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23
翌朝――元旦は快晴だった。
カーナビに神社の文字が見えたので、成美は「おっ」と思って運転している氷室を見上げた。
「ね、まだ時間があるし、この神社に寄ってみません? ついでに初詣も済ませちゃいましょうよ」
「初詣、ねぇ」
氷室は不服そうだった。
「行く意味がそもそも解らない。だいたい僕に、宗教的な習慣は一切ないのですが」
そう言いながらも、氷室は神社脇の空地に車をつけてくれる。
無人の社には、お神酒と菓子が並べられていた。成美は1人でお神酒を飲んで、氷室と一緒に本殿の前で手を合わせた。
「何、願いました?」
「何も。そもそも神社は願いを訴える場所なんですかね」
ああ、こういうところが年齢のギャップというか、ちょっとどうかな、と思うところなんだよね。頭が固いというか融通がきかないというか、意固地というか。
「日本人なら、空気を呼んで、四季折々のイベントを楽しみましょうよ」
「それなりに楽しんでいますよ」
本当かなぁとは思ったが、氷室の横顔は、確かに少しばかり楽しそうに見えた。
まぁそれは、昨夜、彼の望みというか、思い通りの展開になったせいかもしれないが――
「コーヒーを買ってきますが、君は?」
「あ、はい、じゃあ」
成美は白い息を吐きながら、道路沿いの自販機に向かう氷室の背を見送った。
それにしても、昨夜は散々な目にあった。
――テレビつけてものの1分だもんなぁ。
やりました。今年も白組の勝利です!
氷室さん、事前に携帯か何かで勝敗の行方を予想していたんじゃないだろうか。
もちろん、エプロンなどあるわけがない。いくら氷室でも魔法みたいにそれを取り出すのは無理だったようだ。
成美は約束の持ち越しを訴えたが、氷室は別のことを要求してきて……。
ごほん、と成美は咳払いをした。
その時の様を思い出すだけで、今でも頬が熱くなる。
てゆっか、私たちってただの馬鹿ップルじゃないだろうか。
もちろん誰にも見られないからこそ、あんなことやこんなこともできるんだろうけど。
昨夜はあの後、さすがに夢もみずに熟睡した。
不本意な展開とはいえ、一言でいえば、幸せだった。
身体の繋がりだけじゃない。彼に過去を受け入れてもらった安堵感で、今は心ごと、何もかもが満たされている。
でも……。
(自殺ですよ)
(母と一緒に列車に飛び込んだんです。もう15年も前の話ですけどね)
残念なのは、1人で過去を背負う氷室に、今の自分が感じたのと同じ安堵感を与えてあげられないということだ。
はじめて家族の話を口にした後、すぐに氷室は口をつぐみ、もうこの件には二度と触れないといった態度になった。
多分、彼は後悔したのだ。口にした直後に後悔した。
そういう意味で、彼はまだ、成美を本当の意味で受け入れてくれてはいない。
それが氷室の問題なのか、自分が人として頼りないからなのか、――今の成美にはわからないけれど。
その氷室は、道路の向かい側にある自販機の前で、携帯で誰かと話しているようだった。
時折考えこむような目で、言葉を選んでいるのが判る。仕事かなと、ふと思った。職場で見る氷室さんと同じ顔をしているからだ。
やがて携帯を切り、それをコートのポケットに滑らせた氷室は、顔をあげて成美の方を見た。
成美は微笑した。けれど氷室は笑わなかった。焦点を成美にあわせたまま、ひどくぼんやりとした目をしていた。
夢でも、見ているような眼差しだった。
――氷室、さん……?
しかし、すぐにその彼らしからぬ表情は、幻のように消えた。
目に生気を取り戻した氷室は、成美の側まで戻ってきて、暖かな缶コーヒーを差し出した。
「ありがとうございます――もしかして、少し疲れてます?」
「そうですね。昨夜はあまり眠れなかったから」
否定せずに氷室はそう答えたが、その答えにも、成美はわずかな違和感を覚えた。
氷室が寝ていないのはいつものことだ。それでも、彼が疲れた素振りを見せたことは一度もない。
「……もうちょっと休んでから行きましょうか?」
「いえ、コーヒーを飲んだら行きましょう。ここからだと安治谷駅まで1時間はかかりますから」
ここがどこで、どの道を通ってどう行けば安治谷駅に着くのか――まるで理解していない成美は、ただ、感嘆して頷くしかない。
ほんと、すごいなぁ、氷室さんって。私なんて、このあたりが地元になるけど、さっぱりだもんね。
「さっき、すごくぼんやりしているように見えたんですけど」
神社の縁側に腰を下ろし、コーヒーのプルタブを切りながら成美は訊いた。
「僕がですか」
立ったままで、同じようにプルタブを切りながら氷室は独り言のように呟いた。
「そうですね、ちょっと……夢を見たのかな」
「夢……?」
見上げた氷室は前を見ていて、座る成美からは顔の表情までは窺えない。
「以前、同じ場所に来たような……そこに、……君が、立っていたような……そんな不思議な、……夢なんでしょうね」
「ええ? 私もそうですけど、氷室さんもここ、初めてですよね」
わざとはしゃいで言いながら、成美は内心思っていた。
それは、夢というより既視感――デジャブだ。
以前何かの本に、デジャブは脳の疲れから起こる一種の錯覚だと書いてあったような記憶がある。
それを口にしようとした成美は、再度氷室の横顔を見上げてから、やめた。
もちろん氷室が、その程度の知識を知らないはずがない。
それだけでなく、氷室の横顔は――見間違いでなければ先ほどと同じで、ひどくぼんやりとして、物を言うのもおっくうそうに見えたからだ。
成美の知る限り、ここまで疲れを表情に出す氷室は初めてだ。
だから成美はまだ、氷室に訊けないでいた。
東京での出来事、そして国土交通省で起きていることについて。
「ああ、理由がわかりましたよ、今」
しかし氷室はあっさりと言って、缶を口につけた。
見上げた横顔には、すでに彼らしい薄い笑いが浮かんでいる。
「わかったって、何がですが」
「今感じた既視感の理由です。他愛もないことでした。以前、似たようなアングルの写真を見たことがあったんですよ」
なぁんだ。
脳の錯覚だとは思ったけど、ちょっとがっかり。
そこに私がいたんなら、もうちょっとロマンチックな理由を言ってくれてもいいものなのに。
「じゃ、そろそろ行きます?」
「日高さん」
立ち上がりかけた成美の腕を、不意に氷室がそっと掴んだ。
「僕のことが、好きですか」
え?
なにそれ。どういう意味の質問。
「す、好きもなにも」
氷室が真顔なので、成美はみるみる耳まで熱くなった。
「な、なにいってんですか。朝にする会話じゃないですよ。だいたい――」
しどろもどろになった成美は、昨夜の出来事を思い出した。
「に、似たようなセリフなら、昨日、散々言わされたじゃないですか。どうしちゃったんですか、朝っぱらから」
「………言わされた?」
成美は反射的に息を引いていた。
「いっ、言いました、言いました。自分の意思で言いましたっ」
ふっとたまりかねたように、氷室の冷ややかな目が笑み崩れる。
そして彼は、低い声を立てて笑い始めた。
「なにもそこまで青くならなくても」
「な、なりますよ。もうっ、なんなんですか、一体」
朝っぱらから、猫がネズミをいたぶるような真似だけはやめてほしい。
恋愛でも、仕事でも、人間としても、私は何をしたってあなたには敵わないんだから。
「さて……、そろそろ行きますか」
やがて笑いを唇から消した氷室が、呟いた。
ふと成美は眉をひそめている。
気のせいかもしれないが、それが、自分に無理に言い聞かせているように聞こえたからだ。
――氷室さん、やっぱり今日は疲れているのかな。
そういえば、この駅での用事が終わったら、氷室さんはどこに行くつもりだろう。
それは口にできないまま、成美は再び車の助手席に乗り込んだ。
24
「はじめまして。……と言っておきます。樋口です。今日は遠方からおつかれさまです」
優しい物腰と、耳障りのいい声。
再会――といっても初めて会ったも同然だが――再会した樋口直人の印象は、何から何まで感じのいい人、といってよかった。
「えーと……、日高さん?」
逆に成美は、緊張のあまりしばらく声がでてこなかった。
眉をひそめた樋口に顔をのぞきこまれ、成美は慌てて頭を下げる。
「すっ、すす、すみません。こちらこそはじめましてです。お休みの上に、お正月にお呼びたてしてしまって……、本当に、失礼しましたっ」
「いいえ。いつがいいかと聞かれたので、今日と答えたのは僕なんですから」
樋口は微笑して、視線を駅舎内に巡らせた。
「どうしましょう。ここじゃ寒いですから、よければ中に」
そう言って視線を向けたのは、プラスチックの出札窓だ。その向こうは駅員室で、制服姿の駅員が机に向かう姿が見える。
ああ、と成美は思った。
目の前の樋口に、その紺色の制服を着せれば、記憶のままの初恋の人だ。
今となっては、なんのために会いたかったのか定かではないけれど――やっと、会えた。
「制服って、昔のままですよね」
成美が言うと、樋口は少しだけ苦笑した。
「そう、昭和の古臭いデザインのままですよ。しかし、本当によく憶えていますね」
氷室にこの感想は告げる気もないが、若い頃は、かなりのイケメンだったに違いない。
身長も高く、体格も年の割にはすらっとしている。今、40前だろうが、それより随分若くみえるのは、黒目がちの童顔のせいだろう。
髪は短く、ハイネックのセーターにジーンズというこざっぱりとした軽装も彼の好感度をあげている。今だって、かなりもてているに違いない。
「まぁ、制服以外は何もかも変わっちゃいましたからね。ここも」
樋口は懐かしそうな目で駅構内を見回した。
広々とした案内所と、全面窓ガラスに覆われたモダンな待合室。昭和というより明治っぽいレトロな雰囲気の駅である。
確かに変わった。成美の思い出の中の駅とは全然違う代物である。同じなのは――窓から見える外の光景。商店街のある道路の形状だけだ。
「僕がここにいたのは当時から数えて2年くらいですよ。その後建て替えになったんです。まぁ、駅舎に金をつぎこんでも、利用者が増えたわけではないのが悲しいところですが」
「樋口さんは、今はどちらに?」
樋口がすぐに口にしたのは、成美が聞いたこともない地名だった。
「なので、今日がむしろ都合がよかったんですよ。たまたま地元に帰省していた時に、日高さんが訪ねてきてくださった。これもなにかのご縁でしょう」
「あの……よければここで話せませんか。そんなに長くはなりませんから」
そう言って成美が土産の袋を差し出すと、樋口は恐縮しながらそれを受け取った。
「実は、私にとっても今日のことは突然で、泊まった旅館で急きょ買ったものなんですけど」
「まぁ、確かに昨日の今日ですからね。僕も昨夜、いきなりお電話をいただいた時は驚きました。ええと……氷室さん、と仰られましたが」
「彼なら、外に」
成美は、思わず背後を振り返った。もちろん、氷室の姿はどこにもない。
「氷室さんなら、遠慮して外にいるんです。呼んできましょうか。同席するように言ったんですけど」
話を取り次いでくれたのだから、せめて挨拶くらいしてくれてもよさそうなものなのに、氷室はそれを硬くなに拒否した。
どうぞ思い出話に花を咲かせてきてください。なんかそれが、妙に厭味っぽく聞こえたのは気のせいだろうか。
「結構ですよ。挨拶なら、電話で存分にしていただきましたから」
「だったらいいんですけど」
それにしても、奇妙だと思う。
会ったこともない相手に、自分のことではない用件で電話して、いきなり会う約束をとりつけた。その不躾さも氷室らしくないし、そうまでした相手に、挨拶ひとつしないのも氷室らしくない。
「やぁ、美味しそうだ。ここのお菓子は、妻の好物なんですよ」
それでも樋口がにこっと笑ったので、成美は気を取り直して氷室のことを頭から追いやった。
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