21
 
 安治谷駅。
 あじがや駅。
 眉をひそめる成美を横目で見てから、氷室は続けた。
「……古い話だから、お母さんも記憶が混同していたんじゃないですか。たった一駅違いですから、大した差はありませんし」
 記憶違い――
 何故だか、胸が重苦しくなるような感覚に見舞われ、成美は視線を伏せていた。
 なんだろう、この感じ。なんだかすごく嫌なことを思い出しそうな、この感じ。
「この界隈の駅を虱潰しに調べたのが幸運でしたね。というより、20代の駅員はその人物しかいなかったんです。まさか7歳の君が、4、50代の中年に一目惚れするとも思えなくて」
 氷室のその言い方に、ようやく成美は少しだけ笑っていた。
「さすがは氷室さんですね。もう、すごいとしか言いようがないです」
「以前も言ったと思いますが、探し物は頭でするものなんです。間違っても無駄に足を使うべきじゃない」
 今のは明らかに嫌味だろうが、まぁ、今日だけはふくれるのはよしておこう。
 少なくとも紀里谷と2人では、永久にその人に辿りつけなかっただろうから。
 樋口直人(ひぐちなおと)
 それが、初恋の人の名前だった。
 不思議だった。名前を氷室の口から聞いた途端、それまで夢か幻でしかなかった人が、にわかに現実味を帯びてくる。
「ついでに聞いておきましたが、残念なことに、既婚者だそうですよ」
「べ、別に残念じゃないですよ、失礼な」
「ふぅん」
 氷室は冷めた目を天井に向ける。
「少し、電話で話しましたが、当時のことはよく覚えているそうです。駅に女の子を泊めるなんて、後にも先にもそんな経験は初めてだったそうで」
「………」
「さすがにいきなり会いたいと申し入れたら、驚かれましたがね。……まぁ、地元に帰省している今しかチャンスはないだろうと思ったので」
 そうですよね。と成美はいい、ありがとうございました、と改めて礼を言った。
 もしかすると、もっと別の話も、樋口の口から出たのかもしれない。
 が、それは、やはり成美からは確認できなかった。
 まだ、自身の口から氷室には何も打ち明けていないのだ。
 もしかすると、氷室は、今まで自分が欺かれていたと思ったのかもしれない。
 成美にしてみれば別に必要がないから言わなかっただけなのだが、自分が養女だということを、一言も告げずに今日まできた。
 それだけじゃない。行方不明だとばかり思っていた実母は今――
 紀里谷は、そこまで氷室に白状してしまったのだろうか。
「……最初は、灰谷市で暮らしてたんです」
 呟くように、成美は言った。
「私と、お父さんとお母さん。ちょっとだけ、覚えてる。……ううん、この2日くらいで思い出したのかもしれません。3人で電車に乗って、田舎のおばあちゃんの家によく遊びに行っていたから」
 あじゃが駅。
 不確かな発音しかできない幼い娘を笑顔でたしなめる父と母。
 いっそそれが、夢であればいいとさえ思うほど幸福な光景。
 どこかでそんな予感もあった。それが――思い出の駅だったのだ。
 不意に瞼の奥が熱くなり、成美は少しだけ唇を噛み締めた。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、今はもう死んじゃって、その家が、今は私の実家です。叔父さん夫婦が家を継いだから……。私の、……言葉はあれですけど、養親の」
「それで?」
 促す氷室の声は、短いけれど優しかった。
 小さな深呼吸をしてから、成美は続けた。
「簡単に言えば、私のお父さんって人には、他に家族がいたんです。いつか離婚して籍を入れますとか言ってる間に、私が産まれて、お父さんは死んじゃいました。……もともと身体が弱い人だったそうです」
 不倫という言葉を、美和も芳雄も最後まで口にはしなかった。
 成美は、もう一度深呼吸をした。
「でも、そのあたりから、今度はお母さんがおかしくなっちゃって……」
(そのことについては、私も責任を感じているんだ)
 昨夜、沈鬱な表情で、芳雄は自身の罪を告白した。
(同じ頃、親父とお袋が相次いで亡くなって、陽子の味方は1人もいなくなった。私は陽子が成美を産むのにも反対したくらいだし、私たち兄妹は、昔から仲が悪かったからね。……私も援助しなかったし、陽子も家に寄り付かなくなった。結局、生活に困って、水商売に身を落としたんだろう)
「そこで、あまり性質の良くない男の人とつきあうようになったんだって……。結局、警察に捕まったんです。俗にいう、美人局みたいなことをして、それで客からお金を騙し取るみたいな……」
 罪は、思いの外重く、初犯にも関わらず実刑がついた。
 そこでようやく成美は、叔父夫婦に引き取られることになったのだ。
(成美ちゃん、痩せて、歯なんかもう虫歯だらけで。なんでこんなになるまで放っておいたんだって、お父さん自分を責めて泣いちゃって、私も成美ちゃんが可哀想で)
 そこまで説明して言葉を切り、成美はそっと氷室を見上げた。
「この話、重たいですか」
「別に?」
 本当だろうか。
 微かな不安が胸に広がっていく。でも彼の目はあくまで優しく、成美に続きを促しているように見える。
「……今でいう虐待……ネグレストみたいなものだったかな。それが4歳の時だというから、少しは憶えていてもよさそうなのに、私、聞いてもちっとも思い出せないんです。間が抜けてますよね」
 氷室の手が優しく、成美の肩を撫でてくれた。
「それで?」
 うん。成美は自分を励ますように、頷いた。
 うん、大丈夫。話を端折ったり美化したりせずに、きちんと全部、話さなきゃ。
「そんなこんなで、私、叔父夫婦の娘になったんです。お母さんも納得したし、養子縁組に際して特にトラブルもなかったそうです。叔父――今の父は、お母さんに法定相続に見合う金銭を渡し、お母さんはそれで一からやり直すって東京に出ていきました。それが、私が5歳の時です」
 それでも次の展開は、なかなか口にできなかった。
「お母さん、東京で……」
 きっと、寂しかったり、辛かったりしたんだと思うんです。
 だから悪い人たちに騙されちゃって、そこから抜けられなくなったんじゃないかなって。
 その思いは胸の奥で噛み締めたまま、耳にした真実だけを簡単に口にする。
「商売に失敗して、また悪い男の人とつきあうようになって、叔父に金の無心に来るようになったんだそうです。それだけならまだよかったんですけど……親戚にも借金をするようになっちゃって」
 借りた金は、結局一銭も返されることなく、全て叔父が肩代わりをした。ただし、すぐに返せる額ではなかったそうで、親戚からは随分苦情が寄せられたそうだ。
「それで叔父が――今の父ですけど、もう妹とは縁を切ると親戚中に謝罪して回ったんだそうです。その時に母も、縁切り状を書きました。日高の家とは今後一切関わらないという証文です」
 そして2年後、あの雪の日が訪れる。
「私が7歳になったばかりの頃、だったの、かな……。その1ヶ月前くらいから、叔父のところに、母から頻繁に電話がかかるようになったんだそうです。私と、もう一度一緒に暮らしたいって。叔父は激怒して、相手にもしなかったそうですけど」
 成美は唾を飲み込み、天井に視線を向けた。
「不思議なくらい、私は憶えてないんです。でもどうやら母が家まで迎えに来て、私は母についていったみたいです。うちの最寄り駅から安治谷まで、多分、電車で移動したんでしょうけど、全然……思い出せないんです」
 漠然と、1人で電車に乗っていたような記憶があるが、隣に母がいたことは、どうしても思い出せない。
「その夜、1人で駅に泊まった私の側に、優しい駅員さんが……それが樋口さんなんですね。樋口さんが、ずっと側にいてくれたんだと思います。私の手を握って――優しい言葉をかけてくれた。君の手は温かいね。それは……人を幸せにする手だよって」
 それだけは、覚えている。
 いや、思い出したのだ。氷室とつきあうようになってから。
「へんですね。他のことは何もかも忘れているのに、そのことだけは鮮明に覚えているなんて」
 見上げた氷室は、無言で天井を見つめている。
 ひどく空虚な横顔だった。
 時間にすれば数秒のその不可解な間を、成美は息を詰めるような思いで見守った。
 もしかして重いと思った?
 やっかいな女と関わり合いになったと、そう思われてしまったのだろうか。
「おかしくはないですよ」
 が、不意に優しい口調になって氷室は言った。
「君は無意識に、自分を守ったんだと思いますよ。まだ色んな現実を背負うには、7歳は幼すぎますからね」
「いい記憶だけ、故意に残してるってことですか」
「そんなところじゃないんですか」
「都合いいなぁ」
 成美は苦笑して、再び視線を天井に戻した。
「実は、だいたいのことは予想してるんです。私、きっと安治谷駅で、お母さんとはぐれちゃったんですね」
 私が逃げたのか。それとも、母が逃げたのか。
 いずれにしても、そのどちらかに至る事情が起きて、1人きりで駅に泊まる羽目になった。つまりはそういうことだろう。
 樋口という人は、その時の光景を目撃していたのだろうか。
 少しでも、私と一緒にいたはずの母のことを記憶してくれているだろうか。
 その謎は、年が明ければ全て判る。でも――
「本当のことを言うと、今頃になって、ちょっとばかり後悔してるんです。こんなわかりきった結末を、わざわざ駅にまで確認しにいって、一体、なんになるのかなって」
 自分が傷つくかもしれないことをどうして知りたいの。と美和は言った。
 その通りだと成美も思った。なのに結局は、紀里谷と一緒に家を出た。
 多分自分はそこに、一縷の希望を見出したいのだ。
 母に愛されていたという記憶を、それがわずかな希望であっても、思い出したいのだ。――どうしても。
「現実を知るのは、悪いことではないですよ」
 黙っていると、静かな声で、氷室は言った。
「君の年では、もう悪いことじゃない……。明日、僕が一緒に行くのは、迷惑でしたか」
 成美は首を横に振り、氷室の腕に自分の手を絡めた。
「なんか言い訳っぽいですけど、そもそも氷室さんに自分の過去をきちんと話そうと思って、それで初恋の駅員さんを探してみる気になったんです。私」
 それには氷室は、しばらく言葉が出てこないようだった。
「……何故?」
 その目は、少しばかり困惑しているようにも見える。
「僕は君の過去にも家族にも、特段の興味はありませんよ。たとえ身内にどんな人がいようと、それで君を判断することもない」
 解ってます。それは、解ってるんですけど。
 一息ついてから、成美は言った。
「私が氷室さんの過去を知りたいと思ったから――そのお返し、みたいな感じだったんでしょうか。でも私にも、ようやく氷室さんの気持ちが分かりました。好きだからこそ、隠しておきたいこともあるんだって」
「…………」
「昨日あたりから、このことが氷室さんの耳に入るのがすごく怖いというか……嫌だな、と思う気持ちが強くなって。その理由を今日一日、ずっと考えてたんですけど」
「…………」
「私にとって、忘れたままにしておきたい……というより、なかったことにしたい過去を、氷室さんに喋っちゃったら、もう私、一生その過去から逃げられないじゃないですか。もしその過去がどうしようもなく嫌になったら、それ知ってる氷室さんといる事自体が辛くなるんじゃないかって……そんな風に思ったんです」
「……………」
「でも今は、なんだか結構平気な気がしています。別に嫌味で言ってるわけじゃないですけど、そもそも氷室さんが私の側に一生いる保証なんてないわけですし」
 あ、やっぱり皮肉になっちゃったかな。
 成美は氷室の動かない横顔を見上げ、ちろっと舌を出した。
「負の感情は、好きな人とだけは共有したくないって、結局はそういうことなんだと思います。昨日は私の中に、私を産んでくれた人への憤りや失望感みたいなものがいっぱいあって、……多分、そういう気持ちを、氷室さんとだけは共有したくないって思ったんじゃないかな。だってそんなの、ちっとも楽しくないじゃないですか」
 氷室は黙って、成美の髪を撫で続けてくれている。
 少し、眠くなってきた。
 そう言えばこんなの、初めてかもしれない。同じお布団に寝ているのに、私たち、キスもしていない――
 本当は、私から聞きたいことも沢山ある。
 東京で、何をしていたんですか。
 どうして私と紀里谷さんを追いかけてきたんですか。
 国土交通省のえらい人が逮捕されちゃいましたけど、氷室さん、無関係ですよね……。
 でも、そのどれも言葉にできないまま、成美は疲れたように目を閉じた。
 そういった疑問を解決するのは明日にして、今夜は寝よう。
 一番言いにくいことを最後に言って、後はぐっすり寝てしまおう。
 もしかして最後になるかもしれない、彼の暖かな腕の中で。
「これで氷室さんが私とのおつきあいをどう思おうと、もう気にしないことに決めたので……その前置きで、いいます。母はいまも服役中なんです。薬物中毒……。一度悪い水につかると、なかなか抜けだせないものなんですね」
 それでも、おそるおそる見上げた氷室の横顔が、かすかに笑むのが成美には判った。
「え、笑うとこですか、そこ」
「いや、奇遇だなと思って」
「は?」
「僕の父も、服役していましたからね。出所して数年足らずで死にましたが」
 心臓を冷たい手でいきなり鷲掴みにされたような気分だった。
「……ご病気、ですか」
「自殺ですよ」
 遠くを見るような目で、氷室は言った。
「母と一緒に列車に飛び込んだんです。もう15年も前の話ですけどね」


 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。