14
 
 

「おまたせしました」
 目の前に湯気のたつコーヒーが運ばれてくる。
 ドレス姿の美しいウェイトレスに軽く会釈し、明凛は目の前の男に向き直った。
「お元気そうですね」
 実際、元気そうだった。前より多少は太ったのかもしれない。
 市内一の高さを誇る高級ホテルの最上階にあるラウンジバー。
 ここは、目の前に座る男の父親が経営している系列ホテルだ。
 会員制のバーには、一見の客は入れない。そんな中、地味なブラックスーツに身を包み、コーヒーだけをオーダーした明凛は、少しばかり浮いた存在になっていた。
「おかげさまで。整形手術も無事終わりましてね」
 大明拓哉は、唇を歪ませて笑うと、シャンパングラスをつきだした。
 その歪みは、手術の後遺症ではなく、生来のものだろう。
「まぁ、ひどい目にあいましたよ。弁護士に聞きましたが、あなたは、お怪我などはなかったようで」
「怪我ならその前にしていますから」
「ほう、そうでしたか」
「ええ。診断書もとってあります」
 極めて事務的に明凛は言った。
 大明拓哉――
 昨年の終わり頃、一度だけ2人で会い、その時強姦まがいの真似をされた。
 そこに沢村が割り込んできて、大明を殺しかねない勢いで殴打したのだ。
 結果、全治二ヶ月の重症を負った大明とは、以来、一切連絡がとれなくなった。
 明凛の方から連絡しようにも、完全に門前払いで、弁護士を通じてでしか、見舞いも渡せない状況だったのだ。
 その大明から、今日、いきなり役所に電話がかかってきた。
 しかも、あり得ない偽名を使って――
「どういうことですか」
 コーヒーを一口飲んでから、明凛は言った。
「どういうこととは?」
「伝言を頼んだ者に、どうして本当の名前を名乗らずに」
 そこで言葉を切り、明凛は微かに眉根を寄せた。
「妹の配偶者の名前を言ったのでしょう。ご承知の上で使われたのでしょうが、藤崎直斗は、私の妹の夫です」
 その奇妙さだけを除けば、大明の用件は察しがついた。
 いつかは判ることだと覚悟していたが、沢村の存在に気づいたのだ――多分。
 そうでなければ、今まで事件の発覚を恐れて逃げ回っていた男が、いきなり獲物を捕えたような態度で、明凛を舐め回すように見るはずがない。
 大明は、肩をすくめてにやっと笑った。
「藤崎直斗さん。妹さんのご亭主であり、柏原さんには十数年来のご友人ですか。てっきり、砕けた口調で電話してくると思っていたのですが、最初から相手が僕だと判っていたようですね」
「残念なことに、大抵の電話番号は記憶してしまう性質なんです。特に大明さんには、何度かこちらからお掛けしましたから」
「へぇ……」
 それには、大明はやや鼻白んだようだった。しかし彼は、すぐに気をとり直したように唇を広げて笑った。
「それはそれは、あてが外れて残念でした。僕としては一度でいいから柏原さんの艶っぽい声を聞きたくて。それであんな真似をしたのですがね」
「……おっしゃる意味がわかりませんが」
「だって、恋人なんでしょう? 藤崎直斗さんと柏原さんは」
「妹の配偶者だと、最初に説明しませんでしたか?」
「では、不倫の御関係だと。それはそれは、由々しき問題ですねぇ」
「…………」
 明凛は眉を寄せて立ち上がった。
「酔っておられるなら、お暇してもよろしいですか。申し訳ありませんが、後は弁護士を通してお話しましょう」
 ばさっと、テーブルの上に、大明が何かをばらまいた。
 それは明凛の足元にも散らばり、一枚は床を滑って他のテーブルの近くにまで飛んでいった。
「拾ったほうがいいですよ。大急ぎで」
 悪夢でも見ているような気分で、明凛は言うとおりにした。
「ほう、なかなか、可愛いお尻をしている」
 しゃがみこむと、背後から大明の舐めるような声がした。
「案外、いい身体つきですね。前も思いましたが着痩せする性質で、脱いだら肉付きのいい方でしょう」
 明凛は無言で、拾い上げた写真を机の上に置き直した。
「何処で、こんなものを?」
 冷静に言ったつもりでも、語尾がわずかに震えている。
 あり得ない――二年もたって、何故、こんな写真が出てくるのか。
「もちろん言えません。とある筋からとだけ言っておきます」
 大明は煙草に火をつけると、満足そうに煙を吐き出した。
「僕はね。この数ヶ月、金に糸目をつけずにあなたの過去を洗いざらい調べあげたんですよ。この写真は、その過程で入手したものだと思ってください。まさか堅物のあなたに、こんなスキャンダラスな過去があるとは思わなかった。いや、もしかして現在進行系ですか?」
「………」
「黙秘ですか。いいでしょう。僕が入手した情報によると、あなたはこの春めでたく本省に戻ることが内定し、藤崎直斗氏もまた、空自のエリート街道を着実に走っている。紆余曲折を経た2人が、苦労した挙句、ようやく出世を遂げようとしているわけだ。そこにこの写真が出てくる――どうなると思いますか」
「どうにもならないと思いますが」
「そうでしょうか? 僕はどういう手段を使っても、この写真をあなた方の上司――人事権を握る幹部職員の目に触れさせずにはいられませんよ。僕ほどの人脈があれば、それは極めて容易いことなのですがね」
「…………」
 明凛は黙って、考えていた。
 大明の言葉は、殆ど頭に入っては来なかった。ただ考えていた。この写真が、この世に存在する意味。それを大明が手にしている意味を――。
 それは、ひとつしか考えられない。
「何が、望みなのでしょう」
 明凛は、虚ろな気持で聞いた。
 大明は含んだように笑い、もったいぶって煙草を灰皿に押し付けた。
「あなたのプライド、尊厳といってもいい。そういったものの全てです。あの日僕が、あなたの可愛い恋人によってズタズタにされたもの、全てですよ」
「沢村さんは、この際無関係でしょう」
「そういうことにしてもいい。それはあなたの態度次第です」
「………」
 うつむいたまま、明凛は笑った。
「そして写真のデータと引き換えとでも言うんですか。そんな口約束を信じるほ私は馬鹿じゃないですよ。なにもかも大明さんの意思ひとつでひっくり返る。つまり私はいつまでも、あなたの言いなりというわけですね」
「ま、いずれは飽きますよ。僕は一人の女性に拘泥する性質じゃないので」
 大明は鼻白んだように肩をすくめた。
「ただひと通り、僕の友人たちの相手もしていただきますけどね。最初にも言いましたが、僕の目的は、あくまであなたの尊厳を壊すことなので」
「…………」
「言っておきますが、僕を舐めない方がいい。もう、昔の僕じゃあないんです。はっきり言えばこの怪我のおかげで何もかも変わった。会社の取締役からも解任されて、親父からの援助もなくなった。――まぁ、おかげで別の商売をはじめましたがね。それにしても、僕がどれだけ、あなたとその恋人を恨んでいるか判るでしょう」
「…………」
 そう――
 そういうことだったの。
 明凛は眉から力を抜き、顔をあげた。
「わかりました」
「は?」
 と、逆に大明が訝しげに眉をあげる。
「わかったと――いうのはどういう意味で」
「本当に水に流してくれるんですね? いえ、あなたはどうでもいいです。今私は、あなたにこの写真を渡した人物のことを言っています」
 大明が、言葉に窮したように口ごもる。その反応だけで、明凛には十分だった。
「いつですか? 今?」
「え、いや、今と言われても」
「その人が、本当に水に流してくれるなら、構いません。大明さんの言うとおりにします」
 



 ――うっせぇなぁ……。
 玄関のチャイムが、いやにしつこく鳴っている。
 うとうとしていた沢村は、腕枕を外して、ごろり、と身体の向きを変えた。
 どうせ勧誘か集金だろうが、こんな時間に非常識だっつーの。
 重い体を無理矢理起こして、ぼさぼさに乱れた髪に指を入れる。全身に寒気がした。テレビは深夜枠のバラエティ。暖房のスイッチは入っていない。
風呂あがりに、シャツ一枚で缶ビールを飲んで、気づけば眠っていたらしい。やべー、絶対風邪ひくパターンだ。これ。
「…………」
 のろのろと身体を起こした沢村は、卓上のビール缶を持ち上げた。
 五本目に開けた缶の、生ぬるい残りを、乾いた喉に注ぎ込む。耳にはまだ、数時間前に聞いた嫌な声が刺々しく残っていた。
(お姉ちゃん、今直斗と二人で会ってるよ)
「…………」
 手の平の中で缶が潰れる。
(私と直斗、別れるの。そしてお姉ちゃんと直斗が最初からやり直すってわけ。少なくとも直斗はそのつもり。二年前の嘘もばれちゃったし、もうね、私が何をどう邪魔しても無駄なんだって。お姉ちゃんを無理にでも退職させて、アメリカに連れて行くんだって)
 てか、信じられるかよ。
 あの紫凛が――異常なまでに姉を憎み続けた紫凛が、今になって、あっさり身を退くだと?
 紫凛のことだ。絶対に何か、企んでいるに違いない。
 でもそこに、……俺が口を出すべきなのだろうか?
(もちろん、烈士が、恋人としてお姉ちゃん止めるのは有りだけどね。本当に、お姉ちゃんの恋人なら)
(てか、そうやって何もかも目茶苦茶にしてくれた方が、むしろ私は面白いんだけど。フフフ)
 沈黙していたチャイムが、再び鳴ったのはその時だった。
 思考をかき乱され、沢村はガバッと跳ね起きる。
「ああ、ああ、なんだよ、一体」
 新聞の勧誘だったら叩き返してやる。そう思いながら、鍵を外し、勢い良く扉を開けた。思いの外下に来訪者の頭がある。そして、香水のきつい匂い。
「こんばんはー」
「…………」
 沢村は、唇に挟んだ煙草を落としそうになっていた。
 え、なんだ、こいつ。
「え、もしかして、まずかったです?」
 上目遣いに沢村を見上げ、女はぺろっと舌を出した。
「だって、沢村さん。今フリーだって言ってたから」
「いや、まずくはないけど」
 沢村は再度瞬きして、目の前に立つ女を見下ろした。てか……。
「なんで?」
「だってこないだ、住所、教えてくれたじゃないですか」
 けろっとした口調で言って、小原麻里子は首をかしげる。
 いや、それは聞かれたから答えただけで。
「しかも私、話があるって言いましたよね。沢村さん、聞いてやるって言ったじゃないですか」
「まぁ、言いはしたけど」
 来ねぇだろ、普通。こんな夜遅くに人妻が。
「この近くのお店で、お友達と女子会やってたんです。近くに沢村さんの部屋があるって思いだして」
 黒のハーフコートにマイクロミニのスカート。形のいい腿が剥き出しだ。
「ケーキ買ってきたんで、ちょっとあげてもらってもいいですか?」
「いいか悪いかって聞かれたら、悪いけど」
「えー、なんですか、それ」
 くすくすと楽しそうに麻里子は笑った。
「とにかく、あげてくださいよ」
「だめ」
「なんでー?」
「だって、あげちゃったら、やっちゃうでしょ」
 剥き出しの脚に、ニットで強調された胸。顔もスタイルも抜群な女に、こうもあからさまに誘惑されたら。
 麻里子がわずかに、頬のあたりを赤くするのが判った。
「じゃあ、いいじゃないですか。私だって、そのつもりで来たんだし」
「だって俺、不倫とか重いの、ダメだもん」
「うっそ、意外に真面目。だから真面目な課長さんとつきあってるんですか」
 かすめた動揺を、沢村は鼻で笑い飛ばした。
「好きだけど、片思いだって言わなかったっけ」
「いいですよ。隠さなくても。これで全て合点がいきました。綾森課長の秘密を聞き出せって、それ、全部柏原課長の命令だったわけですね。女同士ってこわーい」
「……誤解だし」
 溜息をついて、沢村は言った。
「俺が勝手にやってるって言わなかった?」
「でも、綾森さんは、そうは取らないかもしれないですよ」
 知るかよ。あの女狐が何をどう解釈しようが。
「実は私、今度は綾森課長に頼まれちゃったんですよね。柏原課長の弱みを、なんでもいいから探ってきてくれって」
「…………」
「どうしようかなー、言っちゃおうかなー」
 ああ、めんどくせぇな。こいつ。
 沢村は髪をかきあげてから、扉を大きく開けた。
「判ったよ。中で話そう」
「おっじゃましまーす」
 すっと入ってきた麻里子が、いきなり腰に抱きついてきた。
「おい、早いって」
「だって、寒いんだもん。いいですよ。ここでしてあげても」
「バーカ、俺が風邪引くだろ」
 ま、いっか。
 ひどく冷めた気持ちで、沢村は女を見下ろした。
 ずっと女とはご無沙汰だったし。こいつ、結構美味そうだし。
「なにこれ、クラッシック? あ、知ってる。リストですよね」
 ふと気づくと、部屋にあがりこんだ麻里子が、卓上のCDを取り上げている。
「――おい、触んな」
 その一瞬だけ血相を変えて、沢村は女の手からCDを取り戻していた。
 さすがに面白くなかったのか、麻里子は白い頬をふくらませる。
「ふぅん。もしかして課長さんに借りたんですか。クラッシックとか、趣味まで厭味な人ですねぇ」
「これは、違う」
「え?」
「いいよ。セックスしに来たんだろ。そっちの部屋行って、とっとと脱げよ」
 もう、いい。
 そう思いながら、沢村は女に背を向けてシャツを脱いだ。
(私、昔……すごく好きだった人がいて)
(あの時ほど、私は誰かを好きにはなれない。結局私は、この先誰も好きにはなれないんだって。……多分、沢村さんのことも、本当の意味で好きにはなれないと思う)
 本当の意味もなにも、目があっただけでも、俺にとっては奇蹟だった。
 元々関わってはいけない人だった。
 存在自体、俺とはつりあわない人だった。
(沢村さんを傷つける前に、やめたほうがいいと思う。……ごめんなさい)
 あんな真面目で――透き通るくらい純情な人を、傷つけたくないのは俺の方だ。
 もう、いい。
 あり得ない夢は、今夜できれいさっぱり忘れよう。
 せめてあの人の幸福の邪魔にならないところで――ただ、見守ることができれば――もう、俺には、それだけでいい……。

 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。