氷室は再び、16歳の水南を見上げた。
 絵の中に棲む少女は、さきほどまで確かに生きていた。
 今はどう見ても、キャンパスに絵の具で描かれた、ただの絵だ。
 携帯に視線を戻した氷室は、やや冷めた目になって呟いた。
「沢村と、雪村さんね」
 行政管理課の雪村のことなら知っている。あの柏原明凛が、珍しく褒めていた。役所人には珍しく頭がよくて合理的な男だと。
 もうひとつ知っているのは、先月その男が、日高成美と何度か食事に行ったということである。
 実は、相当不愉快だった。
 あえて、おくびにも出さずに黙っていたのは、雪村が優秀な男で、成美の係の上席だからだ。その関係までいちいち指摘すれば、彼女の仕事に差し障りがでるからだ。
 とはいえ、相も変わらず、無用心で隙だらけ。
 今回は、それが本当によく判った。
 日高さん。まるで無自覚なようだけど、君には、異性をひきつける天性の匂いがある。
 匂いというか、冬のひだまりのような、ほのぼのとした明るさだ。
 それは、普段は影って見えないし、見えても目立ちはしないけど、一度そのぬくもりに触れた男は、無意識にその暖かさを求め、君の側に戻っていくのだ。
 沢村も、多分だが雪村も。
 そして俺も。
 氷室は髪を手でかきまわしてから、殆んど考えることなく書庫を出た。
 廊下では、カートを押す向井志都が、しずしずとこちらに近づいてくるところだった。
「出かけてきます」
 志都が顔を上げる前に、氷室は言った。その時点でどこへ行くつもりもなかったし、行く場所も考えてはいなかった。
「こんな時間からですか」
 案の定、目元に疑心をたっぷりたたえて、志都が非難がましく言う。
「ええ、ちょっと外の空気を吸いたくなったので」
「お嬢様の遺言はどうなさるのです」
 ぴしゃりと手を叩くような、手厳しい口調だった。
 足を止め、わずかに志都を振り返った氷室は、少し考えてから、口元に微笑を浮かべた。
「どうも、そのような本はないように思いますね」
「きちんと、お探しにもならないで――」
「生憎、僕にはもう無理ですよ。誰か他の人間をあたってください」
 唖然とする志都を置いて歩き出すと、氷室はコートを羽織って玄関から外に出た。
 暗い帳に覆われた冬の夜を見上げる。月が、明るく輝いている。
 吐く息は濃い白だ。あと1日で今年が終わる。
 一歩一歩、屋敷から遠ざかる度に、背にからみついたものが解けていくようだった。
(――天……)
 囁きが遠ざかる。同時に肩から力が抜けていく。
(――天、待って。どこへ行くの……?)
 最後に、指にからみつくように残る冷たい手の感触を、氷室はそっと手放した。
 ようやく氷室に、ひとりきりの静寂が戻ってくる。
 あの書庫は、水南の精神世界そのものだった。
 いわば氷室は、死んだ妻の中にいたも同然だった。そうやって何日も何日も、氷室は死者と対話していたのだ。ここより他の世界があることに気がつきもせずに。
(知ってる? ずっと地獄の中にいるとね、そこが地獄だってことが、判らなくなるのよ)
 水南の生前の言葉を思い出し、氷室は皮肉な苦笑を浮かべた。
 君は予言者のように、未来のなにもかもを言い当てるんだな、水南。
 そのセリフを君の唇から聞いた時、俺はそれを、ただの負け惜しみだと解釈した。
 そして冷ややかに君を見下して、心のなかでこういったのだ。
 生憎だったな。このゲームに勝ったのは、俺だ。
 ――ゲーム。
 見開いた目から何かが零れた。暗い世界がいきなり開けた。
 いきなり訪ねてきた三条が言った言葉にも、そのワードが含まれていた。その時も、胸に何かが薄気味悪くひっかかったはずだ。
(お前はな、水南とのゲームに負けたんだ)
 厭味にしてはやけに脈絡がない言葉だった。いや、そもそも三条は一体、何をしにきたのだろう。
 話し合いが無益に終わることは目に見えているし、脅しには脅しで返す氷室の性格もよく知っているはずなのに。
(ねぇ、天、ゲームをしましょう)
 足を停めた氷室は、弾かれたように屋敷の方を振り返った。
 ゲーム?
 これもまた、ゲームなのか?
 まさか――君は、自分がいなくなった後の世界で、俺をゲームに巻き込むつもりだったのか?
 しかしそうしてみれば、全てがクリアに見えてくる。
 三条守も、向井志都も、仕組まれたゲームの駒だったとしたら?
 氷室は半ば計画的に屋敷に連れ戻されたのだ。そうして三条が伝令としてやってきた。ゲームの「ヒント」と、そして失敗した時の「罰」を告げに。
 ――それが……日高さんだとでもいうのか、水南。
 愕然とした氷室は、次の瞬間、奥歯を強く噛み締めていた。
 ――ふざけるな。死んでもなお、君は俺を愚弄するつもりか。
 君は最後に、俺に何をさせたかったんだ?
 いや、もうどうでもいい。
 氷室は迷いを断ち切るように、首を横に振った。
 もう関係ない。考える必要もない。何故ならそのゲームに、俺は、絶対に乗らないからだ。
 日高さんは俺が守る。たとえ三条と刺し違えてでも。誓ってもいいが、それだけの覚悟は、今の三条にはない。
 二度と、後藤の屋敷には戻らない――水南の懐には戻らない。
 しかし氷室の足は、迷うようにその場で止まった。
「……………」
 では、どこに行けばいいのだろう。
 灰谷市だろうか。日高さんの側だろうか。
 いや、多分どちらも違う。
 たとえそれが、水南の思惑通りであったとしても、別れるには今が一番いいタイミングなのだ。
 潮時――それが少しばかり早くきただけだ。
 彼女と未来を共に生きる選択は、自分にはないのだから。
 胸の奥に暗くて深い空洞がある。それが何かわからないまま、氷室は再び歩き出した。 
 
             15
 
「もしもし?」
 受話器から聞こえた声に、氷室はかすかな身震いを覚えた。
「もしもーし? 誰ですか?」
 幼い声はけげんそうなものに変わり、そこに初めて大人の男の声が聞こえた。
「まさ、誰からだ」
「無言でんわ。切っちまっていい?」
 氷室は、受話器を置いていた。
 公園脇の公衆電話。静けさだけが氷室を再び包み込む。
 動揺が、しばらく氷室を動けなくしていた。
 この携帯の番号に、まさか子供がでてくるとは思ってもみなかった。
 馬鹿な真似をした。この番号の主はおそろしく用心深い。公衆電話からかけられた無言電話を不審に思えば、すぐにでも番号を変えてしまうだろう。
 でも仮に目的の人物が電話に出てくれたとして――俺は冷静に、今夜の用件を切り出せただろうか? 
 実は、お話があるんです。
 僕が管理している不動産を、できればそちら様にお譲りしたいのですが。
 白い息を吐いて歩きながら、氷室は苦い笑いを浮かべた。
 無理だ。
 そんな真似をするくらいなら、まだ濡れ衣を被せられて獄に入るほうがマシなくらいだ。
 だったら俺は、そもそも何を求めて、あの番号にかけてしまったのだろうか?
(もしもし?)
(もしもーし? 誰ですか?)
 何を、求めて…………。
 暗い闇が、自分の深いところにまで入り込んで、包み込む。
 その闇の奥底で、あの夜の吹雪が荒れ狂っている。
 小さな、弱々しい、傷だらけの子供が、やせ細った身体をまるめ、膝を抱くようにして泣いている。怖い、怖いとつぶやいて震えている。
 もう何年も前から、氷室はその子供の正体を知っている。それは――
(もしかして、末端冷え性ですか?)
 不意に、暖かなひだまりが、闇の中にあるかなきかの光を射した。
(いつも指が冷たいから……、でも手が冷たい人は、心があったかいっていいますよね。氷室さんみてると、本当のことだと思います)
 ――日高さん……。
 小さな、けれど暖かな手が氷室の冷えた指をそっと包み込んでくれたような気がした。
 その、ありえない錯覚に、氷室は少しだけ驚いて苦笑する。
 まいったな。
 いつの間に君は、がっちり鍵をかけていたはずの僕の心に住みつくようになったのだろう。
 まるで、わずかな隙間からでも入り込んでくる、春の、優しい風のように。 

 
  



 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。