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4
――頭が痛い……。
昨日の昼からずっと続く偏頭痛は、鎮痛剤を6時間おきに飲んでも、少しも治まる兆しをみせない。
最長記録だな。そう思いながら明凛は「中村さん」と呼んだ。
「はっ、はいっ」
まるで死刑執行を言い渡された死刑囚みたいな強張った顔で、中村が課長席の前に歩み寄ってくる。
「この文書だけど」
「――すみませんっ!」
驚くほどの大声で間髪いれずに謝られ、明凛は眉をひそめて中村を見上げた。何故、話を最後まで聞かずに謝る?
だいたい上司の話をそこで遮る感覚が判らない。
「先に謝るくらいなら、もう少しチェックしてから回すように。修正箇所は付箋に書いてあるので」
「は、はい……」
「時間がないので、急いで」
「わ、わかりました」
課内は、奇妙なほど静まり返って、全員が明凛と中村のやりとりを見守っているようだ。
明凛は溜息が出そうなのを堪えて、次の名を呼んだ。「宮田さん」
「えっ、は、はい」
ばたばたと、滑稽なほど慌てて宮田がかけつけてくる。
「区に渡すマニュアルの改正案だけど、こちらを元に作りなおすように」
「え、い、今からですか」
何を当たり前のことを聞くんだろう。
明凛は眉を寄せて、デスク前に立つ男を見上げた。「他に急ぎの仕事でも?」
「い、いえ……」
「5時までに私に提出するように」
「5時?」
「……何か?」
「いえ……」
現在午後3時少しすぎ。時間がないと言いたいのだろうが、緊急なのはこっちも同じだ。近々に改正案を用意しておかなければ、区から突き上げに対抗できない。
その間、課内は静まり返っている。
無理難題ばかり押し付ける新任課長に、さぞかし怨嗟が渦巻いているのだろう。それは肌にひしひしと感じる。
明凛にしても、こういった事務的な作業の進行はできれば阿古屋に任せたいのだが、阿古屋に頼んだ仕事も滞っている今では、それも全く期待できない。
そもそも部下と友達づきあいをしている感のある阿古屋には、厳しい役回りは荷が重いだろう。片や自分は、憎まれるのも疎まれるのも慣れている。誰にどう思われようと、しょせん、短いつきあいだ。
ずきん、とこめかみに針を刺したような痛みが走った。
――痛……。
いっそ早退して、布団の中にもぐりこみたいが、もちろんそんなわけにもいかない。
懸案は山積みで、期限は容赦なく迫っている。そして、人は思うように動いてくれない。
「か、柏原さん、今、いいかね」
その時、総務の庶務担当課長補佐が、泡を食ったような口調で駆け寄ってきた。
「あ、いや、柏原課長」
「いいです。どうされました」
「それが――その、今局長室に、区役所管理課の課長さんたちがやってきて、押しかけ談判、とでもいいますか」
は?
耳をすませばパーティションを隔てた向こうの局長室から、蝦原の放つ耳障りの悪い大阪弁が聞こえてくる。明凛は額を押えたくなっていた。――冗談じゃない。
「ど、どうもみなさん、柏原課長のやり方に、一言物申したいようで」
それで私を通り越して局長に直訴、か。
いいかげんにしろ――いい年をして、ふざけるな。
こみ上げた烈火のような怒りは、ぐっと握りしめた拳でやりすごす。
「わかりました」
気持を切り替えて立ち上がろうとした途端、再び右側の頭が強く痛んだ。――最悪だ。痛みを通り越して吐き気までしてきた。
「か、柏原課長。私も、行きましょうか」
「結構です」
声をかけてきた阿古屋を、明凛は苛立ちもあって、やや鋭く遮った。
「す……、すみません」
しおれた風に、阿古屋。
明凛は自分の態度の悪さに気づいたが、フォローするまでもないと思い直した。
申し出はありがたいが、まずは阿古屋自身の仕事を仕上げてほしい。各区の課長を相手にするくらいなら私一人で十分だ。そんなもので二人分の時間を潰すまでもない。
あらゆる期限が押しているというのに、そのくらいの頭も回らないのか……。
それとも、私一人では頼りないとでも思っているのか。
いつになく苛立ちを押えられないまま歩きだすと、背後から末席の三ツ浦が怯えたように声をかけてきた。
「かっ、柏原課長、今、観光課の綾森課長から、電話が」
「綾森課長から?」
「きょ、きょきょ、今日のですね。今日の課長会には必ず、出席するようにと」
「………」
「か、柏原課長の歓迎会なので……か、必ず出られるようにと。――以上でございますっ」
「………」
「ぼ、ぼぼ、僕の日本語、おかしかったでしょうか……?」
日本語以前に、直立不動でそこまで緊張される意味が分からないが――。
課長会――正確には女性課長会。
本庁の女性課長だけの私的な集まりで、勉強会と銘打っているが、その実ただの飲み会である。
その主催者で、実質女性課長を束ねているのが観光課の綾森課長。
去年の「水と森の博覧会事件」では、元管理課長の氷室と敵対していたやり手女性課長だ。
「……判りました。あとで私から電話しておきます」
本当に――次から次へと。
明凛は気ぜわしく踵を返すと、局長室に向かって歩き出した。
5
「えー、そうなんですか」
「そう。な。だからいいだろ。いい加減教えろよ」
「フフ……沢村さん、ホントにあたしのこと好きなんですか」
なんだろう。この会話は。
明凛が給湯室に入ると、身体を寄り添わせるように囁き合っていた男女は、驚いたように身を離した。
沢村と、美魔女臨時職員――もう、名前は覚えてしまった。小原麻里子だ。
墨田局長の遠縁にあたる女性で、いままでも気まぐれのように、色んな局で短期の仕事をしているという。
奇しくも先ほど局長室で、明凛はその墨田直々にこう言われたばかりだった。
(亭主が東京暮らしのせいか、どうも奔放なところがあってね。あまり公にはしておらんのだが、小原部長の後妻だよ。今、外務省に出向中の)
明凛は内心驚いていた。小原部長といえば市では生え抜きのエリートだが、年はすでに五十を軽く超えている。
(年の離れた亭主が甘すぎるせいか、あの子もすっかりわがままになってしまってねぇ。実は、以前務めていた観光局でも、不倫騒ぎを起こしてしまったようなんだ。同じ女同士、できれば柏原君の方から、彼女を指導してやってくれないかね)
あちゃ、という感じでペロッと舌を出した麻里子は、沢村に目配せしてから、明凛に小さく会釈した。
とはいえ、全く悪びれてはいない。
墨田局長の縁故だという強みもあるのか。それとも天性の楽天家なのか。
――よりによってうちの職員とか……。
ますます頭痛がひどくなった気がして、明凛はこめかみを押さえていた。
これでは、小原麻里子に注意する以前に、明凛の管理責任を問われかねない。
(まぁ、あれだよ。柏原君。区役所の管理課長をとりまとめるのは、ベテランの阿古屋君に任せて、だね。君にはその代わりといってはなんだが、その……課内の雰囲気をよくするというか。人間関係に気を配るというか。女性なら、そういったことは得意なのではないのかね)
言葉こそは迂遠だが、言われた内容は辛辣だった。
もう君は、表に立たなくていい。
区役所管理課長の異例の抗議を受けて、墨田局長はそう判断したのだろう。
明凛は苦々しいものを感じながら、コーヒーをカップに注いでいる沢村の背後をすりぬけた。
信じがたいことに、この状況で、悪びれていないのは沢村も全く同じである。
「じゃ、沢村さん。後でメールしますね」
「ああ、サンキュ」
ぱたぱたと麻里子が出て行って、狭い給湯室には、明凛と沢村だけが取り残された。
もう時刻は、6時を大きく回っている。
こんな時間まで臨時職員が残っていたことにも驚いたが、いつも定時を少し回ったらさっさと帰宅する沢村が、残っているのも意外だった。
その沢村は、コーヒーサーバーの片付けをしている。そして不意に口を開いた。
「今夜、飲みに行かれるんですか」
「………」
女性課長会のことだろうか。
そう思いながら、明凛は頷いて、棚から出したグラスに水を注いだ。
六時半始まりと聞いたから、そろそろ役所を出ないとまずい。全く気の進まない会合だが、顔を出さなければ後々面倒なことになる。
「薬っすか」
ロキソニンの錠剤を指で押し出していると、再び沢村が口を開いた。
無視して水で流しこむ。今日はこれで3錠目だ。
「きついの、飲んでんですね」
いらっときた。
何故まだこの男は、給湯室にいるのか。
「それが何か?」
普通に答えたつもりが、ひどく険のある声になる。
「……いえ、別に」
それきり沢村は鼻白んだように黙り、明凛も何も言わずに水を飲んだグラスを濯いだ。
ああ、まずいな。ああいうことがあっただけに、態度がおかしいと取られては、困る。
それに――もし、そうなら、墨田局長に指摘される前に、釘をさしておかなければ、なおまずい。
「沢村さん」
「――はい」
「小原さんは既婚者で、しかも配偶者は市役所の人なので」
「………」
「誤解されるような振る舞いは、役所内では慎むように」
「………」
こめかみのあたりが、きりきりと痛む。
馬鹿みたいだ。これが課長か。なんてくだらない役回りだろう。
不意に吐き気と頭痛が強まった気がして、明凛は急いで給湯室を出た。
「え、じゃあ柏原課長、今夜は飲みに行くんですか」
「らしいよ。ほら、例の、女性会」
「ああ……」
そんな囁きが聞こえたのは、執務室に入ろうとした時だった。
話しているのは、中村と宮田だ。
6時過ぎとあって課内は閑散とし、数人がパソコンに向かっている他は、ほぼ席空けになっている。
中村が机に向かい、宮田はその前に立っていた。宮田の背が壁になって、二人には明凛が戻ってきたのが見えなかったらしい。
「なんか、微妙に腹立ちますよね。俺らは連日残業で、新年会も取りやめになったっつーのに」
「信じられないよな。人にはあんだけ厳しく言っときながら、局の幹部会とか、課長会の飲みにはまめに顔出してるっていうんだろ」
明凛は足を止めていた。
こういう場合は、聞かないふりをするに限るが、生憎背後には、続いて給湯室から出てきた沢村がいる。
何故かそれが、一人でこの場にいるより、いっそうまずい気がした。
「まぁ、柏原さん、全然課内のこと見てないし。らしいっちゃあらしいですけどね」
「何様なのか知らないけど、あんな高飛車な態度じゃ、区が反発すんのも当たり前だっつーの」
その宮田の声が止まったのは、ようやくそこで、明凛がすぐ傍に立っていることに気がついたからかもしれない。
さーっと蒼白になる男二人の傍らを、明凛はごく普通に通り過ぎて、自席に戻った。
「阿古屋補佐」
「はっ、はいはいっ、すみませんっっ」
何故かその二人より青ざめて立ち上がる阿古屋。
そんな態度を取られると、阿古屋がすでに、墨田局長から指示を受けているのがみえみえだ。
新任の課長は役に立たないので、かわって指揮を取るように、と。
「私は、今日はもう帰るので」
「はいっ、存じ上げておりますっ」
阿古屋は、必要以上に愛想笑顔を作って頷いた。
中村と宮田は、いまだ自席あたりで固まっている。沢村は何も言わず、自分の椅子に背を預けて携帯をいじっている。
なんともいえない沈黙の中、明凛は帰り支度を始めた。
その明凛の前に、決裁書類を差し出しながら、阿古屋がそっと囁いた。
「あの、……、気にされないように。飲みも、仕事のうちですから」
「別に、気にしてはいません」
部下の陰口を気にしているようでは、仕事などできるはずがない。
「く、区役所との揉め事のことも、時間が経てば」
バン、と明凛はパソコンを閉じた。
「補佐のお気持ちはありがたいのですが、私のことで、いちいちご心配いただかなくても結構です!」
「…………」
「そんな暇があるなら、早く仕事を片付けて下さい」
しまった。
また、無意味に強い口調になっている。
苛立ちが、もろに言葉に出てしまっている。
「いや、……それは、失礼しました」
さすがの阿古屋もむっとしている。
阿古屋だけではない。宮田からも中村からも、無言の怒りをひしひしと感じる。
明凛は不意に座り込みたくなった。何もかも投げ出して、もうどうでもいいと言いたくなった。
数秒――そんな衝動が胸に溢れ、しかしそれは、いつものように胸の底に沈んでいった。
「明日は早く出るので、懸案は机の上に置いておいてください」
「……わかりました。お気をつけて」
「失礼します」
手荷物を持って席を離れると、不意に立ち上がった沢村が、明凛の前に立ちふさがった。
一瞬驚いたものの、その物言いたげな視線から急いで顔を逸らし、普段どおりの足取りで通路に出る。
さっきまで、おそらく美魔女臨時からのメールをチェックしていたくせに、一体なんの気まぐれだろう。
「――補佐」
しかも、また間違えている。
「ちょっと待って下さい」
通路で明凛は足を止め、嫌悪も顕に沢村を見上げた。
「何?」
視線があうと、一瞬男が怯んだのが判る。しかし沢村は、一度息を吸うようにしてから、言った。
「今夜の飲み、やめた方がいいんじゃないですか」
「どういう意味?」
「……課長も、お疲れのようですし」
また、余計な心配か。
男が女にみせる、決めつけにも似たこれみよがしな優しさが、明凛は、実は、一番苦手だ。
誰に何を言われようと、私なら何一つ気にならないというのに。
沢村が口ごもったので、明凛は無言で彼の傍らをすり抜けた。
「ほ、……課長!」
冗談でしょ。追いかけてくる。
逃げるように廊下に出た所で、背後から腕を掴まれた。
「――!」
ドキン、とした。
暖かくて、大きな手。
「すみません、ちょっと話……すぐ、終わりますので」
何故だろう。心臓が……。
「……課長?」
「………っ」
はっと我にかえった明凛は、その腕を力いっぱい振りほどいていた。
何に動揺しているのか、自分でもよく判らない。
沢村が、驚いたように顎を引いて後ずさる。
「……私に、触らないで」
「………」
低く言うと、驚く沢村を押しのけるようにして、明凛はエレベーターホールに駆けていった。
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