんじゃない。
澄ました沢村の横顔がなんとなく憎らしくなる。
「いいなさい」
「いやです」
「いいなさい」
「いやですって」
押し問答しながら外に出る。
沢村がものも言わずにタクシーに向かって手を上げたので、明凛はその手を掴んでいた。
「ちょっと、言うまで帰さないわよ」
驚いた目が振り返る。明凛もその時驚いた。まさか自分がこんな――立場をまるでわきまえない――みっともない真似をするなんて。
少し耳が熱くなるのを感じながら、明凛は急いで手を離した。
「その……今のは、言い過ぎだけど」
「……いや、思わせぶりなこと言った、俺が、悪いんで」
遠い過去だったあの夜の出来事が、いきなり現実の今にリンクする。
上司と部下から、一度肉体の境界を解いてしまった男と女の空気になる。
それをどう元に戻せばいいのか、頭が上手く働かないのは何故だろう。
うつむいて言葉を探していると、不意に沢村が低く呟いた。
「時間、いいっすか」
「え?」
「……ちょっと、……つきあってくれますか。話すんで、さっきのことも含めて、全部」
「………」
迷いながら、それでも見上げると、双方の目があった。
暗い影を宿した瞳。明凛は息を詰めたまま男の目をまっすぐに見返した。
引き結ばれた厚い唇、険しさで感情を隠した目元。何故だろう。その奥に揺れる本音を、今すぐ、乱暴に掴み出したい衝動に駆られる。すごく、駆られる。
そうだ。私はずっと知っていた。この人の目は、最初からこんなにも暗い情熱を帯びて、私に向けられていた――
「話……、多分だけど、長くなるんで」
先にその目を逸らしたのは沢村だった。
「この先にスタバがあるんで、いいっすか」
何故かほっとしつつ、明凛はぎこちなく頷いた。
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