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 待ち時間は、前に比べると長かった。
 15分から20分あたり、成美は1人で、ソワソワハラハラ、何をしても落ち着かない気持で、氷室と紀里谷が戻るのを車内で待った。
「すみません。お待たせしました」
 やがて、どこか疲れた顔で、氷室1人が戻ってくる。彼が運転席に座り、当然のようにキーに指をかけたので、成美は驚いて訊いていた。
「あの、紀里谷さんは?」
「電車で帰らせましたよ。彼がいた方が都合がよかった?」
 いえ、その……。
 口ごもっていると、不意にこちらを向いた氷室に腕を引かれ、抱きしめられた。
 コートもマフラーも、氷のように冷えている。髪も、そして触れ合った頬も鼻も。
 ――氷室さん……。
 何故かそれが愛おしくなって、気づけば成美も、力いっぱい彼の背を抱きしめていた。
 もう怒られたって、なんだっていい。
 氷室さんが来てくれた。
 こうやって私を抱きしめてくれた。
 なにひとつ言葉もないまま、冷えた唇が重ねられる。すぐにそれは熱を帯び、深く、密度を増していく。
 背中に回された手が荒々しく動く。何度か唇が離れ、問うように彼を見上げても氷室は一言も喋らない。そしてキス。 
 際限なく、成美の唇を開かせては自分の熱を押し入れてくる。
 怒っているのは、よく判った。
 それも、多分、とんでもないほど。
 なのに、少しも怖くないどころか、彼がますます愛しく思えるのは何故だろう。
 そう、この人は、いつも何かにおびえている。今も、それがよく判るからだ。
 やがて氷室は唇を離して顔をあげ、成美を抱きしめ、額を押し当てるように目を合わせた。
「どこかに、泊まる?」
 頷いた。いつにない性急な口調に胸がざわめいて熱くなる。
 親への言い訳は――この際、後で考えるしかない。
 が、ただ恋に溺れ、無為に今日という日を2人きりの時間に費やすのは……過去を説明をしてくれた両親に対しても……。
「紀里谷に、おおまかな話は聞きましたよ」
 切り出し方が判らない成美が眉を寄せていると、氷室がコートを脱ぎながら、初めて彼らしい、落ち着いた口調で言った。
 ドキンッと、胸の鼓動が跳ね上がる。
「あの、どの辺りをお聞きになりました? 結構長いというか、話せば複雑な話でして」
「君と、人探しをしている最中だったと」
 ん? まぁ人探しというか、なんというか。
 その上に「初恋の」がつくことを、まさか言ってないよね。紀里谷さん。
 目をあちこちに泳がせる成美を見下ろし、静かな口調で氷室は言った。
「僕では、探偵の相棒にはなれませんか」
「………」
 え?
「少なくとも紀里谷よりは、人探しは上手いつもりですけどね」
 ――……。
 迷いが、多分顔に出ていた。
 一体紀里谷さんは、何を彼に話したんだろう。私を産んだ人の過去。できることなら知られたくない。でもそれを話さずに、彼に全てを理解してもらえるだろうか。
「あの、私……」
 駅員さんを探している、というよりは。
 多分、お母さんと別れてしまった日のことを、思い出そうとしているんです。
 その日に何があったのか。
 あの日、なくしてしまった記憶を、私――探そうとしているんです。
 言葉を探す成美を、氷室は黙って見つめているようだった。が、不意に彼は冷ややかな目で口を開いた。
「紀里谷に似ているそうですね」
 ドキッ。
「お正月休みを利用して初恋の人探しですか。君がそんなにロマンチックな女性とは知りませんでしたよ。しかも紀里谷に似た初恋の人。それはそれは、昔の君は随分と趣味がよかったんですね」
「い、いえいえ、あのですね、それはですね」
 半ば蒼白になりながら、成美は懸命にこの場を言い逃れる言葉を探そうとした。
 あーっ、もうっ、やっぱり紀里谷さんなんか信じるんじゃなかった。
 よく判った。紀里谷に打ち明けた秘密は、そのまま氷室にダダ漏れになるのだ。これからは肝に命じて置かなければ。
「わ、私の理想は氷室さんです」
「いいですよ。そんなとってつけたように理想にしてもらわなくても」
 氷室は冷ややかに言い捨てたが、その横顔は言葉ほど不機嫌そうではなかった。
「とりあえず泊まる場所を探しましょう。日が暮れたら道がわかりづらくなる」
「は、はい」
 とりあえず言い訳は、車がホテルに着くまでに考えるとしよう。
 心中胸をなでおろした成美は、そっと横目で、車をバックさせている氷室を見上げた。
 なんか、いつも以上にかっこよくない?
 光沢のあるグレーのシャツに黒の上着。暗い色合いが彼の美貌をいっそう引き立てているようだ。
 ――氷室さんが、来てくれた。
 今回はピンチでもなんでもないけど、氷室さんが来てくれた。
 見上げた空からは、雪が静かに舞い降りている。
 夢みたいだ。
 今年最後の日に、大好きな人と一緒にいられる。絶対に叶わないと思っていた夢が、こんな風に簡単に叶うなんて……。
  
          20
  
「あ、紅白始まってる。テレビつけましょうか」
 ふと時計を見た成美が腰を浮かせようとすると、
「つけないで」
 寝そべったままの氷室の声が、素早くそれを遮った。
「紅白、見ない人ですか」
「君の質問を先読みして答えれば、裏番組も一切、ね」
 そりゃまぁ、確かに、料理番組みたり、お笑いみたりしてる氷室さんは想像できないけど。
 少しばかり不満を覚えつつ、成美は座椅子に座りなおして湯のみを持ち上げた。
 氷室はすでに用意された布団の一組で腕枕をしたまま、さきほどからずっと無言で天井を見上げている。
「大晦日は、いつも何をされてるんですか」
 まさか、毎年寝転んで天井とにらめっこしているわけではないだろうに。
「読書ですよ」
 あっさりと氷室は答え、それきり再び無言になる。
 ――どうしたんだろう。
 どうも氷室さんの様子がおかしい。
 そりゃ今夜は、出会いからして少しどころではなくおかしいし、彼が不機嫌になる要素は山のようにあるんだけど。
 それでも、2人で泊まろうといってくれたのは氷室だし、頼んでもいないのに、成美の初恋の人探しを手伝ってくれたのも、氷室自身の意思である。
 成美にしても、聞きたいことは沢山ある。
 いったいどうして、氷室が成美の前に現れたのか、もとい、紀里谷を追いかけてきたか。
 成美が原因とは考えにくい。何故なら成美と鉢合わせになった時、氷室は――そんな彼の顔を見たのは実は初めてだったのだが――相当衝撃を受けていたようだからだ。
 が、そんなことも、氷室は一切口にする気はないようだった。
「……もしかして、怒ってます?」
 成美は観念して、おそるおそる聞いた。
 今日、車で1時間ほど走った氷室は、古い観光旅館に宿をとってくれた。ひなびた安っぽい和室はどうみても氷室の雰囲気には似合わないが、成美は単純に嬉しかった。
 今夜、ここで、2人きりで年越しをするのである。
 氷室もその時には、こうも陰鬱な感じではなかった。時々考えこむような素振りはみせたが、成美が話しかければ微笑を返す程度には機嫌がよかった。それが――
 宿で軽く食事をとった後、氷室は「ちょっと出てきます」といって部屋を出て行った。
 そうして、ものの1時間で戻ってくると、「判りましたよ。折よく地元に帰省しているそうなので、明日、本人と会う約束をとりつけてきました」と言ってくれたのだ。
「なんの話ですか?」
 最初、ぽかんとして成美は訊いた。
「だから君の初恋の人に。明日会う約束をとりつけてきたと言っているんですよ」
 まさに急転直下である。
 つい1時間前まで名前さえ判らなかったのに、明日会う?
 つまり氷室さんは、その人の名前はおろか電話番号すら調べあげ、そうして電話までしてくれたってこと? たったの1時間足らずで?
 いくら氷室のやることでも、今度ばかりは信じられない。一体どんな魔法を使ったのか。
 けれどそれを問いただすことはできなかった。その時の氷室の表情が、明らかに精彩を欠いていたからだ。
 精彩を欠くというより、表情はひどく強張り、無理に口を開いているという感じですらあった。
 そしてそれきり黙りこみ、1人でさっさと温泉に入って戻ってくると、そのまま布団に入り、成美に「来い」とも「先に寝ます」とも言わないまま、黙って天井を睨みつけているのである。
 こんな気まずい空気では、せめて賑やかに紅白でも見たいものだ。
「怒ってるって?」
 が、返ってきた氷室の声は、思いの外いつもどおりだった。
「明日君が、紀里谷似の初恋の人に会うことに?」
 彼らしい軽い皮肉に満ちた口調に、成美はようやくほっとした。
「だって、ずっと不機嫌そうだし。今だって、なんだか」
「君と同じ部屋に泊まっているのに、何もしようとしないから?」
「そ、そういうことじゃないですよっ」
 まぁ、それも確かに不安なんだけど。
「おいで」
 氷室が笑って手招きしてくれたので、成美は少し頬をふくらませながら、隣に滑りこむように布団に入った。
 すぐに頭の下に腕が回され、抱き寄せられる。彼の大きさとぬくもりに包まれる。
 いつもより、彼の匂いを強く感じる。温泉に入って、肌に直接浴衣を着ているせいだろうか。
 こうしていると、すごく実感できる。
 ひとつ上の場所で外界を冷ややかに眺めているような氷室が、実は、大きな身体と、優しい肌の匂いを持つ、ただの、1人の男だと。
 この優しい身体の中には、強い心も弱い心も同じように閉じ込められている。今は判る。彼は畏れを知らない悪魔ではない。そうみせているだけで、本当はひどく寂しがり屋で……傷つきやすい人なのだ。
「どうしました」
「ん、あったかいと思って」
 成美はぎゅっと氷室の背を抱くと、鼻先を、彼の胸元に摺り寄せた。
 氷室が微かに笑う気配がする。
「外が寒いから、僕のような冷血人間の体温でも暖かく感じるんですかね」
 そんなことないですよ。
 本当のことを言うと、氷室さんは、最近、少しだけあったかいんです。
 まぁ、確かに季節が冬に入ったせいもあるかもしれませんが。
 そのまま氷室の視線は天井に戻され、成美も彼と同じような姿勢を取った。
 沈黙――でも今は、なんとなくそれが心地いい。
 成美は氷室が何か話してくれるのを待っていたが、もしかすると先に話すのは自分ではないかとふと思った。
「一体、どんな魔法を使ったんですか?」
「ん?」
「よくあれだけの情報で、名前もわからなかった人と連絡までとれたな、と思って」
 氷室の横顔が、わずかに苦笑するのがわかった。
 ただしそれは、暖かな苦笑ではない。この程度のこともわからないのか、みたいな冷めた苦笑だ。
「7歳の君が、大雪の日に、1人で駅に泊まった。それだけ判れば、年月日程度は簡単に割り出せるでしょう」
 覚悟はしていたが、それだけで紀里谷が持ちうる情報の大半が、氷室に流れたことがうかがい知れた。
 もし氷室が怒っているとすれば、そのことを成美自身の口から打ち明けていないことにあるのかもしれない。
 腹、括んなきゃいけないな。
 成美は小さく息を吐いた。
「まぁ、確かにそれで年月までは分かりそうな気がしますけど、日にちまでは無理じゃないですか」
 成美にしても、正確な日付までは聞いていない。成美自身が覚えていないというだけでなく、美和も芳雄も、だいたい1月の終わりくらい、という程度の記憶しかないのだ。
 成美の反論に、天井を見上げたままの氷室は、淡々と答えた。
「まずは、逆算して年が判る。しかもその日は、車が出せない程度の大雪だった。そんな日は、そう何度もあるものではないのではないですか」
「………」
 まさに、ぐうの音も出ないというやつだ。
「後は、その時期このあたりの駅に赴任していた駅員を、しらみ潰しに調べただけですよ。あっけないほど簡単な作業でした」
「そ、そこが一番大変だと思うんですけど、電話番号まで一体どうやって調べたんです?」
「まぁ、方法は色々ありますよ。君が知らなくてもいい方法がね」
 たしかにそれは、聞かない方がよさそうだ。
「……ありがとうございました。それで明日、その駅員さんと野槌駅でお会いできるんですよね」
 ちら、と氷室が視線だけで成美を見た。
「野槌駅ではないですよ」
 え?
「君が泊まった駅というのは、野槌駅じゃない」
 え……?
「そのひとつ前の、安治谷駅です。きっと君のお母さんは……思い違いをしていたんでしょうね」 

 

 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。