8 
 

「わぁ、雪……」
 成美は低く呟き、冷えた窓ガラスに手をあてた。
 たちまち自分の吐く息で、ガラスが白くけぶっていく。
 列車と同じ速さで流れていく雪は、こうして見ると吹雪のようだ。
 遠くの山が白く染まっている。目の前にある景色は、もう見慣れた灰谷市のものではない。
(泊まりにくるなら、暖かくしてきなさいよ。こっちは町とは違うんだから)
 出がけに電話した義母の声が蘇り、成美は旅行バッグの中からショールを取り出して膝に広げた。
 一応暖房は効いているようだが、車内は少しばかり冷えている。やっぱりバスにすればよかったかな。成美はそう思いながら、ショールを腰のあたりまでひっぱりあげた。
 灰谷市で、掃除だの年賀状だの、なんだかんだと用事を済ませている内に、短い冬休みはあっという間に過ぎてしまった。
 帰省の予定は1日遅れて、今日はもう30日である。
 この急行列車が向かう先は、県北にある山間の田舎町だ。駅から降りてさらに北に車で10分いったところに、成美が育った実家がある。
 帰省には大抵長距離バスを利用していたから、電車に乗るのは―― 1人では、これが初めてかもしれない。
「4ヶ月ぶりかぁ」
 成美は呟き、再び視線を窓の外に向けた。
 最後に帰ったのが盆だった。その時は泊まらずにすぐに灰谷市に帰ったから、泊まりがけで帰るとなると、1年ぶりの帰省になる。
 ――ずっと、帰れ帰れって言われてたのに……、悪かったな。
 少し所在ない気持ちで、成美は周辺を見回した。
 最初、座る場所がないほど混み合っていた車内は、今は心細さを覚えるほどに閑散としている。
 つい手前の大きな駅で、客の大半は下車してしまった。車内と比例するように外の景色もますます寂しいものになっていく。
 ここから先、人口の極めて少ない過疎の町に入っていく。いってみればそういうことだ。
 ――まぁ、町名を言ったところで、誰もが知らないくらいの、ド田舎だもんね。
 実家を聞かれて、その地名を答えると、大半の人が「それどこ」という顔になる。分かりやすく位置を説明すると、「そんな田舎?」と少し馬鹿にしたような口調になる。
 つまるところ、誰もがちょっと驚く程度のド田舎なのだ。
 最も成美がその町で暮らしたのは、4歳から7歳の、たった4年足らずのことである。国家公務員だった父のおかげで転勤族だったからだ。
 小、中、高と灰谷市で過ごした成美は、大学入学と同時に1人暮らしを始め、それからはずっと灰谷市内で生活している。
 電車の速度が少し弱まり、景色が流れる速度が緩やかになる。
 さびれた広告看板の群れを過ぎると、ペンキの剥げた駅名看板が見えてきた。
『安治谷』
 もうこの辺になると、ホームに立つ駅員もいない。
 駅名も告げず、電車がホーム半ばで停車した。
 数人の乗客がのろのろと下車していって、車内には成美ひとりきりになった。
 ――安治谷駅……。
 あじがや駅。
 改めてみると変わった名前だと思う。考えたこともなかったが、このあたりの地名だろうか。
 跨線橋の向こうに、明治建築風のモダンな駅舎が垣間見える。
 この駅じゃないと成美は思った。記憶と外観がまるで違う。雪の夜、成美が泊まった駅ではない。
 なのに何故か、駅名だけが意識の底に引っかかる。
 あじがや。
 あじがや……。
 空気を抜くような音をたてて扉が閉まり、再び列車が走り始めた。
 ――あじがや……あじやが……。
 どうしてこのフレーズに妙に引っかかるのだろう。成美は眉根を寄せて首をかしげる。
 ――あじゃが。
 いきなり耳の裡で、囁くような笑い声が聞こえた。
 ちがうだろ、なるみ。
 あじゃがじゃなくて、あじがや、っていうのよ。
 ――え……?
 胸の奥に痛みにも似た暖かな感情が広がり、瞬時に消えた。
 憶えのない声と情景。成美は驚きながら自然に胸を押さえていた。いまのはまさか――ううん、違う。そんなはずはない。
 多分、何かの錯覚か記憶のすり替えに決まっている。だって憶えているはずがない。今まで、一度も思い出すことがなかったんだし――
「…………」
 成美はゆっくりと息を吐き、胸からそっと手を離した。
 馬鹿みたい。何を動揺してんだろ、私。
 今更感傷的になるほど子どもじゃない。養女だからといって、実はうちの子じゃなかったのよ、的なドラマがあったわけでもない。
 幼いながらも物心はあったから、自分が養女だったことは認識していたし、いじめられたとか寂しい思いをしたとか、そんな記憶も殆ど無い。
 叔父夫婦はいい人で、実の子と遜色なく成美を育て、大学にまで行かせてくれた。
 そういう意味では、普通の、ごく平凡な人生を歩んできたと成美は思う。だから今の両親が養親だなんて、ことさら、人にアピールするほどのことでもない。
 ただ、養親と成美の間には、ひとつだけ暗黙の了解でタブーになっていることがある。
 それが成美を産んだ実の両親――養父にとっては妹夫婦にあたる2人の話題を出すことだ。
 その程度には、家族にとって嫌な思い出があったのかもしれない。
 いや、多分あったんだろう。
「大丈夫かな、私」
 思わず弱音が口から漏れる。
 なんとはなしに解っている。「初恋の人」を探すというのはそういうことだ。
 避けてきた過去と、初めて1人で向き合うということ。
 そこに何が待っていようと、今回、どうしたって氷室さんは助けてくれない……。
「連れてきちゃったけど、役にたってくれるかな」
 成美はポケットの中から、鍵につけたキーホルダーを取り出した。
 氷室さんに似た北風君。
 私に似ているらしい太陽ちゃんは、多分彼のマンションのキーケースの中だろうけど。
 やばい。今、ちょっと氷室さんに負けた気がしたぞ。
 成美はポケットにキーホルダーを滑らせると、咳払いをして前に向き直った。
 北風――もとい、氷室さんに報告するのは、意地でも年明け、仕事が始まってからにしよう。
 初恋の人に会いました、なんて言ったら吃驚するかな。
 おしおきは困るけど、すこしは驚いてくれなきゃ会いに行くかいがない。
 そして私にも聞かせてほしい。
 あなたが長い休みの間、何を思い、何を見て、何を感じたのか。
 きっとあなたは何も言わずに、いつものように笑うだけだろうけど。
 それでもどうか、私だけには教えて欲しい。あなたの心の、その奥底にあるものを。
  
                 9
 
「よう、久しぶりだな、天」
 応接室の扉を開けると、ソファに鷹揚に座っている男は、コーヒーカップを手にしたままで片手をあげた。
 形よく撫で付けた総髪に、濃いグレーのアルマーニのスーツ。その足元には、仔牛ほどの大きさがある黒犬が寝そべっている。
 男――三条守(さんじょうまもる)は、片頬だけをつりあげて形ばかりの微笑みを浮かべた。
 年齢は氷室より2つ上。水南の同級生で幼馴染。それ以外にどんな関係があったかは、正確には知らない。
「なんだよ。ひでぇツラしてんな。まるで幽霊でも見たような顔してんぜ?」
 氷室は答えず、三条の斜向かいのソファに腰を下ろした。
 無視かよ、と当てつけがましくつぶやいた三条が、ソファに背を預けて足を組み替える。
「聞いたよ。ヘマやらかしてド田舎に飛ばされたんだって? こうしてみると、確かに田舎臭い顔つきになったよな。ま、お前にはそっちが本性だろうが」
「おかげさまで」
 氷室は前を見たまま簡単に答える。すぐに、向井志都が氷室の分のコーヒーを差し出してくれた。
「国土交通省も気を使ってくれたのかね。お前の生まれ故郷と眼と鼻の先だよな。灰谷市って」
「………………」
 答えないでいると、三条は空になったカップを志都の方に差し出した。
「志都さん。もうコーヒーはいいから、ウイスキーを出してくれないか。真ッ昼間からこんな田舎者とシラフで話したくないんでね」
「かしこまりました」
 主人をけなされても顔色ひとつ変えない志都は神妙に頷き、いそいそとカートを引いて出ていった。
「なんだよ、なにかいえよ。それとも怖くて口もきけないのかよ」
 嘲るような口調でいうと、三条は傍らの黒犬の頭を撫でた。
「お前は犬が苦手だったもんな。知ってるぜ? さっきも一瞬足がすくんだろ。必死に苦手を克服したんだろうが、ガキの頃のトラウマってのは、なかなか消えやしねぇからな」
「確かにね」
 氷室は微かに冷笑した。
「確かに今でも残っているようですよ。犬を見ると、無条件に報復してやりたい衝動がね」
「………………」
 今度は三条が眉を歪め、憎々しげに氷室から目を逸らした。
 まだ抗う術を知らなかった頃、氷室はこの男に何度も殺されかけた。
 比喩ではない。実際それくらいの呵責のない狂気と暴力を、この男は取り澄ました顔の下に潜ませているのだ。
 そして何をしても、それをもみ消すだけのやっかいな権力を持っていた。手に負えない狂犬――その鎖を握っているのは、今も昔も水南だけだ。
「まだサインしないのか」
「しませんよ」
 氷室は答え、目の前のカップを取り上げた。
「する必要もない。無駄な問答です」
「言ったろ。水南の遺言だ」
「だからその証拠をみせてください」
「俺が証拠だ。俺がどこまでも水南に忠実な男だってことは、てめぇだって知ってるはずだろ」
 氷室が黙っていると、三条は歯ぎしりするような笑みを浮かべた。
「……お前をム所送りにすることだってできるんだぜ。俺は」
「というと?」
「新聞、見ただろ。今朝からニュースはそればかりだ。お前の預かり知らない間に、お前がやったっていう証拠がどこかから湧いて出てくるかもしれないって話だよ」
「………………」
 新聞はおろかニュースのひとつも目にしていない。
 そういう意味ではこの数日間、氷室は外界から切り離された場所にいたのだ。
「なるほどね」
 とはいえ、だいたいの予想はつく。氷室は落ち着いて指を顎にあてた。
「どうぞ、やりたければお好きなように。ただし僕も、それなりの報復をさせていただきますけどね。そうそう、遅くなりましたが、ご長男の誕生おめでとうございます」
 三条が、氷室を睨むようにして黙りこむ。
 氷室は空になったカップをソーサに戻した。
「用がそれだけなら、今日のところはお引き取りいただけますか。この家でくつろぎたいならご自由にどうぞ。ただしそれは、僕が灰谷市に帰ってからにしてください」
「ふぅん……」
 悔しげにつぶやいた三条は眉をあげ、しかしすぐにその表情を嫌味な笑いの下に溶け込ませた。
「じゃ、どうあっても、この土地屋敷は手放さないつもりなんだな?」
「何度も言いましたが、それは僕の一存では決められない」
「一存、ねぇ。なにをもっともらしいことを言ってんだか……」
 ソファの肘掛けに両手をかけ、やや前傾姿勢になって三条は口元を歪ませた。
「本音で喋れよ。てめぇはただ、意地になってるだけなんだ。水南の遺したものを俺にくれてやるのが嫌なんだろう。え? ただそれだけの、子供っぽい動機だろ?」
 なんとでも言え。
「そうまでして水南の幻影にしがみつきたいのか。未練がましいな、いっそ、憐れみさえ覚えるほどだ。なぁ、ワン公。まだご主人様のくれる餌が恋しいのか?」
 顎の前で、組んだ指をゆっくりと組み替えながら三条はほくそ笑む。その目は冷たく、殺意さえひそめて氷室を見続けている。
「お前はな、水南とのゲームに負けたんだ。まだわかんねぇかな。お前は、とうの昔に飽きられた捨て犬なんだよ。たーかしくん」
「………」
 氷室がそれでも黙っていると、三条はけっと喉を鳴らすようにして顔をしかめた。
「この家は水南の聖域だ。そこに拾われた野良犬が、主人面で出入りしている。俺には、それがどうしても我慢ならない。――クソいまいましい。いっそ、お前以外の誰かが持ち主にでもなってりゃ、こんな気持ちにはならなかったろうによ」
「他に用件は?」
 極めて事務的に氷室は言った。
「なければこれで失礼します。公務員の休みは暦どおりなのでね。あまり時間を無駄に使いたくない」
「そりゃご苦労なこって。向こうに可愛い彼女も待ってることだしな」
 立ち上がりかけていた氷室は、そのまま視線を止めていた。
 今、この男はなんといった?
 にやり、と三条は勝ち誇ったように笑った。
「オイオイ、そんな意外そうな顔すんなよ。その程度なら調べるだろ、普通。珍しく長く続いてるし、案外お前の方が入れ込んでいる。そんなこと今まで一度もなかったしな」
 黙る氷室の横顔をのぞきこむように身をかがめた三条は、ぷっと吹き出すようにして笑った。
「なんだぁ。そこまで解りやすい反応を見せるキャラだったか? お前」
「…………」
「おもしれぇ。なんだよそれ。相手ガキだろ。20歳そこそこ。ちょっと貧乏臭いっていうか、しみったれた感じのさぁ。しかも母親は服役中ときてる」
 止まっていた時に、不意に強い血流が走った。
 なんだと? ――
「あれ、今マジで驚いた。お前?」
 わざとらしく眉をあげて氷室を指さした三条は、その手を口元にあて、くっくっと声をたてて笑った。
「知っとけよ。遊ぶ相手の素性くらい。私生児だし、母親は人間として終わってるし、結構重たい女だぜ。結婚とかまず勘弁な、みたいな? ま、お前にはお似合いだし、こういうの類友っていうんだろうけど」
「…………」
 彼女はなんと言っていた?
 最初の頃、まだはっきりつきあうと意識していなかった頃。
 家族のことを、話のついでに訊いたことがある。
 父が退職して田舎に引っ込んで――だから大学の頃から灰谷市で1人暮らし。確かそんなことを言っていたはずだ。人間観察は得意な方だが、そこに、暗い影は一筋も見えなかった。
 両親の話も、ごく普通に会話に出ていた。お母さんは心配性で、お父さんは頑固者。年の近い姉が1人いる。ごく普通のサラリーマン家庭だということが、話の端々からうかがえた。それを微笑ましいと感じたことさえある。
 黙る氷室を見上げたまま、三条は鼻で嘲笑った。
「俺の情報網を舐めるなよ。お前の彼女を、香澄(かすみ)みたいにすることだってできるん」
 ぐう、と三条の喉が鳴った。ネクタイのないストライプ模様のシャツの襟元を、氷室は渾身の力で掴みあげていた。殆んど無意識の、本能から出た行動だった。
「――香澄にしたことと同じ真似を、彼女にしてみろ」
 猛る感情のまま、唸るように氷室は言った。
「お前を殺す。脅しじゃない。社会的にも肉体的にも抹殺してやる」
「ふざけんな……」
 今度は三条が、歪んだ顔に殺意を満たして氷室の腕を掴み、渾身の力で握り、ひねった。
「そのセリフは、そっくりそのままお前にかえしてやる。お前らが水南にしたことに比べたら、俺が香澄にしたことがなんだってんだ。え?」
「どうとでも言え。彼女に手を出すことは絶対に許さない」
 轟音のような犬の吠え声が室内に響いた。
 三条の連れてきた犬が、主人の危機を察して臨戦態勢に入ったのだ。逆だった毛にむき出しの牙。当然、口輪もリードもついていない。
 三条は犬を制するように片手を出し、しかしその目で挑発するように氷室を見た。
「わかるだろ? 俺の命令ひとつで、こいつはいつだって、お前を噛み殺すぜ?」
「お好きな様に」
 氷室は眉一つ動かさずに冷笑した。
「ただし息の根は間違いなくとめることですね。でないと前のように、大切な愛犬が殺処分の憂き目にあうことになりますよ」
 互いの腕と襟首をつかみ合い、数秒、みじろぎもせずに睨み合った後、不意に三条の腕から力が抜けた。いきりたつ愛犬を一声で黙らせた三条は、ひどく嫌味な笑い方になる。
「……今の一言で思い出したぜ。俺がどんなにお前を憎んでいるのかを、な」
「………………」
「悪いが、お前の彼女をどうするかは、俺の全くの自由だね」
「なんだと――」
「間違っても、てめぇの指図は受けねぇよ」
 三条は、氷室の腕を振りほどいた。さもいまいましげに、カラーを直す。そして喉をさすりながら元通りソファに腰を下ろした。
「確か、成美ちゃんっていったよな。今は里帰りで、養親の家にいるんだよな。なんとかって田舎町――当然お前も知ってるだろ?」
 氷室は何も言えず、眉根だけを寄せる。
「とんでもないクソ田舎で、狸が出ても不思議じゃねぇくらい寂しいとこだよな。田舎だから無用心で、扉に鍵もかけやしない。物盗りが入ってもちっともおかしかねぇよな。天」
 落ち着け。これは挑発だ。
 氷室は自分に言い聞かせた。
 何もかも自分の手の内だと、そういって俺を脅しにかかっているだけだ。
 とはいえ、もう手遅れだ。なんとも馬鹿げたことに、最初に自分から暴露してしまった。
 彼女のことになると、平静心を保っていられなくなることを。
 これでは、自分の弱みは日高成美だと、わざわざご丁寧に教えてやったようなものだ。
「夜道でうっかり襲われちゃっても、きっと誰も助けにこねぇんだろうな。田舎だから街頭もないし、近所に人もいねぇだろうし。そうだ。正月ってあれ、警察ってやってんの? ん? 公僕、返事くらいしろよ」
 ――なるほどな。
 ようやく冷静さを取り戻した氷室は、三条の思惑を理解した。
 彼女の身の安全と引換にこの屋敷を手放せと、三条はそう言いたいのだ。
「さぁ、やっているんじゃないですかね」
 氷室は微笑し、肩をすくめた。自分でも虚勢だという自覚はあったが、今は他にとるべき態度が思いつかない。
「あなたがそう出るなら、僕もそれなりの策を講じるまでですよ。先ほどは控えめに申し上げましたが、僕ならあなた以上に巧妙に、あなたを獄中に送ることができると自負しているのですがね」
「……そいつは、どうも」
 案の定、三条の微笑みは幾分か強ばって見えた。
 互いの視線が、探るように絡み合う。
 どちらの狂気が本物で虚勢か、今は、互いに胸の裡を探りあっているのだ。
「では、失礼。僕はまだ家の仕事がありますので」
 氷室は丁寧に言って、ようやく重苦しい部屋の扉を開けた。
 外には、待ちかねたような顔で向井志都が立っている。立ち聞いていたのか、はたまた入るタイミングを見計らっていただけなのか。
「くそッ」
 扉を閉める間際、小さくだがそんな舌打ちが室内から確かに聞こえた。
 が、廊下に出た氷室もまた思っていた。今のは完全に俺の負けだ。
 水南と別れてから、色んな女性とつきあいはした。そのどれもが自分の弱みになるとは、これっぽっちも思わなかった。いつでも切れるし、別れられる。そう、本当の意味で、自分の心は誰にも奪われはしなかったからだ。
(珍しく長く続いてるし、案外お前の方が入れ込んでいる。そんなこと、今まで一度もなかったしな)
 その通りだ。
 なのに、迂闊にも想像もしていなかった。
 三条みたいな危険な獣が、まさか日高さんのことを調べていたとは――
 
               

 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。