16
  
 どこに行くあてもないまま、氷室は師走の町を歩き出した。
 ふと見上げた月は冬雲で濁っていて、なのに、やけに綺麗に見えた。
 そしてまた、日高成美のことを考えている。
 それだけで、胸が暖かなもので満たされるようだった。
 ――これを言えば、多分君は怒るだろうな。
 君は僕の好みでもなければ、最初、特段の魅力を感じたわけでもない。
 僕らの恋はそういう意味では、ほんの偶然、僕の些細なきまぐれから始まったものなのだ。
 会議室しかない14階で、怪談みたいなすすり泣きを耳にしたのが端緒だった。
 それが隣のフロアの新人職員だと解っても、まさか氷室は、そのどこか幼げな女性に、30を過ぎた自分が恋愛感情を抱くようになるとはこれっぽっちも思わなかった。
 その幽霊と、ある夜偶然氷室は鉢合わせになる。
 泣きはらした顔が案外可愛かったのと、下手な誤魔化しで逃げようとしたのが面白くて、つい声をかけてしまったというのが正解だ。
 彼女の若さや、その年で市役所の頭脳と呼ばれる職場に配属されたこと、そして同性上司に抱く複雑でやっかいな感情にも興味を覚えた。
 もっとはっきり言えば、日高成美が柏原明凛の部下だったから、氷室は彼女に関心を抱いた――と、言い換えてもいいかも知れない。
 ――これは、バレたら、完璧に逆鱗ものだな。
 歩きながら氷室は笑いを噛み殺した。
 女性というのは不思議なもので、どう考えたって敵いもしない相手に、何故だか本気でライバル心を抱くようにできている。
 日高成美にしてもそれは同じようで、どうも柏原女史と無意識に張り合っている節があるからだ。
 ――まぁ、女性のカンというのは侮れない。確かに俺は、一時期度を超えて柏原さんに関心を持っていた時期があったからな……。
 そういった氷室の心の機微を、あるいは日高成美は敏感に読み取っていたのかもしれない。
 ただそれは、恋心とは無縁のものだ。
 柏原明凛を初めて見た時、氷室は一瞬ではあるが、自身の顔に動揺が走るのを誤魔化すことができなかった。
 似ている――水南に。
 顔立ちはまるで違うが、醸し出す雰囲気がよく似ている。他者を冷然と見下し、自分の中に他人が入ることを硬くなに拒絶する、冷徹で傲慢な眼差しが。
 氷室はすぐに柏原明凛の前歴を調べた。今にして思えば1人勝手な不安だったが、同じフロアで仕事上でも関わりがある。なにかそこに浅からぬ因縁を感じたのだ。
 こちらの弱みを握られる前に先手を打ってやろうという、官僚くさい思惑もあったのかもしれない。
 柏原明凛が、霞ヶ関でなんらかの問題を起こしたという話は、少なからず耳にしていた。それは、一体なんだったのか。
 出てきた情報は、じつにくだらないものだった。
 酒席で、上司を――しかも事務次官を拳で殴った――男か。いや、男でも己の局のトップを殴ったりはしない。 
 しかもセクハラではない。友達の職業を馬鹿にされたため――案外浪花節、ということか。
 面白い、と思った。
 もちろん、必要以上にお近づきにはなりたくないが、水南と同じ雰囲気を持つ女が、水南と真逆な性質を持っていることが限りなく愉快だった。ますます興味をかきたてられた。
 が――近づこうにも、柏原明凛のガードは固く、同僚にさえ容易に心を開かない性質らしい。
 極度の人嫌いか。もしくは敵がいる環境になれているか。
 後者だな、と氷室は思った。
 頭のいい人間にありがちな性質だが、他人の痛みに少しばかり無頓着なところがあるから、男女問わず敵が多いのだろう。
 頭がよすぎて、悪い人間が辿る思考回路が全く理解できない。
 嫉妬、気後れ、劣等感、焦り、それに追随しておこる足の引っ張り合い――彼女にはひとつも理解できないに違いない。それが周囲には、限りなく傲慢に見えるのだ。
 さらに悪いことに、その誤解を解こうともしていない。それは間違いなく彼女の欠点だと氷室は思う。まぁ、欠点のひとつでもないとさすがに可愛げがないが。
 敵が多い――嫌われているし、憎まれてもいる。
 が、柏原明凛の自己防衛意識の高さには、それ以上の何かがあるような気がした。
 まるで何度も危険な目にあってきたような――そんな印象さえ窺えるほどだ。
 そのくせ、そのガードを自らあっさり解いてしまう時がある。なげやり、というのでもない。気を抜いた、というのとも違う。何かそこに、自身を罰してでもいるかのような潔さを感じるのは気のせいだろうか。
 もちろん、その過去に立ち入るつもりは毛頭ない。口に出すつもりさえない。しかし以来柏原明凛は、氷室にとって少しばかり気がかりな存在になったのだ――
 14階の幽霊は、その柏原明凛の部下で、少しばかりその上司を恨みに思っているようだった。
 誤解なんだがな、と、氷室は思った。
 少し目線を変えて話してみれば、柏原さんほどつきあいやすい人もない。
 また、部下のことを案外真剣に考えてもいる。彼女の矜持と強さに基づいたひとりよがりの考えではあるが――なにしろ、柏原明凛は、笑いたいくらいの浪花節の人なのだ。氷の仮面を剥いだ本質のところでは。
 少しだけ、柏原さんの手助けをしてみてもいいか。
 柄にもなく、そんなおせっかい心が湧いてきた。
 手助けといっても、彼女の代わりに落ち込んでいる部下を慰め、仕事上の助言をしてやる程度の話だが。
 初日、ぎこちなく心を閉ざしていた日高成美は、会話を重ねていく内に、少しずつ明るい笑顔を見せるようになった。
 好意を持たれていることはほどなく判ったが、それは、ちょっとした誤算だった。
 悪い気はしないが、少なくとも、柏原明凛は眉をひそめるだろう。なにしろ、彼女は氷室が妻帯していることを知っている。そして日高成美は、彼女の大切な部下なのだ。
 ――まぁ、いいか。どうせいずれ、柏原さんが釘を刺す。それまでの、ちょっとした気晴らしだ。
 どのみち日高さんは遊びには向かないタイプだ。それに今は、どうしたってそんな気にはなれない――
 本当の誤算はそこからだった。
 何故だか、その気晴らしは、思った以上に長く続いた。別にそうする必要もないのに、気づけば連日、氷室は日高成美を車に誘い、あえて2人の時間を持つようになった。
 理由は――よくわからない。ちょっとした遊び心、ゲーム感覚もあったのかもしれない。
 ただそれだけではない。説明しがたい何かがあったことも、また確かだ。
 氷室がそんな態度をとるからだろうが、彼女の好意は日毎に強くなるばかりだった。
 まるで、触れれば、すぐに落ちる果実のようで――氷室は初めてこの展開に戸惑いを覚え、うっかり手が出そうな自分を戒めた。
 双方の立場を考えれば、それは危険すぎる状況である。
 そんなつもりはなかった。
 これ以上は、まずい。
 しかしそう思った翌日には、自分から彼女を誘い、向こうがためらう素振りを見せれば、逃げ場をなくして追い詰めてしまっている。
 柏原明凛にランチに誘われたのは、そんな自分の態度の不思議をもてあましている時だった。
(もし日高とつきあうつもりなら、東京のご家族とは、法的にけりをつけたほうかよいのではないですか)
 十分予想できた警告なのに、いざ言葉にされてみると、いきなり袈裟懸けに斬られたような気分だった。
(僭越なことを申しあげるようで気は進みませんが――日高は将来幹部候補生と目される優秀な職員で、この灰谷市役所は、現市長の意向もあって、女性の不倫には大変厳しい処置が取られると聞いております。余計な口出しとは思いましたが)
 不倫――
 なんとも馬鹿げた言葉だが、法的にはそういう言葉が、確かに2人にあてはまる。
 柏原さん、僕の法的な配偶者は、すでに別の男と世帯を持ち、しかも年内には確実に死ぬんです。いまさら不倫だなんだと騒ぐような関係ではないんですよ。
 しかし、同時に氷室は思った。
 不倫。
 自分が今まで抑制し続けてきたのは、そんなもののためだったのだろうか。
 世間にそう評価されるのが怖いから。――馬鹿馬鹿しい。
 実際は、そうだった。自分自身のためではなく、若い日高成美の将来を慮ったゆえに、不用意に手を出すまいと決めていた。
 が、不倫という言葉をつきつけられた途端、そんなものに縛られている自分が馬鹿馬鹿しくなった。いまだ水南に縛られている。多分そんな風に感じたのだ。
 その夜、日高成美に最後通告とばかりにぶつけられた感情を、氷室は上手く交わすことができなかった。
 キスをした。
 自分でも驚くほど――真面目に、真剣なキスをした。
 もう、戻れないな、とその時思った。
 こうなった以上、俺はこの子と、恋をはじめることになるのだろう。
 だとしたら、大切にしてやらないと――いや、慎重に進めていかないと、まずい。
 柏原さんの危惧したとおり、いや、最初から自分でも気にしていたとおり、この恋愛が新人職員にもたらすデメリットは計り知れないからだ。
 そして俺には、この子の将来を――役所を辞めた先までをも、背負っていく覚悟はない。
 そんな風に、おそろしく用心深くはじめた恋は、すぐに様々な出来事によってかき乱され、想定していたものとは別の方向に走りだしてしまった。
 思っていたより早かった水南の死も、想定外の出来事のひとつである。
 そして、あの破滅的な夜が訪れた。
 あの夜――今思っても、胸が軋むほど苦しくなるあの夜、行政管理課の書庫で、氷室が追い詰めたのは日高成美ではなかった。
 水南だった。あの夜氷室は、成美を通して水南を見ていた。
 水南への暴力的な感情だけが暴走して、我に返った時には、大切にしようと決めた人が歯を食いしばって泣いていたのだ……。
 終わったな、と思った。
 結局俺は、水南の呪縛からは逃げられない、そうも思った。
 セックスの際、相手の女性の嫌がる様に酔うような興奮を覚えるのは、間違いなく水南との関係が原因だ。
 幼少期から支配され続けてきた女に、同じ真似をする快感。
 傲慢だった女が、泣いて懇願する様を冷酷に見下ろす快感。
 その時の記憶が、まるで麻薬のように脳髄にまで染み込んで、今も氷室を病的に支配しているのだ。
 日高成美にも、その夜の暴走の理由は分かっていたはずだった。
 自分を弄ぶ男が別の女を見ていたことに、本能的に気がついた。だからこそ、ただ悔しくて泣いたのだ。
 なのに、それでも彼女は、氷室を好きだと言ってくれた。
 甚だひとりよがりの解釈だが、身を挺して、氷室の立場を守ろうとまでしてくれた。
 その時、はじめてやり直せるだろうか、と思った。
 俺はこの人と――もう一度始めから、ごく普通の恋をして、暖かな家庭を築くことができるだろうか、と。
 無理だということは、つきあいはじめてほどなく判った。
 俗な言葉でいえば、2人の関係は幸福だった。彼女への思いと独占欲は、日増しに強くなるばかりだった。しかし、同時に、氷室の内にある水南の影も、ますます色濃くなっていったのだ。
 彼女を抱いた後、きまって水南の夢を見ると気づいたのは、いつだったろう。
 悪夢に浮かされて目覚めた後、まるで子どものように、隣で眠る人の寝顔を確認したことが、一体何度あったろう。
 やがて氷室は、眠りそのものを拒否するようになった。
 なのに夜の静けさは、否応なしに水南の思い出を連れてくる。過去に――二度と戻りたくない闇に、氷室を掴んでひきずりこむ。
 昼間が幸福であればあるほど、その落差は激しかった。まるで氷室を責めさいなむように、水南は一晩中、氷室の側から離れないのだ。
 そんな氷室の内面に、日高成美は何度も入ってこようとした。救いの手を伸ばしてくれようとした。
 でも、受け入れることはできなかった――
 氷室は白い息を吐き、唇を軽く噛み締めた。
 そうだ、水南の言うように、俺はただ怖かったのだ。
 怖かった。
 君を、今以上に好きになることが。
 いずれ、僕の全てを打ち明けてしまいたくなるほど好きになって――そうして、僕と水南の記憶の中に、君が入り込んでくることが。
 それだけは……絶対に耐えられないと思ったのだ。
 ふ、と唇から苦い笑いが漏れた。
 だったらさっさと別れればいいのに、いったい何を今までためらっていたのか。
 多分だが、日高成美を手放してしまえば、水南の亡霊からも開放される。それが判っているのに、何故。
 日高さん。
 君を前にした時の僕の思考パターンは――まったくもって、謎、だ。
「…………」
 氷室は月を見上げていた。
 胸の奥は依然として一部が欠けているように寂しいのに、不思議と清々しい気分だった。
 知らなかったな。
 どんな汚い場所も、こんな綺麗な月を頭上に抱いている。
 その光に気づくと気づかないとでは、世界の見え方がまるで違う。
 はじめて素直な感情が、胸の底から溢れでた。
 ――日高さん。
 僕は、今、君に会いたい。
 どうしようもなく、君が恋しい。君のぬくもりに触れていたい。
 ここまできてようやく判った。
 出会いから今日に至る、君と僕の謎の全てが。
 それは、極めて単純な答えだ。
 僕は、君に恋をしている。
 今までの何もかもを、失ってもいいと思うくらいに。
 

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。