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2
「ほ、……課長」
一度言葉を切って言い直した男は、その時初めて気がついたように、寄りかかっていた壁から背を離した。
「下ですか」
「ええ、執務室に戻るので」
ほ、というのは、どうやら最初に補佐と言おうとしたらしい。
職名を間違える気持もよくわかる。なにしろ明凛は、昨年――ほんの2週間前までは他課の課長補佐だったのだから。
それが年が変わった途端、沢村の上司になり、同時に課長になった。
内示が発表されたのは1月6日のことだが、同日、辞令書をもって挨拶した明凛を呆然と見上げた沢村の目が、まだ昨日のことのように思い返せる。
あれから一週間。
明凛の周辺が尋常でなく慌ただしかったせいもあるが、二人が個人的に会話を交わしたことは、一度もない。
明凛もそれを望んでいないし、沢村はもっと、望んでいないように見えた。
「会議、今、終わったんすか」
「ええ。沢村さんは?」
その時には沢村は、明凛を避けるように、エレベーターの端に身を寄せている。
「上……ちょっと、煙草吸ってたんで」
ああ、と明凛は頷いた。
全庁全面禁煙の中、役所内で喫煙できる場所は、もはや屋上しかない。
「勤務時間内は、慎むように」
「すみません」
正直、このご時世で、煙草から手を切れない男は馬鹿だと思う。
しかし不思議と、隣立つ男にそんな冷めた感情は持てないまま、明凛は無言で、沢村の背中に視線を向けた。
無造作に散らした髪は、襟足が多少長い。直属の長として、注意したいギリギリのラインだ。
大きな背中。広い肩。
その肩先あたりから、わずかに煙草の匂いがする。いや、服ではなく指から匂うのかもしれない。
――いけない。
沢村に注意を払いすぎている自分を感じ、明凛は視線を足元に向けた。
先ほどの会議中といい、今といい、全くもって――どうかしているのではないか、最近の私は。
片や沢村にそんな葛藤はないのか、横顔は平然としてエレベーターのランプの方を見上げている。思えばその目は、同じエレベーターに乗っていても、一度も明凛に向けられてはいない。
おそらくだが、彼はまた、自分の周りに見えない幕を張ってしまったのだ。
1月6日に、明凛が課長として着任した時から。
――親しくなりすぎてはいけないけど、……なにひとつ話さないというのも、どうなのだろうか。
あの夜、貸すと約束したCDは、いまも渡す機会がないまま、デスクの引出しで眠っている。
明凛は忘れていないが、沢村の方はすっかり忘れている様子だ。
ふと、今、CDのことを口にしようとした明凛は、数秒迷った後に、唇を結んで視線を下げた。
――このまま、何もなかったことにするのが、一番なのかもしれない。
同じ課内で、課長が部下と男女の関係を持つなど、絶対に許されないことである。役所内での信用に関わるのはもちろん、双方の出世の道も閉ざされてしまうだろう。
このまま――最初からなにもなかったことにするのが――一多分一番賢いやり方なのだ。
それきり特段の会話もなく、エレベーターが8階についたので、明凛が先に降り、ついで沢村が後から降りた。
ものも言わずに執務室に向かって歩きながら、それでも明凛は、自分が背後の男をひどく意識していることを感じずにはいられなかった。
――そうはいっても、なにか話した方がよかっただろうか。
あの日のことは、もう気にしないことにしましょう、とか。私は気にしていないので、沢村さんも気にしないように、とか。
一応、立場も年も、私が上なわけだし。
迷いながら、歩調を緩めようとした時だった。
「あッ、沢村さん、探してたんですよーっ」
明るい、可愛らしい声が、執務室と廊下を遮るガラスの観音扉の方から響いた。
「なに、俺?」
それまでずっと黙っていた男は、たちまち平素の彼らしい、軽快な声を出す。
「あ、また煙草。辞めたほうがいいって言ったのに」
「うるせぇよ。なんの用だよ」
「背の高い沢村さんにしか、できない用事、で、す」
そう言った女が、そこで初めて明凛に気づいたように、ぺこり、と小さく頭を下げた。
さらっとしたショートカット。抜けるように白い肌に大きな瞳。
隣の総務課――道路局総務課の臨時職員である。
ろくに話したこともないから名前はうろ覚えだが、耳にした噂では、年は、30を超えているという。左の薬指にはいつも指輪が光っているから、むろん既婚者なのだろう。
(美魔女ですよ。美魔女。声もむっちゃ可愛いし、スカートも膝上だし、あれで30過ぎとか奇跡でしょ!)
誰が騒いでいたか忘れたが、とにかく、管理課内でも相当人気の女性であることだけは間違いない。
この一月から墨田局長直々の紹介で雇用されたらしく、美魔女臨時の存在は、8階ではちょっとしたニュースになっていた。
「どうでもいいけど、くだんねーことだったら怒るよ」
「えー、怖い。ただでさえ怖い顔してる人が、脅さないでくださいよ」
ポケットに手をつっこんだ沢村の背を押すようにして、美魔女臨時が歩き出した。
なるほど。この寒いのに膝上だ。しかもかなりセクシーな美脚……。
明凛は、パンツに包まれた自分の脚をちらっと見た。
あれは高校の時だったか、体育の時間、同級生にしみじみと言われた言葉が何故だか頭に蘇る。
柏原さんの脚って、保健室においてある骨格標本みたいだね。
「………」
というより自分は、なんでいつまでも立ち止まっているんだろう。
眉を寄せて、明凛は再び歩き出した。
とはいえその表情も、執務室に入る頃には拭いとったように消え、いつもの能面そのものの自分になっている。
「柏原課長、墨田局長が会議の報告に入って欲しいと」
「判りました」
そう、今は、沢村どころではない。
局全体の組織改正を断行し、新規事業の導入を各区管理課に納得ずくで受け入れさせる。
この難局を乗り越えなければ、自分がこのポストに就任した意味などないのだから。
「柏原課長は?」
「今、局長室。大丈夫だろ、その間くらい雑談しても」
その会話が合図のように、課内のほぼ全員が、はーっと深い息を吐いた。
ただ一人、椅子に背を預けて夕刊を読んでいた沢村を除いて。
沢村は目だけを上げ、紙面越しに課内の面々を見回した。
午後7時。管理課内はほぼ全員が残業体勢で残っている。
柏原課長が帰るまでは、誰一人として帰れない。どうやらいつの間にか、そんな不文律が、課内にできてしまったらしい。
「噂どおり。というより噂以上の氷の女でしたね……」
「氷室さんも時々怖いところがありましたけど、その比じゃないっすよ、マジな話」
「遠目にみてる分には、目の保養だったんだけどなぁ」
口々に愚痴をこぼし、再度、顔を見合わせた面々が露骨にがっくりした溜息をつく。
「言っちゃあ悪いけど、課の雰囲気、かなり悪くなりましたよね」
宮田が口をへの字の曲げながら、ぼやくように隣の中村に声をかけた。
「執務時間中、雑談ひとつできないんじゃあね。あの冷たい目にじろっと睨まれると思ったら、ぶっちゃけもう、雑談なんてする気にならないっすよ」
「いいんじゃねぇの。今までどおりで」
新聞を投げた沢村は、耳を掻きながら立ち上がった。
「別に課長が、私語禁止って宣言したわけでもねぇんだし」
「いや、それはそうだけどさ」
宮田は不満そうに、そしてその感情の共有先を探すように周囲を見回した。
「やっぱ、今まで男ばっかだったから、女性がまじるとやりにくいっていうかさ。前は氷室さんも含めて、よくやってたじゃん。グラビア雑誌の回覧とか」
「まぁね」
氷室さんが心からそれに興じていたかというと、絶対に違ってたと思うけど。
あの人、顔ではにこやかに笑ってても、時々、死んだ魚以上に冷めた目してたからな。
まぁ、その目の怖さを知ってんのは、この課じゃ俺くらいだろうけど。
「そもそも柏原課長、僕らと馴染む気すらないんですよ。だって課長の歓迎会も即行却下だったんですから」
新人の三ツ浦が、泣きそうな声で口を挟んだ。
「歓迎会いつにしますかぁって、日程聞きに行ったらですよ? そしたら、もんのすごく冷たい声で、今そんな時間があると思うかって。――僕、あの人、男かと思いました。中身、完全に男ですよね? 絶対男入ってますよね?」
ま、察するに、とんでもなく忙しい時に、とんでもなく呑気に聞きにいったんだろうな。空気読解力ゼロの三ツ浦が。
なのに、そこにつっこむ者は誰もいない。誰もが、三ツ浦に同情するかのように頷いている。
「本当に男だったら、まだやりやすいんだがなぁ」
ぼそり、とそこで呟いた阿古屋の目が、不意におののいたように鞄を持ち上げた沢村に向けられた。
「まさかと思うけど、もう帰るのか。沢村君」
「はぁ、仕事終わったんで」
「い、1日くらい残れないのかね。君以外は皆、なんだかんだと残って仕事をしているんだが」
「手伝うことがあれば残りますけど」
しん、と課内が静まり返る。沢村は軽く肩をすくめた。
声が上がるはずがない。直の担当以外の七割方が、デモストレーションで残っているのだから。
「じゃ、そういうことで」
「し、しかし――でも――不測の事態が――」
完全に混乱している態の阿古屋は、柏原補佐から命じられた資料修正に、まだ手間取っているらしい。
結局は、その阿古屋の無言のプレッシャーもあって、全員が無駄に残るはめになっているのだが……。
「俺の仕事、基本、柏原課長が抱えてる案件とは無関係なんで」
携帯を持って歩き出すと、背後で阿古屋の嘆くような声が聞こえた。
「ああ、こんな時、氷室さんがいてくれたら……」
「沢村さんを制御できたのも、氷室課長だけでしたからね」
制御って、俺は獣かっての。
別にあの人に制御されてた覚えはないけど――
「…………」
確かに、そのあたり、氷室さんの立ち回りは上手かった。
五時になれば、自分はさっさと執務室を出て行くくせに、部下や区の連中のやる気を鼓舞させることだけは、呆れるくらい上手かったっけ。
残念なことに、およそ人心掌術においては、今の課長はかなり下手だとしか言いようがない。
氷室さんのように、とまではいかなくとも、ほんの少し目線とやり方を変えてみれば――
「……ま、いっか」
一瞬足を止めかけた沢村は、軽く息を吐いて再び歩き出した。
自分の立場で進言できるようなことでもないし、今は、必要以上にあの人に関わるべきじゃない。
あの人もまた、同じように思っているだろう。
あの夜のことは奇跡だった。
奇跡は、二度はおこらない。
それでいいし、それ以上は望みたくない。
どうせこの想いの先に、行き着く場所は何もないのだから。
3
「え、じゃあ本当に怒ってないんですか?」
「しつこいな。怒ってねーよ」
そんな声が聞こえたのは、8階のエレベーターホールで、下りのエレベーターを待っている時だった。
日高さん……。
明凛は眉をひそめていた。
道路管理課とは反対側のフロアから聞こえてきたのは、日高成美と、そして法規係の主査、雪村の声である。
午後11時。定時退庁時刻を大幅に過ぎた時刻とはいえ、執務室とは別人のように砕けた雪村の口調にも、明凛は少し驚いていた。
「じゃあ、新年のコンサート、結局雪村主査一人でいかれたんですか」
「行ったよ、行ったさ、行きましたとも。しかも一人で悪かったな」
「そこまで自虐的にならなくても……。あ、いえ、ほんとすみません。結局ドタキャンみたいになっちゃって」
二人の会話の内容にも、明凛は静かに驚いていた。
しかし同時に、少しばかりほっとする気持もある。
日高成美のことが、ずっと気がかりだったからだ。氷室が――あんな消え方をしてしまったから。
しかし、次の雪村の言葉で、明凛はぎょっと眉をあげていた。
「いいよ。言ったろ。もともと柏原さんに断られた代わりに誘ったようなもんなんだし。クラッシックなんて、一人で行こうが二人で行こうが耳に入れば一緒だよ」
――私?
どうしてそこに私の名前?
誘われてもいないのに、断ったとは?
意味不明だが、この場に自分がいてはまずいことが、その刹那判った。そして、こういう時に限って、エレベーターは遅々として降りてこない。
窮した明凛はトイレに身を隠そうとしたが、それより早く、帰り支度をした雪村と成美が目の前に現れた。
「―――っっ」
「あ」
恐ろしく動揺した態度の雪村と、足をすくませている日高成美。
むしろ、交通事故に巻き込まれた感があるのは私なんだけど……そう思いながら、明凛は驚きは微塵も見せずに微笑した。
「お疲れ様」
「お、お、お疲れ様です。補佐も、今帰りなんですか」
パニクったように言葉を返してくれたのは成美だったが、即座に冷静さを取り戻した雪村が、たしなめるようにその成美に視線を向けた。
「補佐じゃない。課長だ」
「あ、すみません。つい――その、懐かしさもあって」
頬を赤らめて、成美は口のあたりに手を当てる。
よかった。思いの外元気そうだ。
まさか雪村さんと、プライベートでも仲がいいとは思わなかったが、色んな意味できつい立場に立たされた元部下が、変わらぬ姿を見せてくれるとほっとする。
「構わない。課長と呼ばれる方が、まだ違和感があるので」
微笑んで明凛は言い、前に向き直った。
明凛が去った行政管理課には、新しい課長補佐が着任した。
以前法規係で主幹をしていたという厳しさには定評のある男で、明凛の見立てでは、あまり部下に親身になるタイプではない。
他の連中はともかく日高成美には辛いだろうと思っていたが――雪村が支えになってくれているなら、さほど心配しなくてもいいだろう。
「課長は、どうですか」
その雪村が、少し控え目に口を開いた。
「どうとは?」
「仕事です。管理は男所帯で、何かと気苦労が多そうなので」
「そうでもない。男所帯というなら、役所全体がそのようなものだから」
「……そうですか」
雪村はまだなにか言いたげだったが、そのまま黙って口をつぐんだ。
新任の女性課長が区役所ともめている程度の噂なら、もちろん雪村の耳には届いているのだろう。
もしかすると、もっとひどい噂まで。
「じゃあ、お疲れ様」
エレベーターが一階についたので、明凛はあえてそっけなく言って、先に立って歩き出した。
「ゆ、雪村さん。私はいいんで、補佐を送ってさし上げたら」
「課長。それに反対方向だ」
最後に聞こえた声には、気づかないふりをした。
狭いエレベーターの中、雪村と成美の二人が、それぞれの思惑で、何かを言いたげなのは判っていた。
おそらく雪村は、道路管理課での明凛の立場について。
そして日高成美は、いなくなった氷室について。
そのどちらにも、明凛は答えるつもりはない。氷室のことはともかく、仕事の愚痴を他人に漏らさないのは、新人時代からのモットーのようなものだからだ。
愚痴は、見方をかえれば同僚・上司に対する中傷になる。
それは一度口に出してしまえば、巡り巡って、必ず本人の耳に届くようになっている。それが、役所というものだからだ。
そして氷室のことは――実を言えば詳しい情報は、明凛にも知らされていないのだった。
退職、とは伝えられたが、灰谷市役所で退職の手続きがとられたわけではない。いったんは国土交通省に籍を戻し、そこで改めて退職手続きがとられるという。
が、その理由や経緯は一切不明だ。墨田局長はおろか、人事の担当まで首をかしげているというからおかしな話だ。本人はすでに東京に戻っているため、むろん、退任の挨拶も一切ない。
(それが氷室課長の意向にしろ、本省の意向にしろ、少々勝手すぎるのではないか)
(市の都合はお構いなしか。氷室課長は、大きなプロジェクトを手がけていたというのに――信じられない。こんな勝手が許されていいものか!)
1月6日に、突然の異動が発表された時の、氷室に対する風あたりの強さといったら、なかった。
自己都合による退職。そうとしか伝えられなかったからだ。
明凛も、正直愕然とした。挨拶どころか、まさか引き継ぎすらないとは――役所の常識以前に、人として考えられないと思ったのだ。
しかし、それにはむろん、決して公にはできない裏事情があった。
明凛がそれを知らされたのは、後日、総務局長の藤家からである。未確定情報なので他言無用、その前置きだけで、それが幹部職員クラスのトップシークレットだと明凛は察した。
(去年の年の瀬、国土交通省の官僚が一人、逮捕されたのは知っているな。氷室君は今、その重要参考人の一人として警察に身柄を拘束されているというんだ)
それは、声もでないほどの驚きだった。氷室さんが、まさか――
(噂だ。本当のところは誰も知らん。この捜査自体が警察でも極秘扱いだという話だから、警察の狙いはもっと上なのだろう。いずれにしても市ごときが首を挟める問題ではない。退職を申し出たのは氷室君だと聞いているが、身柄を早々に国土交通省参事官付に戻したのは、あちらさんだ。――こう言っては詮索しすぎだが、急いで氷室君の口を封じようとしたのではないか)
迷った挙句携帯にかけた電話は、すぐに留守番メッセージに切り替わり、何度かけても返事は一度も返ってこなかった。
むろん日高成美にも、今は氷室と連絡をとるすべがないに違いない。
1月6日、氷室の退職を知った成美が、ただ呆然と――夢でも見ているような顔で立ちすくんでいたのが、鈍い痛みのように記憶の底に残っている。
氷室の性格上、自身の危うい立場を、恋人にうかうか打ち明けるような真似はしないだろう。だとすれば日高成美は、今、何を支えに平素と変わらない笑顔を見せているのか――
雪村さんだろうか。
ふと、思った。
そうだとしたら安心だ。
氷室のような底の知れない男より、雪村の方が何倍も単純で誠実だ。上司として部下に見合い勧めるなら、迷うことなくその相手は雪村である。
氷室から雪村へ。若い日高の気持が移ったとしても、少しも不思議なことはない。
人の気持ちに永遠はない。全ては、時と共にうつろいゆくものなのだから。
「………」
それでも、なにかを寂しく思う自分は一体なんだろう。
自分の中で曖昧に揺れるものが何かわからないまま、明凛は首を横に振って歩き出した。
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