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「え、じゃあ、CD、ずっと机の中にあったんですか」
 ふと思い出した明凛がクラッシックCDのことを切り出すと、運転席の沢村はひどく驚いた声を出した。
「それは……言ってくれればよかったのに」
「沢村さん、忘れていると思ったから」
 1月の後半。7時前とはいえ、もう景色は夜の帳に覆われている。
 片側一車線しかない国道は渋滞で、赤いテールランプの列が延々先まで続いている。沢村の運転する公用車の助手席で、明凛は腕時計に視線をやった。
 8時には帰庁できると踏んでいたが、この分ではもう少し遅くなりそうだ。
「ひどく混むのね」
「この時間は、いつもそうです」
「よく通るの?」
「そうっすね」
 曖昧に答え、沢村は視線を左の方に巡らせた。
「ちょっと回り道しましょうか。その方が早いかもしれない」
 言うなりハンドルを切って、左側の山道の方に車を向ける。
 今日は午後から、北区の道路パトロール候補地を視察に行った。今はその帰途である。
 明凛は黙ったまま、黄昏の空に視線を向けた。
 今朝方見た夢が、まだ苦く胸に澱んでいる。
 ひどく疲れて憂鬱な気分だった。こういう時、友人か恋人でもいれば、飲みに誘うのだろうけど、生憎そんな相手もいない。
 残業しよう、と明凛は思った。
 多分それが、私には一番適したストレス解消法だ。
「ちょっと、休憩してもいいですか」
 不意に、沢村が呟いた。
「……運転?」
 振り仰いだ明凛に、沢村は片頬だけで微かに笑った。
「この先に自販機あるんで、コーヒー、買ってきます」
「それはいいけど、疲れているのなら私が運転を代わろうか」
「いや、ちょっと休めば大丈夫なんで」
 気づけば車は峠道を走っている。
 左側はきりたった崖と木々に覆われ、右側には工事現場が開けている。思い出した。この辺りは民間が手がけている新たな住宅造成地だ。もう作業時間は終わったのか、重機が連なる広大な工事現場に人影は見えない。
 暗い闇の中、車が停まった。
 ――え、まさか。
 ものも言わずに沢村がシートベルトを外したので、咄嗟に身を固くする。
 が、沢村は明凛の方など一顧だにせず、黙って車を降りてしまった。
 フロントガラス。彼の背が行く先に、ほのかな光の輪が見える。
 そこは、道路脇のちょっとした休憩所のようで、小さなコンクリの建屋がうっすらと見えた。
 明凛は、おかしな緊張をした自分に失笑したくなった。
 全く――意識しすぎている。
 4日間の視察の間、沢村が出すぎた真似をしたことは一度もなかった。
 彼にとって、たかだか二度のキスは、さほどのことでもないのだろうし、その割り切りの良さは、明凛にとってもありがたいはずなのだ。
 それでも今朝、改めて思い知らされたことがある。
 私は、結局のところ、誰とも恋愛なんてできない――
 コンコン、と、不意に助手席側の窓ガラスがノックされた。
 明凛は、驚きながらウィンドウを少し下げる。
「どうしたの」
「ちょっと、外、出ませんか」
 え……?
 沢村は笑っている。その吐く息が白い。
 戸惑いつつも、シートベルトを外して外に出ると、いきなり寒風が吹き付けてきた。
 あまり暖房のききがいいとは言えない車内で、沢村も明凛も、技師用の防寒着を身に着けていた。それでも、凍えるほどに外は寒い。
「何かあった?」
「そんなんじゃないっすけど」
 はにかんだように笑う沢村が、そっと手を差し出した。紙コップに入ったコーヒーが明凛に手渡される。
「……ありがとう」
 なんだろう。ドキドキする。
 よく判らないけど、胸が――風に揺らめく木の葉のように落ち着かなくなる。
「今日、なんかありました?」
「え?」
「気のせいだったらいいけど、いつもより、疲れてるような気がしたから」
「………」
 言葉に窮していると、不意に肩を抱かれ、驚く間もなく体の向きを変えさせられた。
「こっち」
「え、何?」
 半ば動転する明凛の前に、思いもよらなかった光景が広がる。
 山道と工事現場しかないと思っていた場所に――視線を少し下げ、崖の下を見下ろせば、そこには燦然と輝く街の灯りが、海に映る星屑のように広がっていた。
「ベタっすね」
「……そうね」
 その光景の美しさとは別に、沢村に両肩を抱かれていることの動揺が、まだ残照のような尾を引いている。
 彼は、私をここに連れてきたくて寄り道してくれたのだ。
 それは、私がひどく疲れて見えたからだろうか。それとも……
「……もしかして、有名なデートスポットとか?」
「そんなところです」
 どうして、そんな場所に私を?
 口にしかけた言葉を、明凛は黙って飲み込んだ。
 今は、先のことは何も考えずに、彼の優しい気遣いを受け入れたい。
「綺麗ね」
「ですね」
 まだ沢村の手は、明凛の肩に置かれている。それが不快でないと知らせたくて、明凛は自分の重心を心持ち背後に傾け、そっとコーヒーに唇をつけた。
 
 
 
「そういや昼前に日高につかまったんですけど」
「日高さんに?」
 横目で振り仰ぐと、男がわずかに顎を引くのが判った。
 まだ彼の手は、明凛の肩を抱いている。唇に目がいき、少し胸の下がきゅっとなった。
 不思議だ。沢村さんはどうして、この状況で平然と話し続けているのだろう。これも経験値の差だろうか。
 淡々とした口調で沢村は続ける。
「来週末、法規係の有志で課長の送別会をするんだって言ってました。だから課長を、その日だけは早く帰してくれって」
 ああ、その話……。
「断ったんだけど」
「みたいですね。でも日高はやるって言ってましたよ」
 異動になったといっても、課が隣のフロアに移っただけ。
 年度末を控えた忙しい時期、法務係の皆を煩わせるのも気がひける。
 そう言って何度も辞退してきたのだが、ついに先週「課長が来られなくても、とりあえず店予約してみんなで待ってますから」と言われてしまった。
 明凛は軽く溜息をついた。
「彼女、ああも強引な子だったかしら」
「日高は、行動力だけはありますよ」
 あっさりと肯定され、少し意外な感にとらわれる。
 今まで気にしたこともなかったけど、沢村さんと日高さんは親しい間柄だったのだろうか。
「ただ後先考えないんで、氷室さんがいつも尻拭いに奔走してた印象がありますけど。恋愛の優先権がどっちにあって、どっちが振り回されてたかって言ったら、あの二人の場合、完全に氷室さんが振り回されてたんじゃねぇかな」
「……そう?」
 明凛は思わず瞬きしていた。「私は逆だと……こんないい方はあれだけど、日高さんは一途で、氷室課長は……少し、奔放なところがおありだから」
「表向き、そんな構図で通してるところが、日高のずるいとこなんですよ」
 そういう沢村が背後で少し笑っているのが分かった。
「あいつ、見かけは地味で目立たないのに、案外もてるんじゃねぇかな。天性のたらしっていうか。以前飲んだ時に同性の友達があんまいないって聞いて、ああ、やっぱりなって思ったんですよ」
「どういうこと」
「自然に敬遠されてんじゃないっすか。なんとなくだけど、――男からするとほっとけないタイプっていうか、ついつい絡んじゃうタイプでしょ」
 なるほど。
 それは確かに頷ける。
 明凛が男だとしたら、やはり彼女を放ってはおけなかっただろうと思うからだ。
「まぁ、恋愛にかけちゃ相当な強者ですよ。なんだかんだいって、市役所一のモテ男の心をがっちり掴んでんだから」
「………」
 市役所一のモテ男か。
 でも、その氷室さんは消えてしまった。
 自分の痕跡を、多分一切残さずに。
「日高さんは、元気なの」
「心配なら、来週末は是非とも、行ってやってください」
「…………」
 結局は、そこに誘導されている。
 思わず眉をあげた明凛は、一拍の後苦笑していた。
「誘導上手なのね」
「どういう意味っすか」
「ううん。わからないなら、いい」 
 今、ここにこうしていることも、結局はうまく誘導されたのだ。
 遊び慣れている。――そうだ、私は恋愛初心者も同然で、この人は幾つもの恋を、服を着がえるより安易に移り継いできたのだから。 
 そうして私に興味をもった。彼の言葉を借りれば今までにないタイプだったから。
 そんな軽薄な言葉を聞いても、なにひとつ胸が痛まなかったのは、私自身がそもそも、愛を真剣に語れる人間ではないからだ。
「そろそろ、戻りましょうか」
「……そうね」
 それきり、互いに無言になる。
 沢村が動かない理由は判っても、同じように自分が動かない理由は判らなかった。
 背中から伝わる温もりや、肩に置かれた手の暖かさが、不思議なくらい心地いい理由も。
「沢村さん」
 一呼吸、飲み込んでから、明凛は言った。
 それでもここで、終わりにしなければならない。
 そもそも終わらせるほどの関係でもなかったけれど。
「私の行き過ぎた心配だったら、ごめんなさい。あなたとは、色んなことがあったし、今も、こうして二人でいるんだけど……」
 そしてこうしていることが、私には少しも嫌じゃないんだけど。
「私、昔……すごく好きだった人がいて」
 それきり言葉が出てこなくなった。背後の沢村は黙っている。
「おかしな話なんだけど、新しい恋愛を始めようとすると、決まってその人との、一番楽しかった頃の夢を見るの。まるで今の恋と比較するみたいに。――おかしいでしょ」
「……そうっすね」
「それで、気づくの。あの時ほど、私は誰かを好きにはなれない。結局私は、この先誰も好きにはなれないんだって。……多分、沢村さんのことも、本当の意味で好きにはなれないと思う」
「…………」
「沢村さんを傷つける前に、やめたほうがいいと思う。……ごめんなさい」
「…………」
 ふっと背中から手が離れる。全く矛盾した感情だが、明凛は大切な何かを唐突に失ったような寂しさを感じた。自分から、それを言い出したくせに。
「まさかと思うけど、今日一日、それで暗い顔してたんですか」
 が、沢村の声は予想に反して呆れていた。
 明凛は数度瞬きをする。
「あの――ちょっと誤解されてるっていうか。俺、別に、なんつーか、……課長に好きになってほしいとか、そういうの、全く期待してないんで」
「……私の勘違いだったら」
「いや、勘違いっつーか。そっちは勘違いじゃなくて。俺、確かに課長が好きなんですけど」
 闇の中、明凛は頬を熱くしていた。
「……でも、課長に好きになってほしいって思うほど、図々しくはないっすから。そのあたりは、……無理なことは分かってるし」
「無理って、何が?」
「そりゃ、色んなことが。学歴とか立場とか、全部ですよ」
「そういうの、私は気にしたことがないけど」
「………それでも、違うじゃないっすか」
 沢村の声は、少しだけ戸惑って聞こえた。
「だいたい俺……。そういう意味じゃ、俺も全然真剣じゃないし。たとえばだけど、先のことまで考えてるかっていえば、なんにも考えないですから」
「さきのこと?」
「……結婚とか。正直、誰と恋愛したって、俺、結婚はしないと思うから」
「……どうして?」
「さぁ、考えたこともないけど」
 唇が微かな苦笑を浮かべた。
「あんま、まともな家で育ってねぇからかな。愛について、課長みたいに真面目に考えたことすらないんです。だからそんな俺に、謝らなくてもいいですよ」
「……恋愛は、遊び?」
「そういう、言い方になるのかな。俺、誰に対してもそうなんで」
「………」
「課長のことも、本気で好きかって言われたら、よく判んないです。好きになった先に、何があるのかも判らないし。そういうの、真剣に考えたこともないんで」
「……そう」
 その意味をしばらく考えた明凛は、やがて拍子抜けしたように苦笑していた。よく判らないが、振るつもりが振られた――といったところだろうか。
 じゃあ、このままでいいのだろうか。
 そのまま、この心地いい関係に、甘えてしまってもいいのだろうか。
「なに、笑ってるんですか」
「だって、おかしいから」
「怒んないんですか」
「むしろ、沢村さんの正直さに驚いてる」
「それは、お互いだと思いますけど」
「……このままでいい?」
「……このままって?」
「時々、こうやって一緒にいられたら、いいかなって思うんだけど」
 闇の中、沢村が一時黙りこむのが判った。
「俺的には、肩抱くくらいじゃ済まなくなりそうですけど」
「…………」
「逃げないんですか」
 肩を抱き寄せられ、少し身体の位置をずらした沢村が、身をかがめるようにして顔を近づけてきた。
 明凛は自分も顎をあげ、彼のキスをごく自然に受け入れた。
 微かに触れて、唇はすぐに離れる。驚くくらい、デリケートなキスだった。頬に、おずおずと手が当てられる。
 胸が痛み、予想以上に動悸がした。
 指先から、彼のためらいや不安が伝わってくる。想像していたような余裕は、キスからは一欠片も感じられない。むしろ怯える子供を抱きしめたいような衝動に駆られ、明凛はそっと沢村の目を見上げていた。
「……鼻が冷たい」
「そうっすね」
 ようやく沢村の唇にも微笑が浮かぶ。
 その微笑はすぐに消え、もう一度唇がかぶさってきた。同時に抱きすくめられ、息もできなくなる。
 長いキスには、今までにない危険な熱があった。それが不思議に、胸底の何かをかきたてて熱くさせる。これ以上はよくない。止めなければ。と思っても、心の底では、それとはまるで逆のことを考えている。
 ずっと、こうしていたい。
 このままずっと、沢村さんとこうしていたい――

 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。