15
 
 

「沢村さん、今日一日休みだそうです」
 末席の三ツ浦が、そう言って立ち上がったのは、始業開始の少し前だった。
「理由は」
 明凛が訊くと、即座に補佐席の阿古屋がそれに応じる。
「風邪とか。インフルエンザかどうか病院で検査して、また電話するって言ってました」
 ――沢村さんが……。
 明凛は意外さに少しだけ眉をあげたが、すぐにその表情は顔から拭い去った。
 昨日は元気そうだった。
 発熱したというなら、昨夜、帰宅してからだろうか。
 一人暮らしのはずだけど、一人で大丈夫だろうか。
 鞄の中には、見繕ったCDがいくつか入っている。いつものように、時間外に渡すつもりだったけど――
「…………」
 昨日、電話でもしてみればよかったな。
 実際、昨夜、携帯を前に5分ばかり迷い続けた。本当は迷う意味すらないのに――自分が新たに抱えた問題は、沢村だけには打ち明けてはいけないのに――
 その時、宮田と中村のひそひそ声が耳に入ってきた。
「インフルエンザ、流行ってんのかな」
「今日は、総務のバイトの子も休んでるみたいですよ」
 ――総務の、小原さんも?
「課長、蝉原さんから電話で、課長と直接話がしたい言っておられるんですが」
 阿古屋の声が、明凛を現実に引き戻した。
「判りました。つないでもらえますか」
 明凛はそう答えると、急いで仕事以外のことを頭から閉めだした。
 
 
 
 ――このあたりだったと思うけど……。
 明凛は顔をあげ、視線を周囲に巡らせた。
 沢村の住所は、役所からさほど遠くない場所にあった。賃貸か持家かは判らないが、住所からみるとマンションかアパートの三階に、彼の住処がある。
 見舞うつもりなどなかったし、思いつきもしなかった明凛だが、ふとそんな気になったのは、帰り際、三ツ浦が漏らした言葉を耳にしたからだ。
「あ、そういえば沢村さんから電話なかったっスね」
 そういえばそうだった。
 すっかり忘れていたが、インフルエンザの検査をして、再度連絡するはずではなかったのか。
「風邪がひどいのかな」
「沢村さんのことだから、病院行くの忘れて、寝てんのかもしれないですよ」
 そんな会話を交わし合う課の者たちに、「電話でもしてみたら」と、喉まで出かかりながら、それがどうしても言葉にできなかった。
 別に気にするほどのことでもない。――そう思いつつも、バスの沿線上に沢村の住所があると確認した明凛は、帰るついでに様子をみてみることにした。
 バス停を目印に、迷うまでもなく、少し歩いただけで目的の住所地にはすぐたどり着いた。
 小さな塀に囲まれた、軽量鉄骨の四階建てアパートだ。女性でも暮らせそうな小奇麗な外観をしている。
 男の一人暮らしときいて、なんだかおどろおどろしたものを想像していた明凛だったが、建築仕様も現代風で、それほど古い物でもなさそうだ。
 少しほっとした明凛は、持参した紙袋を目元まで持ち上げた。
 持参したCDが二枚と、見舞い用のアイスクリーム――この近くのコンビニで買ったものだが、なんのへんてつもないカップアイスが二つ。味気ないといえば、味気ない。
 あまり高いアイスクリームを買って、かえって気を使われるのも嫌だったし……。
「…………」
 明凛は溜息をついて、紙袋を持ち直した。
 結局のところ、人生で初めて遭遇した事態に際し、どう振る舞うのが正解なのか、明凛にはさっぱり判らないのだ。
 気になる相手だが、恋人ではない。そういう意味での相手とは違う。
 かといって、ただの部下かといえば、そうではない。
 少なからず特別な関係だし、それなりに感情移入もしてしまっている。
 ――まぁ、いい。ちょっと玄関で話をして、手渡して帰ろう。
 あ、まてよ。
 その前に電話した方がいいのだろうか。なんの連絡もなしにいきなり自宅に来られたら、私だって嫌だし、引く。
 エントランスの手前で足をとめ、バックから携帯を取り出そうとしたその時だった。
「見送りなんていいのに。熱、あるんでしょ」
「いいって。早く降りろよ」
 聞き覚えのある二つの声が、すぐ頭上で聞こえた。
 一瞬、何が起きているのか判らなかった。
 それが分かった時には、もう遅く、立ちすくむ明凛の前に、二つの人影が現れる。目の前の階段から、降りてきたのだ。
 先に驚いたように目を見開いたのは、臨時職員の小原麻里子の方で、沢村には何が起きているのか、すぐに理解できないようだった。
 麻里子の背後からだるそうに降りてきた沢村には、明凛の姿がすぐに目に入らなかったのかもしれない。
「あ、あーと……、柏原課長さん? もしかして、沢村さんのお見舞いですか?」
 動揺も顕に、麻里子は視線を彷徨わせながら、背後の沢村をふりかえった。
「沢村さんから聞いてないです? 私の友達がこのアパートに住んでて、前からの知り合いだったんです。私と、沢村さん」
 聞いてもいないのにハイテンションでそう言い切った麻里子は、ね、と沢村に相槌を求める。
 いかにも寝起きな風の――寝乱れた髪によれた長袖シャツ、緩めのスウェットズボン姿の沢村は、しばらくぼんやりした後で、「ああ」とか、「まぁ」とか言うようなことを口の中で曖昧に呟いた。
「そう」
 逆に明凛は、ひどく冷静になっていた。
 双方にとって、おそろしく気まずい現場に遭遇してしまった。
 しかしそれは、部下である男が、よりにもよって役所内で夫を持つ女性と不倫関係にあることを知った――という気まずさにすぎない。
 そう、それ以上の気まずさを感じる必要は、私にも目の前の男にもないのだ。
 普段どおりの表情で麻里子を見下ろし、明凛は紙袋を自分の鞄の後ろに回した。
「係の者が心配していたので、ちょっと様子を見に寄っただけです。沢村さん、風邪の具合は?」
「あ、いや……、大したこと、ないっす」
 戸惑った声が、初めて麻里子の背後から返される。その声は低く、少しだけ掠れて聞こえた。
「三ツ浦さんからインフルエンザの検査をすると聞いていたので。明日は、出てこられそう?」
「はい。大丈夫です。……その、病院には、いってないんですけど」
 ところどころ掠れる沢村の声を、明凛は視線を地面に向けたまま聞いていた。
「ただの風邪だと思うんで、……熱も、大したことなかったし」
「そう」
 無感動にうなずき、明凛は再度顔をあげて、二人を見た。
 麻里子の顔は強ばっており、沢村は逆にぼんやりと弛緩して見えた。
 共に今日一日休んだ二人。二人とも独身ならどうということもないが、麻里子は既婚者――しかも配偶者は市の幹部職員である。
 過ちと一言でくくるには、あまりにも愚かすぎる。
 しかも沢村には、事前に忠告までしていたのだ――
 馬鹿じゃないの?
 鞄をつかむ指に、一瞬強い力がこもった。
 色んな意味で、買いかぶりすぎていた。
 こんなにも思慮の浅い、愚かな男だったなんて……。
 急速にこみあげたものを無言で飲み込み、明凛は静かに目礼した。
「じゃあ、私はこれで」
 それでも部下である以上、放ってはおけない。
 墨田局長が気にかけている以上、明日、改めて沢村から事情を聞き取らなければならないだろう。
 冗談ではない。それもまた、私の役目になってしまうのか――。
「ちょ、沢村さん、追いかけなくていいんですか」
 そんな麻里子の声を聞きながら、明凛は憂鬱な足取りで、アパートの敷地を出た。
 
 
 それから、どこをどう通ってバス停までついたのか、明凛には判らなかった。
 沢村は、追いかけてはこなかった。
 まだ、どこか信じられない。
 これが沢村という男の真実だったのだろうか。
 全ては私の買いかぶりで、本当の沢村さんは――
 いずれにしても、どこか特別なものを感じていただけに、今夜の沢村の態度はまるで予想外だった。
 予想外というより、ここまで他人に強い感情を覚えたのは初めてだ。
 それが、いつまでたっても切り替えられないし、切り捨てられない。
 バス停のベンチに腰を下ろした明凛は、両手を額にあてて、うなだれた。
 怒り、失望、――いや、違う。今は、なんともいえないやるせなさで、胸が押しつぶされそうになっている。
 何故?
 判らない。
 まだこの感情が純粋な怒りなら、理解できる。
 何故私は今、こうも辛い、――なんとも形容しがたい、落ち込んだ気持でいるのだろう。
 何も考えたくないし、一歩も動きたくないほどに。
 バスを二本やりすごした明凛は、「あの……」と見知らぬOLに声をかけられ、そこでようやく、膝に置いていた紙袋から液体が漏れだしていることに気がついた。
 ――最低……。
 アイスが完全にとけて、安い包装の中から溶け出してしまっている。
 それがコートやパンツを濡らして、夜目にも鮮やかな白っぽい染みをつけてしまっているのだ。
 当然、紙袋の中のCDも、アイスでベタベタになっている。
 ハンカチでそれを拭いながら、情けなさで笑い出しそうになっていた。
 冗談みたいだ。
 一体自分の人生で、こうも惨めな状況が今まで一度でもあっただろうか。
 この惨めさに比べたら、先日、大明に脅迫されたことなどどうでもいいことにすら思える。
 大明との約束は金曜の夜――つまり明日だ。何も考えずに約束してしまったが、法規係の飲み会と重なっていた。
 まぁ、人生最大の異常事態を前にして、さすがに飲む気にはならないけど。
 ――断らないと……日高さんには、申し訳ないけど。
「…………」
 不意に、眉根の奥が熱くなった。
 なんかもう……泣いたことがないけど、できるものなら、ここで泣いてしまいたい。
 そうしたら、この胸のつかえも取れ、気持が切り替えられるのだろうか。いつものように。
 それでも涙は一滴も出ず、バスが来たので、明凛は背筋を伸ばしてバスに乗り込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。