16
 
 

「沢村さん、ちょっと」
「はい」
 空咳と共に、大きな影が近づいてくる。
 けれどその影は明凛の席の手前でそれ、彼の名を呼んだ補佐席の阿古屋の前に立った。
「なんすか」
「いや、この資料なんだがね。ちょっと意味が判らなくて…」
 沢村の資料は正確だ。おそらくは阿古屋の理解不足だろう。
 最初からそう思った明凛だったが、二人のやりとりを聞いて、それが間違いないと確信した。
 6時前の執務室。金曜日とあって、残業届けを出した者は少数だったが、まだ課内にはほぼ全員が残っている。
「で、どうなんだ。風邪の具合は」
 明凛が朝から気にかけていたことを、阿古屋はあっさりと口にした。
「はぁ、喉がちょっと痛いくらいです」
「無理するなよ。それからマスクくらいしろ。咳が出るなら」
「朝まではしてたんすけど、逆に、評判悪くて」
 ぼそぼそと答える沢村の声に被さるように、ボックスファイルを手に明凛の席に近づいてきていた宮田が口を挟んだ。
「それが、マジで怖いんですよ。まるで指名手配中の逃亡犯みたいな」
「沢村さん、目つきがモロ犯罪者だから、口元隠すと、本気でやばい人に見えるんですよねー」
 これは席にいる中村の声だ。
「うるせぇよ」
 迷惑気に沢村が返し、課内は笑いに包まれた。ただ一人、課長席に座る明凛をのぞいて。
「こ、こら、みんな。仕事中だぞ」
 明凛の沈黙に気づいたのか、阿古屋が慌てて手をふった。
 しまった、みたいな感じで、のどかだった課に、一気に暗い沈黙が広がる。
 明凛は無言で卓上を片付けると、立ち上がった。
「すみません。今夜はお先に失礼します」
 別に、構わない。
 つまるところ、私はいつまでもたっても外様なのだ。
 しかし、課長とはそういうものだ。
 課内の者と、友達のように親しくなれば、冷静な判断がしづらくなる。
 管理課は、行政管理課とは違うかもしれないが、そのスタンスまで崩す必要はない。
 給湯室を抜け、その奥の女性更衣室に入った明凛は、ロッカーから引き出したコートを手早く羽織った。
 沢村のことにしてもそうだ。結局は私情を交えてしまっている。
 昨日目撃したことは、結局墨田局長に、一言も報告をいれられなかった。今後のことを考えれば、なんらかの手を打つべきだと、それは判っているのだが。
 今日は何事もなく一日が過ぎたが、沢村は、一度も明凛と目を合わせようとはしなかった。
 前に呼びつけて話をしても、彼の目は故意に空に向けられたままで、必要最低限のそっけない返事しか返さない。
 それはある意味明凛も一緒で、一定の線よりこちらに、決して沢村を入り込ませないという態度を取り続けている。 
 こんな態度を互いに取り続けていては、いい仕事など出来るはずもない。
 ――よくはない。しかし今は、もう何も考えたくない……。
 来週になれば、気持も切り替えられるだろう。
 明凛は腕時計を見て、これから起きることに意識を集中させることに決めた。
 
 
「もしかして、デートですか」
 サニタリーで、リップクリームを塗り直していた時だった。
 少し驚いて顔をあげた明凛は、鏡越しに背後に立つ人を見て表情を引き締めた。
「課長さんでも化粧直したりするんですねー。てか、ずっとすっぴんだと思ってました」
 小原麻里子だ。
 こんな時間まで、臨時職員が庁内に残っていることに驚きながら、明凛は小さく頷いた。
 明凛よりかなり背は低いようだが、履いているブーツのせいか目線はさほど変わらない。黒のセーターにグレーのミニ。地味な色味ながら、そこに立っているだけでぱっと周りが華やかになるような美貌の女性だ。
 今日が最後の雇用日だった小原麻里子は、5時過ぎに明凛にところにも挨拶に来たばかりだった。
「リップクリームよ」
 感情を静かに飲み込んでから、明凛は手にしたリップスティックのキャップを締めた。
 乾燥防止がメインだが、この色味がないと、明凛の顔色は、貧血がひどい時など紙のように白くなる。
「この時期は、どうしても唇が荒れるから」
「じゃあ、唇以外は素顔ですか。すごーい。ある意味、すっごい自信ですよね」
 顔はにこやかに笑っていても、漠然と、厭味だと判る言い方である。
 立場は天地ほども違うが、年は近い。しかも、あんな現場で出くわした。女性として思う部分は色々あるに違いない。
 明凛は目礼し、バックの中にポーチを納めてサニタリーを出ようとした。
「デートの相手、沢村さんですか」
 背後から麻里子の声がした。
「なんだか沢村さんも、今夜飲みに行くみたいな話、携帯でしてたから」
 それは、知らない。
「ごまかさなくてもいいですよ。つきあってるんですよね。二人」
 挑むような声である。明凛は微かに息をはいて、振り返った。
「それこそ、沢村さんに聞いてもらいたいのだけど」
「聞きました。それこそ全力で全否定されましたけど。――てか、絶対誤解してますよね? 彼、ちゃんと課長さんに説明してくれました?」
 怒ったように麻里子は言うと、明凛の退路を塞ぐようにサニタリーの出口に立った。
「本当に私たち、なんの関係もないんです。あの日は様子が気になったから見に行っただけで。だってあの子、一人暮らしでしょ。前の夜からかなり熱あったし、具合も悪そうだったから」
 ――前の夜……?
 目を細くした明凛の疑問に答えるように、苦い顔になった麻里子は続けた。
「ちょっとからかうつもりで、部屋に行っただけですよ。少しそんな雰囲気になりはしたけど、結局、駄目っていうか、追い出されました。正直軽い男だと思ってたから、そこは意外っていうか……案外義理堅いんだなって、逆に可愛く思っちゃったんですけど」
「義理堅い」
 オウム返しに繰り返した明凛を、麻里はしばし呆れたような目で見つめた。
「あの子、課長さんのことが好きなんでしょ?」
「…………」
「だから他の女には、もう手が出せなくなったんじゃないですか。まぁ、熱のせいもあって、勃たなかったのかもしれないけど」
 一瞬言葉を失った明凛は、やがて戸惑って視線を下げた。
「……どうかな。私を好きというのは……、それは違うと、思うけど」
 どう考えても、彼が好きな相手は私ではない。
 あの夜、沢村は追いかけてきもしなかったし、今日も、言い訳ひとつしなかった。
 麻里子が、呆れたような溜息をつく。
「自分じゃ、課長さんにはつり合わないみたいなこと、言ってましたよ」
「――え?」
「だから誤解されたままの方がいいんだって。課長さんにはもっと頭がよくて、誠実な男の人が似合うんだって、そんな健気なこと言ってましたよ」
「…………」
「沢村さんみたいな人に、そうも大切に思われてる課長さんが羨ましい。だから私のことで、あまり彼をぞんざいにしないであげてくださいね。じゃあ」
 呆然とする明凛を尻目に、さっさと女はサニタリーを出て行った。
 どういうこと?
 誤解されたままの方がいい? 私とつりあわないって――なによ、それ。
 にわかに混乱が押し寄せ、明凛はバックから携帯を取り出そうとした。
 でも、連絡して、それでどうなるというのだろう。
 もう決めたのに――自分がこれからどうするか、もう決めてしまったのに。
 迷いが指を止めたその時、携帯が着信を告げて震えた。明凛は咄嗟にそれに出ていた。
「はい、柏原です」
 柄にもなく勢い良くでたものの、回線の向こうからは沈黙しか返されない。明凛は眉をひそめていた。
「失礼ですが、どちらさまですか」
「……明凛?」
「…………」
 懐かしい声に、心臓がいきなり停まった気がした。
 声を聞かなくなって2年にもなる。なのに何故、名前を呼ばれただけで、その人の声だとわかるのだろう。
 電話の向こうで、相手が微かに笑うのが判った。
「びっくりした。すごい剣幕で出られたから、番号間違えたのかと思ったよ」
「…………」
「いきなり、悪い。実は今、灰谷市に戻ってきててさ」
「…………」
「会えないか。今から」
 答えないでいると、電話の向こうから短いため息が聞こえた。
「仕事があるなら終わるまで待ってる。どうしても今夜、明凛に聞いてほしい話があるんだ」
 ――直斗………。
「ごめん、私」
「切るな、明凛」
 ようやく出た声を強い口調で遮られる。
「今度こそ信じてくれ。俺がなんでお前の番号を知ったと思う? 紫凛が教えてくれたんだ。でなきゃ、電話なんかしやしない」
 どういう、こと?
「会いたい……。会って直接、話がしたい。……2年前のことで、お前が俺を許してないのは判ってる。でも話だけでも聞いてもらえないか。その上でまだ許せないなら、今度こそ諦めるから」
「…………」
 黙っていると、一方的に待ち合わせ場所を告げられる。
 電話が切れてもどうしていいか分からないまま、明凛はその場に立ち尽くしていた。
 
 
                 17
 
 
「雪村さん、まだ戻らないの?」
 篠田がふと言ったので、ぼんやりしていた成美は、弾かれたように顔をあげた。
「あ、……そういえばそうですね。まだ戻られていないみたいで」
「なんだろね。急に電話で呼び出されたみたいだけど、……何か聞いてる?」
「いいえ」
 法規係の飲み会――柏原課長の送別会。結局土壇場で主役に逃げられた飲み会は、なんとも寂しいものになってしまった。
 法規係で集まったメンバーは、雪村と成美と、ガチャピン篠田の三人だけ。
 いっそ中止にしたかったが、予約した料理の当日キャンセルができなかったのだ。
 泣く泣く料金を払おうとした成美に雪村が渋々つきあい、人のいい篠田も同行してくれることになった。その際「はぁ? なんだって当日キャンセルきかないような面倒な店を予約したんだよ。馬鹿かお前は!」と、散々罵倒されたものである。――むろん、雪村に。
 そして、ここ、市内繁華街の片隅にある当日キャンセルのきかない面倒な和食専門店。貸しきったスペースには、今、思わぬメンバーが顔を揃えていた。
「そうなんだ、じゃあ長瀬さんって、今フリーなんだ」
「一応。でも私、あまり役所の人には興味ないから」
 てか、なんなのこの絵は。
 成美が強引にこの席に呼び入れた総務の長瀬可南子――を口説く、沢村さんの図。
 壁際に完全に囲い込んで二人の世界。
 酒の入った沢村は、成美から見てもちょっと危険なくらい魅力的だし、可南子も可南子で、口ではつれないことを言いながら完全に今の状況を楽しんでいる。
「興味ないって、それ、結婚相手って意味でしょ」
「そうかもしれませんけど」
「じゃ、そういうの抜きでつきあうのは、ありでしょ」
「んー、どうかな。考えたこともないけど」
「はは、からかってるでしょ。俺のこと」
 てか、なんなの、この会話は!
 なに、二人で微妙な駆け引き楽しんでんですか。
 どうでもいいけど、沢村さん、可南子相手にそんなことやってる場合ですか。
 なんだか柏原課長のことが心配で――仕事以外の用事が入ったのは判るけど、当日ドタキャンなんて、責任感の塊みたいな柏原課長らしくない気がするのに。
 ――二人……うまくいってたんじゃないのかな。
 最近、表情が優しくなった柏原課長。そして浮ついたところが消え、地に足がついた感のあった沢村さん。
 絶対に何かあったんだと、成美はひそかに確信していた。
 ――だって、柏原課長は……絶対に、沢村さんのこと意識してたもん。
 そして意識された沢村ときたら、成美の目から見ても柏原課長にぞっこんだった。いや、ぞっこんなんて昭和っぽい表現ですら似合わない。メロメロだといってもいい。
 しかしその沢村は、5時過ぎのエレベーターホールで、なんとデートの約束めいた電話を誰かと交わしていた。
 その相手が柏原課長ではないと察した成美は、いきなりひらめいた第六感――つまり衝動的に、沢村を今夜の飲み会に誘ったのだ。
 そして、こんなことになっている。
「どう、この次」
「うーん、どうするかな」
 沢村を上目づかいに見る可南子の意図はみえみえだ。
 沢村が柏原課長に特別な感情を持っていることくらい、可南子だって察している。普段から柏原課長によからぬ嫉妬心を抱いている可南子のことだ。これを機に沢村の心を奪おうとでも思っているのかもしれない。
 ――雪村さんはいなくなるし。沢村さんは暴走してるし。あーもう、どうすればいいのよ。
「じゃあ僕もそろそろ……帰るかな。明日は休日出勤だから」
 はらはらする成美に、隣の篠田が申し訳なさそうに声をかけてくれた。
「そ、そうですね。すみません」
「いいよ。今日は本当に残念だったね」 
 沢村と可南子の二人を残すのも心配だったが、成美は篠田を見送るために席を立った。
「道路管理の沢村君とは初めて飲んだけど、噂にたがわぬ超肉食系だね」
「す、すみません。つい声をかけてしまって」
「僕はいいけど、一人残される日高さんが気の毒な気がして。雪村さんにはメールして、お開きにしたら」
「そうですね……」
 篠田に忠告されるまでもなく、成美も内心そうしたかった。しかしそうなれば可南子と沢村さんのストッパー役がいなくなる。――いや、なんかもう、心配するのも馬鹿馬鹿しい。なるようになれば? もういっそ。
「雪村さんも、最近ちょっと妙だよね」
 靴を吐きながら篠田が言った。
「最近、頻繁に、仕事中に私用電話してるでしょ。しかも長い。あの真面目な人が珍しいなって、ちょっと前から気にはしてたんだけど」
「え、そうなんですか」
 それはちっとも気づかなかった。成美が驚くと靴を履いて立ち上がった篠田は目を丸くした。
「なに、彼女なのに気づかなかったの」
「すみません、全然……」
 柏原補佐がいなくなってからは自分の仕事をこなすのが精一杯で、周りを見る余裕が全くなかった。今日、飲みの席でいきなり「ちょっと出てくる」と消えた雪村の行動には驚いたが、普段からそんな異変があったなんて――ん?
「あの、篠田さん、今……」
 聞き間違いじゃなければ、彼女とか……言った?
 その篠田が、不意に視線を遠くに向けた。
「あ、雪村さんだ」
「え?」
 成美がその方に視線を向けると、確かに雪村が、狭い店の通路をかなりの勢いでこっちに向かって歩いて――いや、駆けてくるところだった。
 え、なんかすごい迫力。しかも顔が、かなりこわ「――日高!」
 隣では、篠田が凍りついている。
 いきなり腕を鷲掴みにされた成美もそれは同じだった。半ば蒼白な顔をした雪村は、この寒さの中、はだけたシャツ一枚で、なのに額に汗の玉を浮かせている。
「暇か? 暇だな。だったら来い。ちょっとつきあえ」
「え、あの、来いってどこに」
「ホテル! とりあえず金は俺が払うから」
 ………………は?
「ひ、ひひ、日高さん、じゃあ僕はこのへんで」
 あっ、篠田さーん……。
 青ざめる成美の前で、コートをひっつかんだ篠田が逃げるように去っていく。
「な、なんてこというんですか。ただでさえ私たち、誤解されて」
 しかし雪村は、成美の抗議を一切無視して、座敷に土足で上がり込んだ。
 言わずもがなだが、中には沢村と可南子の二人しかない。
「――おい」
 半ば酔った目を、半分だけ沢村はあげる。
 その右手は可南子の黒髪を弄んでいる。雪村の背中ごしにその光景を見た成美でさえ、正直、げんなりしてしまった。なんだかもう――失望したよ。沢村さんには。
「……なんすか」
 投げやりに、沢村は答えた。そしてグラスを持ち上げる。唇にはふざけた笑いが浮かんでいた。
「あ、もしかして、雪村さんもこの子狙いっすか。だったら悪いけど、今夜は俺が」
 雪村はものも言わずに二人の傍に大股で歩み寄る。まず危険を察した可南子が顔色をなして立ち上がった。
 あっという間もなかった。体格差を全く感じさせない鮮やかさで、沢村の襟首を掴んだ雪村は、そのまま一発、――凄まじい拳を沢村の頬に叩き込んでいた。

 
 
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。