22
 
 やっぱり納得出来ないわ。それで、うちの俊子が割を食うなんて。
 
 ――ああ……
 これは夢?
 そう、夢だ。だって、あんなに優しい叔母さんが、こんな、怖い声を出すわけない。
 
 俊子は少し……他の子より遅れていて。
 その分、学費も……家庭教師や塾のことも、考えてやらないと。
  
 誰かと、電話で話している。
 多分、相手は東京にいる叔父さんだ。
  
 だって成美ちゃんは頭がいいでしょう? それじゃ、比べられる俊子があんまり可哀想じゃないですか。
 
 私と、……俊ちゃん。
 比べられるって、どういうこと?
 
 受話器を握り締める人が、歯を食いしばって泣いているのか判った。
 
 みじめなんです。辛いんです。あなたにはわからないわ。あれだけ私たちに迷惑をかけた陽子さんの子どもが俊子より優秀だなんて、ひどすぎるじゃないですか。
 あなたがなんといおうと、成美は陽子さんに返します。育てられないなんて、ただの甘えよ。その結果成美がどうなろうと、うちには関係ないじゃありませんか!
 
 思い出した。
 私、全部思い出した――
 
 
「…………っ」
 目を見開くと、暗い影が見下ろしていた。
 成美は大きく息を吐き、反射的に目の前の影にしがみついた。
 自分の、心臓の音が大きい。
「どうしました」
 ――氷室さん……。
 部屋は暗く陰っていた。障子の向こうに淡い月明かりが映っている。いつの間にか寝ていたのだ。電気は、氷室が切ったのだろう。
 大きな手が、額の髪をそっと払ってくれる。自分がひどく汗をかいていることに成美ははじめて気がついた。
「夢を、みて」
「悪い夢?」
 眉を寄せて頷いた。
「すごく、嫌な」
 夢――
 違う。
 あれは、夢じゃない。
 見開いたままの目が、不意に細かく震えだした。
 ――思い出した……。
「あ、たし」
 思い出した。あの雪の日の前夜のことを。
 7歳だった成美は、何故だか寝つかれずに、夜中にこっそり部屋を出た。多分、水でも飲むつもりだった。
 美和の寝室から、薄い灯りと、そして囁くような声が漏れていた。
 夢を見た。悪い夢。成美はそう思って再び部屋に戻って眠りについた。
 その翌朝、まだ薄暗い内に、その美和に起こされた。手を引かれて家を出て、車で連れて行かれたのは、駅だった。
 
「あたし、……お母さん、じゃない。叔母さんと、駅に、いったんです」
 薄闇の中、氷室がそっと眉を寄せるのが判った。
  
 成美ちゃん、いい子だからこの電車で、灰谷駅までいってね。終点よ。ものすごく長く電車が止まって、みんなが一斉に降りる駅。その時に、成美ちゃんも一緒に電車から降りたらいいの。判るわね。
 成美ちゃんのお母さんね。今度遠くにお引越しするんですって。だから成美ちゃんを、どうしても連れていきたいんですって。大丈夫。お母さん、私と約束したの。灰谷駅まで、必ず成美ちゃんを迎えに行くって。
 
 いつもと変わらない美和の笑顔が、その朝は鬼のように見えた。
 ただ怖くて、頷いた。一刻も早く、その鬼の側から逃げ出したかった。
 
 
「電車が停まって、長く、停まって、みんなが降りて。あたしも、そこで降りたんです。お母さんはいなかった。待っても待っても、どれだけ待っても、きてくれなかった」
 来るはずがない。
 どういう勘違いをしたものか、そこは灰谷駅ではなく、安治谷駅だったのだから。
 でも、その時の成美には判らなかった。
 ここが終点だと信じたまま、暗くなるまで、迎えがくるのを待ち続けた。かじかむ指に息をふきかけ、空を覆う吹雪を見ながら、ただ、待った。
 寒くて、怖くて、心細くて。
 寂しくて、悲しくて、ものすごく、心細くて。
 不意に自分の顔が歪み、涙が溢れて頬と鼻を伝った。
「ご……めんな、さい」
 その時に、知った。
 もう自分に、帰る家なんてないことを。
「じ、自分の、居場所が」
 しゃくりあげた声がでた。
「もう、どこにもないような気がして」
 そっと頭を引き寄せられる。
「もう、誰からも」
 どっと涙が溢れ、あとはもう、まともな言葉にならなかった。
「わ、私なんて、もう、もういらないって、い、い、言われてるような気がして」
 食いしばった歯の隙間から、泣き声が漏れた。
 一度声がでると、もう感情の歯止めがきかず、成美は氷室の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
 その間、氷室はずっと成美を抱きしめ、頭を撫で続けてくれていた。
 まるで父親か兄のように、彼の手は優しく、暖かだった。
 どれだけの間、そうやって泣いていたか分らない。
 気づけば涙も激情も乾き、成美は子どもみたいに氷室に抱きついたまま、ただ鼻だけをすすりあげていた。
「……落ち着いた?」
 小さく頷いたものの、すぐには顔があげられない。
 多分ひどい顔になっているだろうし、少なからぬ恥ずかしさもある。
 目茶苦茶、泣いた。
 恥ずかしいほど、泣いた。
 どん引きされてもおかしくないほど、子どもみたいに泣きじゃくった。
「ティッシュ……」
 成美が鼻を押さえて呟くと、苦笑した氷室が半身を起こし、床の間にある漆のケースから、備え付けのティッシュを数枚引きぬいてくれた。
「……すみません」
 色んな意味で。
 ろくな説明もせずに、いきなり醜態みせちゃって、ごめんなさい。
 思い出しました。何もかも。
 もちろんまだ解らない点は色々あるけど、大体のことは。
 私が本当に思い出したくなかったのは――
「私、なんで安治谷駅で降りちゃったんですかね」
 だいたいの事情は判ったのか、氷室の横顔は薄く笑んだだけだった。
「灰谷駅までいったら、どうなっていたのかな。お母さん、迎えにきてくれてたのかもしれない……今となっては、もうわからないですけど」
 成美はティッシュで、涙と鼻水を拭った。はぁっと息を吐く。涙で冷えた目が気持ちいい。
 思い出したくなかった。
 できれば死ぬまで、忘れたままでいたかった。
 だから美和は、雪の日の思い出話になると、あれほど顔色を曇らせたのだ。
 あえて、違う駅名を言ったのだ。
 ふたりとも、胸の底に何もかも閉じ込めたまま、15年以上母子として生きてきたのだから。
  
「次の日の朝、叔母さんが――お母さんが迎えに来てくれたんです」
 少し落ち着いた気持ちで、成美は言った。
 美和は目を真っ赤に泣きはらし、成美を抱きしめたまま、わんわんと大声を上げて泣いた。
 成美も負けないくらい大声で泣いた。そこから――どうやって家に帰ったのかは、あまりよく憶えていない。
 その夜、成美は熱を出した。
 夜遅くになって、東京にいたはずの叔父が血相を変えて帰ってきた。
 その叔父に成美は言った。
「お母さんが、迎えにきた」
「陽子が? この家に来たのか?」
 うん、と成美は頷いた。
「一緒に行こうっていうから、ついていった。ごめんなさい」
 陽子はどうした、と聞かれ、知らないとだけ答えた。
 後のことは、思い出せない。
 風邪から肺炎をこじらせた成美は、それからしばらく伏せたままでいた。美和は、ずっと成美につきっきりで、献身的に介護してくれた。
 すっかり元気を取り戻した時には、なにもかも――なかったことになっていた。
 いや、成美が自分でそうしたのだ。そして、実際、何もなかったように振るまい、やがて本当に、何もかもを忘却の彼方に置き去りにした。
「お母さんに、悪いことしちゃったな」
 美和のことを指して、成美は言った。
「自分で嘘をついたくせに、今になって、ひっくり返そうとするなんて。……人の記憶って不思議ですね。氷室さんのいうように、私、自分にとって都合のいいことばかり憶えていたみたいです」
 でも、今はもう、思い出してしまった。
 それが少しだけ不安をかきたてる。
「明日、お母さんになんて言えばいいのかな。……安治谷駅にいこうなんて、もう考えずに、忘れたふりのままでいるのが、一番いいことなんでしょうか」
「思い出したと、そういってあげればいいと思いますよ」
 氷室の口調は静かで、そして優しかった。
「たとえ、それがどれだけ愛している相手でも、時に、心ない言葉で傷つけてしまうことがある」
「…………」
「どこまでが本音でどこまでがそうでないかなんて、実は言っている本人にもわからない。……人間なんて、そういうものだと思いますよ」
 成美が黙っていると、優しい声で氷室は続けた。
「傷つけた当人が、実は君以上に傷ついていることもある」
「…………」
「どんな善人の心にも、一瞬の闇というのがあるんです。君にも、僕にも、――君のお母さんにもね。それは人として、許されない闇かもしれない。でも、君は許すことが出来る。違いますか?」
「…………」
「今の君をみれば、わかりますよ。君を育てた人は、とても心の優しい、愛情あふれる人だった。お母さんの愛情も弱さも、君はもう、十分に知っているんじゃないですか」
 成美は、唇を噛んだままで頷いた。
「……はい」
 知っている。
 あの雪の日の騒動の後、美和がいかに自分を責め続けていたか。
 そして成美を愛そうと、どれだけ努力していたか。実際、どれだけ沢山の愛をくれたか。
 全部――もう、全部知っている。
 ぽん、と頭が叩かれ、その手がそっと離された。
「だからもう、いいんですよ。本当のことを言って、お母さんを楽にしてあげなさい」
 こくん、と頷きながら、ああ……、と思った。
 私、この人を好きになってよかった。
 本当に、よかった。
 神様、私を彼に会わせてくれてありがとう。
 この冷たい手を持つ人の心は、本当は誰よりも暖かくて優しいんです。
 そうして私はこの人の手を、もう二度と、できれば一生離したくないんです――
 
 
 ――それにしても。
 すっかり平静心を取り戻した成美は、天井を見上げたままの氷室を見た。
 ついに自分の底の底まで、この人には知られてしまった。
 もう隠すようなことは何もない。まぁ、強いて言えば雪村さんのことくらい……それだって、やましいことは何一つないんだけど。
「あと少しで、年明けですね」
「ん?」
「寝ないでくださいね。一緒に年を越したいから」
 肩を抱かれ、そっと抱き寄せられる。
 これだけ身体を寄り添わせているのに、氷室が何もしないのが不思議であり、幸福でもあった。
 自分が最後まで抱えていた暗いものは、何もかも吐き出した。
 本当に隠しておきたかったのは、実の親のことでも、駅で何が起きたかでもない。その夜の――あまりに孤独で惨めだった、1人ぼっちの自分の記憶だ。
 この世界でたった1人だという絶対の孤独。
 その時感じた恐ろしさや不安を、二度と思い出したくなかったし、誰とも共有したくなかったのだ。
 口にすれば、またあの夜の恐ろしかった感情に取り憑かれてしまうような気がしたから――
 でも、もう大丈夫だ。
 胸の底で凍りついた過去は、今、全部溶けて流れていった。
 氷室さんが、受け入れてくれた。
 大丈夫だと、心でそういい、伝えてくれた。それがよく判ったから……。
 氷室をそっと見上げて、成美は言った。
「やっぱり氷室さん、普通の人じゃないみたい」
「え?」
「まだ何も言っていないのに、私の気持ちみたいなもの……絶対先読みしてますよね。まるで超能力でもあるみたい」
 成美を見下ろし、氷室は微かな笑みを浮かべた。
「言っていませんでしたか。僕は人の心が読めるんです」
「……え」
「嘘ですよ。真顔で驚かれると、こっちもリアクションがとれなくなる――さて」
 いきなり言葉を切ると、氷室は布団を払って起き上がった。
「なんだか目も冴えてきたので、紅白でも見ますか」
「はい?」
「まだ11時半だから、少しなら年末気分を味わえるんじゃないかな」
「ちょっ、……いいですけど、この空気で紅白ですか?」
 いくらなんでもそれはないでしょ――と、成美は戸惑って氷室を見上げる。氷室はいたずらっぽい微笑を浮かべた。
「実は面白い賭けを思いついたんですよ。僕は白に賭けますから、白が勝ったら、かねてから希望していた例の」
「ちょっ、ちょちょっ、勝率高いのは俄然白じゃないですか。そんな危険な賭け、絶対にしませんよっ、私」
 さすがに今までの会話の何もかもが吹っ飛び、成美は、眠気が吹き飛ぶ思いで跳ね起きた。
「別にいいでしょう。ただエプロンをつけてもらうだけなのに」
「………氷室さん、言っときますけど、それただの変態ですから」
 全く――
 今までの話の流れで、どうしてこんな展開になるのだろう。
「とにかく賭けは、なしってことで。普通に紅白を楽しみましょう」
 リモコンを取り上げると、氷室は不服そうに片膝で肘を支え、拳を頬のあたりに添えて成美を見た。
「僕は貞淑な賢妻より、おねだり淫乱妻のほうが好きなんですよ」
「はっ、はい?」
「君が間違いなく前者なだけに、残念で仕方ないんですよね。実際のところ」
 あの……、なんの話ですか、それ。
「赤が勝ったら、僕と結婚しましょうか」
 ――え……。
 さらっと言った氷室は、もう視線をテレビの方に向けていた。
「そういうことで、僕らの賭けは成立ですね。じゃあ、テレビをつけてもらえますか」
「え、あ、は、はいっ」
 え、今なんていった?
 赤が勝ったら結婚とか、え、え?
 それまでの深刻さがなんだったんだ、と思えるほど心臓が身勝手に踊っている。
 時計をみると、今年もあと15分。紅白もそろそろエンディングだ。
 な、なになに? もしかしてテレビをつけた瞬間に婚約成立とかもありなわけ?
 しかし、負けたら○エプロンで、勝ったら結婚とか、あまりにも落差がありすぎない?
 成美はドキドキしながら、リモコンのスイッチに指をかけた。

  
 

 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。