3
 
 
 よそう。この休みの間、私は氷室さんのことは考えないと決めた。彼もまた、私のことは考えないと決めているはずだから。
 こみあげた寂しさと心細さを、成美は首を横に振って押しやった。それに今は、氷室の次に面倒な相手が目の前に立っている。
「おい、解ってると思うけど、補佐の一件で余計なことは口にすんなよ」
 面倒な男パート1(一応彼氏なので、氷室はそこに含めない)。雪村の用件は案の定だった。
 ややむっとした顔で――それでも傍目には少女のように美しい面差しに見えるのだが――雪村は続けた。
「補佐の怪我はあの男とは関係ないし、もうあの件は、何もかも終わったんだ。俺たちの取り越し苦労。徒労だよ」
「まぁ、それは何回も聞きましたけど」
 少し、ふてくされて成美は言った。
 補佐の怪我は、あの日デートした男――大明グループの御曹司、大明拓哉(だいみょうたくや)の私的な喧嘩に巻き込まれたからで、2人の間には何もなかった。そういう説明なのである。
 一応は納得したものの、それでも雪村の態度に、成美は一抹の不満を覚えずにはいられなかった。
 実際補佐は無事だったし、大明ともさっぱり手が切れたようだ。しかしあの怪我は――やはり、大明に何かされたのではないだろうか。
 多分、雪村だけは、補佐からそのあたりの事情を聞いたに違いない。その上で、あえて上辺だけの当たり障りのない説明を成美にすることに決めたのだ。
「いちいち心配してくれなくても、誰にも言ってないですよ。補佐を心配してるのは、何も雪村主査だけじゃないんですから」
 唇を尖らせて成美は言った。
 まぁ、氷室さんにだけはちらっと打ち明けてしまったけど。
 その氷室も「まぁ、大丈夫なんじゃないんですか」と涼しげに笑うだけだった。正直言えば彼もまた、成美に何かを隠しているような気がしてならない。
 その時、定時を告げるチャイムがなった。今年最後の定時を告げる音色が、どこか間の抜けた調子で2人の頭上に鳴り響く。
 入庁した時から思っていたことだが、これってどういう意図で作られた音だろう。学校のチャイムの方がまだマシに思えるほどの不協和音……。
「いつも思ってましたけど、変わったメロディですよね」
「は? お前知らないの? このチャイムは市歌を元に作られてんだよ。もっとも音源が古いからちょっと音の調子か狂って……」
 そこまで言いかけた雪村が、不意に愕然と表情を強ばらせた。
「しまった! またひとつ夢が壊れた!」
「はい?」
「俺はこの――仕事納めの今日という日に、あの人と2人で定時を告げるチャイムを聞くのが夢だったんだ。今年も1年ご苦労様。補佐もお疲れ様でした。目と目をあわせるだけで、そんな2人の心の会話が聞こえてくるようじゃないか」
「………」
 顔に似合わず――もとい気性に似合わず、この乙女な性格はどうなんだろう。
この間もうっかり聞こえた着信メロディは、『365日のラブストーリー』だった。本当についていき難い。
 しかも、すっかり気を許されたせいだろうが、それを私の前でダダ漏れにしなくても。
「じゃ、私はこれで」
 が、背を向けかけた時、その雪村が背後から成美を呼び止めた。
「お前、休みはどうすんの」
「え、休みですか」
 なんの話? 足をとめた成美は戸惑って瞬きをする。
「いや、用事でもあるのかと思って」
 そりゃ、あるでしょう普通。用事くらい。
「明日は1日掃除して……29日に実家に帰りはしますけど、仕事ですか」
「ああ、そういや日高、ひとり暮らしだったもんな」
 少し視線を下げて耳の上あたりを掻いた雪村は、「4日、空いてる」といきなり言った。
「はい、4日?」
「いや、コンサートのチケットがあるんだけど」
「なんのですか」
「ウィーン・フィルハーモニー。こないだチラシが回ってたろ」
「はぁ……」
 しばらく考えた成美は、ん? と、眉を寄せて顔をあげた。
「えっ、それもしかしてデートの」
「しっ」
 目に激怒の色を走らせ、雪村は自分の口に指をあてた。
「誤解されるようなこと言うな。余ったんだ。でなきゃ誰がお前みたいな鳥頭を人間向けのコンサートに誘うか」
 なにそれ、と思ったが、今は別のワードが頭にひっかかっている。
「……余った?」
「2枚買ったけど、まぁ――そういうことだ」
 怒ったようにそう言ったきり、雪村はふいっと視線を逸らした。
「…………」
 同じようにしばらく黙った成美は、今度は眉をあげていた。
「もしかして、補佐にふられたんですか!」
「う、うるさいな。てか、いちいち考えこんでから気づくな。――で、行くのか、それとも行かないのか」
 いやぁ、それって……。
 つまりは補佐の代役ですか。
 なんか、断るのも身の程知らずのような気がするんですけど。
「その……すみません」
 実家でちょっと、しないといけないことが。
 それ以前に、私の背後には、人間離れした恐ろしい能力の持ち主がいるんですよ。
「……デビルマンが」
「はい?」
 少なくとも氷室さんの許可は必須だし、で、絶対うんというはずがないし。
 いずれにしても、断ろうとした時だった。西、東の両フロアから、ぞろぞろと人が溢れでてきた。
 東に総務課の可南子(かなこ)。西に沢村烈士(さわむられつし)の姿を見た成美は大慌てで雪村に背を向けていた。
 慌てたのは雪村も同じで、もはや急ぎ足で執務室に戻ろうとしている。
「じゃ、また連絡するから」
「は、はい」
 えっ、あ、いや。私はそれ、断るつもりで。
 しかし振り返った時には、雪村の綺麗な背中はすでに観音扉の内側に消えている。
 まぁ、いいか。連絡もらった時に断れば。
「よう、おつかれ」
 雪村に続いて執務室に戻ろうとした成美の背に、今度は沢村のハスキーな声がかけられた。
 うわ。また面倒な人に見つかった。
 そうは思ったものの、一応立場でいえば先輩である。成美は引きつった笑顔を浮かべて振り返った。
 面倒な男ナンバー2。道路管理課の沢村烈士。
 鋭く研ぎ澄まされた野性的な顔立ちに、180センチ近い背丈。
 痩身の氷室と違って、スーツの上からでも厚みを帯びた肉体が透けて見えるようだ。一言で言えば、雰囲気だけでとんでもなく怖い男。
「お、お疲れ様です。もう帰りですか」
 殆んど逃げ足でおざなりに挨拶した成美の行く手を、沢村は何気ない素振りで遮った。
「飲み。今から管理の連中と飲みに行こうって話になってんだけど、日高さんも」
「いきません」
「……即答だね」
 やや呆れた目になった沢村は、すぐにその目に意地悪い光をにじませた。
「いいじゃん。冷血監視ロボみたいな彼氏、どうせ東京に帰ったんだろ。今の間に遊んじゃえよ」
「いやですよ。冗談じゃない。それに監視の目なら、いくらでも光ってるじゃないですか」
「なんで? 俺は日高さんの味方だよ。絶対に言ったりしないって」
 一番危険で信用ならない人が何言ってんだろう。
「すみません。まだ仕事残してるんで」
「なぁ、来いよ。男ばっかの飲みでウンザリしてたんだ。金欠なら俺が奢ってやるからさ」
 何、コンサートといい、飲みといい、もしかして私、モテ期ですか。
 しかし、沢村にしろ雪村にしろ、本命は間違いなく柏原補佐なのだ。言っては悪いがどちらの誘いも迷惑だとしか言いようがない。
「ちょっとどいてくださいよ。また誤解されるじゃないですか」
「日高さんからかうのも、これが今年最後だと思ったら、さ」
 そんなことを言いながら、明らかに面白半分に成美の行く手を塞いでいた男が、不意にその顔に狼狽を浮かべて後ずさった。
「――っ、じゃ、そういうことで。よいお年を」
 ――え?
 強張ったままの顔を伏せ、まるで別人のようにこそこそ去っていく沢村烈士。
 役所でも強面でとおっているこの男に、そんな態度を取らせる人間は、成美が知る限り2人しかいない。
 その内1人は、すでに東京の空の下だから、残るは――
「日高さん、早く戻って」
 予想通り、成美の背後には柏原補佐がやや険しい目をして立っていた。
「今日は定時を過ぎたら、課長の挨拶があると伝えていなかった?」
 しまった。そうだった。
「すっ、すみませんっ」
 行政管理課長の尾崎は、一見蝸牛みたいに愚鈍そうな男だが、その実けっこう気短で、怒りっぽいところがある。成美も身を持って知っているが、怒らせると面倒な性格をしているのだ。
「伝達事項は忘れないように。課長には私の用事で外に出たと伝えてあるので」
「……すみません」
 ひたすら萎れて謝りながら、成美は先程の、ちょっと情けない沢村の態度のことを思い出していた。
 何も好きな人の前で、毛虫か幽霊でも見たような反応をみせなくてもいいのに。
 昔はもうちょっと不遜な態度だったような気がするのに、一体どういう変化だろう。
 最近の沢村は、どうも柏原補佐を避けているようだ。
 前みたいにちょいちょい法規係に顔を出すこともなくなったし、廊下ですれちがっても、気づかないふりで通りすぎる。
 もちろん柏原は意にも介さず平然としている。いや、もしかすると沢村の変化にさえ気づいていないのかもしれない。
 ――私の、思い過ごしだったかな。
 補佐はなんとなく――沢村さんを意識してたような気がしたんだけど。
 雪村さんには本当に気の毒だけど、2人の間に、少しだけ特別な空気を感じたんだけど……。

 


 
 
 
 
 
 
 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。