17 
 
「あの、ここでいいですから、もう」
「なんだよ。遠慮すんなよ。運転手くらいしてやるよ」
 いやー……それはどうだろう。
 成美はいかにも迷惑げに、運転席の紀里谷を見上げた。
 一夜明けた翌日――午後。
 雪は、朝のうちにはやんだらしく、昼前には道路の凍結もほぼ問題ないレベルにまで落ち着いた。寒さは厳しいが、太陽の日差しが目に眩しい。よく晴れた冬晴れの大晦日である。
「言っとくけどな。俺たちはもう、戻れない道を進んでるんだからな」
「はぁ」
 できれば1人で進みたいし、とりあえずここで別れたい。
「このことが天さんにバレたら……俺はもう、灰谷市にはいられない。そこんとこ、お前もよーく解ってんだろうな」
「わかってますよ。私だって、それは真剣に怖いんです」
 成美は、唇を尖らせて紀里谷を恨みがましく見上げた。
「だいたい、紀里谷さんが演技しすぎなんですよ」
「なんだって?」
「演技しすぎ。あることないことベラベラベラベラ……」
「なっ、それはお前が、そうしろって言ったから」
「言いましたよ。でも、隣でただ黙って頷くだけでいいって。私、こうも言いましたよね。それをまぁ、学生時代からのつきあいだとか、一緒に住んでるみたいなことまで。みんな、すっかり信じ込んじゃって、今更嘘とか、もう絶対に言えないじゃないですか」
「知るかよ。そのくらいお前の才覚で始末つけろってんだ」
 うそぶいて、紀里谷はむっとした目を前に向ける。
 本当に、とんでもないことまで言ってくれたものだ。なにげに同棲まで匂わせて――さすがにその時は、父親の顔が見られなかった。
 しかも、来年中には挙式とか、ああ本当にこれ、どう落とし前をつければいいんだろう。
「おい、着いたぞ」
 その紀里谷が、そっけなく言って車を停めた。
「あ、すみません」
 狭い駐車場のすぐ手前には、小さな駅。
 野槌(のづち)駅だ。
 プラットホーム横には、みるからに寂しい外観の駅舎がぽつんと建っている。
 雰囲気は似てるかも、と成美は思った。
 四角いコンクリート屋根の感じが、なんとなくだけど記憶にある情景と近い。
 でも駅前ってこんな感じだったっけ。小さいながらも商店街があって、ロータリーももっと広かったような……。
「どう?」
「え、ああ、はい。まぁ、ここなんじゃないかと思いますけど……」
 とはいえ、目の前の光景からは、なにひとつ過去の出来事が浮かんでこない。
 実際に駅に行ってみれば思い出せる。根拠もなくそんな自信があったのだが、それが頼りなく揺らいでいくようだ。
「思いますけどって、なんだよ、それ。お前のおふくろさんが駅名を憶えててくれたんだから、この駅で間違いないんだろ?」
 不審げに紀里谷が眉を寄せる。
「お前も昨日は、ああ、あの駅! みたいな感じで相槌打ってたじゃん」
 まぁ、それはそうなんですけど。
(あれは……成美が7歳の、丁度今時分の頃ですかね。生憎私は、長期研修で東京におりまして……、家内が1人で対応したものですから、詳しいことは分からないんですが)
 成美の生みの母が何をして、今どうしているか。その点に関しては、腹をくくったように雄弁に語ってくれた芳雄だったが、雪の日の思い出に話が及ぶと、ひどく言いにくそうな口調になった。
 あとを継いだのは、その芳雄よりもさらに表情が冴えない美和である。
「あの日、朝起きると、居間に置き手紙があったんです。陽子さんの筆跡で、成美をつれていきますって。……慌てて家中探しても、成美はどこにもいませんでした。お気に入りのリュックも、靴もなくなっていて、……陽子さんと出ていったんだな、と思いました」
「警察には、届けられたんですか」
 成美にかわって質問をしたのは、もっぱら紀里谷だった。
「いえ、警察には……、陽子さんは、成美を生んだ人ですし、大きな騒ぎになってはいけないと思いまして」
「けれど、親権はお2人にあったんでしょう? 立派な誘拐ですよ、それは」
 そこは、さすが弁護士、というところなのだろうか。美和がいやに神妙に言葉を選んでいたのは、軽い被告人気分を味わっていたのかもしれない。
 もちろん成美は、そんな出過ぎた横槍をいれた紀里谷を、かなり鋭く肘でつついた。
「警察には、私が知らせるな、といったんです」
 苦い目で口を挟んだのは芳雄だった。
「陽子は、さきほども言いましたが、当時は執行猶予中で……正直、身内を庇う気持ちが大きかったというのもあります。結局、成美は無事に帰って来ましたし、これ以上話を大きくしても、成美のためにならないな、と」
 美和が気を撮り直したように続けた。
「その日は大雪で……一日中、なにもできずに、陽子さんからの連絡を待っていたように思います。……連絡は、暗くなってからありました。でもそれは、陽子さんからじゃなく、もう名前も忘れてしまったんですけど、駅の人からだったんです」
 駅の人。
 成美と紀里谷は思わず顔を見合わせていた。
「おたくのお子さんが迷子になっているので、引取りにきてくれないか、という電話で……どういうことになっているのか、もう、わけがわからなくて。でもどうやら、成美は、その日、1人で野槌駅にいたようなんです。朝からずっと」
 すぐに美和は車を出そうとしたらしいが、とにかく、その夜は吹雪がものすごくて、とても3駅も離れた場所まで、車を走らせることはできなかったという。
「困り果てて野槌駅に電話を入れたら、一晩くらいなら駅にお泊めしますよって、駅の方が親切に仰られて……明け方、雪が止んだのを見計らって車で迎えにいきました。成美はひとりきりで、何があったの、と問いただしても何も。……陽子さんが迎えにきたということ以外、何一つ喋りませんでした」
「じゃあ成美さんは、実のお母さんに連れられて家を出て、なのに野槌駅で1人で降りた、と」
 紀里谷が確認するように問うと、美和は困惑したように首をかしげた。
「……そういうことになるんでしょうか。成美と陽子さんがどうして野槌駅で別れたか、ということになると、私にはさっぱり……」
「実は陽子とは、それきり音信不通になってしまったんです。後で知ったことですが、中国に……男と一緒に、逃げていたようで。会えたのはそれから7年もたってから。陽子が、逮捕された時でしたからね」
 芳雄が苦い顔で話を継いだ。
「ご承知のように、逮捕された理由が理由でしたからね。当時のことを問いただしても、さっぱりです。結局何があったか、誰も判らず終いだったということなんです」
 美和は、不安げな目を成美に向けた。
「当時の駅員さんに会えたとしても……どうなのかしら。15年も前のことだから、当然転勤になっているだろうし。だいたいお母さん、もうその人の名前も顔も憶えてないの。……その時だって成美のことを単なる迷子だと思っていたくらいだから、詳しい事情は、ご存知ないんじゃないかしら」
「なんか、ちょっとおかしいんだよな」
 紀里谷の声が、成美を現実に引き戻した。
「おかしいって?」
 車のドアに手をかけていた成美は、運転席の紀里谷を振り返る。
「いくら生みの親っていっても、前科持ちの犯罪者が――ああ、ごめん」
 とはいえ紀里谷はさほど悪びれた風ではなかった。
「7歳の子供を家から黙って連れ出したんだろ。もうちょっと大騒ぎしてもよかったような気がしてさ。いかにも心配性そうなのに、そこはおおらかだったんだな。お前のおふくろ」
「まぁ、……色々、気をつかうところもあったんじゃないでしょうか」
 歯切れ悪く成美は答えた。
 執行猶予中の人間が、そこでさらに誘拐罪に問われるようなことになればどうなるか。
 それが身内なだけに、芳雄も美和も、悩んだに違いない。
「それだけじゃなく、なーんか全体的な印象がさ」
 紀里谷は面倒そうに頭をかいた。
「ま、いいや。俺も被疑者とばっか話してっから、どうしても疑い深くなるのかな。行けよ。このまま車で待ってるから」
 弁護士って、被疑者を信じるのが仕事じゃないんですか。
 そんな厭味がうっかり口から出そうになったが、そこは堪えて、頷いた。
 まぁ、ちょっとはいい人なのかな。紀里谷さんも。
 案外面倒見がいいというか、人情味があるというか。油断したら何をされるかわからないから、警戒は最大限のままキープしているけれど。
 その紀里谷は、先ほどからちょいちょい携帯電話をのぞきこんでいるようだった。ソ○トバンクだからつながりにくいといっていたけれど、さすがにこの辺りまで出てくると通信状態は快適だろう。
「じゃ、行ってきます。話が長くなるようなら電話しますから、その時は先に帰ってください」
 それだけ言いおいて、成美は紀里谷の車を降りた。

            18
 
 冷えた駅構内は、ひっそりと静まり返っていた。
 小さな待合スペースには、賞味期限の切れた漫画雑誌がつめこまれている。自販機だけが、やたらと多い。
 時刻表が貼りだされた壁に、申し訳程度の小さな覗き窓があって、その奥に紺の制服を着た駅員の姿が見えた。
 記憶にある駅の待合は、もう少し開けた場所にあったような気がする。
 駅前には、わりと広いロータリーがあって、商店街みたいなものも間違いなくあった。なのに、この駅の周辺には田んぼと住宅地しかない。成美の記憶にある駅とは、少し違うような気がする――
「あの、すみません。ちょっといいですか」
 コンコンと、プラスチックの覗き窓をノックする。
「はい」と、落ち着いた男の声がして、ふしくれだった手がプラスチックの窓に近づいてきた。
 せめて顔が見える程度にこの透明な板を大きくすればいいのに――相手の顔が見えないのでは、なんとも話がしづらくて困る。
「お待たせしました。定期券ですか」
「いえ、あの……この沿線の駅員さんは、みなさん同じ会社の方なんですよね」
 成美が鉄道会社の名前を言うと、ええ、そうですが……、と訝しげに老域に入ったらしい駅員が答えた。
「実は、昔お世話になった駅員さんを探しているんですけど」
 成美がかいつまんで経緯を説明すると、案の定「そんな古い話じゃあ、記録も残ってないですよ」と迷惑気な声が返された。
「だいたい駅員っていっても、転勤もあれば、転属もありますからね。15年も前にここにいた駅員なんて、あんた、みな散り散りに、色んなとこに飛ばされてますよ」
 それでも、沿線にある駅のどこかにいるのではないか。と成美は重ねて訊いてみたが、それには、困ったような笑いが返された。
「だから、転属もあるんですよ。本社で事務やってる場合もあれば、車掌になる場合もありますし。せめて名前でも判れば、なんとかなるかもしれないですがねぇ」
 年が明けたら本社に直接照会してみてくれないか、それだけ言うと、駅員は奥に引っ込んでしまった。
 本当に――さほど大きくはない私鉄だが、対応は公務員と似たりよったりだ。せめて名簿のひとつでも引っ張りだしてくれればいいのに。
 ――空振りかぁ……。まぁ、やっぱり、無謀だったよね。
 ため息をつきながら、成美は駅舎を後にした。
 結論は新年に持ち越しだ。まぁ、本社に照会したところで、個人情報保護がどうこう言われて門前払いされそうな気がするが。
 ――あ……。
 空はいつの間にか灰色に陰り、白いものがちらつき始めている。
 やっぱり、降ってきた。
 慌てて紀里谷が車を停めた方を振り返った。その時だった。
 ロータリーに、滑りこむようにして入ってきたタクシーが停車する。
 すぐに後部座席の扉が開き、中から、黒のトレンチコートを着た長身の男が降りてきた。
 バーバリー、氷室が愛用しているものと一緒のタイプだ。そしてマフラーも一緒――え、なんだかすごくない?
 クリスマスに成美がプレゼントした、イタリア製のマフラーと同タイプの同デザイン。値段は、レプリカでなければ2万を超える。
 いずれにしても、こんな場所でそんなに決め込まなくても、とつっこみを入れたくなるくらい、ド田舎には不釣合いな男である。
 その人はかがみこみ、タクシーの運転手に道でも尋ねているようだった。
 氷室さんに似てるな、と思いながら、成美はつま先立ちになって、紀里谷の車を探した。
 普通タイヤみたいだし、早く帰してあげないと、また昨夜みたいに立ち往生することになりかねない。
 急いで歩き出すと、タクシーに背を向けたバーバリーが、丁度顔をあげてこちらに歩いてくるところだった。
 わー、顔が小さい。手足も長いし芸能人みたい。でも、なんだか性格悪くて不機嫌そう。服が同じせいかな。そんな冷たい顔つきまで、氷室さんと似て……。
 成美は凍りついていた。まさに、文字通り、凍りついた。
 嘘、でしょ。
 これ、夢でしょ、マジで。
 そうだ、私は紀里谷さんの車の中でうたた寝して、そして今に至ったに違いない。
 だっていくらなんでも――今までも似たようなことは何度かあったけど――信じられない。
 数メートル先で、相手もまた凍りついていた。
 驚きというより、驚愕したように目を見開き、それがみるみる険しくなる。
「やぁ」
 が、最初に平静を取り戻したのは氷室の方だった。
「これはこれは――まさか、こんな場所で、君に会えるとはね」
 咄嗟に言葉が出てこない。
 いや、この状況で、そんな普通に挨拶されても。
 だって、だって――じゃあこれは、本当に現実?
「えと……このあたりに、……ご親戚でも?」
 なのに成美は、ぎこちなく乾いた声で、ムードもへったくれもないことを言っていた。いや、まだこの現実に、気持ちがついていかないのだ。
 氷室は唇だけで微笑んだ。気のせいだろうか、ちょっと嫌な予感を覚えさせる笑い方だ。
「ちょっと、友人を探しにね」
 ――友人?
「まさか、その場に君がいるとは、想像の範疇外だったな。これは、喜んでいいのか、それとも怒るべきなのか」
 その時には成美は、モールス信号でも赤外線でもなんでもいい、なんとかして声を出さずに、この危機を紀里谷に伝えてやりたいと思っていた。
 氷室が紀里谷を追ってきた。なぜだか知らないが、直感でそれが判ったからだ。
「あ、あのですね。氷室さん」
 これには深くて――少しばかり深刻なわけが。
「おい、何やってんだよ」
 最悪の事態は、まだ続く。成美が説明しようとしたまさにその時、当の紀里谷が、苛立った風に車から降りてきたのだ。
「また雪降ってきたじゃねぇか。早く用件すませて――うわああああっ」
 その恐怖と驚きはよく判る。
 つんのめるようにして逃げようとした紀里谷は、そのまま膝を折って、尻もちをついた。
 それでもなお、這うようにして、後ずさる。
 氷室はそんな紀里谷を、たっぷり1分は無言で見下ろしていたようだった。
「昔の友人と恋人に、僕は今、ひどく傷つく対応をされたわけですが……これは、示し合わせてのことですか?」
 ぶんぶんと成美は首を横におもいっきり振り、紀里谷はかくっかくっと同じように横に首を動かした。
「日高さん」
 紀里谷を見たまま、氷室は言った。
「は――はい」
「車に戻っておいてください。少し、紀里谷には聞きたいことがあるので」
 この空気感。前と全く一緒なんですけど。
 氷室がものすごく怒っていた、ストーカー事件の時と。
 しかも車って、所有者はそこにいる紀里谷さん……。
「天さんっ、これにはわけがっ。深刻なわけがっ」
「まぁ、そのあたりは、ゆっくりと」
 にっこりと笑った氷室が、紀里谷の腕を掴んで立たせた。
「向こうで、聞かせてもらいましょうか」
 怖い。怖い、ものすごく怖い。紀里谷が本気で怯えているのが、目色で成美にも伝わってくる。
 いっそ、成美も逃げ出してしまいたかった。紀里谷が上手く言い逃れてくれればいいが、そうでなければ――いや、でも。
 氷室さんが、来てくれた。
 信じられない。夢みたいだ。でも、夢じゃない。
 氷室さんが、この街に来てくれた……。

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。