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「……直斗?」
 明凛が声をかけると、壁に背を預け、ややうつむき加減で地面を見ていた男は、弾かれたように顔をあげた。
「――よう」
「ようじゃないって。何やってるの」
 明凛は驚きながら直斗の傍らに歩み寄った。
 高校に入ってすぐに通い始めた進学塾の駐輪場。時刻はもう、夜の10時を回っている。
「明凛ん家に行ったら、今、宿だって聞いたからさ。駅に行くついでに」
 暗い駐輪場の片隅で、どうやら直斗は、明凛の帰りを待っていてくれたらしい。
「気持ちは嬉しいけど……、いいの? 明日には山口に帰るんでしょ」
「まぁ、だから来たってのもあるんだけど」
 それには、少しだけ嬉しさがこみあげる。そして同時に、申し訳なさも。
「ごめん。……このお休みはレッスンと模試ばかりで」
「いいよ。三年の夏だもんな。明凛はピアノもやんなきゃいけないし、忙しいのは判ってたから」
 せっかく夏休みを利用して父方の祖母の家――つまり灰谷市に直斗が戻ってきてくれたというのに、結局明凛が時間をつくれず、二人は休みの間中すれ違い続きだった。 
「送るよ」
「いいの?」
 明凛は腕時時計を見ようとしたが、それを遮るように、直斗は明凛の自転車のサドルに手をかけた。
「明凛の家に寄ってから駅に行っても、十分なくらい」
「じゃ、自転車押してくれる? 直斗の方が歩くの速いし」
「わかった」
 本当は、聞きたいことは沢山ある。
 今年にはいってから、メールも電話もくれなくなったのは何故。
 夏休みの間中、どこか浮かない顔をしていたのは、何故?
 試験勉強は、順調なの?
 ――でも、聞かない。
 直斗なら、大丈夫だと思うから。
 今は悩んで迷っていても、どこかできちっと結論を出して、それを告げてくれると信じているから。 
 夏の終わり、夜風は涼しく、空には月が静かに佇んでいる。
 明凛の自転車を押しながら、直斗は耳にイヤフォンを差し込んだまま、時折唇で何かを口ずさんでいるようだった。
「何聞いてるの」
「ん……聞く?」
 足を止めた直斗が、片方のイヤフォンを明凛に手渡してくれた。
 耳に差し込むと、静かで、どこか物悲しいメロディが広がっていく。
 Would you hold my hand if I saw you in heaven?
 Would you help me stand if I saw you in heaven?
 男性ヴォーカルで歌詞は英語だ。少ししわがれた声。若い声ではない。
「誰の曲?」
「さぁ……知らない。人にもらったやつだから曲名は忘れた」
 なんの曲だろう。
 どこかで聞いたことがあるような気もしたし、初めて聞くような気もする。

 昼も夜も、生きていこう
 私が、天国にいられないことはわかっているから

「寂しい曲……」
「そうだな」

 この扉の向こうに安らぎがある, きっと
 そして私は知っている 天国にはもう涙はいらないことを
 
 本当に、寂しい曲だ。
 昔からロック調の明るい曲を好む直斗の趣味とはかけ離れている。 
 続きが聞きたいような気もしたが、直斗に歩調を合わせるのも辛い。明凛はイヤフォンを抜いて、直斗に返した。
「ありがと。なんの曲か判ったら教えて」
「――明凛」
 不意に名前を呼ばれて眉をあげる。
 目が合うと、直斗は逆に、言葉に詰まったように視線を下げた。
 ――なに……?
 そのまま直斗が歩き出したので、明凛も急いで後を追った。
「塾っていつも、こんくらい遅いの」
「そうだけど」
「だったらこんな時間に、間違っても一人で帰るなよ」
「いつもは友達と一緒だけど。――どうしたの」
 もしかして、なにかあった?
 数秒のぎこちない間の後、ようやく直斗がぼそりと言った。
「……例のサバ校の不良、……もうとっくに鑑別所から出てるらしいんだ」
 は? と眉を寄せた明凛は、次の瞬間失笑していた。
「なんの話かと思ったら」
「おい、真剣に聞けよ」
「そんな昔の話。もう関係ないでしょ、私には」
「甘く見るなよ」
「逆に大きく考えないでよ。直斗、いつからそんな心配性になったの?」
 まだ直斗が何か言いたげなので、明凛は遮るように片手を振った。
「わかったわかった、気をつけます。ただ、サバ校には時々部活で行くけど、全然平和。その人、とっくに学校辞めてるんじゃないの」
「部活でいく?」
 直斗が戰いたように眉をあげる。
「なんでお嬢様学校の吹奏楽部が、あんな不良揃いの男子校に行くんだよ」
「あの学校の先生がうちの顧問の恩師なの。だから合同で練習したり――ああ、もうどうでもいいじゃない。もう部活も引退するし、二度と行くことなんてないから」
「本当だな」
「本当だって」
 直斗のしつこさに肩をすくめた明凛は、少しほっとして、星が瞬く空を見上げた。
 何を言うかと思ったら、そんなことか。
 てっきり直斗自身のことを、話してくれると思ったのに。
 それきり、会話もなく、二人は夜の住宅街を歩き続ける。
 静かな夜。空には星が瞬いている。
 そして隣には久しぶりに直斗がいる。
 背が去年よりまた伸びて、肩幅も広くなった。体格だけではない、立ち振舞も雰囲気もどこか大人びて、ふと横顔を見上げると別人を見ているような気分になる。
 明凛の、まるで知らない時間を過ごした直斗――
「次は、いつ、こっちに来るの」
「10月、明凛の誕生日」
 即答され、明凛は少し赤らんだ。
「丁度連休だし、試験も終わってるから。そん時は、二人でどっか、出かけような」
「……ん」
 それでも、私と直斗の距離は変わらない。
 明凛は少し安心して、直斗の肩先を見ながら歩き続けた。
 なのに、何故だろう。胸のどこかがさざ波みたいにざわついている。
 よく判らないけど、それは試験前によく陥る感覚に似ている。何もかも勉強したはずなのに――あれだけ勉強したはずなのに、何かを忘れている不安。何か、ひどく大切なものをひとつ、見落としている不安―― 
 
 
「どうしたの。明凛ちゃん。ビール、全然進んでないじゃない」
 はっと、明凛は顔をあげた。
「仕事でお疲れなのかしら。なんだか、夢でも見ていたような顔してたわよ」
「すみません」
 飲み屋ではない。割烹料亭の個室で行われている女性課長会の席である。
 そして、明凛の目の前でビール瓶を差し出しているのはこの会の幹事の綾森美和。観光課の課長で、庁内では色んな意味で有名な人である。
「さ、早くそれ飲んで。明凛ちゃん若いんだから、私たちの分まで飲んでくれないと」
「……はい」
 正直「明凛ちゃん」はセクハラだと思ったが、「私の娘と同じ年」と言われれば返す言葉は出てこない。明凛はビール瓶を持つ綾森課長に頭を下げた。
「すみません。今夜は少し、体調が」
「あっらぁ。まだ若いのに、何言ってんの」
「そうよ。明凛ちゃん。お楽しみはまだ、これからなのよ」
 本庁の所属する女性課長は、市民局、福祉局を中心に総勢15名。
 若くて50もつれで、最年長が定年前の60歳だ。
 明凛の母と同年代の女性課長たちは、示し合わせたように明凛を「明凛ちゃん」と呼んだ。
「明凛ちゃん、独身なの? 彼氏とかはいないの?」
「まさか処女じゃないわよね」
「30までには産みなさいよ、子供。後で絶対に後悔するから」
 見事なまでの、セクハラ発言のオンパレード。
 これが男なら目くじらたてて怒れるだろうが、女性なのだからただ黙って聞き流す他ない。
 正直、意図的な厭味だと思わざるをえない部分はあるが、どうにも太刀打ちできない貫禄が、この男性社会で課長にまでのしあがった女性たちには備わっている。
 殆ど口をつけられないビールグラスを卓に置くと、すかさず綾森課長がにじりよってきた。
「明凛ちゃん。ビールが苦手なら、ワインか日本酒、どう?」
「いえ、私は……」
 しかし構わず、綾森は手をあげて仲居に声をかける。
「すみませーん。こちらのお嬢さんに赤ワインね。あ、美杉課長さん、今、焼酎のお湯割りお持ちしますから!」
 そして明凛に再び顔を向け、いたわるように笑いかけた。
「初めての席で緊張してるでしょ。遠慮しないでどんどん飲んでね。ここは、普段男に踏みつけられてる女が、思いっきりうさを晴らす場所なんだから」
「ありがとうございます」
「愚痴も不満もなんでもオーケー。おばさんたちが聞いてあげるから、今夜は全部吐き出してごらん?」
 明凛は微笑して頷いたが、もちろんその言葉をうかうか信じるほど子供ではない。
 霞ヶ関の女性同士の熾烈な出世――もしくは配偶者探しの戦いの中で揉まれた明凛は、異性より同性の方が、いざとなれば何倍も恐ろしいことを身にしみて知っている。
 しかも相手は、綾森課長だ。
 役所内でも一部の者しか掴んでいない極秘事項だが、氷室と激しく対立していた水と森の博覧会準備室――森田課長の元不倫相手。
 その森田は、どういう理由か昨年12月1日付で、いきなり外部団体に異動になった。
 氷室も藤家局長も何も言ってはくれなかったが、間違いなく、氷室がなんらかの報復をしたに決まっている。
 つまり綾森は、氷室の後任であり友人でもあった明凛を、快く思っていない可能性があるのだ。
 しかしそんな綾森課長の印象は、明凛の予想を大きく裏切るものだった。
 驚くほど気さくで――恐ろしく気配りのきく、魅力的な女性。
 元市長秘書だっただけあり、人心掌術と会話のセンスは抜群だ。
 すらりとした色白の美人で、豊かな栗色の髪はエレガントな縦ロール。緋色のスーツはオーダーメイドで、指には大粒のルビーが光っている。
 その美貌と人あしらいだけで出世したと陰口を叩かれている人だが、確かに女性だけの宴会をもりあげる綾森の幹事ぶりは、見事としか言いようがなかった。
「私は、都市整備局の藤堂さん」
「あら、私は断然、法規係の雪村君よ。あの子、ちょっと小池徹平に似てなくない? あのツンデレぶりが可愛いったら」
 なんの話だと思ったら、話題はいつの間にか、庁内の男性で誰が一番イケメンかという話になっている。
「氷室君も素敵だったわよね」
「あの人は別格。一言でいえば神よ」
「あたしなんて、帰り際に道路管理課をのぞくのが唯一の楽しみだったのに」
 明凛は腕時計を見た。悪いがそろそろお暇しよう。頭痛も一向におさまらないが、今はむしろ、胃薬が飲みたい。
「あと、管理の沢村君もいいと思わない?」
 立ち上がりかけていた明凛は、不意をうたれた人のように、無様に膝をくずしていた。
「沢村君って、あの背の高い?」
「そうそう」
「ちょっと強面の……」
「そう、あの子」
 どうして、ここで沢村さんの話?
 明凛は動揺した自分に驚きながら、急いで崩れた膝を戻した。とはいえ、耳は知らず、少し離れた席の会話を追っている。
「ちょっと雰囲気、怖くない?」
「いかにも昔やんちゃしてましたって感じよね。私は苦手。態度も礼儀もひどいものだし」
「あら、男はそのくらいが丁度いいのよ」
 くすっと笑って、そう言ったのは綾森だった。その綾森が明凛の方に意味深な視線を向ける。
「明凛ちゃんもそう思わない?」
「さぁ……」
「でも気をつけて。彼、女癖悪いわよ。しかも相当」
 膝ですりよってきた綾森は、無理に空けたばかりの明凛のワイングラスに、冷酒を並々と注ぎ入れた。
「本当よ。役所じゃ珍しい肉食系だから、色んな子に手を出しては、食っちゃってるんだって」
「そうですか」
 別に、驚くような情報でもない。
 夕方、給湯室で見た情景を思い出し、明凛は眉をしかめていた。
 本人にしても、隠す気すらないようだし。
「ま、明凛ちゃんから見れば、高卒なんて論外か」
 もう飲めない、と断るつもりだった明凛は、その言葉に手を止めていた。
「それでも気をつけないとね。相手は盛りのついた野良犬みたいなものだから。まぁ、いくら馬鹿でも、霞ヶ関の官僚に手を出すほど身の程知らずだとは思えないけど」
「………」
 なんだろう。今、かなり――腹が立った。
「男は選ばないと駄目よ。自分の経歴に傷をつけたくなかったら、なおさらね」
「………」
 眉を微かに寄せたまま、明凛はグラスの冷酒を一息に飲み干した。
「あらぁ、まだまだいけるんじゃない」
 嬉しそうな声をあげた綾森が、再び冷酒を注いでくれる。明凛はそれも飲み干してから、言った。
「うちの職員は、馬鹿ではないです」
「え?」
「………」
 沢村さんは――女癖は悪いが馬鹿ではない。
 仕事は、むしろ大卒あがりよりもよく出来る。
 よく判らない。アルコールが入っているせいもあるのだろうが、どうしてここで、私が不愉快になっているのか。
 不意に胃部あたりから不快な寒気がこみ上げてきた。
 同時に、冷や汗がじわりと滲む。
 まずい――吐く。
 どうしたんだろう。この程度の酒量で酔うことはないのに。
「どうしたの、明凛ちゃん」
 綾森課長の声が、ひどく遠くに聞こえる。
 視界がどんどん暗くなる――
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。