|
11
「下に、妙な車が止まっているみたいだが、何か知ってるか」
そう言って、父、日高芳雄(よしお)がリビングに入ってきたのは、午後7時を回った頃だった。
自宅横で税理士事務所を開業している芳雄は、土日も平日もなく、午前9時から7時までは、ずっと事務所に詰めている。元税務職員。とんでもなく勤勉な父親だ。
リビングの食卓には、すでに家族4人分の食事が用意してある。
海鮮鍋。結局味噌は使わなかった。まぁそういうことも、美和にはよくあることである。万が一に備え、あらゆるものを揃えておかないと不安な人なのだ。
「下って? 5時頃、成美と通った時は何もありませんでしたけど」
食器棚からビールグラスを出しながら、美和が答えた。
「黒のベンツだ。このへんであんな車、見たことないぞ」
へー、と成美と俊子が同時に目を合わせる。
その俊子の目が、ふいにいたずらっぽく笑み崩れた。
「成美ちゃん追いかけてきた彼氏とか」
「ち、違うよ。もしそうなら、そんなのただのストーカーでしょ」
もしかして氷室さん――
まぁ、その線だけはあり得ないか。車も違うし、なんたって彼は今、東京なんだし。
成美は気を取り直したが、何故だか美和はひどく不安気な顔でビールグラスを食卓に並べ始めた。
「ストーカー……ねぇ、成美ちゃん、もしかして」
まさかと思うけど、駅でずっとこっちを見ていた男がいたとかなんとか言い出すつもりなのだろうか。
が、ストーカーといえば、確かに成美には恐ろしい思い出がある。
女装した挙句、成美の部屋にまで侵入した悪徳弁護士、紀里谷理人(きりやりひと)だ。
まぁ、彼の目的は私でなく氷室さんで、ストーカーというより、単なる嫉妬、嫌がらせみたいなものだったのだが。
「まぁ、少しばかり気にはなるな」
厳格な芳雄は、生真面目に呟くと、ビールグラスを伏せて置いた。
「飲むのはやめよう。万が一ということもある」
「ちょっと、お父さん、考え過ぎだよ」
「そうだよ。たまたまうちの下に停まってるってだけじゃない」
成美と俊子が口を揃えてそういった時、リビング隅の電話が鳴った。
美和が出て、すぐに芳雄がそれに代わる。かけてきたのは、隣家の、ご主人を亡くして以来ずっと1人暮らしをしている奥さんのようだ。
「ああ。はいはい。下に停まっている車のことなら、うちも気にはしていたんですよ。――え? 若い男?」
神妙な顔で電話を受けていた芳雄は、それを切るなり、傍らの上着を掴んで肩にひっかけた。
「ちょっと、声をかけてくる」
はい? もしかして停まっているベンツの運転手に?
成美はびっくりしたが、なお青ざめたのは心配性の美和である。
「お父さん、大丈夫なんですか」
「いや、隣の奥さんの話だと、どうもエンジントラブルを起こして動けなくなっているらしいんだ。今夜はこの雪だし、ガソリンスタンドもやっていないだろう。うちの前で行き倒れになられても困るからな」
だからって――ベンツって――あまり、普通の人が乗る車のようには――
とはいえ、一度決めたことを覆す芳雄ではない。
「お父さん、マフラーマフラー、それから懐中電灯も」
父母の足音がばたばたと玄関の方に消えていく。
「なんか、……怖いね。成ちゃん」
「大丈夫だよ。町から来た人が道に迷っただけでしょ」
この席で、改めて実母のことを芳雄に尋ねるつもりだった成美は、拍子抜けした気分で、鍋の様子を窺った。
美和がお伺いをたててくれた結果は、却下、だった。
逆に芳雄にこう言われたのだという。「成美にいい人ができたのなら、まず挨拶に来させるのが先だろう」と。
その誤解を解いてから、改めて聞いてみるつもりだったけど……。
まぁ、無駄かな。
成美は小さなため息をついた。
父は昔から、一度決めたことは絶対に覆さない性格だ。
頑固というか、意地っ張りというか、こうなったら意地でも、成美が彼氏を家に連れてくるまで口を開かないに違いない。
で、そんな事態は、天地がひっくり返っても起こりえない。
成美はふっと溜息をついた。
仕方がない。明日、1人でこの近くの駅を回ってみよう。
運良く記憶の中にある駅に行き着いて、あの時の駅員さんに会えるかもしれないし。
その時、玄関の扉が開く音がして、そこで待機していた美和の素っ頓狂な声がした。
「あら、お父さん。どうしましょう。どうしましょう」
え、――なに?
成美と俊子は顔を見合わせ、同時に立ち上がっている。
ごほん、ごほん、と苦しそうな咳が玄関の方から立て続けに聞こえてきた。
「車が、動かないんだそうだ」
芳雄の、苦り切った声。
「バッテリーもあがって、下手すれば凍死するところだった。放っておくわけにもいかんだろう」
まあ、まあまあ、という美和の声。
「このあたり、――あ、すみません、タオルお借りします。ソ○トバンクがまるで入らないみたいで」
くぐもった男の声が初めて聞こえた。
その声に、成美は眉を寄せていた。ん? まさか。いや、まさかね。
「あら、そうなのかしらねぇ。このへんの人たちはみんなド○モだから」
と、これはおろおろした美和の声だ。
「プラチナバンドって、なんの意味があるんですかね……。あ、タオル、ありがとうございました」
嘘でしょ。そんな。
「なんでも成美を訪ねてきた――客だそうだ」
苦々しげな、芳雄の声。
その時には、成美はもう声の主を確信していた。
そう、美和は決して思い違いをしていたのではないのである。駅から確かに成美はつけられていたのだ。そして、こんな真似をする男といえば――
本当になにこれ、大晦日前に悪夢ですか。
「はじめまして、お母さん。灰谷市で弁護士をしております。私、紀里谷理人と申します」
面倒な男、パート3。
爽やかな声で、紀里谷がそう言うのが聞こえた。
「おい、サル」
成美が紀里谷の前にビールグラスを差し出すと、それまで笑顔と白い歯がひたすら爽やか――加えて仕事もできるイケメン弁護士を演じていた男は、たちまちどす黒い本性をさらけだした。
てか、なんなのサルって。
あんたは織田信長ですか。
「この、クソ田舎者の山ザルが。いったい、どんだけ山奥に住んでんだよ」
「一体、なんの真似なんですか」
成美もまた、声をひそめて紀里谷をなじった。
リビングには、今成美と紀里谷の2人しかいない。
言い訳と嘘にまみれた最悪の夕食は終わり、芳雄は事務所に戻り、美和は紀里谷の布団を用意している。俊子は1人で入浴中だ。
紀里谷といえば、夕食の後、風呂にまで入れてもらって、今は芳雄のパジャマを着てくつろいでいる。本当に図々しいし、なんでこんなことに? といくら自問しても納得できない。
相手は単なるストーカーで、今日だって、絶対何かの意図があって成美の後をつけていたに違いないのだ。
なのに紀里谷は「実は成美さんとは浅からぬおつきあいを――」と、多分苦し紛れに切り出し、「まぁ、弁護士さんと成美が? 本当に弁護士さんと成美が?」と、美和が狂喜乱舞したのである。
しかたなく成美は、妥協できる範囲で話をあわせた。「一応友達で――」それはまぁ、嘘ではない。「一度、紹介しとこうかなって」それは、真っ赤な嘘である。
なんの真似だか知らないが、この吹雪の中、土地勘ゼロらしい紀里谷を外には放り出せない。武士の情けではないけれど、一応氷室の友人のようだし、ここは、貸しを作っておくことにしたのである。
「なにかしたら、容赦なく警察呼びますからね」
「するかよ。俺、女は駄目って言っただろ」
とんでもなく迷惑顔で紀里谷。その顔をお前がするか、といってやりたい。
「で、どういう企みだったんですか、今度は」
「ん……、まぁ、色々あってな。……まぁ、いいだろ。結局のところ、雪道で迷って失敗したんだから」
うやむやに言って缶ビールの蓋を開けようとした紀里谷の腕を、成美はがしっと掴んでいた。
「開き直らないで言ってください――なんでこんなところまで、私をつけてきたんですか!」
「だからお前の!――てか離せっ、蕁麻疹が出るだろうがっ」
あ、そっか。そんな面白い体質の人だったっけ。
「言わなきゃ、べたべたに触った挙句、警察に突き出しますよ」
「――った、言うよ。いうから離せっ。お、お前の浮気現場を押さえに来たんだよ。言っとくけど、これも弁護士の仕事の内だからな」
………は?
「い、依頼主がいるんだよ。そいつが――まぁ、この休みに、お前が昔の彼氏に会うとかさ。とにかく、そんな感じで浮気するかもしれないから、現場を押さえてほしいって……そういうことだ!」
「………は?」
成美は、たっぷり1分は口を開けていたかもしれない。
「それ、氷室さんじゃないですよね」
「なっ、なわけないだろっ。馬鹿じゃねぇか? お前、自信過剰にもほどがあるぞ」
その言い方もどうかと思うが、とすれば、思いつく相手は1人しかいない。
以前も紀里谷に似たようなことを頼んだ倉田真帆(くらたまほ)だ。
「倉田さん……ですか」
紀里谷は口をもごもごと動かしたきり、答えない。
図星、ってことだろうか?
真帆は成美の同期で、氷室に熱を上げている。影でこそこそ裏工作していたのは知っていたが、それがまだ続いていたとは……。
脱力して、成美はため息をついていた。
「どうでもいいですけど、それで凍死寸前って……、弁護士のくせに、馬鹿ですか」
「う、うるさいな。雪道の運転は初めてだったんだ。あの車、まだローンがかなり残ってて……ぶつけたら姉貴が――いや、大損だろうが」
ふうん。お姉さんの車ですか。
「だからって、恋人のふりまでして、私の家にあがりこみます?」
「命がかかってたんだよ、こっちは」
まぁ、猛吹雪の中、車はエンストして携帯は圏外で充電切れ。実際紀里谷は、パニック寸前だったらしい。
「氷室さんに……」
そう口にしかけた途端、紀里谷が、半ば蒼白な顔で振り返った。
「言わないよな」
「…………」
「い、言わないですよね。ほら、日高さんにしても、多少は秘密にしておきたい展開なわけでしょう。これは」
うわ、なに、この情けない豹変ぶり。
「――なんでもするんで」
あえて答えずに視線を逸らす。すると、ガバッと紀里谷が両手を畳について頭を下げた。
「ほんとになんでもするし、今までのことも全部、まるっと、心の底から謝罪しますっ。い、言わないでくださいっ、お願いしますっっ」
成美は今度こそ本気で呆れて、土下座する紀里谷を見下ろした。
本当に、氷室さんの言うとおり、犬より従順な人だった。
いったい氷室さんって、どういうやり方でこの面倒な人をしつけたのかしら。
「あのですね」
「はいっ」
がばっと顔を上げる紀里谷。
そんな、チワワみたいな期待に潤んだ目で見上げられても。
「実は、紀里谷さんにお願いがあるんです」
それ頼んじゃうと、今度は私が、この人に弱みを握られることになるなぁ。
そう思いながら、成美は、夕飯の時からずっと考えていたことを切り出した。
|