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「天さん、お夕食は何時頃にいたしましょうか」
 本を書棚に戻した氷室は、眼鏡に指を添えて声の方を振り返った。
「いえ――食事なら外に食べに出ます。あと少しでこの棚を見終わるので、志都(しづ)さん、お疲れだったら先にお帰りになってください」
 冬の書庫は、底冷えといっていいほどに冷えていた。
 室内の半分を吹き抜け屋根で覆われた、百畳はあろうかというほどのただ広い洋室。その西側の壁は、床から天上まで黒檀の書棚で覆い尽くされている。
 室内の中央にも同じ書棚が幾筋も設置されており、そこには数万を超える書籍が収められていた。
 本は、全てがハードカバーで、一見新品のようにも見えるが、少なくとも1人の人間が確実に読破している。和書が大半だが洋書もかなりの比率でまじっており、ジャンルは、文芸、哲学、美術、医学、法律、古典――
 ぞっとする。
 これだけの本を、氷室よりわずかに年上の女が、全て読みきったのだと思うと。
 ぞっとするのは本の数だけではない。壁にかけられた絵もそうだ。
 書棚を囲む壁の空いたスペースには、西洋絵画のレプリカが所狭しと飾られている。どれも暗い、陰鬱な色彩で、死と残虐性に満ちたものばかりだ。
 ヴェチェッリオの『皮をはがれるマルシュアス』、パルミジャニーノの『ルクレツィア』、カラヴァッジョの『ホロフェルネスの首を斬るユディト』……。
 中でも氷室が最も苦手なのが、入り口にはいってすぐの場所にある『我が子を喰らうサトゥルヌス』である。
 フランシスコ・デ・ゴヤがその晩年に描いたといわれる『黒い絵』の一枚。狂気の極みの形相をした白髪の巨人が文字通りわが子を頭から食いちぎっている絵だ。
(天、知ってる? 修復される前のサトゥルヌスには、勃起した性器が描かれていたそうよ。それは一体何を意味していたのかしら)
 この夏に死んだ氷室の元妻――後藤水南(ごとうみな)。
 この部屋は彼女の頭脳であり、同時に人生の軌跡でもある。
 部屋を飾る絵の数々は決して彼女1人の趣味ではない。いってみれば、過去から累々と続くこの家の歴史である。彼女たちがあえて残酷な絵を蒐集したのには理由があるのだ。それは――
「いいえ、夕食は絶対にこのお屋敷でとっていただきます」
 向井志都の淡々として厳しい声が、氷室を現実に引き戻した。
「もう用意しているものを、いまさら無駄にされては迷惑です。こちらにお運びいたしますのでおっしゃってください。何時に食事をなさいますか?」
 氷室は微かに嘆息した。
 昨日もそうだったが、食事までこんな場所でとったら息が詰まりそうだ。
「外に出ますよ」
「いいえ。ぜひともご用意したものをお召し上がりになってください」
「お願いだから、僕に気を使わないでください。僕は何も、客としてこの屋敷に戻ってきたわけじゃないんですから」
「私はそのつもりで準備しておりました」
「………………」
 ――無駄だな。何をいったところで。
 氷室は反論をあきらめ、視線を再び書棚に戻した。
 この人と俺の間に、まともな会話は成り立たない。
 そう、昔からそれはひとつも変わらない。
 あれから20年たった今でも、氷室と対峙する時の、彼女の嫌悪と蔑みを含んだ眼差しは変わらない。いや、それは年をおうごとに、ますます強くなるばかりだ。
「もう一度お聞きしても?」
 抑揚の欠けた声で志都は続けた。
「お食事はいつになさるのですか。天さん」
「――後でいいですよ。今はきりが悪いので」
 氷室は少し投げやりに言った。
「なにしろ、この膨大な書籍の中から、タイトルも作者名もわからない本を探すんですからね。いつ終わるとも知れません。どうか僕につきあおうなどと思わずに、志都さんはご自宅にお帰りください」
 
             5
 
「お嬢様の、本を探していただきたいのです」
 そんな電話が、向井志都から灰谷市の氷室のところにかかってきたのが、今から2週間も前のことだった。
「本? というと?」
 その夜、氷室は酒席からの帰宅の途中で、繁華街前の道路でタクシーに乗り込む寸前だった。
 携帯を持ち直した氷室の前を、次の客が迷惑げにすり抜けていく。
 氷室は仕方なく携帯を耳にあてて移動した。
「ですからお嬢様の本です。天さんもご承知のとおり本は沢山ございますが、その中から1冊、今からあたくしがいう本を探していただきたいのです」
 ――は?
 なんの話かよくわからないが、本というからには、屋敷の東側にある水南の書庫の蔵書を指すに違いない。
 お嬢様――水南の所有していた本は、1冊残らずその部屋に納められているからだ。
「ちょっと待って下さい」
 さらに向井志都が続けて説明しようとしたので、氷室は急いでそれを遮った。
「僕に、彼女の書庫は――わかりませんよ。むしろ、志都さんの方が詳しいでしょう。なんの本だかわかりませんが、ご自分でお探しになった方が早いのではないですか」
 主を失った水南の書庫は、向井志都が毎日掃除をし、冊数などの欠落がないかも含め、恐ろしく厳しく管理している。あの書庫は、今も昔も向井志都――水南の忠実な下僕だった女の聖域なのだ。
 しかし、構わずに志都は続けた。
「青い表紙の本、ということでございます。硬いカバーで、厚さは2センチもないくらいでしょうか。大きさは不明です」
 溜息をついて、氷室は訊いた。
「タイトルは」
「わかりません」
「作者は誰だかわかりますか」
「わかりません」
 ――……?
 わけがわからない。
 氷室は本気で訝しく思って眉をひそめた。
「すみません、あなたが判らない以上に、僕も意味がわからない。タイトルも著者名も解らない本をやみくもに探せと言われても……」
「ですからその本には、タイトルも作者名もないのです」
「………………」
「そういう本を探してほしい、ということなのです」
 嫌な既視感がふと胸をかすめたが、氷室はその考えを急いでよそに追いやった。まさかな。――水南はもう、死んだのだ。
「わからないですね」
 落ち着いて、氷室は言った。
「そもそも志都さんの話には前提が抜けている。最初から順を追って説明していただけますか。いったいなんのために、僕がそんな本を探す必要があるんです」
「存じません。ただ私は、そう言い遣っただけでございますから」
「誰に」
「お嬢様に」
 その途端、背後の喧騒がやみ、氷室の時が凍りついたように停まった。
 水南に――
 水南に、だと?
「……その、タイトルも作者も解らない本を、僕に探せと?」
「はい」
 淡々と志都は答える。
「天さんなら、知っているからと」
「僕が」
「はい。たしかにそう、お嬢様はおっしゃられました」
 既視感が現実にとってかわる。
 いやまて、水南はもう死んだのだ。この世のどこを探してもいない。
 眉を寄せ、氷室はひとつ息をした。
「確認しますが、それはいつの話なんです」
「お嬢様がお亡くなりになる、1日ほど前のことでございます」
 1日前。
 1日前か……。
「それは、志都さんもご存知ない本なんですね」
 次にそういった時、すでに氷室は冷静さを取り戻していた。
「残念なことに、僕に思い当たる節はひとつもありません。ご承知のとおり、書庫の本なら志都さん同様、僕も大抵を記憶している。――もしかするとそれは、僕や志都さんのしらないところにある本なのかもしれませんよ」
 暗に、ある可能性をほのめかしたつもりだったが、志都は即座に言い切った。
「いえ、本は間違いなく、お屋敷の書庫にあるものと存じます」
「どうしてそう言い切れるんです」
「どうして? ではお嬢様は、何故天さんにそんな頼み事を残されたのでしょう」
「……………」
「本はお嬢様の書庫にあるのです。ですから他の誰でもなく天さんに頼まれたのです。あたくしはそう思います」 
 答えず、氷室は心中苦く息を吐いた。
 もうひとつ――いやふたつか、思いつく合理的な理由がある。
 が、それをこの人に面と向かって言ってみるだけ無駄だろう。
「とにかくお屋敷に戻ってくださいませ。そうしてお嬢様の書庫を見て下さいませ。一冊残らず、全て確認してくださいませ。他の場所にある可能性は、その後存分にお考えになってくださればよろしいでしょう」
 待ってくれ。冗談じゃない。
「確かに見れば思い出すかもしれませんね。僕も、彼女の書庫のなにもかもを記憶しているわけではありませんから。でも、おかしくはないですか? 何故、今になってなんです」
「今になって、とは?」
 空車のタクシーが近づいてくる。今はもう、一刻も早くこの電話を終わらせたかった。 
「それが遺言だとしても、彼女が亡くなってもう半年です。ご承知のとおり、彼女の遺言をめぐっては、色々と問題が起きている。何故今頃になってそんなことを僕に伝えようとするんですか」
「それでしたら、理由がございます」
「ほう、ぜひお聞かせください」
 それが嘘か嫌がらせ以外の理由であれば、ぜひ。
「雪です」
 雪?
 乗り込んだタクシーに行き先を告げようとした氷室は、その言葉に眉を寄せる。
「雪が降りはじめた時に天さんにお伝えするよう、そう申しつかったからです」
 ――雪……。
 自分の視野が、一瞬幻のように吹雪に覆われたような気がした。
 はっと我に返り、氷室はその幻影を振り払う。
 東京には、12月の始めに珍しく早い初雪が降ったばかりである。
「もちろん私には、お嬢様の意図はわかりかねます。けれど天さんには、当然お分かりになったものと存じます。天さん、一刻も早くお戻りください。ただの頼み事ではございません。これはお嬢様の、れっきとした遺言なのです」
 遺言なのです―――








 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。