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「――柏原課長」
 はっと、明凛は目を開けた。
 いけない。何を考えていたんだろう、私は。
 目を開ければ、そこには見るに耐えない現実が開けている。
 夕陽もT−4も10代の若い二人もなく、老年の域に入った仏頂面の男たちが、ずらり。
「課長、あ、あの、お疲れかもしれませんが」
 隣に座る男が、声をひそめておどおどと囁いた。
 明凛は顔を巡らせて、男を見上げた。居眠りでもしていると思われたのだろう。それも無理もないし言い訳もできない。目を閉じて昨夜見た夢――会議とはまるで無縁のことを思い出していたのだから。
「――なんでしょう」
 明凛が冷ややかに答えると、隣に座る男は、気圧されたように顎を引いた。
 阿古屋始(あこや はじめ)。
 明凛が課長として着任した道路管理課の課長補佐。つまり、明凛の補佐役である。
「その、あのですね。どうにも、その、みなさんの話がまとまらないようで」
 おろおろと、救いを求めるように阿古屋は言った。
「どうしましょう。課長から、何か一言いってくだされば、ありがたいのですが」
 もともと氷室に仕えていた阿古屋は、年下の上司の顔をたてるのに慣れているのか、いや、慣れているというより、頼るのが当たり前だとでも思っているのか、明凛の感覚でいえば甚だおかしいのだが、こんな風に、なにがあってもまず明凛の判断をあおいでくる。
「そうですね」
 頷いた明凛は、相変わらず喧々囂々、らちの開かない議論を続ける面々を見回した。
 本庁舎13階の会議室。
 午後3時から、ここで臨時の道路管理課長会が行われている。
 集まっているのは、灰谷市内8区の区役所管理課の管理課長8名と、本庁道路管理課の課長である明凛と課長補佐の阿古屋。そして、業務担当の中村渡(なかむら わたる)と宮田主税(みやた ちから)の12名である。
 現在午後4時57分。すでに会議予定終了時間を27分過ぎているが、会議に乗せられた議題は、一向に進展する兆しを見せていなかった。
「まぁ、そういうことですわ。柏原さん」
 関西なまりの口調で明凛の方に視線を向けたのは、西区管理課長の蝉原(せみはら)である。
 50を少し過ぎた禿頭の男は、目が悪いのか薄い色入りのメガネを掛けている。ぎすぎすした痩身の外見は――ヤクザと紙一重、といったところか。
 その蝉原は椅子に深く背を預けて脚を組み、いかにも鷹揚な態度で続けた。
「本庁さんの案、とてもじゃないですが、今の人員体勢じゃあ受けられませんでぇ。こんな会議でどう説明されても、話にならんっちゅうこっちゃ」
「人も金もつかない。それで仕事だけが増えると言われてもね……」
「結局のところ、そちらで業務内容を再考してもらうか、財政課に予算要求をしてもらうか、それしか手はないのでは?」
 他の課長たちからも、次々と控えめな声があがる。
「そういうことで、さっさと話をまとめてくださいや」
 勝ち誇ったようにほくそ笑むと、蝉原は枯れ木みたいな足を組み直した。
「霞ヶ関のお姉さん。おたくがはっきりしないから、ほら、阿古屋さんが困ってるはるやないですか」
 明凛は、席を立ってこの場を立ち去りたい衝動に、かろうじて耐えた。
 こんなことがあっていいものなのか。
 一言で言えば、8区管理課全ての課長が、来年度施行が予定されている新規の仕事を受けたくないと主張しているのだ。
「と、とにかくですね。道路パトロールをこれまで適用外とされていた地区にまで延長するのは、長年市民から要望のあった重要課題でして」
「やらんとはゆうとらんで? そのために、金と人を用意しろ、ゆうとるんや」
 蝉原が威嚇するように机を叩く。
「で、金と人をとってくるのは本庁さん、予算統括元課であるあんたらの仕事やろうが!」
 振り返った阿古屋が、どうしましょう、という目で明凛を見る。
 明凛は――正直、ものをいう気にもなれなかった。
 ――ありえない……我々が、一体なんのために仕事をして、どこから給料を得ていると思っているのか。
 区役所管理課長の主張に、多少でも理解できる点があるとすれば、新規事業が導入されるにあたり、当初はつくと説明されていた人員と予算が、まるでつかなかったことにある。
 しかしそれは、市の財政と人員配置という俯瞰的視点からやむなく決定されたものであり、今さら文句をいったところで何にもならない。
(ここは、我々が頭を下げて失態を謝罪し、改めて、区にお願いするしかないと思うのですが……)
 阿古屋の言葉を、明凛は眉を寄せてはねのけた。
 そこで謝るという意味が、理解できない。同じ市役所で仕事をする者同士で、何故、謝罪という行為が必要なのか。
 絶対に、あり得ない。税金で給料を得ている公務員が、市長から降ろされた仕事を拒否するとは。
(なに、課長職など、実のところ大した仕事はない。道路管理課にはベテランの阿古屋補佐がいるし、君は判ったような顔で構えておればいいんだ。前任の氷室君のようにな)
 管理課長に就任したその日。総務局長の藤家(ふじいえ)はそう言って明凛を激励してくれた。
(とはいえ、ただひとつ、今までの課と少しばかり勝手が違う点があるので注意したまえ。道路管理課は市内8つの区役所に事業課を持っている。つまり道路管理課は、自らの課と区役所の管理課、両方の面倒をみなくてはならんのだ)
(区役所管理課が現場で仕事をする兵隊なら、本庁道路管理課は指揮官だ。そしてその関係は、思いの外やっかいなのだ)
(君には未知の領域だろうが、区役所連中の覇気のなさというのは、案外クセモノだぞ。連中ときたら、いかに仕事を楽にするか、それしか頭にないのだからな)
 ――藤家さんから忠告はされていたが、ここまでやる気がないとは……。
「とりあえず今日のところは、こちらがオファーした案をご再考願いますか」
 前を見据えたまま、抑揚を抑えた声で明凛は言った。
 自分の声は、声量はないがよく通る。しかもそれは、男性を威嚇する程度の迫力があるらしい。
 案の定、ざわついていた会議室が一気に静まり返る。とはいえ明凛に向けられたどの目にも、不満と苦々しさが混在している。
 構わずに、明凛は続けた。
「その前提として、予算の復活はあり得ず、業務の見直しもないということを申し上げておきます。ご承知のとおり、この案はすでに市長説明も終わっております。常識的に考えて、職員側の事情による見直しはあり得ません」
「あんた、わしらの話、ホンマに聞いてましたんかいな」
 呆れたように、蝉原が色付きメガネを指で押し上げた。
「市長説明のことなんざ、わしらの知ったことですかいな。本庁さんが、市長にいい顔したいだけの話でしょうが」
「市長説明の内容に関しては、事前にこの会議で了承を得ているはずですが?」
 間髪入れずに明凛が返すと、むっとした顔で蝉原が口ごもる。
「それは、……あんた、あくまで予算と人がつくことが前提の」
「査定によってはつかない可能性がある旨を説明をしていたことも、議事録で確認しています」
 明凛は冷ややかに言い切った。
「申し訳ありませんが、今後、今日のような議論は繰り返すべきではないと思いませんか。すでに終わった話を蒸し返して無駄な時間を費やすほど、皆さんの職場は暇ではないでしょう」
「なんやと?」
「税金で給料をもらっているという自覚があるなら、今後は、いかに効率的に事務を進めていくかを前向きに話しあっていくべきだと申し上げているのです」
「なんだとう、この女ッ」
 蝉原がかっと顔を赤くする。椅子を蹴って立ち上がり、腕を振り上げたのは距離的に脅しだろうが、周囲の課長連中が慌てた態で止めに入った。
「わかったようなこといいやがって。ワシが何年、行政の仕事やっとると思うとるんや。この小便垂れのアマっ娘が」
「せっ、蝉原さん、落ち着いて」
「相手は若い女の子ですからッ」
 本当に――いちいち、頭にくる連中だ。
 明凛の隣では、阿古屋が頭を抱えんばかりにして溜息をつき、両サイドの三宅と中村は、強張った表情で押し黙っている。
 明凛は、自分も漏らしそうになった溜息を唇で押しとどめ、手元の書類に視線を落とした。
 来年度の組織改革案と、それに伴って新たに管理課で持つことになった事業マニュアル一式。作成者は、どちらも道路管理課の元課長、氷室である。
 一応、担当者の三宅と中村が作成したことにはなってはいるが、原案にも修正にも、全面的に氷室が手を加えたに違いない。
 口を挟む隙もないほど完璧な案には、しかし、致命的な欠損が事後になって生じた。
 希望額どおりの予算がつかない――それは想定の範囲内だったが――問題なのは、新規人員が全くつかないということだ。
 つまり、基本、今の人員と予算でなんとかしろという財政と人事の査定が、今年になって下されたのだ。
 新規事業の導入を決めたのは本庁の道路管理課だが、実際にそれを行うのは区役所の管理課職員である。つまり、彼らにとっては単純に仕事が増えるという計算になる。
 当初から反発は予想され、今日、管理課長会議が荒れに荒れたのもそのせいなのだった。
 ――全くもって、やる気のない人間を相手にするのは難しい。氷室さんだったらどう対応しただろう。
 明凛はそう思いながら、隣の阿古屋に、会議を終わらせるよう目で合図した。
 
 
「気づいてまっか? あの女、会議中に居眠りしてたんでっせ。ほんま余裕でんなぁ、霞が関の女官僚さんは」
「しっ、聞こえますよ。蝉原課長」
「かまへんかまへん。どうせお飾り。雛人形のお姫さんや。えらそうなこと言うばかりで、話なんか、いっこも理解してないんとちゃいまっか」
 扉の向こうから聞こえてくる声は、大声もあいまって丸聞こえだ。
 会議終了後、会議室に残されたのは明凛をはじめとする本庁の人間ばかりだが、蝉原の声は、廊下に出たばかりの各区管理課長全員に届いているはずだった。
「それにしても、どうなってまんのや。本庁の人事は」
 吐き捨てるような蝉原の声はまだ続いた。
「前は水もしたたる色男で、今度はマネキンみたいな美女でっか。ほんま、阿古屋さんも果報なこって」
「柏原課長」
 気づけばその阿古屋が、いたわるような目でこちらを見ていた。
「なにか?」
 すでに別の懸案に思いを馳せていた明凛は、やや煩わしく思いながら、その視線に対峙した。
 たちまち阿古屋は、気圧されたように視線を下げる。
「あ、いや、その……。蝉原課長のことは、あまり気になさらない方が、と、思いまして」
「………」
 全く気にしていないのだが。
「あの……その……それと、ですね……」
 明凛がわずかに眉を寄せると、阿古屋はたるんだ顎を引くように言葉を飲んだ。
「な、なんでもございませんっ。今日はお疲れ様でしたっ」
 目が、完全に泳いでいる。
 こちらが対等に扱おうとしても、向こうがこうも怖気づいているのでは話にならない。
「課長補佐も、お疲れ様でした」
 明凛はそっけなく言うと、書類をまとめて立ち上がった。
 色々相談したいこともあったが、おそらく時間の無駄だろう。今までもそうだが、何を訊いたところで、「柏原課長のおっしゃるとおりだと思います」しか返ってこないのだから。
「中村さん」
 出掛けに声をかけると、机を拭いていた三十五歳の中堅職員、中村渡は、雷にでも打たれたように居ずまいを正した。
 土木技師枠採用。真面目だが応用力はゼロ。新婚で、そのせいかやたらと早く帰ることに執心している。
「今日の議事録を六時までには私のところに持ってくるように。六時半に局長説明があるので」
「は、はひっ」
 廊下に出ると、「ひぇー、六時ですか」という宮田の声が聞こえてきた。
「勘弁してくださいよぉ」という、泣きそうな中村の声も聞こえる。
 エレベーターホールに向かいながら、明凛はこめかみを押さえそうになっていた。
 なんなの、この連中は。
 法規係では、この程度のリクエストに不平を言う職員は一人もいなかった。
 新人の日高成美にさえ、不完全ながらこの程度の仕事は任せられる。
 正直、氷室さんはどういう教育をしていたのだろう、と疑問に思わざるを得ない。
 明凛の感覚では、当然課長補佐がやるような仕事まで、こちらでは全て課長の氷室がやっていたようだ。いや、形ばかりは阿古屋や部下にやらせているが、実質、重要な懸案事項は全て氷室が立案、資料作成までしている。
 ――課長は、課の最後の意志決定機関だ。細かなことは下に任せ、最後の責任だけを取るべきだ。
 それが、課長のあるべき姿だと、明凛は常々思っていたが、氷室が率いていたこの管理課では違うらしい。
 氷室のトップダウン――というより、あたかも見えない糸で操るように、あらゆる案件を氷室がリードし、手を加えた形跡が垣間見える。
 見方を変えれば、それは部下を全く信じていないやり方とも言える。
 部下を信じ、育てる気がゼロだったからこそ、このような仕事のやり方ができたのではないか。
 優しい笑顔の下に、一癖も二癖も見えない本性を隠し持っている氷室らしいと言えばそれまでだが――
 階下のボタンを押した瞬間、上から降りてきたエレベーターが目の前で開いた。
 明凛は眉をあげていた。
 いくら気をつけていても、こういう不意打ちには、咄嗟に表情を保てない。
 中には、一人の長身の男が壁に背を預けるようにして立っていた。
 道路管理課の沢村烈士。
 つい先日、うかつにもキスを交わしてしまった直属の部下である。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。