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あと一列で、書棚は持ち主が17歳の年に入る。
覚えている。この辺りの本を購入したのは、水南が16歳の秋の終わりだ。
出入りの業者が持ってくる大量の本を、まず開封して確認し、水南に渡す。それが当時の氷室の役目だった。
景気後退を反映してか、本人が経済に持ち始めたせいか、骨太の経済書が実に多くなってくる。が、それと相反するように、恋愛小説もちらほらそこに混じりはじめる。――海外のロマンス小説。今にして思えばすごく意外だ。こんな低俗なものを、水南は本気で読んでいたのだろうか?
――水南……
暖かくて、苦くて、息苦しいような感情が、本を手繰る氷室の胸の内側に広がっていく。
否応なしに、思い知らされずにはいられなかった。
まだ水南は生きている。
氷室自身の胸の底で、幾重にも蓋をされた氷の棺の中で。
けれどその蓋は、この部屋の空気に浸された途端、もろくも解けて霧散した。
そうして水南は、再びこの世界に蘇ったのだ。――
なすすべもなく水南と過ごした過去に引きずられていきながら、胸の底の微かな光が――あるかなきかの儚い光が、懸命にそれに抗しているのを氷室は感じた。
(――課長!)
(朝ですよ。起きてるのは判ってるけど、起きてください)
(今日は何します? 天気がいいから、お散歩にでも行きましょうか)
真夏の日差しのように、いきなり明るい光が氷室の闇を照らしだす。
けれどそれはすぐに灰色に曇り、日高成美の不安そうな目が氷室をのぞきこんでいた。
(……じゃ、駄目ですか?)
(私、もっと氷室課長のことを知りたいんです。……私じゃ、駄目ですか)
はっと氷室は我にかえり、再び自分1人が闇の底にいることに気がついた。
駄目だ。
踏み込まれたくない。知られたくない。この心に抱いた暗いものだけは、君には一切触れさせたくない。
だから別れる。君がこれ以上、僕の中に入ってくる前に。
君を、――誰よりも大切に思っているから。
(きれいごとよ、天)
不意に水南の声が、耳元で囁いた。
(あの子が大切? 笑わせないで。あの子は私の、何もかも真逆なだけが取り柄の代役でしょう?)
いや、違う。
(あなたは私にないものを、ただあの子に求めただけ)
違う。俺はそんなものを求めてはいない。
(あなたは、寂しかったのよ。天)
――………。
(私が死ぬと判った時から、寂しくて怖くてどうしようもなかった。だから、誰でもいいから暖かな手を求めた)
――違う……。
(寂しさから恋をして、私を失う恐怖から逃げようとした)
(最初から、私以外の誰かを愛するつもりなんてなかったんでしょう?)
そうじゃない。それは違う。
俺は最初は――やり直せると思ったんだ。
彼女となら、もしかすると、普通の恋愛ができるのかもしれないと思った。
そうしたいと思ったから――初めて他人に、君との過去を打ち明けたんだ。
嘲るような笑い声がした。
(でも、すぐに、それは無理だと判ったじゃない)
「………」
(知っているのよ。私。あなたはいつも怯えていた。彼女があなたの中に入り込もうとするたびに、子どもみたいに震えていた。結局あなたは乗り越えられなかった。自分の何もかもを知られるのが怖いから、逃げることに、決めた)
「………」
(にもかかわらず、あなたは別れを先延ばしにして、無意味な恋愛ごっこを楽しんだ)
やめろ。
(自分の心は硬くなに閉ざしたまま、相手の心にだけ自分の存在を刻みこんでいったんだわ。卑怯者、あなたほど残酷で身勝手な男はいないじゃない!)
「……もう、やめろ!」
やめてくれ。
そうだ。
その通りだ。水南。
それにはなんの反論もできない。
俺ほど身勝手な男もいない。
未来のことなど何も考えずに、およそ遊びには似つかわしくない生真面目な女性に手を出した。
真剣な恋愛を装いながら、彼女がこちらに踏み込んでくると、窓を締めて鍵をかけた。
そのくせ、彼女が自分に背を向けると、腕を掴んで引き戻したのだ。あと少し、あと少しだと、自分にそう言い聞かせながら。
それを、エゴと言わずに何と言えばいいのか。
今も、すぐにでも屋敷を飛び出し、灰谷市に戻りたい衝動は、決して行動に移すべきではない。
君を、三条の薄汚い口から飛び出した過去ごと抱きしめたいという気持ちは、俺のエゴで、実に勝手なヒロイズムだ。
(そうよ。あなたの中は、あなたと、そして私だけのもの)
水南が優しく囁いた。
(そこに、誰もいれてはだめ。あなたと私は、そうやって永遠に生きていくのよ……)
あると思った光は幻なのだ。最初から―――
永遠のような闇が、窓の外を覆っている。
睡眠も休息も一切取らず、何かに取り憑かれたように、氷室は本を探し続けていた。
青い本、タイトルも作者名もない。そんなものはないと解っていながら。
(思い出すでしょう? 天、あの時は楽しかったわね)
間断なく聞こえる囁き。
(ほら、この本を見て。まるであなたと私のような物語よ)
本のタイトルを確認するたびに、その頃の水南との思い出が否応なしに蘇る。
16歳、水南は本当に美しかった。どんな芸術家もこうも精巧な美は表現できないのではないかというほど、完璧な美貌の持ち主だった。
朝露に濡れた白薔薇のような肌。豊かな黒髪。潤みを帯びた黒い双眸は、見ているだけで心ごと吸い込まれそうになる。
あれほど美しい人を、氷室は今に至るまで見たことがない。
同時に、あれほど冷酷な心の持ち主も、氷室は知らない。
何故出会ったのか――今でも思う。何故、出逢ってしまったのか。
水南という女性にさえ巡り会わなければ、氷室の人生はいまと全く違ったものになっていただろう。
女性と寄り添って眠ることを安らぎと感じられる。その程度には、普通の男になっていたのかもしれない。
25年前――
越してきたばかりのはじめての街。そこで一番大きな屋敷の、雇われ家政婦。それが、氷室の母の職業だった。
「学校がひけたら、お屋敷の勝手口から入って、中で勉強していなさい。お母さんの仕事は、夜が遅いから」
どうやらそれが、雇用の際の約束事のようで、まだ小学2年生だった氷室は、母が雇われた屋敷――後藤家の一室で、連日夜の10時過ぎまで、1人きりで過ごす日々を送るようになった。
ある夜のことだった。
勉強に飽きた氷室が無為に鉛筆を回していると、不意に背後に人の気配を感じた。
振り返った。心臓が停まるかと思った。大きな西洋人形が立っている――そう思ったからだ。
しかし、その人形は口を開いた。
「なにやってるの」
勉強だけど、そんな言葉をかろうじて返した。
頬がにわかに紅潮した。人形の声は、生きた女の子の声だった。しかし、その声にはまるで感情というものが感じられない。
――本当に人、だろうか?
女の子は、無言で氷室が勉強机の代わりにしていた座卓に歩み寄ってきた。手足が長く背が高い。多分その時の氷室より、頭ひとつ高かったろう。
さらさらと流れる黒髪からは、甘い花の香りがする。
「頭がいいのね」
机の上をのぞきこんだ女の子が言った。
答えなかった。
この年で中学レベルの問題を解く氷室に、誰もが驚き、憧憬の目を向けてくる。この子も、きっと同じだろう。そう思ったからだ。
氷室が黙っていると、ひどく優雅な口調で女の子は続けた。
「でももちろん、この程度で満足してはいないんでしょう? 天君の生活水準なら、もっとレベルの高い勉強しないといけないことくらい、当然理解しているんでしょう?」
「…………」
どういう意味だろう、それは。
「でないと這い上がれないじゃない。君が今いる地獄みたいな場所から。社会の、最下層から」
背中を、冷たい手で撫でられたような気分だった。
「駄目よ。私に怒っては、駄目」
女の子はほほえんだ。美術の教科書に出てくる聖母のようだ、と氷室は思った。美しい――ーけれど何故か不安をかきたてられる。
「君はね、天君」
そのほほえみのままで、女の子は続けた。
思わず後退した氷室は、その時はじめて不安の理由が判ったような気がした。
この少女の目は、爬虫類のそれに似ている。
ただ穴があるだけで、そこには、なんの感情も宿っていないのだ。
「君は犬よ」
少女は囁くような声で言った。
「君は、お母さんと一緒にこの家に飼われた犬。犬はね、飼い主に歯向かっては駄目。なにをされても大人しく尻尾をふっていなさい――君の、お母さんみたいに」
ようやく氷室はこの少女の正体に思い至った。
後藤家の1人娘、誰もが賛辞する頭脳明晰なお嬢様――
後藤水南だ。
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