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「実に見事だ。柏原君」
 入室した早々から、墨田局長は上機嫌だった。
「あれだけごねていた区の連中を、ものの一週間でまとめあげるとは。君の管理能力の高さには全く脱帽、の一言だよ」
「おそれいります」
 局長室。報告に入った明凛は、丁寧に頭を下げた。
「その件では、まことにご迷惑をおかけしました」
 区の課長連中が、本庁案の全てを飲むことでまとまったのは、週明け早々のことだった。
 様々な要求がつきつけられはしたが、概ね計画通りの事業執行が約束された。この急転直下の大団円は、明凛に言わせれば全て一人の男の尽力の賜物だと言える。
「今だから言うがね。あの連中は、我々に頭を下げさせたいのだ。失策を認め、その尻拭いをお願いしますと、土下座のひとつでもしてほしかったんだよ」
 苦く笑んで、墨田は疲れたような息を吐いた。
「まさか国から来た君に、そんな泥は被せられまい。私は最初から、これは阿古屋君の仕事だろうと思っていた。どうもそのあたり、君と阿古屋君の意思疎通がとれなかったばかりにトラブルになってしまったようだね」
 それは確かに、明凛自身の失策といえた。
 最初から謝ろうと進言した阿古屋の案を、けんもほろろにはねのけてしまった。以来、阿古屋は萎縮し、そんな阿古屋を明凛もまた軽視するようになり、墨田の言うとおり、2人の意思疎通は絶望的に途切れてしまったのだ。
「今回のことも、阿古屋補佐の助言を得て、のことですので」
 そこで明凛は言葉を切った。
「それから担当職員が、時間外に区役所に足を運んで、内実を説明してくれたことも大きかったと思います。こちらが区の事情に疎いように、区役所もこちら側の事情が分かりませんから」
「ほう、それは中村君かね、宮田君かね」
「沢村さんです」
 一瞬意外そうに眉をあげた墨田はすぐにその目に、人のよさそうな笑みを滲ませた。
「それは、胸に納めておこう。まだ若いが頭は切れると、氷室君も彼のことは褒めていたよ」
「ありがとうございます」
 これは、公平な進言だ、と、一礼して背を向けながら明凛は思った。
 余計な感情を交えたつもりはない。沢村さんはもっと評価されてしかるべきだ。そうか、氷室さんもそう思っていたのか。なんだか少し安心する。
「それと、柏原君」
「はい」
 振り返ると、墨田局長も立ち上がっていた。
「まだオフレコだが、4月からの住居を、考えておいたほうがいい」
「は?」
 4月からの住居?
「と、申しますと」
 訝しむ明凛を、墨田は優しい笑顔で見つめた。
「では藤家さんは、何も言わずに君を送り出したのだね。内々にだが、来春、君は古巣に呼び戻されることになるということだ」
 古巣……。
 それは東京、霞ヶ関の総務省だ。
 さすがに驚きが顔に出ていた。1月にこのような形で異動させられた以上、4月異動だけはないと踏んでいたからだ。
「君はこの市役所で、実にいい実績を最後に積んだ。今回の道路局の統廃合は、全国に先立ったテストケースで、地方自治のあり方のよきリードケースになるはずだ。君には不本意だったろうが、君を氷室君の後任に据えたのは、藤家さんの思いやりなんだよ」
「…………」
「霞ヶ関は、厳しい世界だと聞いている。君は優秀だ。頑張りなさい」
 
 
 落ち着いて一礼しながら、明凛は胸が浮き立つのを抑えきれなかった。
 決して浮かれ上がっているのではない。いわば、武者震いというものなのかもしれない。
 ――もう一度、東京に戻れる。
 やってみたい仕事は山のようにある。諦めてはいたが、実際に地方自治体で仕事をしてみて、その経験を国に持ち帰りたいと思ったことがどれくらいあったろう。
 もう二度と戻れないと思っていた。信じられない。閉ざされていたとばかり思っていた扉は、気づけば開かれていたのだ――
「あ、ほ――課長」
 局長室を出ると、廊下の方から懐かしい声がかけられた。
 視線を向けると、カウンターの向こうで、日高成美がぺこりと頭を下げている。
 いつもと同じどこか幼さの残る笑顔は、昨年より心持ちシャープになったように見えた。
「どうしたの」
「さっきまで、そちらの宮田さんと協議で……あの、今週の金曜日、大丈夫って本当ですか?」
 今週の金曜日。
 表情は動かさないまま、明凛は小さく嘆息した。
「もしかして、沢村さんから聞いた?」
「は、はい。あの人のことだから、私をからかったんじゃないかと思って」
 全く余計なことを――
 しかし一瞬の後、明凛は静かに微笑していた。
「今日にでも、私から電話しようと思っていたの。お誘いありがとう。少し遅くなるかもしれないけど、参加させていただきます」
「えっ……」
 怯えた栗鼠みたいな成美の目に、みるみる生気が広がっていく。
「ほ、本当ですか」
「生憎、冗談は言えない性質よ」
 ちなみに通じない性質でもある。
「……はい。一度、聞いてみたいですけど」
 少し目を潤ませて、成美は大きく頭を下げた。
「ありがとうございますっ。みんなも喜ぶと思います」
「こちらこそ、ありがとう」
 明凛が微笑むと、顔をあげた成美は、一時呆けたような目になった。
「どうしたの?」
「あ、……いえ、なんだか課長の雰囲気が……」
 雰囲気?
「随分優しくなった気がして。……今も、なんだか別の人みたいだったから」
「…………」
「あっ、す、すみません。余計なことでした。じゃあ週末、色々お話、聞かせてください!」
 数秒、その場に立ちすくんだ明凛は、なにげない素振りで廊下に出て、その足でサニタリーに駆け込んだ。
 え?
 雰囲気が変わったって、どのあたりが?
 鏡に映る自分の目が動揺している。
 まるで変わってないと思うんだけど――どのあたりが?
 
 
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「そりゃ、ちょっとまずいっすね」
 話を聞き終えた沢村は、即座にそう言って顎のあたりに手をあてた。
「まずいって、何が」
 5時すぎの15階。自販機に囲まれたオープンフロアの休憩室。
 先週、ここで持ってきたクラッシックのCDを渡し、今日はそれを返された。
 役所で2人になるのはどうかと思ったが、ここなら大丈夫と沢村に言われた。
 実際、休憩室は電気もつかない有様で、職員の出入りは殆どないようだ。
「いや、日高みたいなおそろしく鈍い奴に、そこまで読まれるってことが」
「……どういう意味?」
 明凛は首をかしげていた。
 つまり私は、自分でも気づかない内に雰囲気が変わってしまったということ?
 それを確かめたくて話したのに、沢村の感心事はそっちにはないようである。
 立ち上がった沢村は、自販機の前に立ってコインを入れた。
「他の奴が、そういう目であんたを見るの、ちょっと嫌なんで、俺」
「はい?」
 言われている意味が、いまひとつ分からないんですけど。
 自販機に背を預け、ペーパーカップのコーヒーに口をつけながら、ぼそり、と沢村は呟いた。
「……その日、法規係の飲みの日っすけど、迎えに行ってもいいっすか」
「お断りします」
「……ですよね」
 どうでもいいけど、さっきから、まるで恋人気取りじゃない。
 そういうの、私は許した覚えはないんですけど。
 ないん、ですけど……。
 明凛はちらっと、上目遣いに沢村を見た。
 実際、こんな風に人目を忍んで会う約束を交わしている事自体、もう、そういう関係に足を踏み入れかけているのかな、という気もする。
「じゃ、そろそろ俺、戻るんで」
 空になったペーパーカップをダストボックスに投げ入れると、沢村は髪に指を差し入れた。
「CD、ありがとうございます。また、明日ここで返しますんで」
「もう少しゆっくりでもいいのに」
 今日貸して翌日返されるなんて、本当に聴く気があるの?と、逆に疑心を感じてしまう。
 しかし沢村は、さも意外そうに眉をあげた。
「ゆっくりも何も、パソコンに音入れたらそれで終わりだし」
「え?」
「え? 逆にそういうの、しない人ですか」
「…………」
 悪かったわね。超アナログ人間で。
 実は家では、お気に入りのアルバムはレコードで聴いていると言ったらどう思われるかしら。
「じゃあ、まとめて渡してもよかったわけね」
「いや、そしたら会う口実なくなるでしょ」
 そういうことを真顔で言われても、困る。
 しかし閉口して見上げた沢村の横顔は、すこしだけ寂しげに見えた。
「あんた真面目だから、理由もなく俺に会ったりしないでしょ。……毎日じゃなくていいんで、今みたいに2、3枚ずつ貸してください。俺、ちゃんと聴いてるんで」
「…………」
「おかげでよく眠れてるし」
 それは、ちゃんと聴いているとは言わないのでは……。
 けれど、小さく会釈した沢村が背を向けた時、明凛はつい呼びかけていた。
「沢村さん」
「はい」
 少し驚いたように、沢村が足を止める。
 明凛は自分の頬が少しだけ熱を帯びるのを感じた。
「金曜だけど、迎えにこなくていいけど、……前行ったコーヒーショップに寄って帰るかもしれないから」
「…………」
「それだけ。……じゃあ」
「…………」
 視線を下げて歩き出した明凛は、呆然と立つ沢村の傍を急ぎ足ですり抜けた。
 
 
「課長、外線が入ったので、デスクにメモを置いてありますから」
「ありがとう」
 席に戻った明凛は、しばらく興奮を冷ますように、頬に手を当てていた。
 今の、おかしいと思われなかったかしら。
 あんなぎこちない言い方をしなくても、もっとスマートに言えばよかった。とりあえず、2人で会う、という点においては互いに合意しているのだから。
 そんな気は一欠片もなかったのに、衝動的に誘ってしまった。
 いや、誘うだけの理由はある。
 話をしなくてはならないからだ。
 4月からのこと――もちろん、どうなるか判らない人事異動のことは口が裂けてもいえないが、本省に戻る可能性がある程度のことは、打ち明けてもいいかもしれない。
 沢村に過去の恋を打ち明けた夜から、憑き物が落ちたみたいに直斗の夢を見なくなった。
 もしかすると、大丈夫なのかもしれない。
 初めて手を重ねた時にもそう思った。理由は判らないけど、今までの人と彼は違う。
 沢村さんとなら……もしかしたら――
「課長、頼まれてた資料、今メールで送ったんで、後で見てもらえますか」
 中村の声で、明凛はようやく我にかえった。
 いけない。今は仕事に集中しよう。
「待って。今見るから」
 パソコンを開こうとして、ふと視線がデスクに張り付いた付箋紙に止まる。ああ、そういえば外線が入ったと言われたっけ。
 何気なく付箋をはがして取り上げた明凛は、そこで表情を止めていた。
 
 
 
「みーちゃった」
 エレベーターホールで、いきなり声をかけられて、ぼんやりしていた沢村は少し面食らって振り返った。
 背後に立っていたのは、総務課の臨時職員、小原麻里子である。
 言葉が出ない沢村を見上げ、麻里子はちろっと舌を出した。
「まさかまさかのお2人でしたね。課長さんとおつきあいしてるんですか」
「……そんなんじゃねぇけど」
「いきなり仏頂面しても、もう無駄です。もしかしてデートの約束でも取り付けたんですか。すっごい幸せそうな顔しちゃってさ」
 動揺を急いで飲み込み、そっけなく沢村は視線を下げた。  
「てか、こんな時間に何してんの」
 7時前。臨時職員が庁内に残っていい時間ではない。
 麻里子は不服そうに肩をすくめ、いきなり距離を詰めてきた。胸の先が触れるほどの近さには、沢村が一歩引いている。
「今日は7時から観光局の飲みに誘われてるんで、ちょっと時間、潰してたんです」
「へぇ」
「そしたら、課長さんと沢村さんの姿が見えたから」
 面倒くさい奴に見られたな、と思ったが、別にやましいことをしていたわけでもない。
「俺が一方的に好きなんだよ。でも相手にもされてない。前もそう言わなかったっけ」
「そうは、見えなかったですけど?」
 今度は沢村が肩をすくめ、エレベーターの昇降ランプに視線を向けた。
「残念だなー」
「なにが」
「私、沢村さんのこと、結構タイプだったのに」
「タイプも何も、あんた、既婚者でしょ」
「籍だけですよー。そんなの、どうでもよくありません?」
 ある意味確かにどうでもいいけど。どうでもいい女が既婚者だろうが独身だろうが。
「ふぅん。やっぱり課長さんが好きなんだぁ。実は薄々、疑ってはいたんですよねー」
「へぇ」
 適当に相槌を打った途端、ポケットの携帯が不意に震えた。
 エレベーターの扉が開いたのはその時である。
「ああ、ごめん。電話だから先に降りてて」
「いいですけど、まだ話の続き、ありますよ」
「後で聞くから」
「約束ですよ。ちゃんと聞いてもらいますよ」
 はいはい、と手を振って携帯を取り上げた沢村は、自然自分の眉が険しくなるのを感じた。
 紫凛……。
 決して忘れたわけではない。でももう、二度とかかってこないと思っていた。
「烈士? 今どこ?」
「……職場だけど」
 ろれつの回らない甘ったるい声の背景では、さざめくような人の気配がする。
「なに、こんな時間から飲んでんの」
「うん。いつもの店……。出て来られない?」
 まだ7時前――なのにかなり酩酊しているようだ。
 沢村は無言で、携帯を持ち直した。
「なにかあった?」
「なにかって?」
「だってさ」
 最後に会った夜の記憶が、苦々しく蘇る。
「もう、連絡なんてないと思ってたから」
「恋愛ごっこ、うまくいってる?」
 くすくすとは蓮っ葉な感じに女は笑う。沢村は黙って目をすがめた。
「楽しいでしょ? 楽しいよね。恋愛なんてさ、セックスするまでの過程が実は一番面白いんだから。いまどのくらい? あと一息? あの人処女だから、そのあたりのガードはかなり固いでしょ」
 言葉を切った紫凛は、いきなり声を立てて笑い出した。
「てか、何馬鹿なことやってんのよ。あんたみたいなろくでなしのクズ、修道女みたいに潔癖なお姉ちゃんが相手にするはずないじゃない。馬ッ鹿じゃない。一度デートに誘われたくらいでのぼせあがっちゃってさ。自分が私に何やったかもう忘れたの? いくらコツコツ石を積んでも、私がそれ、いつでもひっくり返せること忘れたの?」
「……紫凛」
「ねぇ、今夜会えない? あと一時間くらいなら、この店で待ってるから」
 眉をひそめ、沢村は小さく息を吐いた。
「……紫凛、前も言ったよな。俺はもう降りるって」
「ねぇ、来るの? 来ないの?」
 遮るように、紫凛の口調が強くなった。
「来ないと絶対後悔する。大切な話があるのよ。――お姉ちゃんのことで」
「…………」
「烈士次第よ。本気でお姉ちゃんのことが好きなら来て。でないと私、何をするかわからない。また大明拓哉みたいな男を、お姉ちゃんに近づけさせるわよ」
「――おい」
「お姉ちゃんに警告する? 無駄よ。正体を知ったら、お姉ちゃん、あんたのいうことなんか信じるはずがないじゃない。もう判ったでしょ。烈士は私から逃げられないし、私のいうことを聞くしかないの。判ったら、いますぐ私のところに戻ってきなさい」
 一方的に電話は切れ、沈黙だけが残された。
 気づけばエレベーターが目の前で停まり、ようやく我に返った沢村はその中に乗り込んだ。
 正面に鏡があり、そこに、間抜けな男の顔が写っている。
 最初から判っている。
 何もかも、紫凛の言うとおりだ。
 なのに、馬鹿な夢をみた。
 あり得ないことの連続で。
 一度だけのはずの奇跡が、あまりに何度も続いたから。
 最初から判っている。
 結局のところ、どういう道を辿っても、幸福な結末など、ありはしないのだ――
 
 
「課長は?」
 沢村が執務室に戻ると、てっきり残業しているとばかり思っていた人のデスクは綺麗に片付けられていた。
「帰ったよ。ついさっき。沢村さん、すれ違わなかった?」
「いや、見なかったけど」
 沢村が席につくと、隣の宮田がパソコンを打つ手を止めて、意味深な視線を向けてきた。
「どうも、外線で男から呼び出されたみたいでさ」
「あれ、絶対に彼氏ですよね。あの課長が携帯もって駆け足で出て行くなんて、ちょっと吃驚したっていうか」
 その向こうの席の中村も、やや興奮気味である。
 沢村は黙って、机の上を片づけはじめた。
 その電話と、先ほどかかってきた紫凛からの電話。何か関連があったのだろうかと思いながら。
「やっぱりいたんですねぇ。課長の彼氏。そりゃいない方がおかしいとは思ってましたけど」
 ほうっと中村がため息をついた。
「お前最近、課長のファンだったもんな」
 からかうように宮田が口を挟む。
「ひ、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。あんだけ綺麗なんだから、男なら普通、目がいくでしょ」
「本省の男かな」
「あ、そんな感じでした。僕が電話出たんですけど、ちょっと折り目正しい感じの声で――えーと、確か、藤崎って」
「……………」
 藤崎?
 藤崎直斗――
「沢村さん?」
 自分がどんな顔をしているのか分からないまま、沢村は立ち上がっていた。

 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。