29

 じゃあこれで、この夢みたいな時間も終わりってことだな。
 沢村烈士は、視線をさげたままでため息をついた。
 正直あまりに緊張しすぎて、いい夢だったのか悪夢だったのか判らないけど。
(――先日のお礼、というのでもないのだけど)
 そんな電話が、目の前の女からかかってきたのは、仕事納めの日。正午のチャイムが鳴った直後だった。
(4日にクラシックのコンサートがあって、……たまたまチケットを知人からもらったので、もしよければ)
 手元で湯呑みの茶がひっくり返り、隣席の宮田が口をぱくぱくさせながらしきりに手でジェスチャーをしていた。
 後で気づいたことだが、卓上には市長の公印文書がいくつか置かれており、それが全部駄目になった。いや、そんなことすら、その時の沢村にはどうでもよかった。
 いや、俺のしたことなんて、そもそもお礼をしてもらえるような行為じゃないし。
 正直言えば、あの時一瞬、あんたのこと姦っちゃおうかとか思ったし。胸とか結構エロい目で見ちゃったし。
 それに……。
 そもそも俺に、そんな資格、ないし。
 そんな言葉が、頭の中を高速で駆け巡っていた。
 結局それは、一言も口からは出てこず、「いや……じゃあ、僕でよかったら」と、がっちがちに強張った声で、答えてしまったような気がする。
 さらに最低なのは、その日の5時過ぎ、エレベーターホールで顔を合わせてしまった時だ。
 お気に入りの玩具(日高成美)をからかって遊んでいたら、いきなり隣のフロアから柏原明凛が現れた。
 その瞬間、自分の心臓がどこかにふっ飛び、全身が石みたいに固まった――といったら、目の前のこの人はどう思うだろうか。
 まぁ、ただの馬鹿だと思うだろうな。
「あの、今夜は本当に、ありがとうございました」
 ホールの玄関を出ると、マフラーを締め直し、沢村は丁寧に一礼した。
「実はクラッシックなんて初めてで。……ちょっと寝てしまった部分はあるんですが……いい経験になりました。CD、買って聞いてみますんで」
「こちらこそ」
 明凛は、あるかなきかの微笑を浮かべ、やはり丁寧に一礼した。
「昨年は、危ないところを助けてもらってありがとう。……こんなことで、お礼になったかどうか」
「あ、いや、すごく楽しかったです」
 慌てて沢村が言い添えると、少しだけ女の口元が優しくなった。
「楽しかった」
 う、その反復は間違いなく厭味だぞ。
「た、楽しいとは少し……。なんていうか、リラックスした気分になれました。はい」
「そう」
 意外にも、ますます優しく唇をほころばせた女は、少し考えるように首をかしげてから、言った。
「私は、沢村さんのことを何もしらないから……。いまさらだけど、氷室さんにでもリサーチしてから、誘えばよかったのかもしれないわね」
「は、はは……」
 引きつりそうな笑いを懸命に押し隠しながら、沢村は氷室に対する皮肉を口の中で押し留めた。
 氷室さんにリサーチだって? そんな真似されたら、何を言われるかしれたもんじゃない。あのドSな冷血課長は、俺をネズミみたいに追い詰めて遊ぶのが好きなんだ。絶対に、あることないこと、面白おかしく捏造するに違いない。
「補佐は、氷室課長とは親しいんですか」
「親しいというのとは違うけれど」
 考えるように眉を寄せて、明凛は続けた。
「尊敬している、とでも言えばいいのかな。……立場が似ていることもあって、話があうのかもしれない。ただ、相容れないとは、お互いに思っているような気がする」
 沢村は少し眉をあげていた。「相容れない、ですか」
「私は気障な男が生理的にまるで駄目で、課長は、私のような女が本来とても苦手なのだと思う。……まぁ、それだけの話だけど」
「…………」
 いや、それだけってあんた。
 今、顔色ひとつ変えずに、かなり辛辣なこと言ったような気がするんですけど。
「なんにしても、苦手なものに誘ってしまったのなら、申し訳なかった。よく考えれば立場上、断りにくかったようにも思うし」
「いや……本当に寝不足だっただけですから」
 楽しかったです。
 正確には楽しさ1、緊張9くらいの割合ではあったんですけど。
 こんなことは、もう俺の人生で二度とないような気がするから。
「CD、買いますよ。聴きます……悪くはなかった。正直、眠くはなりますけど」
 そのまま、しばらく黙って歩き続けた。
 ホール下の階段を降りたら、そこはもう県道で、タクシー乗り場には乗客待ちのタクシーが列をなしている。
 そこまでいけば、この夢みたいな時間は本当に終わりだ。
 ……クラッシック、好きになったら、また一緒に行ってくれますか。
 それは絶対にないだろうし、口にだすつもりもないけれど。
 ふと、暗い影が胸に落ちる。
 ――今夜のこと、紫凛(しおり)が知ったら怒るだろうな。
 怒るなんてものではないだろう。ある意味、狡猾さでは姉以上の賢しさを持つおそろしい女だ。いったいどんな手で報復にでてくるか判らない。
 ますます面倒なことになると判っているのに、どうして俺は、今夜の誘いを断らずに、こうして出向いてしまったのだろう。
 もし、紫凛が、過去に起きた俺との何もかもを目の前の女に話したら――口を聞いてもらえないことはおろか、生涯軽蔑され、憎まれてしまうと判っているのに。
 その意味では、俺は、この人の顔をみる資格さえないのだ。
「そんなに離れて歩くのは何故?」
「……え?」
 ぼんりしていた沢村は、言葉の意味が判らずに瞬きをした。
 気づけばタクシー乗り場の列は目の前だった。隣の明凛の目は道路の方を見ている。
「今夜の楽団のCDなら、私が全部持っているから、本当に興味があるなら、わざわざ買わなくてもいいと思う」
「あ……、はい」
 クラッシック、好きなんだよな。
 元吹奏楽部だから。
 正直、音楽のことはさっぱり分からないけど、タクトを持つあんたは本当に綺麗だった。
 いつまでも、時間を忘れて見ていたいと思うくらい。
「どうして、……聞かないの」
「はい?」
 思わず傍らの女を見下ろすと、その視線を避けるように、明凛はわずかに顎を引いた。
「あれからどうなったのか、どうして何も聞かないのかと思って」
 あれから――
 それはもしかして、あの夜の顛末のことだろうか。
 この人の同伴者を、半殺しにしてしまったあの夜の。
 

「……ああ」
 数秒の後、ようやく隣の男は、明凛の問いかけの意味を理解したようだった。
「どうなったんすか、あれから」
 まるで覇気のない、他人事のような口調に、明凛は小さく眉を寄せる。
 この男が、灰谷市でも有名なセレブ、大明拓哉に全治2ヶ月に及ぶ重症を負わせたのはつい先月のことである。
 前歯を2本失った上に、鼻骨と眼底の陥没骨折。幸い、整形手術が成功したそうだが、警察沙汰にでもなれば、間違いなく沢村は懲戒免職だったろう。
 懲戒免職。公務員のそれは、この不景気に退職金も失業手当てもなしに職を失うということだ。
 気にしない方が、どうかしている。
「……大明さんには、直接会ってはいないのだけど」
 明凛は、曖昧に切り出した。
 入院先に見舞いにいったところ、本人が会いたくないと言っている、との理由で拒否された。
「弁護士さんを通じて、話があったわ。当夜のことは、警察沙汰にはしたくないので、大明さんの将来のために承知してもらえないかと」
「ああ、じゃあ、気づいてないんすか」
 それだけで、沢村は全てを飲み込んだらしかった。
「俺が補佐の知り合いだって、向こう、全然気づいてないんですね」
「むしろその後――大明さんが逃げた後だけど、私が被害にあったと思ったみたい」
 沢村の横顔が、冷めた苦笑を浮かべるのが判った。
「それで黙ってろなんてどこまでも勝手だな。――で?」
「で、とは?」
「言わなかったんですか。俺のこと」
「………」
 言えるわけがない。
 向こうは沢村を、行きずりのアベック強盗か何かだと誤認しているのだ。
 それが明凛の知り合いで、しかも市役所の職員だと知ってしまえば、対応はまるで違ったものになっていただろう。
 気づけばタクシー乗り場は通りすぎて、2人は繁華街から離れた官庁街に向かう道を歩いていた。沢村がどこに向かっているか明凛は知らないし、明凛もまた、どこに向かうあてもなく歩いている。
「別に、よかったのに」
 やがて、嗤うような口調で沢村は言った。
「よかったとは?」
「そんな嘘ついて、バレたら後が面倒でしょ。バイクの車種とかメットとか、俺、体格が目立つから、結構バレやすいと思うけど」
「…………」
 別に、嘘をついたわけじゃない。
 知り合いなのかと、相手に聞かれはしなかった。
 ただ積極的に本当のことを言わなかった。いわば無作為の罪くらいは、犯したのかもしれないが。
「落ち着いているのね」
 前を見たまま、明凛は言った。
 やはり、この人は私には謎だ。
 掴みどころはいくらでもありそうなのに、いざ手を伸ばすと、すっと影のようにすり抜けていく。
「下手すれば、懲戒免になっていたかもしれないのよ」
「別にいいっすよ。なったらなったで」
 さばさばした口調には、強がりも誇張も感じられなかった。
「特に今の仕事に未練ないし、公務員は制約も多くて窮屈だし。……正直、もっと好きに生きたいって気持もあります」
 確かにそれは、沢村という男の本質を言い当てている。彼には公務員という型にはまった仕事は似つかわしくない。
 ではそんな男が、何故市役所職員を志望したのだろうか。
「どうして、役所に?」
「別に、人に言うような理由もないです」
 それ以上の質問を拒むように、あっさりと沢村は答えて視線を道路に巡らせた。
「このあたり、タクシー殆ど通ってないっすけど、元の道にもどりますか」
 明凛は黙って、影になっている沢村の横顔を見あげた。
 目が合うとうろたえていた時とはまるで違う。完全に明凛を遮断し、自分の中に閉じこもってしまった横顔だ。
 出会って間もない頃の、沢村の印象そのものだ。
 思いつめたような視線をぶつけてくるくせに、こちらが注意を払うと、さっと自分の周りに見えない幕を引いてしまう。
「……補佐?」
 私は何故、今夜、この人を誘ったのだろう。
 唐突に明凛は思っていた。
 多分、知りたかったのだ。幕を降ろし、影になってしまった後のこの人の底に、いったい何が潜んでいるのか。
「どうして、私を?」
「え?」
「本当に、偶然……?」
「…………」
 2人の前を一台の車が通過して、それきり静寂が訪れた。
 黙っていた沢村が目をすがめ、それがゆっくりと影に隠れる。
「やっぱ、そこは、スルーしてもらえないっすか」
 暗い、笑いを帯びた声だった。
「あんたのこと、つけてたんです、俺。あの日だけじゃない。ずっと前から、あんたに興味があったから」
「…………」
 不思議なくらい、驚きはなかった。
 明凛は黙って男を見つめた。
「あの日もそうだったけど、弱みでも握って誘惑して、一発やれたらいいくらいに考えてました。今までいろんなタイプの女と遊んだけど、あんたみたいなの初めてだったから」
 言葉を切った沢村は、ポケットに両手を突っ込んで肩をすくめる。
 明凛は黙って、そんな沢村を見つめ続けた。
「そんなわけで、お礼言われる筋合いもなければ、嘘までついて庇ってもらう理由もないんです。大明には、早めに本当のこと話してください。なんか後で、目茶苦茶面倒なことになりそうな予感がするんで」
「……嫌じゃ、なかった」
 ぽつり、と明凛は呟いていた。そして自分の右手を左手でぎゅっと握った。
 沢村が訝しげに眉を寄せる。
「……理由はよく判らないけど……どうしてだか、男の人に手を触れられるのが、昔から私は駄目で……。あんな風に……」
 大きな手で、自分の手を包むように握られて。
「……どうして、嫌じゃなかったんだろうって、それがずっと、気になってた」
 沢村の目の底で、初めて何かが揺らぐのが見えた。
 しかしその揺らぎは、すぐに冷めた笑いで上着きされる。
「そりゃ、……異常な状況だったからでしょ」
 明凛が何か返す前に、男は唇を笑いでゆがめて視線を下げた。
「なるほど。それで今夜は、俺を試したってわけですか。かえって面倒かけたのに、お礼に誘われるなんておかしいと思いましたよ」
 試したわけではない。
 でも、そうだともいえる。
「で、もっかい手でも握ればいいんですか。それともキスでもしましょうか。それ以上のことでもいいっすけど」
 そんなつもりじゃない。
 でも――
 不意に目の前に影が動いた。
 手首を握られた時、少しだけ身体を固くした。それを有無を言わさず引き寄せられる。反射的に顔を上げると、沢村の目が見下ろしていた。
 星も宿らない、暗い双眸。吸い込まれるように動けなくなる。
「逃げないんですか」
「…………」
「それじゃまるで、俺のこと好きって、言ってるみたいっすけど」
「…………」
 気のせいだろうか。
 怒ったようにそう言う沢村の方が、今の自分より緊張しているような気がする。
 押されるままに後退り、とん、と背中が壁に触れた。
 影が覆いかぶさるように深みを増す。
 目を閉じる暇もなかった。厚い唇が、そっと唇におしあてられる。
 その瞬間、頭が真っ白になっていた。
 心臓が、驚くくらい大きく聞こえる。身体全部が脈打っているようだ。
 嫌じゃない――明凛は動揺したまま、数度瞬きして、目を閉じた。
 こんな状況で、いつも感じる嫌悪感がない。その代わり、怖さからくるのか、膝がわずかに震えている。その怖さの意味も、明凛にはよく判らなかった。
 男性に迫られて――先日の大明のようなやり方は論外だが――恐怖を覚えたことは、今までない。ただ激しい嫌悪と自分が自分でなくなるような底なしの虚しさで、半ば無反応になってしまうのだ。
 そしてその度に思い知らされる。私はもう、誰に対しても恋を感じることができないのだと。
 永遠のように長く感じたが、多分時間にすれば数秒のキスだった。
 触れた時と同じように、沢村はそっと、明凛の感覚でいえば驚くほど優しく唇を離した。
「…………」
「…………」
 熱、あるのかしら。
 よく判らない。頭の芯がぼうっとしている。
 沢村は明凛を見下ろしている。額が触れ合うほど近い距離から、強い、熱のような視線を感じる。
 怖いのに、何故か不思議に心地よくてその視線から逃げられない。
 沢村の指が、ぎこちなく明凛の頬に触れて、そっと撫でた。 
 明凛は抵抗しなかった。でも乾いた指先が顎を滑ってうなじに触れた時、自分がひどく――初めてといっていいほどうろたえたのを感じた。
 触れられている部分が、燃えるように熱い。
「俺………」
 明凛は何か、言いたいと思った。喉までそれがこみあげている。でもそれは、多分永遠に言葉にできない。
 たまりかねたように唇が近づいてくる。明凛は息を吸い込むようにして目を閉じた。
 その時だった。
 いきなり、ハンドバックの中の携帯が勢い良く震えた。
「……っ」
「……!」
 それが何かの合図だったかのように、2人は同時に身体を離していた。
 浮かされていた熱からいきなり覚めて、現実に引き戻されてしまったようだ。 
 現実――ようやく明凛の中に、麻痺していた感覚が蘇ってくる。
 馬鹿じゃない? 私。自分の立場を忘れたの? 今は間違っても、こんなことをしている場合じゃないというのに!
「ちょっと……電話が」
「……あ、はい」
 おかしなことに、身体が離れると、互いの目も見られない。
 沢村も沢村で、ひどくうろたえているのが、判る。
 というより、このとんでもない気まずさはなんだろう。顔どころか耳までみるみる熱くなる。なにより、落ち着きの欠片もなく、バックの携帯がなかなか見つからない私って……。
 しかし、携帯の表示を見た途端、明凛の意識は水のように研ぎ澄まされていた。
「失礼」
 沢村に聞こえないように気をつけながら、明凛は携帯を耳にあてて、急いでその場を離れた。
「悪いな、柏原君。休み中に」
「いえ、何かありましたか」
 藤家(ふじいえ)総務局長――。
 明凛の所属する部署のトップである。
 公私のけじめに厳しい局長から、休日に直接電話がかかってきたのは初めてだ。それは、間違いなく緊急の対応を要する事態が生じたことを意味している。
「驚かずに聞き給え」
 そう言う藤家の声が、少なからず冷静さを欠いているように思える。
「内々示だ。1月6日付で、君にはうちの部局を離れてもらうことになった」
「…………」
 咄嗟に言葉が出てこなかったのは、時間にすれば2秒足らずで、すぐに明凛は、「わかりました」と答えていた。
 異動だ。
 年度中途の異動は、明凛のような霞ヶ関の人間にはよくあることだ。
 しかし、今日が4日で、異動が6日とは、少なからず異例ではある。
 人事異動は急遽決まることも多々あるが、大抵は、もう少し猶予をもって告げられるからだ。
「移動先は、道路局道路管理課」 
 重々しい声で、藤家は続けた。
「同日付で退職予定の、氷室課長の後任、という形になる」
 ―――え……。
 何かの聞き間違いだろうか。氷室課長が、退職?
「君も知っての通り、道路局は来年度大規模な組織変更を敢行する。その中心になってプロジェクトを進めていたのが氷室君だ。墨田道路局長とも協議した結果、その後をつつがなく引き継げるのは、柏原君しかいないだろうという結論になった」
 まってください。そんなことより、氷室さんが――退職?
「これも周知のとおり、道路局には、開局以来、女性課長が存在したことがない。しかも君は、課長級では最年少の27歳だ。周囲の反発は、相当のものだと覚悟した方がいい」
 背筋に、鉄の板を差し込まれたようだった。
 明凛は息を引き、そして吐いた。そのとおりだ。
 今は辞めてしまった人を詮索している場合ではない。2日後には、大変な激震が待ち構えている。
「大変な重責だと思うが、ぜひ、やり遂げてくれ給え」
「わかりました」
 きっぱりと答え、明凛は携帯電話を切った。
 少し離れた場所では、沢村が不審そうな表情でこちらを見ている。
 もちろん、今は何一つ打ち明けられない。しかし、これだけは分かっていた。
 2日後には、この男は自分の直属の部下になる。
 男の身分を自分の責任で守ってやれるかわりに、今夜のような真似は、二度と、間違ってもしてはならない。
 眉を寄せたまま、明凛は暗い夜を見つめた。
 どうやら、大変な新年の幕開けになりそうだった。






(終)


 

 
 
 
 
 
                             北風は太陽に恋をする(終)
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