プロローグ2




 雪が、すごく降っていたっけ。
 
(――君の手は温かいね)
(大事にしなさい。それは、人を幸せにする手だ)
 
 吐く息も景色も、何もかもが白かった。
 あんな大切な日のことを、どうして何年も忘れていたんだろう。――

「どうしました」
「え」
 ぼんやりとしていた成美は顔をあげた。
 そしてすぐに我に返る。
 カーテンを締めて振り返ると、今夜この部屋で一緒に泊まる予定になっている人は、長椅子で脚を組み、くつろいだ風に食後のコーヒーを飲んでいた。
 片方の手には新聞、こんな時間にどこから取り寄せたものか、英字である。
 カップをソーサに置いた氷室は、唇だけで微かに笑った。
「早く飲まないと、冷めてしまいますよ」
「ごめんなさい。雪が……すごいと思ったから」
 成美は急いで氷室の正面のソフアに腰を下ろした。
 まるで工芸品みたいな、華奢な作りのコーヒーテーブル。沈むほどに柔らかな緋色のソファ。
 広々とした室内に置かれた家具は、全て海外のブランド物だ。正直言えばコーヒーひとつ飲むのにも緊張する。
「ホテルのスイートなんて初めてで」
 この部屋に入ってからの落ち着かない気持ちを、成美は正直に打ち明けた。
 今日はクリスマス・イブである。
 夏前に恋人同士になった2人とっては、初めてのクリスマスだ。
「僕はキリスト教ではないので……」
 と、最初はあまり(というか、全く)乗り気ではない氷室だったが、結局は、隣市にある海沿いのホテルで一泊しようと提案してくれた。灰谷市内を離れたのは、むろん、人の目を避けてのことである。
 一も二もなく賛成した成美だったが、まさかこんな――高級ホテルのスイートに部屋を取ってもらうだなんて、想像してもいなかった。
 僕は女性に物を贈るのが苦手なのでこれで勘弁してくださいって、むしろ何倍も値が張ったような気がするのだが、いいのだろうか?
「嬉しいですけど、ちょっともったいなくないですか? クリスマスだからって、こんなに奮発してくれなくてもいいのに」
「奮発」
 氷室は少し心外そうに眉をあげた。
「まぁ、奮発といえばそうかもしれないですけどね。ただサービスその他を考えると、ホテルはいい部屋を取った方が間違いなく快適ですよ」
 そりゃ、氷室さんにはそうかもしれないけど、人には分相応というものがあるんですよ。
 と、ちょっと膨れた成美だったが、結局は氷室も同じ公務員なのだと気がついた。
 もちろん私より相当上のお給料だろうけど、それでもたかが知れている。
 ここは、全国的にも有名なリゾートホテルで、海外の∨IPやセレブも利用していると聞く。
 一泊あたり、どれだけ安い部屋に泊まったって三万から五万。そこのスイートなんて……いったいいくらするんだろう。
 しかも、さっきまでこのホテルのフランス料理店でフルコースをご馳走になったばかりだというのに。
 成美は、くつろいでいる氷室をちらっと見た。
 コートは脱いでいるが、シックなスーツを着たままだ。成美もむろん一張羅のワンピースで来たが、正直氷室のそれとは雲泥の差かな、とは思う。
 多分、海外ブランドもののオーダーメイド。質感から光沢までが、よく目にする既成品とは全く違う。衣服に限らず彼が身につけているものは全てがそうだ。
 ハンカチ、財布、キーケース。一見して地味で目立たないデザインのものを揃えているが、手触りや質感が、その辺りの衣料量販店で売っているものとは全然違う。
 今にして思えば、よくぞあんな――お笑いみたいな「北風」のキーホルダーをあげようという気になったものだ。自分の勇気と無知に拍手したい。
 ――てか、氷室さんの財源ってそもそもなんだろう。
 実家が超お金持ちとか。だとしたら少し嫌だな。
 身分が公務員である以上、自分で得た収入以上の浪費癖はちょっと困る。とはいえ青山とか春山のスーツを着た氷室さんもまた、想像の範疇外なんだけど。
 聞こうかな、でもこれ多分、NGコードに入るんだろうな。彼は自分の家族や生活については一切話したがらないから――
「聞いてもいいですか」
 それでもカップを手にもったまま、成美は立ち上がっていた。
 このタイミングなら、少し――ほんの少しだけ、彼のバックグランドに踏み込んでもいいかもしれない。ご実家は何をされているんですか。たった一言そう聞くだけなのだから。
「ちょっと、……お聞きしたいことがあって」
 カップを持ったまま、成美は氷室の隣に移動した。
 万が一質問を拒絶された場合、2人の距離が開いていると気まずさが倍増するような気がしたからだ。
「どうぞ」
 と言った氷室は、少し意外そうに片眉をあげた。
「……なんですか、その目は」
「いや、君は常々、僕に不用意に近づかない方がいいと言っているので、どういう心境の変化かと」
 それは――と、たちまち成美は頬を赤く染めていた。
 相手が氷室のような人の場合、軽いスキンシップは、たちまちディープな展開を呼び寄せる。これはもう何度も失敗して学習済みだ。
 成美はいつだって氷室の側にいたいし、彼の、どこでもいいから触れていたいのだが、そうすると氷室はすぐに目に薄い笑いを滲ませて――後は成美の意思なんてお構いなしに、彼の意のままにされてしまうのだ。
「ここまできて……いや、そういうことじゃなくて。2人で同じ部屋に泊まっているのに、離れる必要もないじゃないですか」
「ま、そうなんですけどね」
氷室は読んでいた新聞をテーブルに置いた。
「――で?」
 う、また例の、危険な笑いになっている。
 本能的な畏れから、成美は少しばかり彼から身体を離していた。
「おや? 離れる必要がないと言ったのに、何故逃げ腰なのかな」
「別に――氷室さんがこっちに詰めてくるからですよ」
「今夜の君は、いつにも増して可愛いな」
「そ、そんなお世辞を言ったって、これ以上何もでてきませんから」
「君こそ、奮発してくれなくてもよかったのに。プレゼントなら今から――存分にもらうんですから」
「ちょっ、氷室さっ、あのですね、私は話を」
 おっかなびっくりの手から、そっとコーヒーカップから奪われてテーブルの上に置かれる。
「もう……」
「ここまで冷静に振舞った僕を、むしろ褒めてほしいな」
 成美をソファに組み敷きながら、氷室は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
「君に、少なくともあと30分程度は、クリスマスイブの夜とやらを楽しんで欲しかったんですけどね」
「な、なんですか、それ」
「さぁ」
 氷室は肩をすくめ、少し皮肉に笑ってから成美の額の髪を指でわけた。
「夜景が綺麗と言ってみたり、今日は素敵だったと言ってみたり、君が言うところの精神的な幸福を語る時間ですよ」
 う……、と再び成美は詰まっていた。
 それは、成美が常々氷室に求めているものである。
 そりゃ、身体のコミュニケーションも大切だと思いますよ。
 でも、でもですね。その前にもっと話すことがあるでしょう。
 今日みた景色のこととか、今日一日の感想とか――いわゆる精神的な幸福を2人で語り合うんですよ。と。
「そのために、おとなしく新聞なんか読んでたんですか」
「まぁ、君も、いつになく静かだったですけどね」
 その言葉には、成美は虚を突かれたように瞬きをしていた。
「雪が、そんなに珍しい?」
「いえ……」
「随分長い間、空を見上げていたようですが」
 それは……。
 

 どう説明すればいいんだろう。
 成美は言葉に迷い、氷室から視線を逸らした。
 確かに成美は、降りしきる雪に、過去の、ある思い出を見ていた。
 ただ、それは、思い出というにはあまりにも曖昧で、おぼろすぎる情景なのだ。
 灯りの消えた商店街。雪で埋もれたロータリー。みるみる暗くなっていく空。時折聞こえる電車の音。
 冷えたベンチ。ぽつんと置かれた石油ストーブ。暗い窓に踊る雪の群れ。そして、私の手を包み込んでくれている誰か。
(――君の手は温かいね)
 紺の制服に、同色のつば付き帽子。大きな手と優しい笑顔。
 駅員さん――そう、その場所は駅の中に違いない。
 そして成美は1人だった。
 1人で、誰かを待っていた。夜になり、朝になるまで、ずっと――
 あれはいつのことだったんだろう。多分、すごく子供の頃――あれだけの雪が降っていたということは、実家で暮らしていた頃に違いない。
 だとしたら、4歳から7歳の間、ということになる。
 駅員さんは、雰囲気的に20代の半ばくらい。青色の制服が鮮やかで凛々しかったのをよく覚えている。
 顔はさすがにうろ覚えだが、黒縁眼鏡をかけた、いかにも生真面目で優しそうな人だった。
 印象だけでいうなら――あくまで印象だが――悪徳弁護士、紀里谷理人とよく似ている。
 成美の中で、その駅員さんの面影は、「初恋の人」として、いつも曖昧に残っていた。そのくせ、彼といつ、どんな状況で出会ったかということは一切覚えていなかった。
 というより、その時何があったのかを思い出そうとすると、成美の思考は、たちまち降りしきる雪で閉ざされる。大きな疑問に行き当たるのだ。
 そもそも7歳の子どもが、雪の夜、たった1人で駅に泊まったりするものだろうか?
 なにかがあったのだ。駅に1人で泊まるしかない何かが。
 その「何か」に、最近になって、ようやく成美は行き着いた。
 雪――初恋の駅員さん――その次に、必ず連想されるイメージがあることに気がついたからだ。
「灰谷市はいいところですが、内陸のせいかな……冬は随分と寒いんですね」
 不意に、独り言のような口調で氷室が言った。
 成美は弾かれたように、氷室に視線を戻していた。
「こういう時、少しだけ東京が恋しくなります。僕は雪が嫌いなので」
「……何故ですか?」
 氷室さんも、雪に何か、思い出が?
 そう思っておそるおそる訊いたのだが、氷室は唇に少しばかり皮肉な笑いを浮かべた。
「別に? 僕は名前も外見も性格も――君に言わせれば指まで冷えた人間だから、せめて気候くらい陽気であってほしいと思う程度のものですよ」
 本当に?
 その割には、随分表情が暗かった。
 とりつくろうように皮肉な切り返しをされたのも、少しだけ気になる。まるで、うっかり漏らした失言をごまかされているような感じだ。
 そんな成美の疑念を感じたのか、氷室がほんの僅かだけ――どこか寂しげな微笑を浮かべた。
「君は僕を知らない」
「………」
「それは僕が故意に過去を隠しているからだと、君は内心思っている」
 声も出ないまま、成美はそんな氷室を見上げる。
「でも僕も、君を知らない」
 ――氷室さん……。
「君の過去、君がかつて好きだった人。僕は何一つ知らないし、知りたいとも思わない。僕が好きなのは、過去の君ではないですから」
「…………」
 やっぱりデビルマンには、私の思っていることなんて簡単に見抜かれていた。
 気まずさと、それでも何かがちがうという微かな反発から、成美は視線を背けている。
 その頬を、指の背で優しくなでられた。
「本当の意味では、僕らは互いのことを何ひとつ知らない。でも僕は――むしろそのほうが幸福なつきあいが出来ると思っている。少なくとも僕は、そういう関係を君に望んでいるんですけどね」
 そうです。そうでした。
 こと、恋愛関係では、私はあなたに絶対服従でないといけないのでした。
 成美は諦めて目を閉じ、宣誓するように片手を上げた。
「……承知しました」
「よろしい」
 にこっと笑った氷室が、不意に立ち上がると成美を横抱きに抱き上げた。
「えっ、きゃっ」
「今夜は僕が身体を洗ってあげますよ」
「いっ、いいですよ。それだけは心の底からご遠慮しますっ」
「はは、まぁ、そう言わずに」
 氷室は快活に笑って、すたすたと浴室の方に向かって歩いて行く。
 そう言わずにって――そのパターンだと、私がお風呂で失神しかねないんですけど。
「この僕にそこまでさせて、こうも不服そうな顔をするのは君くらいですよ」
「ふ、不服とかじゃないですよ。ただですね」
「ただ?」
「もっとこう」
 心を割って、じっくり話し合う時間が欲しかったっていうか。
 仕事上のアドバイスや、趣味や見識の話。そういうのも確かにためにはなるし、氷室さんが話してくれるとなんでもすごく楽しいんですけど。
 そればかりじゃなくて――なんていうか――私たち、互いの深い部分からあまりに目を逸らし過ぎているような気がするんですよ。
 まぁ、その話題は、さっき牽制されたばかりなんですけど。
 言葉に迷う間に、唇がキスで塞がれる。甘くて優しい、ついばむような、焦らすようなキスだ。
「っ……もう、話の途中じゃないですか」
 かろうじて怒った素振りはできたものの、それだけで成美は簡単に氷室の罠に落ちていた。
 キスで焦らされながら運び込まれたのは、淡い照明の点ったドレッシングルームだ。
 大きな姿見に、氷室に抱えられた自分の姿が映っている。
 あえて、成美にそれを見せるような体制で、氷室は成美の唇を押し開け、自身の舌を滑りこませてきた。
 一瞬、抵抗の気持ちがかすめたものの、もう成美もじれったいキスの続きが欲しくてたまらなくなっている。悔しいけれどリビングからドレッシングルームまでのわずかな間に、そんな風に躾けられてしまったのだ。
 濡れた音が静まりかえった部屋に響く。その音にも舌にも、酔いしれたように応える自分の横顔が恥ずかしい。
 大理石のシンクに腰掛け、成美を膝に抱きかかえたまま、そんなキスを氷室はたっぷり5分は続けただろうか。
 やがて成美は、シンクに座らせるような形で下ろされる。その頃にはもう成美の思考も身体も、蜜のようにとろけている。
 シンクに両手をついた氷室に、一瞬顔をのぞきこまれる。暗い影に覆われた目。その目に吸い込まれそうになった途端、再び唇が重なった。
 瞬間、胸が強く締め付けられる。
 性急で荒っぽい彼のキスに、余裕がなくなりかけていることが判ったからだ。
 その瞬間が、成美は一番好きだった。彼の氷が溶けて熱に変わる刹那の変化を感じる時。それが――たとえようもないほど好きだった。
 ほとんど力をなくした成美の上に、氷室はかぶさるようにして情熱的なキスを続ける。
 いつの間にか背中のファスナーが音もなく下げられ、ワンピースが肩から巧みに下ろされている。
「……や……」
 冷たい鏡に、素肌になった肩があたる。彼の長い指が背中をたどり、キャミソールを引き上げる。
 氷室の目論見がわかり、ようやく成美は恐ろしくなった。
 まさかと思うけど、こんな鏡の前で――
「い、いやっ、氷室さん。ここじゃ、いや……」
「そんな誘うようなことを言うから」
 ますます拘束する力を強くしながら、氷室は目に薄い笑いを滲ませた。
「僕が止まらなくなるんですよ。ほら、君が可愛くあえぐ様を、自分の目でみてごらん」
「んんっ、い、いやっ、……だめ……」
「どうして? もうこんなになっているのに」
 ああ、もうこうなったら確かに彼を止められない――
 結局、簡単に罠に落ちた自分を激しく悔やみながら、成美は観念して目を閉じた。 
 
 ――しあわせ。
 今の状態をそう言わずして、一体何を言うんだろう。
 その夜――疲れ果ててぐっすり眠ったはずだったのに、何故か夜中、ふと目を覚ました成美は、隣で眠る人の気配を伺ってから、そっと身を起こしていた。
 深く愛された余韻が、身体の隅々にまで残っている。指にも、髪にも、瞼にも……。
 思い出すだけで胸がほのかに熱くなる。
 悪夢のキーホルダー事件(キーホルダーと紀里谷理人が引き起こした揉め事に直接の関係はないが)以来、氷室は文句のつけようもないほど完璧な恋人になった。
 それ以前は、格差恋愛を意識しすぎて自分の思いの半分も伝えられなかった成美だが、今は違う。言いたいことは言うようにしているし、氷室も昔と違い、それを頭ごなしに否定することはなくなった。
 平日は1日だけ夕食を一緒に食べて、週末は彼の部屋に泊まりにいく。たまに成美から電話することがあるし、氷室からかけてくることもある。
 そんな安定した日々が、最近はずっと続いていたのだ。
(年末なのですが、少しの間東京に戻ることにしました)
 だからそう言われた時――それは今日の夕方、彼の車でホテルに向かっている時だったのだが、その時も、成美はそれをさほどのこととは思わずにこう訊いた。
「いつ、戻って来られるんですか。私は29日から三ヶ日くらいにかけて実家に泊まろう思ってるんですけど」
「用事が済み次第、ということになりますが」
 前を見たまま、言葉を選ぶように氷室は言った。
「もしかすると仕事始めまで戻って来られないかもしれません。それから言い難いのですが、休みの間は僕を1人にしてもらいたいんです」
 久しぶりに、胸の奥がざわっとした。
「……どういう意味ですか」
「深い意味はありません。ただ、……その方がいいような気がするので」
 ああ、そうか。と歯切れの悪い氷室の口調から、成美はようやく彼の言いたいことを理解した。
 彼はおそらく、亡くなった妻に関わることで東京に帰るのだ。
 確かにそこに、成美はあらゆる意味で出て行かない方がいい。
 彼の気持ちも――それがどういう気持ちかは想像するしかないのだが、多少の心苦しさのようなものがあるのだろう。
「分かりました。了解です。じゃ、電話もしませんけど」
「いいです。こちらに戻ったら、僕の方から連絡しますよ」
 氷室の声がほっとしていたから、成美はこれ以上、この話は蒸し返すまいと決めた。彼にしても、それなりに成美に気をつかってくれたのだろう。それがよく判ったからだ。でも……。
 ベッドルームから外に出た成美は、リビングの窓際に立って、音をたてないように気をつけなからカーテンを開けた。
 真っ暗な空に雪の粉が舞っている。この分では、明日は少し積もるだろう。
 成美は微かなため息をついた。
 ――亡くなられた人に嫉妬するのもおかしいけど、これじゃ私、現地妻みたいなものだよね。
 氷室が東京に帰ってしまえば、そこから先のことは成美には全く解らない。彼がどこに寝泊まりして、誰と会って、どんな休暇を過ごすのか、何も……。
 氷室は知らなくていいと言った。でもやっぱり、私はそれは違うと思う。
 好きな人のことは何もかも知りたいし、知るべきだと思う。
 それは好奇心とかおせっかいとかとは全く違う。彼の背負っているものを、私にも分けて欲しいからだ。これから先何年も、彼とは一緒に生きていきたいから。
 人を好きになるというのは、そういうことだ。自分の人生の中に、他人の人生を受け入れるということ。ただ――
 あるいは氷室にはそういうつもりはないのかもしれないと、正直、それは感じている。彼に結婚願望がないのは何も言われなくても解っているし――ああ、だめ、その先を考えたら暗くなるばかりだ。
 今も、成美は知っている。
 深く眠っている風に見える氷室が、その実目を覚まして、1人で夜を見つめていることを。
 ここにはいない、別の誰かに思いを馳せていることを。
 今夜だけではない、もう諦めに近い気持ちで見過ごしているが、彼の夜は、いつも成美以外の誰かに奪われているのだ。
 そして成美はもうひとつ知っている。その誰かに成美は、どうしたって勝つことなどできないと。勝負することすらできない。相手はすでに亡くなっているのだから。
「…………」
 どれだけ深く身体で愛しあっても、心は別のものを見つめている。
 それが氷室の求める幸福なのだろうか、本当に。
(でも僕も、君を知らない)
(君の過去、君がかつて好きだった人。僕は何一つ知らないし、知りたいとも思わない)
 ――私の、過去か。
 大学生の頃、初めてできた恋人のことを話すのはあまりにも馬鹿げている。
 どこにでもあるつまらないラブストーリー。間違いなく氷室が不愉快になる以外に、なんの反応も期待できない。また成美も、氷室の女性遍歴をいちいち全部聞きたいとは思わない。紫式部を目指しているのならともかく。
 そう、本当に聞きたいのは、今も彼の心に棲んでいる過去だ。
 彼の人格に、今もなお影をさし続けている過去だ。ただし、そういう過去を自分ひとりの胸に隠している点では、確かに成美も氷室を一方的に責められない。
 ――言っちゃっていいかなぁ。私が養女だって話。
 でもなんか、どう話しても重くなりそう。それで同情買ってるとか思われるのもいやだし。
 だいたい、実の両親のことを、成美は殆んど覚えていないのだ。
 ただ、雪が降っていて――そして、優しい目をした駅員さんが。
「………」
 成美は憂鬱な息を吐いた。
 理由は解らないが、何故だか雪の日のその場面が、成美に生き別れになった母親の記憶を連想させる。父親はそこにでてこない。多分、父という人の存在をそもそも知らないから、思い出しようもないのだろう。
 逆に、母親という人のことをふと思うと、雪の日の場面に記憶がいきつく。そのことに気づいたのは、つい最近だ。もしかするとー―あの日成美は、駅で、母親を待っていたのかもしれない。
 待っていた理由は――判らない。
 そして、会えたという記憶もない。
 その前後の事情や顛末は、見事なほど成美の記憶から抜け落ちている。少し、恐ろしくなるほどに。
 そもそも初恋の人のことを思い出したのもごく最近のことで、いってみれば、氷室とつきあいはじめたのがきっかけなのだ。
(大事にしなさい。それは、人の心を幸福にする手だから)
 その言葉だけは宝物のように憶えていたけれど、そう言ってくれた人のことは、いつしか記憶から剥離し、おぼろに消えかけていた。
 それを、今年になって急に思い出したのは――氷室の手がいつも冷たくて――私の手を温かいと言ってくれたから……。
 初恋の人が、吹雪の夜を思い出させ、そして母親の記憶に繋がっていく。
 なんだかそれがひどく不安で、故意に考えないようにしてきたけれど。
「…………」
 会いに、いってみようかな。
 いきなり頭で何かがはじけたように、成美はそう思っていた。
 あの時の駅員さんに。
 記憶はないけど、手がかりはあるはずだ。
 氷室さんがこの年末年始を過去の世界で過ごす気なら、私も自分の過去に行ってもいいのかもしれない。
 そうだ。他人の過去を詮索するより、まずは自分だ。
 自分のことを、きちんと氷室さんに話せるよう、曖昧だった過去の記憶を、この際思い出してみるのもいいかもしれない。
 あの、雪が降っていた日のことを。
 私の心に、小さな灯火をくれた人と出会った日のことを――

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。