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１８
「これ……、さっきコンビニで、氷買ってきたんで」
成美が氷で冷やしたハンカチを差し出すと、雪村は眉をしかめてそれを受け取った。
腫れた右拳にそれをあて、小さく呻く。あまりにその様が痛々しいので、成美も眉をしかめていた。
「骨、折れてません？」
「それはないと思うけど」
繁華街の一角にぽつんとある児童公園のベンチ。寒風が身にしみたが、店を出た雪村が、呆けたようにそこから動かなくなったので、成美もつきあうことにした。
「行かなくて、よかったんですか」
雪村の隣に腰掛けながらそう問うと、雪村はわずかに肩をすくめた。
「いいんじゃね？ あいつが一人でもいいっていうんだから」
「でも――」
「俺には、あれ以上判りようがないけど、……なんか心当たりでもあるんだろ。そんな顔してたじゃん」
そういうんじゃ、なくて。
本当に言いたいことを飲み込み、成美は雪村の横顔を見上げた。
「今日のこと……、最初から、何があったか聞いてもいいですか」
雪村は不服そうに肩をすくめて黙っていたが、やがて、独り言でもいうように口を開いた。
「まぁ、きっかけは、俺の美貌とお前のクソ迷惑なおせっかいなんだけど」
「…………」
は？
「覚えてるだろ。去年４人で食事した時の偽弁護士。一人は本物で紀里谷っていったけど、もう一人の男くさい奴」
「……………」
４人で食事、といえばあれである。
柏原課長（当時補佐）が、大明なるいかがわしい男と交際しようとしていることを知った成美が、その男の正体を探ろうと紀里谷弁護士に調査を依頼し、その報告の席に雪村を引き込んで……。
数秒考えて、成美は言った。「……他に、誰かいましたっけ」
「いたよ！ いただろ！ お前があんなのと引きあわせたから、その後この俺が随分苦労したんじゃねぇか。本当に判ってんのか、この鳥頭、疫病神！」
あまりの剣幕に、成美は言葉も出てこない。
「なんとなく思い出しまたけど、確かジャーナリストって……」
そういえば、後日紀里谷からそんな説明を受けた気がする。
「俺には、探偵だって名乗ったけどな。どうでもいいよ、そんなこと。どうせ胡散臭い男なんだ。細かい経緯は省略するけど、そいつが俺の家も素性も何もかも調べあげて、また俺の前に現れたんだよ」
「……なんのために」
「俺とやるために決まってんだろ！ 言っただろ。あいつら両方、間違いなく同性愛者だって」
「……………」
成美は、口をぱっくりと開けた。
「今になって驚くのはやめろ。最初から俺は嫌な予感がしてたんだ。それがまた当たっただけだ。――まぁ、幸いなことに、俺には暴かれて困る過去なんて1ページもなかったけどな」
成美は大きく頷いた。
毒舌乙女というちょっと変わった性癖を持ってはいるものの、確かに雪村ほど真面目でまっすぐな男もいない。
「で、どうなったんですか！」
「お前、目が輝いてないか？」
雪村は嫌な顔になったものの、諦めたように話し出した。
「最初は完全無視して、適当に受け流してたんだけど、先週あたりからちょっと気になる情報を小出しにされ出してさ……。柏原さんのことだよ。あいつ――宮原って探偵だけど、仕事で大明拓哉の身辺を調べてるらしいんだ。その繋がりで」
「…………」
大明拓哉。
成美は、自分の眉が陰るのを感じた。
今になって、またその名前を聞くことになるとは思ってもみなかった。
「なんでも大明が――柏原さんを脅迫して呼び出して、………まぁ、これ以上言うと、血管ぶち切れそうだから言わねぇけど」
実際、握りしめた手の甲の血管が膨れ上がる。
雪村は顔をしかめ、ハンカチを患部に当てなおした。
「宮原のおっさんもずる賢くてさ。なかなか肝心の日時と場所を教えてくれねぇわけ。今日の８時、ホテルロイヤル灰谷で柏原さんと大明が会う予定だって――ぎりぎりで情報流してもらったよ。飲みの最中に宮原から電話で呼び出されたんだけど、正直、今日ばかりはマジでやられるって覚悟した。ま、なんとか寸前で逃げ出したんだけど」
あ、と成美は改めて薄着の雪村を見た。
「じゃあ、コートと上着がないのは……」
「ネクタイとベルトもねぇよ」
雪村は気だるそうに首筋を掻いた。
「あー、マジ気持ち悪くて鳥肌たった。蕁麻疹出てね？」
――雪村さん……。
あなたって人は、本当に――どこまでも愛に殉じる雪村さんなんですね。
笑おうと思ったが、成美は目元が潤むのを感じた。
本当にいい人なんだ、雪村さんって。
そんなに……柏原課長のことが、好きなんだ。
「そこまでしたのに、沢村さんを一人で行かせたのは何故なんですか」
最初に聞きたかった質問を、少し迷ってから成美はした。
沢村を殴り、店からひきずり出した後、雪村は早口で――それは今よりもっとわかりにくい説明だったが、柏原課長が今夜、大明と一緒にいることを沢村に告げた。
沢村にはそれだけで、何かが判ったようだった。
ホテルの部屋までは判らないという雪村に、心当たりがあるといい、そのまま沢村は夜の街に消えた。
何かあれば連絡するという約束だけは交わしたが、あれから一時間たっても連絡はない。
きっと、うまく……いったのだと思いたい。
成美の質問に、雪村の横顔が、わずかに陰るのが判った。
「……そりゃ、柏原さんが、あいつのこと好きだからに決まってんだろ」
「…………」
「宮原の話だと、柏原さんも納得ずくで、大明と何らかの取引をしたみたいなんだ。……俺が行っても、多分無駄だろ。止められるのは沢村だけだ。さすがにそんくらい、判るからさ」
そこで息を吐いた雪村は、疲れた目を空に向けた。
「コンサート、……１月にあったやつ。お前誘ったの、本当はその日、柏原さんと沢村が２人で行くって知ってたからなんだ」
「……そうだったんですか」
「偶然、柏原さんが、電話であいつ誘ってるの聞いちゃってさ。……まぁ、そうなる予感は、去年の暮れくらいからあったんだけど」
「…………」
「心配でさ――今も心配だけど、それこそ、余計なお世話だよな」
「…………」
成美は自分のコートを脱ぐと、雪村の背にかけてあげた。
雪村が、少し驚いたような目をあげる。
その雪村の顔を見つめ、成美はそっと頷いた。
パールピンクにリボンつきの、かなり可愛いデザインだが、まるで違和感がない。
「すごく、似あってます」
「…………いや、それ、今言う？」
呆れたため息をついた雪村が、ふてくされたように横を向いた。
「駄目だ、お前。人として終わってる。空気が読むところからやり直してこい」
そうぼやく雪村を、成美は初めて可愛いな、と思っていた。ピンクのコートが本当によくお似合いで――と、そういう意味だけではないけれど。
「まだ早いんで、どっか飲みに行きますか」
「いいけど、それ、お前の奢りな」
「え、それは……、う……、はい……」
そのドケチ根性、本当になんとかならないかしら。
それでも雪村が雪村らしいことを言ったのが嬉しくて、「任せてください。３月は期末手当もありますし！」と成美は元気よく立ち上がっていた。
１９
「おい、……しっかりしよろ」
揺り起こされ、半ば意識を失っていた沢村は薄く目をあけた。
口の中は血の味で溢れ、全身が軋むように痛い。
煙草とアルコール臭の充満する薄暗い部屋で、のろのろと顔をあげようとすると、上から頭を押さえつけられた。
「お前、烈だろ」
耳元で囁く男の声。
「しっ、何も言うな。気ぃ失ってるふりしてろ」
どこかで聞いた――でも、誰だ？
「真面目に仕事してるお前が、今回ばかりはヘマやらかしちまったな。でも安心してろ。俺が上手く逃がしてやっから」
頭を押さえつけられたまま、沢村はわずかに眉を寄せた。
「あん時かばってもらった恩、おらぁまだ、忘れてねぇんだ。ここで出会ったのもなんかの縁だ。いいか、これから何されても、犬みてぇにおとなしくしてんだぞ」
それで、判った。
頭から離れようとした腕を、沢村は渾身の力で掴んでいた。
「烈、馬鹿野郎。俺の話がわかんねぇのか」
「……ヒデさん」
沢村は必死で声を出した。今一番確かめたいことを、聞きたくて。
驚いたように短く首を横に振った男は、やがてひどく気の毒そうな目で沢村を見下ろした。
「烈、お前……、本当に可哀想な奴だな。結局また、同じ女のために、何もかもなくしちまうつもりなのかよ……」
その時ガチャリと扉が開く音がして、同時に沢村は腹のあたりに蹴りを入れられていた。
ただし、痛みは殆んどない。蹴った相手が、意識的に靴を床にぶつけてくれたからだ。
「大明さん、こいつ、目ぇ覚ましてるみたいですぜ」
そうして髪を鷲掴みにされ、顔を無理にあげさせられる。
ぼやけた視界には、今夜一番会いたかった男の姿が映っていた。
大明拓哉――
男は歪んだ笑みを浮かべ、煙草の灰を沢村の頭あたりに無造作に落とした。
「へぇ、あんたが沢村君か」
ソファで鷹揚に足を組んだ男は、冷めた目のままで、そう言った。
「写真より、何倍もいい男じゃん――まぁ、今はひでぇ顔してるけどな」
男たちの野卑な笑い声が部屋中に響く。この部屋に、今、一体何人が集まっているのか、沢村には見当もつかない。
膝をついた沢村は、視線だけをあげて、改めて室内を見回した。――いない。
ホテルロイヤル灰谷のスゥィートルーム。室内に、特にそれらしい形跡もない。
「てか、よく俺の前に顔出せたよな。マジな話」
男――大明拓哉の目に、殺意にも似た憎しみが走った。
「クソチンピラが。その度胸だけは買ってやるよ。もちろん今夜は、殺される覚悟で来たんだろ？ ああ？」
その顔には、整形手術の縫合の痕が微かに残っている。
やっぱり、そういうことだった。
あれだけの真似をして、いつまでも隠し通せるものではないと思っていたが――
沢村は、痛む口元を歪めて唇を噛んだ。
馬鹿だよ、あんた、一人でそれ、抱え込もうとしていたのか。
俺のことなら、もうどうでもいいって言ったのに。
「……柏原課長は」
さきほどと同じ問いを、沢村は繰り返した。
ぶっと大明が顔を歪ませて、噴き出す。
「おいおい、呑気に女心配してる場合か？――来てねぇよ。てか、それも知らずにのこのこやってきたのかよ。ホント、憐れなヒーローだな」
本当に？
本当に、来ていないのか？
せわしなく視線を動かす沢村を、立ち上がった大明は、初めて面白いものでも見るような目で見下ろした。
「紫凛の旦那と会ってるんだよ。今」
「…………」
「知ってるよ。てめぇ、紫凛の愛人だろ？ 俺を殴ったクソチンピラが、よりによって一番お気に入りのセフレの恋人。実際、マジ、むかつくよな」
「…………」
「ぶっちゃけ、あの女課長脅したら、てめぇの方から俺に会いに来るだろうって踏んでたんだよ。わびの一つでも入れにさぁ。それが、笑った。女助けるために殴りこみかよ。なのに、その女がいないっつーんだから」
再び笑い声が、室内に満ちる。
「そりゃ、来ないだろ、普通」
ポケットに手を入れたままでかがみこみ、沢村の顔をのぞきこむようにして大明は続けた。
「聞けば、あの女課長、紫凛の旦那と一緒になって、海外に行く話があるんだってさ。結婚するなら不倫ネタも意味ないし、退職するなら当然保身にも興味がない。脅しのネタは、ぶっちゃけ、部下の、てめぇのことだけ」
「…………」
「つまりさ、てめぇは女課長に見捨てられたんだよ。残念だよな、せっかく彼女庇って、英雄気取りで俺のことボコにしてさ。しかも今夜も、のこのこ助けに乗り込んできたのにさ」
馬鹿じゃね？
言い捨てた大明が目で合図し、沢村は自分の頭を押さえつけている複数の腕から開放された。
膝をついた大明が、沢村の顎を手で掴んで押し上げる。
「俺がどんだけこの状況を待ってたか。判るかよ、オイ」
「…………」
「全く、すごい真似してくれたよな。紫凛の知り合いじゃなきゃ、腕でも足でもへし折って、海にでも沈めてたところだよ、マジな話」
「…………」
「あんな真似して、もう役所にいられるなんて思ってないんだろ？ やめて、俺のところに来いよ。一生――生きてれば、の話だけど、俺のために裏の仕事をやってもらうからさ」
凄みと狂気を帯びた目で、大明は続けた。
「正直、面白みのない美人より、てめぇみたいな男の方が何倍も俺には役に立つんだよ。な、――判るだろ。沢村君。自分がこれから、どうすればいいいかがさ」
２０
背後でマンガみたいな擬音がしたので、成美は脚を止めて振り返っていた。
くしゃみをした雪村が、寒そうに肩をさすっている。
「だから、私のコート着たままで行こうっていったのに」
「馬鹿かお前は。裸の方が何百倍もマシだ」
飲みに行こうということになった２人だが、その前に服をなんとかしようという話になった。雪でも降りかねないこの寒空の下、コットンシャツにベルトのないパンツだけ。まぁ、元気にもほどがありすぎるスタイルだ。
「本当に役所に、着替えが一式あるんですか」
庁舎北門、真っ暗な敷地内に入った成美は声をひそめて聞いていた。
「普通は置くだろ。なにかあった時に備えて」
「そりゃ、喪服とかなら判りますけど」
スーツだけならまだしもコートまでロッカーに常備しているなんて。
「準備、よすぎるんじゃないですか」
「男にはな、きめなきゃいけない時があるんだよ」
雪村は軽く鼻を鳴らした。
「いつ、何時、その時が来ても対応できるように、だ。通勤着なんかじゃ恥ずかしくて出られない時もあるじゃないか」
「はぁ……」
それにしてもコートは行き過ぎだと思うんだけど。
だいたい、あの間口の狭いロッカーに、そんな嵩張るものを常時入れててどうするんだろう。
――ん？
ピン、と成美はひらめいた。
「もしかして、今日のために用意してたんですか？」
「あ？」
「今夜は、そもそも柏原課長の送別会だったじゃないですか。そのためにわざわざ一張羅を用意して」
むぐう、と成美の喉がなった。ほっぺを左右からぎゅうぎゅうにつかんで引っ張られたまま、声もでない。
「二度と言うな」
「ふぁ、ふぁい」
図星――なんですね。
「今度言ったら、その口、二度ときけないようにしてやるからな」
「い、いいまふぇんよ。それより、ふぉんきで、いふぁいですっ」
「あの……お取り込み中、大変申し訳ありませんが」
静かな男の声が、いきなり背後から２人の会話？ を遮った。
ようやく開放された成美が、涙目でひりひりする頬を撫でた時には、雪村はすでに折り目正しく背後の人に向き直っている。
「はい、なんでしょう」
「失礼ですが、先ほど柏原、と申されませんでしたか」
成美は顔をあげていた。
雪村の肩越しに、背の高い男の人が立っているのが見えた。暗い色合いのスーツを着て、片腕にコートをかけている。
がっしりた肩幅に厚い胸。短く刈った髪も相まって、まるでスポーツ選手か格闘技をしている人のようにも見える。
「失礼ですが、そちら様は？」
質問に答える前に、雪村が逆に聞き返した。
「自分は、フジサキといいます。今、知人を訪ねてこちらを訪問させていただいたのですが」
こんな時間にですか。と今度は成美が口を開きたくなっていた。
いくら出入り自由の市役所といえども、夜間は警備員室に身分証を提示しなければ入れない。
「時間外に、来客は庁舎に入れないと思いますが」
「そのようですね。来訪先の許可がないと入室はできないと断られました。生憎知人の今の部署を、正確に覚えていなかったもので」
落ち着いた口調で男は答える。体格はひどく迫力があるが、物腰は柔らかく、態度も紳士的だ。
「――諦めて帰ろうとしていたら、柏原、という名前が聞こえたのでつい。自分の知っている女性かと思ったものですから」
柏原課長のことだ。
成美は思わず雪村を見上げていた。この本庁舎に、柏原と名のつく女性はその人しかいない。
「失礼ですが、どのようなご関係ですか」
雪村が用心深く尋ねる。確かに失礼だが、対応としては当たり前だ。
夜に訪ねてくるほど親しい友人であれば、直接アポイントメントをとればいい。つまりは、それが出来ないレベルの知り合いということなのだ。
あるいは知り合いですらない可能性だってある。警備員が柏原課長の所属や連絡先を明かさなかったのは適正な対応だ。
「自分は彼女の」
そこで一瞬、男が言葉に迷うのが判った。
「……友人です。昔からの知り合いなんです」
口調には、気のせいでなければわずかな寂しさが滲んでいる。
しかし、それで判断がついたのか、雪村は事務的に頭を下げた。
「申し訳ありませんが、仮に知っていてもお答え出来ません。職員の個人情報にかかることですので」
その腕を、いきなり男が上から掴んだ。
「勝手を言いますが、仕事の都合で早朝灰谷市を発つことになったので、どうしても今夜会いたいんです。――ご存知ではないですか。柏原明凛、という女性なのですが」
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