25
 
「で、僕に聞きたいこととはなんでしょう」
 樋口は再度駅員室に誘ってくれたが、さすがにそれは固辞して、2人は場所を待合室に移した。
 ガラス扉で仕切られた待合は暖房もきいて暖かく、元日のせいか客は1人もいなかった。
 まずは迷惑をかけた詫びと礼を言って、成美は迷いながら口を開いた。
「いまさらの質問ですけど、私のこと、憶えていらしたんですか」
「まぁ、名前や顔はともかく、……そういうことがあった、ということはね」
 ちょっと歯切れ悪く、樋口は切り出した。
「駅で迷子なんて、大きな駅ならともかく、ここじゃあね。それだけでも珍しい話なのに、その子を一晩泊めたとなれば、僕の駅員人生の中では、一、二を争う忘れられないエピソードですよ」
 う、本当にすみません。
「……雪がひどかったんですよ」
 前を見たまま、樋口は当時を思い出すように語りはじめた。
「本当に雪がひどくてね。このあたり、毎年の降雪量はさほどでもないんですけど、何年に一度か、とんでもないドカ雪に見舞われる年があるんです。丁度その日が……そうでした。夜になると電車も停まって、色んな所でスリップ事故。警察も、てんやわんやだったんでしょうね。迷子――というより、なんというか」
 樋口が言葉を濁したので、成美は「駅に置き去りにされた子、ですか」と助け船を出した。
「まぁ、そうです。そういう通報はしたんですけど、すぐには動いてもらえなかった。最も僕が、君に気がついたのはもう夜も更けた時刻でね。その頃、まだこの駅舎は古くて――言い訳じゃあないですが、至る所に死角みたいなものがあったんですよ」
 当時のことを思い出すように、樋口は眉をしかめる。
「丁度自動販売機と植え込みの影に、ちっちゃなベンチがありまして、そこに、君は――まぁ、当時の僕の視点でいうと、小学校低学年くらいの女の子が、1人で座って本を読んでいた。多分、乗客の何人かは気づいたんだろうけど、まさか迷子とは思わなかったんじゃないかなぁ。そのくらい、君は落ち着いていて、……なんていうのか」
「迷子らしくなかった」
「まぁ、そうです。僕も声をかけるまで、まさかな、と思ったくらいですからね」
 そこで樋口は立ち上がって、自販機の方に視線を向けた。
「何か飲みますか。昼飯くらいご馳走したいんですが、元旦はどこも休みで」
「い、いえいえ。お気遣いなく。それに、さっきコーヒーを飲んだばかりですし」
 成美が慌てて断ると、樋口はそれでも、自分の分のホットコーヒーと、成美には暖かなお茶を買ってくれた。
「……名前も言わない。親の名前も住所も言わない。どこに行くのかと聞いても何も答えない。泣きもしないかわりに、表情も一切ないんです。こりゃ、困ったな、と思いました。どこから来たのかも判らないし、何時からいたのかもはっきりしない。どうもただの迷子じゃないらしい。当時の僕の印象は――」
 樋口はそこで言葉を切った。
「まぁ、この子なりに、親を庇っているんだろうな、でした」
 その刹那、不意打ちのように成美の涙腺は潤みそうになっていた。
 そうだったのだろうか――もう、そのあたりの感情はなにひとつ思い出せない。
「警察からは、朝になったらそっちに行って事情を聞くので、それまで預かっておいてくれ、と言われましてね。まだ県内に、家出人の捜索願は出ていなかったんでしょう。警察の立場もわかりましたが、こっちはちょっと慌てましたよ。だって、……年端もいかない女の子の扱いなんて、僕にはさっぱり解らないでしょう」
 樋口がおどけて肩をすくめてみせたので、成美もわずかに口元を緩ませた。樋口の思いやりは嬉しかったが、本当は少しも笑いたい気分ではなかった。
 覚悟は決めてはいたものの、一体どんな事実が樋口の口から出てくるのか――そう思うと、どうしても警戒の気持ちが強くなる。
「まぁ、とはいえ、駅にお客さんを泊めるのは前例がないわけじゃあありませんので、一応、帰宅困難者としてこの駅の仮眠室に泊めることにしたんですよ。僕もその日は本社に出す報告書やなにやらで、到底帰れるような状況じゃあなかったんで、丁度よかったな、という感じで」
「それって、私のことですか」
「え?」
「報告書や何かって」
 ああ、と樋口は言葉に詰まったように口ごもった。
 むしろ樋口に申し訳ないと思ってした質問だったのに、彼がその刹那、少しばかり狼狽えてみえたのが、不思議だった。
「いや、違うんです。ちょっと他の用事でね。まぁあの日は他にも色々あったものですから」
 樋口は困惑したように頭を掻いた。
「それで――電話があったのが、夜になってからかな」
 電話?
 成美の表情を読んだのか、樋口はゆっくりと頷いた。
「君の母親と名乗る人からです。ひどく動転しているようでしたから、何を言っているか判りにくいところもありましたし、こちらの質問にも、一切答えてもらえなかった。けれど、迷子の女の子を探しているということだけは判りました。なので、そのお嬢さんならうちでお預かりしていると言うと、じゃあ、すぐに迎えにいきますからと」
 結局、雪で車が出せなかったそうなんですが。
 樋口はそう付け足して、コーヒーを一口飲んだ。
 そして迎えは翌朝になった――それは成美も知っている。
 が、電話は駅の人からあったと美和は言った。
 それが嘘だったとしても――そもそも電話は、どちらの母親からかかってきたものだったのだろうか。
「最初の電話で」
 気持ちを落ちつかせながら、成美は聞いた。
「私の母親を名乗る人はどう言ったのですか」
「どう、とは?」
「いえ、私が名前も住所も名乗らなかったんなら、どうやって樋口さんは私をその人の娘だと判断したのかな、と思って」
「ああ」
 質問の意味が判ったのか、樋口は安堵したように頬を緩ませた。
「そりゃあ、服装とか持ち物で。服の色とかバックについてたキーホルダーとかね。かなり詳しく説明されましたから」
 ――お母さんだ……。
 間違いない。電話をしてきたのは陽子ではなく、美和である。
 ようやく、これで何もかもが腑に落ちた。あえて嘘の駅名を教えられた意味も判った。
 ――お母さんは、私と樋口さんを会わせたくなかったんだ。
 当時の事情を樋口さんが覚えていれば、嘘が簡単にばれてしまうから。
 その時の、美和の葛藤はどれほどのものだったのだろうか。
 おそらくなんらかの形で、美和は成美が、灰谷駅に着いていないことを知ったのだ。あるいは成美の母の陽子から、その旨の連絡があったのかもしれない。
 理由はともあれ、美和は成美の行方を探してくれた。それだけは間違いない。
 許そう、と成美は思った。
 氷室さんの言うとおり、何もかも母には話して、10年以上に及ぶ重責から解き放ってあげるべきだ。
 それが、多分――私のためでもあるような気がする。
「ありがとうございました。樋口さん。それだけ伺えれば十分です」
 成美は立ち上がって、深く頭を下げた。
 
           26 
 
 狭い駅構内は、昔とまるで様変わりしていた。
 建て替えたんだな、と所在なく周辺を見回しながら氷室は思った。
 レトロなデザインが、いっては悪いが安っぽい。
 歴史ある駅をイメージしたかったのだろうが、無駄な装飾が多すぎて、かえってなにもかもが急場しのぎの作り物に見えてしまう。
 少し離れた待合では、成美が件の駅員と膝を突き合わせるように話し込んでいるところだった。
 その様子を横目で見てから、氷室は苦い息を吐いて歩き出した。
 これは――本当に偶然だろうか。
 それとも、何かの因果だろうか。
 もう二度と来ないと思っていた場所に、まるで運命のように引き寄せられた。
 そこに一体なんの意味があるのか――それが知りたくてここまで来たくせに、考えることから無意識に逃避している自分がいる。
 いや、何も考えなくていい。
 氷室は眉をしかめながら首を横に振った。
 日高成美を連れてここを出たら、町のことも駅のことも、何もかもを忘れるのだ。そして二度と振り返らない。
 全ては性質の悪い偶然で、そこに意味など、見出そうと思った方がどうかしていたのだ。
 郷愁に吸い寄せられるように駅構内に足を踏み入れてしまったが、それすら間違いだったと氷室は思った。そしてきびすを返そうとした。その時だった。
 ――え………?
 絶対にこの場所にあってはならないものが、いきなり氷室の眼前に現れた。
 これは――
 なんだ。
 どういう意味だ?
 待ってくれ。
 俺は――頭がどうかしてしまったのか?
 目眩とも、パニックともつかないものに全身が支配されたようになって、氷室は無自覚に出札口に向かった。
 頭の中で、何かが音をたてて渦巻いている。一体どうやって窓口まで辿り着いたのか、それさえわからないほどだった。
「すみません」
 指の甲でプラスチックの仕切りをノックしてから、絞りだすように氷室は言った。
「はいはい、どうしました」
 初老の駅員が、田舎の駅員にありがちな、のんびりした態度で窓に近づいてくる。
「おうかがいしたいことが」
「はい?」
 窓口の客の態度が普通ではないことに、呑気な駅員はようやく気づいたようだった。
「あそこに――飾られている絵のことで」
 氷室がそう言うと、何故か初老の駅員は、目を大きく見開いた。
「あれは、寄贈されたものだと――いや、間違いなく寄贈されているはずなのですが、誰が、いつ寄贈したものだか、調べることはできませんか」
「あんた……」
 いきなり、駅員の口調がぞんざいになった。
 そしてますます大きく目を見開き、信じられないものでも見るように氷室をじっと見つめた。そして、言った。
「ほんとに、来たよ……」
 ほんとに、来た?
「あ、いやいや、ちょっと待ってくださいよ。えーと、えーと」
 男は眼鏡を額の方まで押上げ、胸ポケットの中から取り出した手帳を唾で濡らした指でめくった。
 胸にかかったネームプレートには、遠藤という名前が刻まれている。
「あんた――ヒムロさん? そうでしょう?」
 氷室を見上げる、遠藤の目が輝いている。
 咄嗟に言葉が出てこなかった。それが、遠藤には肯定と映ったようだった。
「ちょっと待っててくださいよ。実はね、あんたに渡したいものがあるんです。いやー、もう1年近く待ちましたよ。さすがに半信半疑になりかけてたんですがねぇ」
 なんの、話だ。
 いったい、何が起きようとしている?
 いや、もう判っている。
 水南の書庫から消えた1枚の風景画。
 あれを見た瞬間に、判っている。
 ここはすでに、ゲーム板の上なのだ。
 乗らなかったはずのゲームの中に、自分はいつのまにか載せられていたのだ。
「はい、これ」
 真っ白な封筒が、駅員室から出てきた遠藤から直に手渡された。
「もう1年も前に、こちらに来た女のお客さんから預かったお手紙です。あの絵の出処に関心を持つはずのヒムロさん。私が聞いたのはそれだけですが、あなたで間違いないですよね」
 ――手紙……。
 死者からの、手紙。
 頭の中で渦を巻く疑念が、ようやくひとつの形を現しつつあった。
 お嬢様の本を探していただきたいのです。
 年の瀬に、いきなりかかってきた不可解な電話。
 それが水南の仕掛けた最後のゲームだと気づいた氷室は、日高成美の身辺を――ゲームの駒である三条がどうやって調べていたのか、理解した。
 紀里谷だ。
 日高成美を含め、氷室自身の身辺や心情を、ああも正確に言い当てる相手は、紀里谷以外考えらない。
 だから夜が明けて、すぐに紀里谷の行方を追ったのだ。姉の月華から情報を得て。
 丁度月華の車を拝借していた紀里谷の居所は、取り付けてあった盗難防止用GPSで簡単に突き止めることができた。
 それが、この駅からさほど遠く離れていない場所だと判った時、俺はいったいどう思った?
 おかしいとは思わなかったのか?
 偶然にしてはできすぎていると、どうしてそこで警戒することができなかった?
(ほ、本当なんっすよ。確かに俺は、三条さんに頼まれて天さんの周辺を探ってました。灰谷市で仕事を探してくれたのも三条さんだし、日高さんに嫌がらせをしたのも、あの人の指示です。で、でもなんつーか、そこまで天さんが怒るような内容じゃ……ひっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ)
(三条さんのことは、いずれバレるとは思ってたし、そこはもう、誤魔化す気はないっすよ。でも、この駅に来たのは偶然なんですっ。それはマジっす。あの子が――人探しをしてるっつーから。事情聞いて、ちょっと同情しちゃったっていうか)
 あれも、紀里谷の嘘だったのか。
 それが見抜けないほど俺の目は腐ってしまったのか。
 氷室は虚しい自問をしている自分に気がついた。
 真偽がどうあれ、確実なことは、ひとつだ。
 自分は今日、今日でなくてもいずれ、必ずこの場所に来るように仕向けられていた。
 誰に?
 考えるまでもない。水南に、だ。
 後藤の屋敷を出た時点で、終わりではなかった。
 俺はずっと、あの女の手のひらの中で、彷徨っていただけだったのだ……。
 気づけば手の中に、乾いた紙の感触があった。
 目の前では遠藤が、訝しげに氷室の様子を窺っている。
 頭の中で、凄まじい警告音が鳴り響いている。この手紙を読んではいけない。読めば、二度と逃げられない。そして行き着く場所は三度目の地獄だ。そうなれば、もう自分を保っていられる自信はない。
 その音はやがて光になって点滅し、氷室の網膜を真っ白に焼いた。
 読めばもう――戻れない……
 戻れない。
 俺は、水南を――
 現在より過去を、選んでしまう。
 気づけば指は、震えながら封筒の封を切っていた。
 中に入っていたのは、便箋が一枚きり。書かれているのはただ一行。
 
 
 
 
 
 
 

 
  天、私を探して

 
 


 
 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。