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プロローグ
「え?」
空で爆ぜる轟音が、幼馴染の呟きをかき消した。
「今、なんて言った?」
訝しく振り仰いだ明凛を、藤崎直斗(ふじさきなおと)は少しだけ怒ったような目で見下ろした。
「なんで肝心なとこ、聞き逃すんだよ」
「だって」
明凛は不平げに上空を指さした。抜けるような青空には、飛行機雲が長く尾を引いている。
今日の航空ショー、最後の演技。
空を舞うのは国産戦闘機T−4。ブルーインパルスと呼ばれる自衛隊曲技飛行隊の飛行は終わり、ラストは一機単体のアクロバット飛行だ。
今も、鮮やかなブルーの機体が、雲ひとつ無い青空を切り裂いて、大きな弧を描いている。
「あのな。俺――」
一般開放された自衛隊の基地は、大勢の家族連れで賑わい、わっと湧き上がった歓声が、再び直斗の声をかき消した。
「ごめん、なに」
「……もういい。ちょっと時間あけて話す」
脱力したように額に手を当て、歩き出した直斗の背を、明凛は少し慌てて追った。
「ちょっと、一人で遠くにいかない約束でしょ」
頭がよくて運動神経も抜群の直斗は、何故だか方向感覚が致命的にない。
ゆえに一度はぐれてしまうと、ゆうに一時間は平気で迷子になっているのだ。 年に一度、近県の航空自衛隊基地で行われる航空祭に赴くのは、中学以来の二人の恒例行事だが、そこで明凛は、何度も「ちょっと売店」「トイレ行ってくる」で、散々な目にあわされてきた。
今日は三連休の中日とあって、人の入りが特に激しい。こんな状況で離れてしまえば、一時間どころではない。二度と巡りあえないかもしれない。
そんな人迷惑な直斗は、しかし明凛に常々こう言っている。
「お前は頭がいいくせに、空気とか人の気持ちとかが致命的に読めないだろ。ほっといたら、周りと揉め事ばかり起こしそうで、目が離せないんだよ」
目が離せない。それは、むしろこっちのセリフでもあるのだが……。
「ちょっと、直斗ってば」
振り返らない直斗は、少しうつむきかげんの姿勢のまま、人の間を縫うようにして歩き続ける。
長い襟足は、今年の初夏、長く続けていた野球を辞めたのを機に伸ばし始めた。坊主頭のスポーツ少年だった直斗は、そのあたりから、今時のイケメンに変貌を遂げた。
正直、明凛は、前の直斗の方が直斗らしくて好きだった。でも、妹の紫凛(しおり)に言わせれば、今の直斗が断然いい――らしい。
やがて最後のアクロバット飛行も終わったのか、人の波が、二人とは反対方向に流れていく。それでもあらぬ方向に歩き続ける直斗に、明凛はようやく追いついた。
「もう、どこ行くの。去年みたいに基地の人に叱られるのはごめんよ。私」
去年、立入禁止区内にうっかり迷い込んだ経験は、まだ生々しく明凛の記憶に残っている。
「方向オンチのくせに、無駄に好奇心が強いなんて、いつか絶対痛い目にあうんだから」
「うるせーなぁ」
直斗がようやく足を止める。基地の飛行場が一望できるフェンス前。直斗はわずかに目を細め、今日の名残を惜しむかのように暮れていく空に視線を馳せた。
「人の心配より、少しは自分のことも心配しろよ」
「は?」
どういう意味?
「……明凛はさ、鈍いくせに目立つから心配なんだよ。その上、相手の気持ちを汲んで上手く立ち回れないからさ」
「またその話」
明凛はふーっと息を吐いた。それは確かに人と衝突することは多い。だからって困ったことはひとつもないんだけど。
「去年あったろ。サバ高の奴らにさ。俺が心配してんのは、ああいう警察沙汰レベルの揉め事のこと」
「あれは――私の問題? おかしな男に勝手に好きになられて、勝手につきまとわれただけなのに」
「お前の問題。最初の対応に問題ありすぎ。ヤンキー相手に、怒らせるようなふり方すんな。相手見て態度変えろ」
「それは……」
まぁ、確かに、そうなのかもしれないけど。
「あの頃は、……まだ親父が現役だったからよかったけどさ」
直斗はそのまま無言になる。
明凛も黙って視線をフェンスの向こうに向けた。
「親父には黙ってろって言われてたけど、例のあいつ、警察でも有名な悪だったんだ。結局、鑑別所送りになったって聞いたけど、お前、マジでやばかったんだぞ」
「……まぁ、結局、何もなかったんだし」
「その油断が命取りだって言ってんだよ。男なんてな、頭の中じゃ四六時中……」
そこで言葉につまったように、直斗はひとつ咳払いをした。
「気をつけろよ」
「判った」
「でも俺は、別だからな」
「はい?」
眉をあげて振り仰ぐと、直斗は当惑したように目を泳がした。
「いや、これ以上ガード固くされたら、いつまでたっても幼馴染のままだと……」
「ガードなんて、固めた覚えもないんですけど」
その途端、不意に腕を掴まれ、暗い影に覆われた。
ガシャンと、背後のフェンスが音を立てる。
何が起きたのか判らないまま、明凛は目だけを見開いていた。驚きで、声も出ない。
「……目、つむれよ」
「……ごめん」
目をつむった後で気がついた。
今のって私が謝ること?
だいたい、今まで直斗に好きだと言われたこともなければ、好きと言った覚えもない。なんとなく流れにのってしまったけど、いくらなんでもこの展開は早すぎなのでは――
「あのさ」
そう言いながら顔を上げた刹那だった。固いものが、勢い良く口にぶつかった。
「っ、た」
「っ……」
あまりの痛みに声も出ない。
なにこれ。キスがこんなに痛いのものなら、もう二度とごめんよ。私は。
口を押さえたまま、かろうじて顔をあげると、直斗も全く同じ仕草をしていた。それで判った。互いの歯と歯が思いっきり激突したのだ。
「……頼むからいきなり顔あげんなよ」
「だって、それは直斗が」
しばし互いを責めるように見つめ合った後、最初に笑い出したのは直斗だった。
「ちょっと、何がおかしいのよ」
「いや、だって中学じゃいっつも一番争ってた俺らがさ。こんな簡単なこともできないのかと思ったら」
「だからって、――」その通りかもしれないけど。「そこまで笑う?」
「わりー。ツボ入った」
直斗は頭を下げ、フェンスをがしがし叩きながら笑い続けている。
笑い上戸は昔からだけど、なんて失礼な男だろうか。
「もう……」
とにもかくにも初めてのキスは大失敗だった。確かに直斗の言うとおり、それは結構恥ずかしいことなのかもしれない。
やがて笑いも引いたのか大きく息を吐いた直斗は、涙を拭う素振りまでして顔を上げた。
「帰るか」
「……うん」
直斗が手を伸ばしてきたので、明凛は少しためらってから、その手に自分の手を重ねた。手つなぎなんて小学校の運動会以来だ。
そのまま、何故だか言葉もなく、しばらく無言で歩き続ける。
「俺な」
「うん」
「引っ越すんだ。……一学期が終わったら。官舎、いい加減出ていかなきゃいけねーから」
「……………」
「……もう、薄々気づいてたとは思うけど」
「……うん」
さっき、爆音でかき消された言葉。
握られた手に、少しだけ力がこめられる。
「どこに行くの?」
「山口、おふくろの実家。聞けよ。そこに何があると思う?」
不意に直斗の口調が明るくなったので、明凛はかすかに眉を寄せて、その横顔を仰ぎ見た。
「航空学校。航空自衛隊のパイロット訓練校。つまり――」
直斗の視線が憧憬をこめてフェンスの向こうの国産戦闘機に向けられる。
「こいつのパイロットになるための、学校」
さすがに明凛は瞬きをしていた。
「どういう意味」
「そういう意味。今まで漠然と憧れて、かっけーなぇって遠目に見てただけだけど、俺でもなれるかもしれないんだよ。T―4のパイロットに!」
「――本気なの」
「本気も本気。色々調べたんだけど、給料もらいながら学校にも行けて、そこで勉強しながら戦闘機に乗る訓練を受けられるんだってさ。もちろん民間飛行機のパイロットにだってなれる」
「…………」
つまりその学校は、ただの民間の学校ではない。国費で未来の自衛隊員を育成する――航空自衛隊の予科練のようなものなのだ。
すぐに、言葉は出て来なかった。ずっと同じ官舎で育った幼馴染。同じような道を歩いていくとばかり思っていた直斗が、これからまるで違う世界へ行こうとしている。明凛には、想像すらできない遠い世界へ。
「6年くらいかかるらしいんだけど、学校卒業して、正式に部隊に配属されるまで」
嬉しそうに話す直斗に、「大学へは行かないの」とは聞けなかった。
直斗の学力なら学費免除の奨学生にだってなれる。けれど家計や家族のことを考えた、それが直斗の出した結論なのだろう。
「しかも戦闘機のパイロットとなると超難関、半分近くは在学中に落とされるんだってさ。そもそも入学試験からして十倍以上の難関なんだけど」
「そうなんだ」
そうだ。
それが直斗の決めた生き方なら――ただ私は応援しよう。
夢中で航空学校のことを語る幼馴染を、明凛は静かな気持ちで見つめてから、言った。
「直斗なら、大丈夫だよ」
「……そうか?」
「ん、絶対に大丈夫」
一瞬表情を止めた直斗の横顔が、微かに和らぐのが判った。
「ありがとな」
そして晴々とした目を、黄昏色の空に向ける。
「試験まであと一年、これから死に物狂いで勉強しなきゃだけど、死んだ気になって頑張るよ。絶対に最短でウィングマークとって、明凛のところに戻ってくる」
「そんなもの私に渡されても、使い道ないんですけど」
てっきり何かの比喩か冗談だと思ったが、直斗の横顔は笑っていなかった。
「だから……待っててくれたら、嬉しい」
「………」
――それは……。
つまり、それは。
考えがまとまる前に、ちょっと強めに腕を引かれた。直斗の横顔には、少しだけいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「キスも、ちゃんとしたいしさ」
「は?」
「勉強しとけよ。俺より頭いいんだから」
「もう、何言ってんだか」
つまり、それは――
それは……
夕陽が、ゆっくりと空を茜色に染めていく。
その眩しさに目を細めながら、明凛は不意に泣きそうになった。そして、そんな自分に驚いて瞬きをした。
「お前も、頑張るんだろ。音大入試」
「……ん」
「親父さんみたいに売れない音楽家になれよ。明凛一人くらいなら、俺が面倒みてやるからさ」
それには、ちょっとむっとして、明凛は肩をそらしていた。
「結構です。誰かに生計を頼る生き方なんて、考えたこともないし」
やがて日が山間に沈み、アスファルトに落ちた二人の影が、少しずつ輪郭を失っていく。
次にここに来られるのはいつだろう、とふと明凛は思っていた。
今まで当たり前のように二人でいたから、未来を不安に思うこともなかったけれど、――本当に私たちは、またここに来られるのだろうか。
今日のこの気持ちは、何年たっても変わらない永遠だろうか?
「……迷わずに戻ってきて」
「えらい気の利いた厭味だな」
直斗は苦笑したが、すぐに小さく頷いてくれた。
「わかった、約束するよ。まっすぐに明凛のところに戻ってくる」
どうして日は沈むのだろう。
直斗の横顔を見ながら、明凛は初めてそんな無意味なことを考えていた。
どうして一日は終わるのだろう。
いつまでも、今日という日が終わらなければいいのに。
この暖かくて優しい手が、これからもずっと私の傍にあればいいのに――
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