1
 
 知ってる? ずっと地獄の中にいるとね、そこが地獄だってことが、判らなくなるのよ。 

 氷室は薄く目を開けた。
 耳障りな電子音がして、胸の内側で携帯が小さく震えている。
 最悪だ。いつの間にかうたた寝していたらしい。
 上りの新幹線、目的の駅まであと一駅。全車両満席で、いつもは静まり返ったグリーン車も、今日はどこか雑然としてみえる。
 氷室は眉をしかめ、眼鏡の下から指を入れて、眉間のあたりを軽く揉んだ。
 寝不足だ、解っている。それはすでに慢性的なものだが、いつも平気でいられるわけじゃない。時折――そう、今みたいに気が緩んでいる時に、眠りはいきなりやってきて、容赦なく意識を飲み込んでいく。どれだけ嫌だと抗ってみても。
 時々思う。何故人は睡眠を取らなければ生きていけないのか。
 何もかもコントロールできるはずの自身の生の中で、唯一自由にならない領域。それが人生の3分の1以上の時間を占めている。他人には、それが恐ろしく思えないのだろうか。
 少なくとも、氷室の一番身近にいる人は、少しも恐ろしくはないようだった。
(至福、ですね。夜おふとんに入って目を瞑る瞬間、天国です。しかも隣に氷室さんがいてくれたら、すっごく安心できるし、すごく安らいだ気持ちになっちゃいます)
「………………」
(そういうのって、私だけですか? 氷室さんはそうじゃないんですか?)
 氷室は嘆息して、視線を窓の外に向けた。
 自分にも、かつてそんな風に思えていた時期があったのだろうか。
 好きな人と眠りに落ちる時を至福と感じ、安らぎを覚えていた時期があったのだろうか。
 少なくとも今の氷室にとっては、眠りは安らぎの時間ではない。
 7年前、――いや、もっと以前から、眠りは恐怖であり、生きる不安そのものだ。
「すみません、ちょっと」
 不意に隣席のサラリーマン風の男が、そう氷室に断ってから立ち上がった。
 どうやらラックに乗せていたスーツケースを下ろすらしい。少し窓側に脚を寄せて、スペースを作ってやる。
 見渡せばグリーン車には珍しく、家族連れがちらほらと見える。ラックはスーツケースや土産物袋ですし詰め状態だ。
 そうか、今年も残すところあと4日。役所は明日が仕事納めだが、世間はとっくに連休入りしている……。
 氷室はふと気づいて携帯電話をポケットから取り出した。うたた寝している時に確かに震えた。案の定着信が一件入っている。
 登録外の番号だが、その数列には覚えがあった。国土交通省のかつての上司。職場にも一度電話がかかってきたが、またかけ直しますと言って、そのままにしていた。
 用件は、承知している。
 それは年明けにも世間を騒がせ、氷室も無関係ではいられなくなるだろう。
 生憎、探られて痛い腹は持ちあわせていないが、―――まぁ、過去が蒸し返される程度の、火傷は追うことになるのかもしれない。
「…………」
 氷室は携帯を閉じ、それをポケットにすべらせてから、東京の街並みに視線を向けた。
 この長い休みを、東京で過ごすと決めた時から、あらためて思い知らされたことがある。
 ――日高さん。
 僕は、君のいうところの幸福をまるで幸福と感じられない愚かな男で、今も子どもみたいに畏れているんです。
 君が、これ以上深く僕の中に入ってくることに。
 君が、僕という男の本当の姿に、気がついてしまうことに。
(――天……)
 不意に、夢で聞いた声がして、氷室は微かに眉を寄せた。
(約束してくれる? 天の時間は、生きている限り、全部私のものだって)
(天……私を見て。いいえ、私以外の誰も見ないで)
 氷室は急いで首を振ると、忌まわしい幻聴を頭から追い払った。
 人の一番美しい感情を支配し、そして弄ぶことに、一欠片のためらいもない女。
 どこまでも躊躇なく――ただ、欺くためだけに、心の深淵にまで入り込んでくる女。
 これほど逃げたいと思っている。
 これほど忘れたいと思っている。
 なのに、これから俺は彼女と暮らしたあの屋敷に戻るのだ。いい思い出など何一つない廃墟のような死者の館に。
 認めたくないが、解っている。
 俺の魂の一部は、今でも君のところに帰りたがっているのだ―――水南。 


 
             2
 
「年内はお世話になりました。よいお年を」
「よいお年を」
 あと15分で定時退庁時刻になる。
 今年も残すところあと3日。今日は今年最後の仕事の日だ。
 2時間も前に最後の案件を終わらせた成美は、残り時間を机の整理と掃除をして過ごした。
 机もロッカーもパソコンも拭いて、後は定時のチャイムを待つだけになっている。
 灰谷市役所総務局行政管理課法規係。
 係長で課長補佐でもある柏原明凛(かしわばらあかり)の元には、午後3時すぎあたりから、頻繁に挨拶客が訪れるようになっていた。
 やってくるのは各局の係長クラスから課長補佐クラスの職員たちだが、いかにも儀礼的な挨拶だけをしていく者もいれば、長く話し込んでいく者もいる。
 気の毒に、普段から仕事がたてこんでいる柏原補佐だが、先ほどから立ったり座ったりの繰り返しで、今日は残業必至だろう。最も本人は諦めているのか、普段通り、冷静そのものの対応をしているようだが。
「補佐は霞ヶ関の人だけど、そういや実家がこっちなんだよな」
 補佐席の方をちらっと見ながら、成美の隣席の篠田(しのだ)が言った。あだ名はガチャピン。寝ぼけた目元がよく似ているからだ。
 ようやく仕事が片付いたらしいガチャピンは、今給湯室から掃除用の雑巾を取ってきたばかりのようだった。
「他の霞ヶ関組は、早々に休みをとって帰省しちゃったもんね。うちの補佐くらいじゃない? 仕事納めギリギリまで仕事して、なおかつ残業なんてしてんのは」
「ま、独身だし、彼氏もいないみたいだし」
「デート騒動も、謎の怪我と共に終結したし」
 と、そこでいきなり大地(おおち)と織田(おだ)が口を挟んできた。
 ガンダムオタクの2人は、それぞれの頭文字をとってダブルオーと呼ばれている。これは、2人が自ら呼称している呼び名である。
 仕事が早い2人は、午前にはさっさと案件を済ませ、昼からは「判例ジャーナル」などを流し見しているようだった。身の回りを掃除する気は、そもそも2人にはないらしい。
「てか、あれさぁ。今にして思えば明らかにDVじゃね?」
 大地が声をひそめて囁いた。
「デートするのしないのの騒ぎの直後に頬を腫らせて出勤とか。どんな噂をたてられても顔色一つ変えない補佐もすごすぎだけど、ほっといていいことだったのかよ」
 成美は自分の顔色が変わるのを感じた。当の柏原補佐は、今、局長室に呼ばれて席を空けている。
「まぁ、補佐を殴る男も大したタマだよ」
「賢い女ほど、馬鹿な男にひっかかるとは言うけれど……」
「多分だけど、男はその倍怪我してんじゃねぇのかな」
 ひそひそ話していた男3人の目が、不意に成美に向けられた。
 成美はドキッとして後ずさる。
「日高、お前なんか聞いてないの」
 いや、……聞いているというか、いないというか。
 怪我の一件についての詳細はむろん知らないが、そうなったいきさつだけは漠然と知っているとでもいいますか……。
 後ずさる背が、どん、と何かに触れて止まった。
 成美が振り返るより早く、成美の前に立つ男3人の顔色がさっと変わる。
 嫌な予感を覚えて振り返った成美は、そこでひっと息を引いていた。
 恐ろしく不機嫌そうな雪村(ゆきむら)主査が、成美のすぐ背後に立っていたからだ。
「さっ、仕事仕事」
「日高、私語ならチャイムが鳴ってからにしてくれよな」
「僕も掃除を終わらせなきゃ……」
 同僚3人にあっさり裏切られた成美は、あわあわと手を振った。違います違います。私は何も話してませんって。
 一拍、空虚な沈黙があった後、不意に雪村はにこりと笑った。
 彼の愛称にふさわしい白雪姫のような可憐な微笑み。外見だけを見れば水もしたたるほどの美男子――もとい美少年。しかしその心臓部では、どす黒い毒リンゴがふすふす音を立てているのだ……。
「日高、ちょっと」
 ちょいちょい、と指で成美を招いた雪村は、さっと背を向けて執務室の外に向かって歩き始めた。
 ひぇー……、だから違うって言ってるのに。
 いい加減判ってくださいよ。雪村さん。
 今、法規係で噂になってるのは、補佐じゃなくてむしろ私たちの方なんです。雪村さんが不用意に給湯室で抱きついてきたりするから。
「やっぱりあの2人……」
「これからは、日高に対する態度を変えなきゃまずいかもな」
「バックに雪村さんをつけるなんて、日高さんも策士だね」
 背後に好奇に満ちた視線を感じつつ、成美は渋々執務室を出た。
 この噂が、いまだ法規係内でとどまっているのは最早奇跡といってもいい。
 それは多分、いや間違いなく相手が雪村主査だからである。
 うかつな噂の発信源になればどうなるか――頭のいい篠田、大地、織田の3人には、よーく解っているに違いない。
 成美にしても、よーーーくわかっている。
 この噂が氷室の耳にでも届けばどうなるか。
 もう、想像するだけで足がすくみそうな気分になる。
 が、雪村についてエレベーターホールに出た成美はふと気づいた。
 そうだ、氷室さんなら昨日の新幹線で東京に戻ってしまった。
 もうこの庁舎で――いや、灰谷市で、どこを探しても氷室はいないのだ……。



 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。