27
 
 ――氷室さん、どこ行っちゃったのかな?
 覗きこんだ車は、無人だった。車で待っていると言ってくれたのに、トイレにでも行ったのかしら。
 成美は背を伸ばして、背後の樋口を振り返った。
「すみません。ちょっと……いないみたいです」
「そうですか」
 樋口は屈託なく微笑んだ。
「少し待ってたら戻ってくるとは思いますけど、どうしましょう」
「そうですね。……最後に、ご挨拶をと思ったのですが」
 駅前の駐車場。樋口もそこに車を停めているようだった。
 しかし少し迷った後、樋口は「じゃあ帰ります」と言った。
「ご挨拶はまたの機会に――あればですが――しておきますよ。氷室さんによろしくお伝え下さい」
「本当にすみません。今日はありがとうございました」
 成美はぺこり、と頭を下げた。
 本当に最後の最後までいい人だった。
 大晦日にいきなり電話がかかってきて会いたいと言われるなんて――かなり不躾な展開だったのに、である。
 その電話を、無関係の第三者にかけさせてしまった自分も自分だが、その第三者である氷室さんに、わざわざ挨拶までしようとしてくれた樋口さんって――
 いい人すぎる。
 顔をあげて樋口を見送ろうとした成美は、肝心なことを言い忘れていたことに気がついた。
「あ、樋口さん」
「はい?」
「私の手のこと、褒めてくださったの、憶えてますか」
足をとめた樋口が、初めて不思議そうな顔になった。
「え?」
「あの、手が温かいって、言って下さったんですけど」
「……そうだったかな」
 首をかしげて手を頭にあてる。思い出そうとしているようだが、正直な人なのか、眉根はますます寄るばかりだ。
 まぁ、そういうものよね。
 自分にとっては、人生を変えるほどの一言でも、それを言った人にとってはなんの気もない一言だった。
 よくあることだ。
 成美は多少感じた寂しさを押し殺して、笑ってみせた。
「憶えておられないなら、いいです。私には宝物みたいな言葉でした。ありがとうございました!」
 ためらうように微笑した樋口は、静かに黙礼して、きびすを返した。
 これできっぱり、けりがついた。
 成美は清々しい気持ちで、よく晴れた新年の空を見上げた。
 もう私に、怖いものは何もない。あとは――氷室さんに、振り落とさないようにくっついていくだけよね。
 ――さて、その氷室さんを探さなきゃ。
 成美は駅の方を振り返って、歩き出した。
 

「あの……」
 驚かせないようにそっと声をかけたつもりだったが、頭が少しばかり薄い感じの駅員は、飛び上がるようにして振り返った。
「あ、ああ。すみません。なんの御用でしょう」
 成美は戸惑いながら頭をさげた。
「すみません。ちょっと人を探しているんですが」
 そして、つい、駅員が首をかしげながら見ていたものに目をやっていた。
 ――絵……。
 駅舎中央の支柱に飾られている、かなり大きめの水彩画だ。
 モノトーンの色使いで、描かれているのは洋風の屋敷のようだ。
 不思議と寂しい印象を受けるのは、背景に何もかかれていないせいだろう。
 色さえない。ただぽつんと、灰色の家だけがこの世界の全てのように佇んでいる。
 正直、この駅舎には似つかわしくないような絵に見えた。
 せっかく明るい色彩で統一されているのに、絵の周辺だけ灰色の世界に沈み込んでいるようだ。いや、そんなものではなく――
「人、といいますと?」
 駅員に問われ、絵に気をとられていた成美はようやく我に返った。
 そうそう、行方不明の氷室さん。
「あ、えと、その……黒のトレンチコートを着た、かなり背の高いイ……男の人なんです。駐車場にいたはずなんですけど、この辺りで見かけませんでした?」
 イケメン風、という形容詞はかろうじて飲み込んだ。
 元日のせいか、殆んど客のいない駅では、それだけ伝えれば判ってもらえるだろう。
 が、何故か駅員は眼鏡を指で押上げ、妙にじろじろと成美を見た。
 ――え?
 なんだろう。何か私、おかしなことでも言ったかな。
 しかし初老の駅員は、すぐに自身の不躾な態度に気づいたのか、ひとつ咳払いをしてから微笑んだ。
「そのお客様なら、駅舎の裏手でお見かけしましたよ」
「本当ですか?」
「表口からでて右にいくと、細い並木道があるんです。ちょっとの距離ですが、そこを抜ければ裏庭です。旧駅舎の記念碑があるんですよ。昔はそこに、公衆便所があったんですがね」
「ありがとうございます」
 親切な駅員に頭を下げ、成美は急ぎ足できびすを返した。
 それにしても氷室さんたら、なんでそんな場所に。
 携帯の電源も切ってるみたいだし、全くもって意味不明。まさか初恋の人との再会を、そこまで怒っているとは思えないけど。
 ――携帯、もう一度見てみるかな。
 もしかしたら連絡が入っているかもしれない。足を止めた成美は、バックから携帯電話取り出そうとした。
 視界の端に、先程の駅員の姿が映る。彼は最初と同じ場所で、あの灰色の絵を、やはり不思議そうな目で見上げていた。
 ――なんだろう。あの絵。
 灰色の世界。いや違う。あの絵を囲むキャンパスがまるで、灰色の世界へ続く入り口のようだ―― 
  

 駅員に教えてもらった場所はすぐに判った。
 そこはホームと駅舎に挟まれた猫の額ほどのスペースで、庭と呼ぶにはあまりに殺風景な風情だった。小さな石碑と、冬枯れの木が幾つか立ちそびえているだけだ。
 氷室は、いた。
 ひときわ大きな木の下に立ち、ぼんやりと空を見上げている。
 また、あの――疲れた目になっている。
「氷室さん」
 一瞬戸惑った成美は、それでもほっとして、氷室の方に駆け寄った。
「ごめんなさい。お待たせしちゃって。樋口さんも、ご挨拶したいと仰られていたんですけど」
 氷室がゆっくりと成美の方を見た。
 ――氷室さん……?
 思わず、自分の背後を見てしまうところだった。
 氷室さん、何を、見ているの?
 が、その焦点は、徐々に成美に合わされる。
「そうですか」
 氷室は優しく微笑した。
「きちんと、話はできましたか」
「はいっ」
 よかった。いつもの氷室さんだ。
 それでも先ほど見た、焦点の定まらない――いや、成美の背後の誰かを見ているような彼の表情が気になって、成美は氷室の手を取っていた。
 ずっと戸外にいたせいか、指は凍えるほど冷えている。
「……風邪ひきますよ、こんなに冷えたら」
「体温が冷たいと、案外寒さには強いんですよ」
 それはないでしょ、と思ったけれど、氷室の横顔が妙に優しく見えたので、それ以上言葉が出てこなかった。
「どうしましょう。これから。私は実家に戻らないといけないんですけど」
「送りますよ」
 穏やかな口調で氷室は言った。
「その後、僕も、東京に戻らなければならないので」
 ――あ……。
 そうなんだ。
 落胆が、思わず顔に出そうになる。成美は懸命にそれを押しやった。
「そう、ですか。じゃあ、まだあちらにご用事が?」
「ええ、頼まれた仕事が終わりませんでした」
 そっか。
 だったらなんで、こんな中途半端に戻ってきてくれたんだろう。しかも灰谷市ではなく、私の実家の方に来るなんて――
「向こうで、探しものがあるんです」
「探しもの?」
「ええ」
 氷室は淡々と頷いた。
「面倒ですが、どうやら僕が探すしかないようなので」
「………」
 なんだろう。それ。
「探しものなら、お得意なんじゃないですか」
 ちょっと皮肉っぽい口調になっていた。成美はそんな自分に慌てたが、氷室の横顔は相変わらず優しげなままだった。
「そう、得意です。だから必ず見つけられると思います」
「……そうですか」
 よく分からないけど、なんかへんな感じ。今日の氷室さん。
「ただそれは、僕より頭のいい人間が隠してしまったものなので」
 え……?
「だからなかなかに難しくてね。君は、どうですか」
 成美が疑問を挟むより先に、氷室がそう言って成美を優しく見下ろした。
「僕が隠してしまったものを、君は見つけることができますか」
「…………」
 氷室さんが。
 隠してしまったもの――?
「絶対、無理です」
 即答で答え、成美はむしろ胸を張った。
 そんなの天地がひっくりかえったって無理に決まってる。
「考える余地もなし、ですか」
「なしです。だからそんな意地悪、絶対にしないでくださいよ!」
 氷室は楽しそうに微笑んだ。本当になんだろう、今日の氷室さん。なんだか今の笑い方もしゃくに触るぞ。
 だいたい、氷室さんより頭のいい人って……。
「まぁ、とにかく、その探しものを終えて、とっとと灰谷市に帰ってきてください」
 何故だかそれが、彼の妻だった人のような気がして、成美は早口で言っていた。
 いずれにしても、公務員に残された休みは今日をのぞいてあと4日だ。
 仕事始めには、いくら嫌でも氷室は灰谷市に戻るしかない。
 そうよ。その意味じゃ、私が勝ってるのよ。
 氷室さんはどうしたって――どうしたって私のもとに帰ってくるようになってるんだから。
 と、無意味な虚勢をはったところで、ポケットに入れておいた携帯が鳴った。
「すみません、うちの親かも」
 ちょっと慌てた成美は、急いで携帯を取り出して息を引いた。
 げっ、雪村主査。
 なんだって、元日に携帯に電話してくるわけ。
「いや、えっと、親ではなくて」
 どうしよ。この場合、出ないで無視を決め込むべきか。それとも隠れてこっそり出るべきか。
 なんにしても、履歴を確認されたら問答無用でおしまいである。氷室の尋問に、成美は耐えられる自信はない。
「し、仕事のことだと思います。うちの係の雪村主査から」
「出て」
 観念して白状した成美を、氷室はひどく穏やかに促した。
「え? あ、はい……」
 なんだろう。この優しさ。
 これって、何か――強烈なおしおきのフラグだろうか。
「あ、雪村さん、あけまして」
「お前さ、4日大丈夫なわけ」
 おめでとうも言わない内から、雪村の冷ややかな声が成美の耳に飛び込んできた。
「え、4日って……」
「コンサート。誘ったろ。年末に」
 しまった。すっかり忘れてた。
 しかも「コンサート」とか「誘う」とか、危険なワードがてんこもりである。
 成美は慌てて携帯を手で覆った。
「あ、ああ、例のあれですね。あの、うちの課長が主催の」
「は?」
 すみませんっ、雪村さんっ。事情は年明けってことで。
「い、行きたかったんですけど、その日はまだ実家だと思います。すみませんっ、課長によろしくお伝え下さいっ」
 電話を切った成美は、いかにもなんでもありませんでした、といった顔で氷室を見上げた。――が、無駄だった。
「尾崎課長が主催のコンサート、ですか」
 う、相変わらずの地獄耳だよ……。
 てゆっか、携帯の相手の声がきこえるって、もう人として反則の域に入っていませんか。
「あ、あの、課長が……なんていいますか、コンサートチケットが余ってるとかで」
 嘘の上塗り。
 レベルは違うが、改めて美和の積年の苦しさが思い知らされる成美である。
「行ったらいいと思いますよ」
 しかし、あっさりと氷室は行った。
「もしご実家の都合がつけば、行ったほうがいい……。前も言いました。人脈は、仕事をする上では何よりの財産です。君の年ではもっと貪欲に、人脈を作る努力をすべきだ」
「……え、でも」
「僕なら、構わない。都合がつけば、ぜひ行ってご覧なさい」
 あ、はい……、と、力なくうなずきながら、成美はわずかな不審をこめて氷室を見上げた。
 これが逆の方向からのプレッシャーなら大したものだけど、なんだかそうでもない気がする。
 どうしたんだろう。氷室さん。
 なにか――あったんだろうか。もしかして。
「行きましょうか。雪が降ってきたようだ」
 ――雪……。
 見上げた灰色の空からは、再び音もなく白いものが舞い降り始めていた。
 触れれば消えてしまうほどの粉雪だが、それが先を行く氷室の背を不意に隠してしまうような不安に駆られた。
「あの、氷室さん?」
 雪の中、氷室が足を止めて振り返る。
 その微笑みを見た途端、成美は何も言えなくなっていた。
 あの――帰ってきますよね。
 東京から。
 絶対に帰ってきますよね?
 その言葉は何故だか喉に張り付いたようになって出てこない。言えば、そのあり得ない不安が現実になりそうな気がして――
 雪がこのまま、氷室をどこか遠くに、二度と戻れない場所につれていってしまいそうな気がして……。 


 
              28
 
 
「沢村さん」
 小さく声をかけると、腕組みしたまま目を閉じていた男は、我に返ったようにその目を開けた。
 野性味を帯びた端正な顔が、ぎょっと狼狽えたように、崩れる。
「……終わりました? もしかして」
「ええ。少し前に」
 照明の灯りはじめたホール。2人の周囲では立ち上がった観客が、出口に向かって移動を始めている。
 額を手で押さえてうつむくと、沢村は低い声でぼそりと言った。
「……すみません。昨夜は、友達と朝まで飲んでいて」
 それは言い訳で、単にクラッシックが苦手だったのだろう。
 そう思ったが、明凛は特段の表情を見せずに立ち上がった。
「気にしないで。疲れもたまっていたんでしょう」
 新年の4日。世界に名だたる交響楽団の演奏会は、盛況な客入りだった。
 二千人収容の大ホールは、今も観客たちのざわざわという喧騒に包まれている。
 明凛は手にしたコートを羽織って、腕を通した。
 隣で、沢村も立ち上がる気配がする。
「今日は、……誘ってくださってありがとうございました」
「いいえ」
 その沢村を振り仰いで、明凛はわずかに微笑した。途端に、男の目が狼狽えたように逸らされる。またか、と明凛は思った。今夜は、最初からずっとそうだ。
 よほど、私と2人でいることに緊張を覚えているのだろうか。
 とはいえ、そういった反応には慣れている。どうも自分という人間は、昔から他人には居心地の悪い存在らしい。
 が、道路管理課に所属する2歳年下の男がみせる反応は、それとは少し違う気がした。
「お礼のつもりだったけど、かえって迷惑だったのでは」
「……そんなことは、ないです」
「そう。だったらいいけれど」
 さて、どうしよう。これから。
 明凛は腕時計を見てから、肩を並べて歩く男を横目で見上げた。
 どうやら今夜の主導権は、全て自分に委ねられているらしい。
 年も立場も下の男というのはこんなものかもしれないが、今夜の沢村の態度は、明凛には少し意外だった。
 もう少し、気骨があるというか――悪い言い方をすれば、女性慣れしているように見えたのに。
 和食がいいかな、それともフレンチか何か……。そう思いながら、明凛は訊いた。
「沢村さん。こんな時間だけど」
「送ります! バスですか? 電車ですか?」
「…………」
 え、なに、そこだけ即答?
 それまで、何を聞いても、はぁ、とか、まぁ、とか、曖昧な返事しかしてくれなかったのに。
 目を丸くした明凛を見て、さすがに自分の反応のまずさに気づいたのか、沢村はぎょっとしたように視線を彷徨わせた。
「……あ、いや……」
 まぁ、そんなに帰りたいんなら無理に誘う気はないんだけど。
「食事でもと思ったんだけど」
「え、そ、そうなんですか」
「今夜はもう帰りましょうか。私ならタクシーで帰るので、帰りは心配してもらわなくても大丈夫です」
「は、はぁ……」
 いかにも失敗した、と言わんばかりの表情で頭をかく男を、明凛はしばし、珍しいものでも見るような気持ちで見つめていた。
 おかしな人。
 男性に敬遠されるのは慣れているが、ここまで露骨な態度に出られると、むしろその理由を問いただしてみたい衝動に駆られる。
 いずれにしても、初めて会った頃の印象とはまるで別人だ。
 不遜で、粗野で、不躾な目でじろじろ人の顔を見て……もう2年近くも前の話だが、あの頃感じた不快感は、長く明凛の中に残っていた。
 少しでも気を許したら何をされるか判らない危険な空気が常に漂っていて、仕事柄接点は多かったが、できるだけ2人にならないよう気をつけていたような気がする。
 彼の雰囲気が変わり始めたは、道路管理課長に氷室天が着任してからだ。
 初めて自分より何もかも格上の男が上司として君臨したからだろうか――いつも冷めた目で、他人を馬鹿にしたような態度をとる沢村が、何かにつけて氷室に振り回され、右往左往していたのが印象的で面白かった。
 そう考えると、少し判らない。
 いったい、本当の沢村はどちらなのだろう。



 
 

 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。