6
 
 
 現実の光景が氷室の視界に戻ってくる。
 気が遠くなりそうな量の本、死の誘惑に満ちた部屋。室内に響く秒針の音。
 目の前の本1冊1冊を、それらが並べられたルール通り、一から辿って調べていく。
 向井志都のオーダーどおりの作業に、氷室はこの2日――屋敷についてからというもの、ずっと1人で明け暮れていた。
 何故こんな馬鹿げた真似をするはめに陥ったのか、正直、今でもわからない。
 何度断ってもかかってくる電話に、いい加減辟易したのもある。形だけでも本を探すふりをして納得させようと思ったのもある。――が、本当にそれだけだろうか。
 氷室自身が、やがて耐え難い誘惑にとらわれはじめていたのではないだろうか。
 もう一度、……この部屋に戻ってみたいと。
「………………」
 眉を寄せた氷室は、苦く笑って息をついた。
 だとしたら、なんとも愚かな選択をしたものだ。
 だいたい前提からしてこの話はおかしいのだ。
 死の1日前に、水南がまともな遺言を残せたはずがない。
 向井志都の話を全面的に信じるとしても、その時の水南が、まともな精神状態だったはずがないのだ。
 通夜の末席で聞いた話では、がん細胞は脳に転移し、最後の1ヶ月はあらぬうわ言ばかりを口走っていたという。髪は抜け、別人のようにやせ細り、かつての彼女を知る者なら目をそむけずにはいられないほど凄惨な亡くなり方だったという。
 もちろんモルヒネも投与されていただろう。とすれば、会話すらままならなったはずなのだ。
 つまり――妄言。
 全ては水南の最期の妄想で、本など、はじめから存在しない。
 気づけば、お茶を載せたカートを押してきた向井志都が、氷室の足元に立っている。あたかも監視者のように、氷室の一挙手一投足にじっと目を凝らしている。
 氷室はその視線をやりすごしながら、もうひとつの可能性を冷ややかに考えた。
 これは向井志都の嘘で、つまりは全くの作り話だということ。
 志都の動機はいくらでも思いつく。彼女が、いかに氷室を忌み、憎んでいるか。想像するまでもないからだ。
 氷室は天井まで続く書棚を見上げた。
 ――が、一番の謎は、俺自身だ。
 こんな仕打ちを受けると判っていて、何故、俺はこの部屋に戻ってきた?
 ありもしない本を探すために――永遠に解決しない謎を解くために。
「――天さんッ」
 不意に足元の志都が声を荒げた。人が変わったように荒々しい口調だった。
「本の位置は絶対に変えないでくださいませッ。そちらはもう一冊左寄りですッ」
 狂気さえ窺える、場違いに激しい口調。しかし、その意味を知っている氷室は、何も言わずに志都の指摘した場所に本を戻した。
「この部屋のものは、1ミリたりとも動かさないでくださいませ。土地も屋敷も、確かに何もかも天さんのものになりましたけど、この部屋の中だけは」
 おそろしく早口で言った志都は、そこで言葉を切り、あたかも挑むように鋭く氷室を睨んだ。
「お嬢様そのものでございますから」

              7
 
 ふと指が止まったのは、背後に視線を感じたような気がしたからだ。
 錯覚だ。また、いつもの。
 氷室は自分に言い聞かせ、再び本の背表紙を目で追い始めた。
 あれから日付は二度変わり、時刻は今、深夜2時を大きく回っている。
 さしもの向井志都も就寝したのか、すでに家中がひっそりと静まり返っている。12LDKの豪邸の中で、明かりがついているのは、間違いなくこの書庫だけだ。
 ふと、自分がしていることが可笑しくなった。
 書庫にこもって、これで4日目だ。
 本など最初からないと解っているのに、一体何を探そうとしているのだろう。
 そう思いつつも、目だけは律儀に本の背表紙を追い続ける。
 Different Seasons、Bag of Bones、Pet Sematary……。この列はまるまるスティーブン・キングだ。恐怖、骨、墓、表題だけでもぞっとするラインナップ。
 列から計算すると、水南が12歳あたりの本。その前が純文学や哲学書ばかりだったから、この辺りから大衆作家を好んで読み始めたのだろう。
 そう、この書棚の本の配列は、持ち主の年齢と呼応している。
 その時々で購入した本が――それはとてつもないハイペースで買われているのだが、幼い頃のものから1冊残らず全て順番に納められているのだ。
 今から20年以上も前、この屋敷で暮らすことになった氷室に最初にあたえられた仕事が、水南の書斎の管理だった。
 だから大げさではなく、本の配置ならほぼ正確に記憶している。本だけではない。壁にかけられた絵の配置までも、狂いなく記憶している。
 それは向井志都も同様で、つまり今の作業に意味がないことを、おそらく2人とも同じ程度には知っているはずなのだ。
 ――なのに志都さんは、最初から書棚をみろといって譲らなかった。
 肉体はひどく疲れているのに、頭だけが冴えている。氷室は眉をひそめてその意味を考えた。
 何故だろう。もしこれが嫌がらせでないとすれば、『書棚』に何か意味があるのだろうか。
 そしてもうひとつ、志都の態度以上に気になることがひとつある。
 絵の配置だ。
 書棚を移動しているうちに気がついた。かつてあったはずの絵の一枚が、壁に跡だけ残して失くなっている。
 失くなっているのは、書庫の入り口側に並んだ西洋絵画のレプリカではない。残酷なレブリカたちの展示場の先、灰色一色の水彩画がずらりと飾られているスペースである。
 ある意味、残酷な西洋画よりもなお恐ろしいその絵は、全て同じタッチ、同じアングルで、同じ静物を描いたものだ。
 今、氷室がいる場所――後藤屋敷の鳥瞰図。それが、全部で21枚並んでいたのだ。
 脚立を降りた氷室は、ゆっくりとそれらの絵の方に歩いて行った。
 21枚――いや、20枚だ。やはり、1枚欠けている。
 何か意味があるのだとしても判らない。習作なのか、それとも意図して21枚が描かれたのか。それすら氷室は知らないからだ。
 灰色の鳥瞰図。キャンパスの片隅に、世界から切り取られたようにひっそりと描かれた後藤屋敷――。
 これもまた、ヒントなのか?
 青い本、雪、一枚だけ抜けた絵画。
 いや。
 氷室は意識をそこに馳せるのをやめた。
 ないというからには水南が持っていったのだろう。それだけのことだ。意味などない。
 青い本など最初からないのだ。向井志都が嘘をついていなければ、それは死に際の人が見た妄想だ。
 気持ちを切り替え、氷室は再び元の場所にもどると脚立に登った。
 0歳児から始まる水南の記録を、今、氷室は12歳まで追いかけている。これでまだ5分の1にも満たない。彼女の異常なまでの書痴ぶりが発揮されるのは、まだこれからなのだ――。


(……天)
 まどろみに引きずり込むように、闇の中から声がいざなう。
 はっとして氷室は瞬きをした。
 秒針の音が、無音だった世界に戻ってくる。
 午前3時5分。脚立の天辺に座ったまま、一瞬だが確かに意識が途切れていた。
 睡眠にいざなう甘い感覚。そこに水南の声が混じったことに、何故だか嫌な身震いがする。
 目の前には、思春期を迎えた水南の歴史が並んでいた。
 氷室は指を目頭にあて、本の確認作業を再開する。
 ずっと中国の思想書ばかりが並ぶ書棚。似たようなタイトルラインと常用外漢字の羅列。水南が普通でないのは重々承知だが、10代前半の女の子が、こんなもの、何が楽しくて――
「…………え?」
 そこでいきなり飛び込んできた文字に、氷室は面食らって瞬きした。
『愛について』
『愛の科学』
『愛のもたらす効用』
「………………」
 そうか、水南は一時期恋愛に関する本を好んで読んでいた。そういう面もあるのかと、当時も意外に感じたことを思い出す。
 視線を巡らせれば、その棚はまるまる、愛だの恋だの似たようなタイトルが並んでいた。
『愛の謎』
『愛という悲劇』
『愛が終わる時』
 ――うそだろ。こんなにあったのか。
 もしかして、愛と名がつく本を片端から注文していたのではないだろうか。それくらい、頭文字に愛がついたタイトルが整然と並んでいる。
 この当時、氷室は12歳。
 そういった水南の側面を、どこかで嫌悪していたような記憶がある。俗っぽい、所詮女だ、と。
「………………」
 が、30才を超えた今、むしろこのラインナップを微笑ましいと思うのは何故だろう。
 水南にも普通の少女らしい感情が、――書物相手にせよ、一時期にしろ、あったのだろうか。
 次に引き出した本を見て、氷室はわずかに眉をあげた。
 『Jenseits von Gut und Bose』
 ドイツ語だ。
 日本語で訳されたものなら氷室も目を通している。フリードリヒ・ニーチェの哲学書『善悪の彼岸』である。
 まさかと思うが、これも水南の感覚でいえば「恋愛カテゴリー」なのか?
 氷室は苦笑したまま、ページを無作為にめくった。読めないことはないが、さすがにここまで専念的な用語が並ぶと、辞書なしでは読みきれない。
 しかし、こうして改めて亡き妻の軌跡を辿っていくと、今まで考えもしなかった彼女の側面がかいま見えてくる。
(ねぇ、天。ネバーランドにどうして子どもしかいないか知っている? ピーターパンが、大人になった子どもを殺しているからなのよ)
 氷室が出会った最初から、水南は夢見がちなドラマの裏に潜む残酷な真実を知っていた。
 いや、残酷な結末をむしろ好んで追い求めていた。
 セックスも結婚も、愛という一時の情熱の果てにある結末さえも、彼女はすべて書籍の中から学んでいたのかもしれない。
 だから自分に向けられた愛に、恐ろしいほど冷淡でいられたのか――
「…………」
 氷室は微かに目をすがめ、入り込みかけた思考の闇を振り払った。
 いや、――結局は全てが想像だ。
 水南という女の真実など、俺には永久に解らない。
 本を閉じようとして、ふと指がある違和感に気がついた。
 その感覚のままに指で辿ったページを開いてみる。ページが一枚、破り取られている。
 水南の本はどれも、折れ目一つつかないほど丁寧に読まれ、そしてほぼ新品さながらの美しさで保管されている。たかがページの欠損とはいえ、明らかにこれは異変だ。
 ――このページ……。
 何があった? 
 氷室は眉を寄せ、和訳本を読んだ時の記憶の断片をたぐりよせる。
 145節……146節。
 すぐに、ある有名すぎるセンテンスが浮かび出る。
 が、それがなんの意味を持つのか判らず、氷室は破れたページを記憶にとどめ、眉をひそめて本を閉じた。


 ただ無為に指と目を動かしている間に、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 ふと、背筋にひやりとした感触を感じ、氷室は微かに肩を反応させた。
 何かが、背後に潜んでいる。
 闇の裡から、無言で氷室を見つめている。
 錯覚だ。もう何年も前から続く幻覚。
 けれど、いつもはやり過ごせるこの感覚が、今は耐え難いほど生々しく感じられるのは何故だろう。
 まるで深淵に棲む怪物が、淵から顔をのぞかせているかのように。
「………………」
 その怪物の正体を、氷室はもう何年も前から知っていた。
 怪物は、夜、必ずある女の姿を借りて現れるのだ。
 そうして氷室を、優しい声で誘惑する。
 こめかみを指でおさえ、氷室は幻影を振り払おうと頭を振った。
(無駄よ……)
 微かな、あるかなきかの息遣いがすぐ背後から聞こえてきた。
 夜の深淵。秒針が刻む単調な繰り返し。
(無駄よ……、天、私はいつも、あなたの傍によりそっているのよ)
 囁きにも似た吐息が、密やかに混じりはじめる。
 闇の裡から、いつも聞こえてくる声。
(天……、ほら、逃げていないで私を見て?)
 氷室は目を閉じて首を振った。幻聴だ。記憶の中から聞こえてくる声だ。
 誰にも聞こえないのは判っている。しかし、俺にだけは確かに聞こえる。これは一種の幻聴なのか? だとしたら、俺の神経はもう随分前からいかれている――
 針の音が不意にやんだ。
 時が静止したような沈黙。
(天……)
 駄目だ。
 振り返るな。
(天……私を見て)
 そこにはいない。
(私を見て)
 もう君は、そこにはいない。
(ずっとあなたを好きだったのよ。子どもの頃から、ずっと)
 もう君はどこにもいない。
(天―― !)
 衝かれたように、氷室は振り返っていた。
 心臓が軋むように高鳴り、腹の底が冷えた。
 肩に流れる漆黒の髪。青みを帯びた切れ長の瞳が、まるで断罪するもののように気高く、氷室を見下ろしている。
 ――水南……。
 生きていたのか。
 いきなり、電子音が凍りついた氷室の心を切り裂いた。
 鼓動の音と一緒に、秒針の音が戻ってくる。
 氷室はようやく――自分の背後にあったものが、この部屋を飾る水彩画のひとつだということに気がついた。
 この部屋で唯一、明るい色彩で描かれた絵。
 16歳の水南を描いた肖像画だ。
 氷室は動転する気持ちを抑えるように、自身の口を手で押さえた。
 衣服と肌の下で心臓が激しく鳴っている。
(――天)
 春の木漏れ日のような優しい笑顔が、まるで昨日のことのように氷室の脳裏に蘇った。
(――天、どこなの? ここにいるんでしょう?)
 封印してきた記憶の欠片が、一気に胸から溢れでる。
 幾万にも色を変える神秘の眼差し、真理と愛と裏切りをつむぐ唇。
 笑顔、泣き顔、甘えた顔。
 白い肌と青と影を帯びた瞳、吐息、囁き、背後から抱きついてくるひんやりとした指の感触。
(ねぇ、あなたは暇があればこの絵ばかりを観ているようだけど、本当の私とどちらが好き?)
(とぼけないで。教えて天。あなたの目に映る私は、本当にこの絵と同じなのかしら)
(天……今日はずっと一緒にいて……私を絶対に離さないで……)
「…………な」
 乾いた唇から、ようやく干からびた声が出た。
 ミナ。――水南、水南。
 閉じ込め、鍵をかけ、二度と顧みないと思っていた感情が、激流のようにあふれだす。
 君を愛していた。
 君だけだった。
 これほど人を好きになったことはない。――これほど、自分が狂うかもしれないと思うほど、誰かを愛したことはない。
 そして、これほど人を憎んだこともない。
 いっそ、殺してやりたいと思うほど。
 実際僕は君を殺し、君もまた僕を殺した。――水南、でも僕は、君ほど完璧に、見事に、相手の息の根を止めてはいない……。
「水南……」
 低く呻いた氷室は、両手を髪にさしいれて頭を垂れた。狂おしい苦悩が蘇り、悲しみと絶望で胸がたちまち埋め尽くされる。
 一生後悔するわ、天。
 私じゃない。あなたがよ。誓ってもいいわ。あなたは今夜のことを生涯悔やむことになるのよ。
 その通りだ、水南。
 僕は生涯、君の幻から逃れられない。
 僕の中の君が消えない限り――僕はこの場所から、どこにも行けやしないのだ。
 そして君の影は僕がどこに逃げてもつきまとう。
 どこで、違う人生を生きようとしても。


 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。