プロローグ1



 あと10分で、最終列車が停車する。
 進藤栄一(しんどう えいいち)は生あくびをすると、錆びついた椅子を軋ませて立ち上がった。
 どうせ、列車待ちの客は1人もいない。
 そう思いつつも、念のため、駅舎構内を見回してみる。
 猫の額ほどの狭い待合。線路をまたぐ広告だらけの跨線橋。
 案の定、客の気配は1人としてない。
 なにしろ、この線路の先にあるのは路線バスすらろくに通らない山間の集落だ。
 当然のことながら人口もぐっと減り、人の行き来も少なくなる。観光地もなければ宿もない。ただ田畑があるだけの農村地なのだから。
 いずれは市町村合併とやらで町名も代わるだろうが、その前にこの赤字路線自体廃止になるのかもしれない、と、進藤は密かに危惧している。少なくとも近い将来には本数と車両は減らされるだろうし、夜は機械警備に切り代わるだろう。
 やがて定刻どおりに最終列車が到着し、市人の客を吐き出すやいなや即座に発車していった。
 その客が、ホームと駅舎を繋ぐ階段から背を丸めるようにして駆け下りてくる。
「おつかれさん」
 進藤がいつものように声をかけると、平日の大半はこの最終便で帰ってくる男は、気のいい笑顔を返してくれた
 地元農家の1人息子で、名前は吉田。ここから一駅離れた場所にある町役場で事務員をしている。もう年は40前だが、地元青年団の団長をしている陽気な男だ。
「寒いねェ。夕方はチラホラだったが、もう吹雪くほど降ってるよ。電車がいつ停まるかわかんねぇから、乗ってるこっちはヒヤヒヤでさ」
 マフラーを首に巻き直しながら吉田は言った。
 その様を、出札口のプラスチック越しに見ながら、進藤は金庫の現金を数え始める。
「電車は、案外雪には強いんです。この程度の雪じゃ、停まる心配はありませんよ」
「いや、進藤さんは知らねェだろうけど、このあたり、数年に一度、なァんの前触れもなくドカ雪が降るんだよ。そういや、あんた、結局一回も経験できずじまいだったよなァ」
「この冬、そんな事態にならなければ、そうなりますね」
 進藤が微笑むと、吉田は赤らんだ顔をくしゃりと歪めて笑った。
「寂しくなるよ。進藤さんがいなくなると」
「こちらこそ、随分よくしていただいて」
「せっかく独身なんだから、この辺りで嫁もらって、ずっとこの駅にいてくれたらいいのにさァ。いや、本当にいい子がいるんだよ」
「さすがにこの年で、結婚は」
「残念だなァ」
 まだ吉田は未練がましそうだったが、表に家族が迎えに来ているらしく、結局は急ぎ足で駅舎を出ていった。が、即座に舞い戻ってきて、扉から顔だけのぞかせる。
「進藤さん、気をつけて。外、相当降ってるよ」
「お気遣いなく。アパートは歩いてすぐそこですから」
「そうじゃない。この辺り、出るんだよ」
 出る……?
「雪女」
 吹きだした進藤は、「気をつけて」と言って、吉田の丸い背中を見送った。
 ――さて、これで今日も終わりだ。
 手提げ金庫を大金庫の中に収めた進藤は、次に自分の机を片づけてから駅員室の外に出た。
 今日も何事もなく、いつもと同じ1日が終わった。
 ここから先の手順もいつも通りだ。危険物の確認と簡単な片付けをしてから戸締りをする。夜間は警備会社にセキュリティを任せているから、出入口の発信装置もオンに切り替えておかねばならない。
 もう3年も進藤は、この小さな駅の、実質ひとりきりの駅員だった。
 定年が近いとはいえ、正直、ひどく孤独な3年だった。島流し。会社の口さがない連中が、この辺りの駅に飛ばされた者を揶揄して言うのもうなずける。
 2時間に1本の電車だけが、唯一の公共交通機関である陸の孤島。一応この辺りは住宅や企業が集中した『街』にあたるが、進藤の生まれでもある灰谷市とは比べるべくもない。
 地の人間でもなければ、誰だってこんな町には飛ばされたくないだろう。実際、大抵は地元の人間がその任につくが、稀に進藤のように、地元とはなんの関係もない人間が辞令を受ける時もある。
 ただし、長くてもその任期は3年で、あと2ヶ月で、ようやく進藤の任期は終わろうとしていた。まだ辞令は出ないが、残留希望を出さない限り、まず異動は間違いない。
「まぁ、いいこともあったさ」
 ゴミ箱のゴミを袋に移し替えながら、進藤はひとりごちた。
 地元の人にはよくしてもらった。色んな寄り合いに呼ばれたし、沢山の人と知り合いになれた。先ほどの吉田もその1人だ。
 ――それに人身事故も、滅多にないしな。
 大きな町の駅にいると、事故に出くわす率はかなり高い。幸い進藤には一度しか経験がないが、中には十数回人身事故を経験した不幸な同僚もいる。
 猛進してくる鉄の塊に跳ね飛ばされた轢断死体は、言葉では言い表せないほど無残なものだ。
 四肢は車輪に巻き込まれ、内蔵は飛び出し、粉砕された肉片はところかまわず飛散する。まず、原型はとどまらない。生きているか死んでいるかのレベルの話ではなく、人間かそうではないか、そんなレベルまで破壊されてしまうのである。
 その後始末には、大なり小なり当直駅員が駆り出される。むろん、すみやかに次の電車を走らせるために、である。
 電車に張り付いたり、線路に飛散してしまった肉片を、ひとつひとつビニール手袋をしただけの手でひろい集める。車輪の隙間に入り込んだものはほじくりだす。かきあつめて袋に入れる。手の指一本がないと言われれば、出てくるまで這いつくばってそれを探す。
 たった一度の事故処理任務は進藤が30歳の時だったが、今でも夢に出てくるほど、それは強烈な体験だった。
 人身事故は、その始末に駆り出された駅員にとっては、自身の精神を壊しかねないほどの大事件なのだ。
 が、こののどかな田舎町の駅で、人身事故があったのはたった一度。
 それも今から13、4年くらい前の出来事だ。
 当然、進藤は簡単な記録でしかそれを知らない。夫婦の心中だというから、交じり合った遺体の回収作業は、想像を絶する難作業だったろうが……。
 想像し、進藤はおぞけを振った。
 ――そういう意味じゃ、いい勤め先だった。まぁ、それでも長くいるには退屈にすぎるが。
 コンコンと、微かな音がしたのはその時だった。
 顔をあげると駅舎のガラス扉の向こうに、白い人影が立っている。 
 女だと判ったのは、その影が華奢で、夜目にも長い髪をしているのが見えたからだ。
 駅舎の中には薄い灯りがついているが、逆に外は真っ暗だ。向こうからこちらは見えても、進藤には外の光景は殆んど見えない。
 吉田さんの奥さんかな、と一瞬思ったが、立ち姿の印象がまるで違うとすぐに思い直した。
「すみません」
 進藤は声を張り上げた。
 もう扉は施錠してしまっている。今の状態で外してしまえば、今度は警備会社に通報がいく。
「もう電車終わっちゃったんですよ。今日はもう、ここ閉めるとこですから」
 沈黙。ただし、女がそこを立ち去る気配はない。
 少し不気味になって、進藤は眉を寄せながら、ポケットにしまった鍵の束を取り出した。
 ――聞こえなかったかな。
 いや、そんなはずはない。しかし耳が不自由な方だという可能性もある。
 仕方なく、入り口の警備会社の通報装置をオフにしてから、扉を開けた。
「あの」
 言葉はそこで、喉につかえたように止まった。
 外は、吉田が告げたように雪が間断なく舞い散っていた。全ての店が灯りを消した商店街。雪だけが生き物のように舞う闇の中に、白いコートに白いブーツ。白い肌をした女が立っている。
 言葉がそこで止まってしまったのは、その女が――進藤が今まで見たどの人間よりも、比喩する言葉が思いつかないほど、美しかったからだ。
 もはや、生身の人間とは思えないほどに。
 透き通るように白い肌は、冷えているのか人の温度というものが全く感じられない。まるで白い陶器のようだ。
 筆で刷いたような優雅な眉に、つくりもののように整った長いまつげ。
 なにより印象的なのは黒黒と濡れた瞳だ。見ているだけで吸い込まれそうだ。深淵で、謎にみちた、夜の果てに――
 雪女。
 ぞくり、とした。
 魔に魅入られた時というのは、こういう瞬間をいうのかしれない。
「遅くに、申し訳ありません」
 しかし、現実の女の吐く息は白く、声は寒さに凍えていた。
 そのかじかんだ声は、たおやかな楽器が奏でる音色のように美しかった。
「いえ、何か――いや、電車はもう出てしまったのですが」
 片や、進藤の口からは、びっくりするほどひっくりかえった裏声が出た。うわ、と思った。50過ぎのオヤジが、20そこそこの美女を前に動揺しているのがバレバレだ。
 みるみる顔が赤らんでくるのを咳き込みで誤魔化しながら、進藤は続けた。
「タ、タクシーならまだやっていると思うので、なんだったら私が声をかけてきましょうか。隣に、タクシーの待ち合いが、ありますんで」
 女は微かに微笑してから、ゆっくりと首を横に振った。
 寒さには慣れていない風ではあったが、女の眼差しも態度もさざめきひとつない水のように落ち着きはらったままである。
「えっと……あの……では一体、なんの御用で?」
 女は答えない。不可解な沈黙。その目は最初から進藤をじっと見据えている。今も、見ている。言い方は悪いが無遠慮なほどに。
 恐ろしいほど整った顔に見えるのは、左右がほぼ均一に対照だからだ。どこにも歪みやひずみがない、完璧な容貌、完璧な美貌。本当に人間か? いや、ロボットでもこうも精巧に作れるものだろうか?
「……私の顔に、何か?」
 と、思わず聞き返したくなる衝動を、進藤はかろうじてこらえた。
 間違っても一目惚れされる顔ではないという自信はある。そしてこんな美女には、誓ってもいいが面識はない。
 ――なんだろう、田舎者の顔が珍しいとか。それとも知り合いに似ているとか?
 しかしすぐに進藤は気がついた。人間観察という意味なら、もう30年以上の経験がある。この女は今、値定めをしているのだ。目の前の男が、信用できる人間か、どうか。
 女が、ようやく形の良い唇を開いた。白い歯が真珠の粒のように美しかった。
「実は駅の中を、少し見せていただきたいのです」
「え?」
「よろしいでしょうか。私、明日にはもう、東京に戻らなければなりません。今夜しか時間がないものですから」
 淡々とした口調ではあったが、その声に進藤は、真実女に切迫した事情があることを読み取った。
 ――まぁ、長い駅員生活だ。こういうこともあるだろう。
「いいですよ」
 あえてなんでもないように答えて、進藤は扉を大きく開き、駅舎に女を招き入れた。
「もしかして取材ですか。それだったら本社に一報いれないとまずいんで、ご名刺と目的を教えていただきたいんですけどね。そうじゃないんなら」
 ふわり、と花が舞い上がるような香りがして、女が進藤の側を横切った。
 香水、フローラル、残念なことに女に縁のない進藤には、洗剤の香りしか思い出せない。しかしその華やかな香りの中に、ふと別の、よく知っている匂いの残滓を嗅いだ気がして、進藤は眉を寄せていた。……病の匂いだ。
 女は言葉もないまま、薄暗い待ち合いをぐるりと見回し、そのまま歩いてベンチにそっと腰掛けた。手で木製の手摺にふれる。天上を見上げる。
 それきり、5分はそのままの姿勢でいただろうか。
「ホームを、見せていただいても?」
 その時には進藤は、女に気をきかせて駅員室の中に戻っていた。
 女の目的が、半ば判ったからである。
「電車はもう、きませんよ」
 冗談めかして進藤は言った。
「始発の6時まで、まとうっていうんなら別ですけどね」
 そのジョークの意を察したのか、女は初めて感情を見せて微笑した。
「安心してください」
 返された言葉に、進藤は少し不安をいだきながらも、頷きだけを返した。
 自殺なんてしませんから、安心してください。
 つまりは、そういうことである。
 10分たったら様子を見に行こうとだけ決めて、進藤は日誌を開いた。もう書き終えていたが、少しばかり小説家になった気分で加筆してもいいだろう。
 ゆうに30分たった頃、女が跨線橋を渡って戻ってきた。その間、進藤は二度ほど様子を見に行ったが、そのことは女には言わないでおいた。
 駅は別れの場所でもある。
 人はそこに、様々な思い出や忘れ物を残しているのだ。
「もう、よろしいんですか」
 あえて、快活に進藤は訊いた。
「ええ、ありがとうございました」
 微笑した女が会釈する。寒さのせいか顔色はますます白く儚く、今にも消えそうなほど透き通って見える。
 しかし女は立ち去らず、そのまま静かに駅員室と待ち合いを繋ぐプラスチックの出札口の方に歩み寄ってきた。
「ひとつ、お願いしてもよろしいですか」
「……なんでしょう」
 進藤はためらいながら顔を上げた。面倒な頼まれ事をされる予感がしたが、それがいかに無理難題でも、何故か聞いてしまうような、そんな不安が胸をよぎる。
「お礼は、します。不躾で失礼ですが、お金であれば、いくらでも」
「いいですよ、お金なんて。……あ、でも、できないことはできないですけど」
 進藤は慌てていい添えたが、女はもう、進藤が断らないことを確信しているようだった。人を自分の意のままに動かすことに慣れている――そんな嫌な印象をふと感じた。
 しかし今、進藤を動かしているのは、女の美貌ではなく、その態度や口調から見え隠れする切迫した何かの感情である。
「預かっていただきたいものがあるんです」
 静かな決意を思わせる声で、女は言った。
「なんでしょう」
「手紙です」
「……いつまで」
「ある人が、受け取りにくるまで」
「いつのことです」
 あと2ヶ月で、進藤はこの駅を去る。
「あと半年……いえ、もしかするとまだ先になるかもしれません」
「…………」
 そんな約束は――私には、無理です。
 しかし進藤は、黙って手を差し伸べていた。
 あと半年の意味が、直感的に判ったような気がしたからだ。
「ありがとう」
 女は微笑んで、ショルダーバックの中から白い封筒を取り出した。
 バックにはその女の雰囲気に似合わないキーホルダーがいくつもついていた。
 漫画かアニメのキャラクターのようだ。バイクに乗った正義の味方――なんだったっけ。
 思い出す前に、進藤の目の前に雪のように白い封筒が差し出される。差出人も宛名もない。
 ああ、子どもがいるんだ。
 進藤はようやく気がついた。この女性には、バイクに乗った正義の味方に夢中になる程度の小さな子どもがいる。そういうことだ。
 もう1年、残留決定だな。
「……それで、ある人というのは、どのような人物なんでしょう」
進藤はそう訊きながら、封筒をそっと取り上げる。
「目印を残します」
静かな声で女は言った。
「その人にしか判らない目印を、ここに」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです