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 成美は、指を携帯のキーから離して、ため息をついた。
 やめた。
 今、氷室さんに電話したところで、こんなわけのわからない事情を説明できるはずもないし、挙句、不機嫌にするのは目に見えている。
 蛍光灯だけを灯した部屋は薄暗く、家中が夜の帳に覆われている。聞こえるのは秒針が刻む音だけだ。
 田舎の夜は都会より随分早く、まだ夜の10時すぎだというのに、両親も俊子も、就寝してしまったようである。
 仏間に布団を用意された紀里谷だけは、まだ起きているような気もするが。
(紀里谷君のお布団、なんだったら成美の部屋に用意しようか)
「………」
 成美は携帯を投げ出して、枕に自分の顔を埋めた。
 自己嫌悪と罪悪感。
 氷室さん、本ッ当に本当にごめんなさいッ。
 これは裏切りでも浮気でもなく――抗弁、そう抗弁なんです。
 多分、ジョークではなく、母は本気で紀里谷と成美を同じ部屋で寝かせようとした。間違いなく母のいらぬ気遣いだ。私が今夜、とんでもなく傷ついたと思っているから。
 そして紀里谷を本当の恋人――将来まで真剣に考えた――と、誤解してしまったから。
 いや、そんな風に誤解させてしまったのは私なんだけど。
 自分の過去を、養親の口から聞き出すために。
 成美が紀里谷を引き連れて両親の前で改めてその話を持ち出すと、父はしばらく迷ってたようだが、やがて観念したように口を開いた。
(紀里谷さんが、そこまで成美とのことを考えてくれているなら、お話しましょう)
(私どもは親ですが、灰谷市で暮らす成美の側にいて、支えてやることはできません。いつ話すべきかというのは、非常にデリケートな問題でした。私は……成美に精神的な支えとなるような人ができた時に、話すべきだと考えていました)
 だって、そこまで深刻な話だなんて、想像もしていなかった。
(お父さん、ご安心ください)
 また、それに返す紀里谷の対応もすごかった。そこまで頼んでない――何度成美は、口を挟みかけたろう。
(お2人はご存知ないでしょうが、僕らはもう昨日今日の間柄ではないのです。僕が司法試験を受ける頃から彼女には支えになってもらい、ようやく弁護士になった今、真剣に彼女との将来を考えています)
 よくもまぁ、作り話が次から次へと出てきたものだ。
(うちあければ、僕にも両親が、いません。今は姉と2人で暮らしています。自慢にもなりませんが、決して裕福な暮らしではありませんでした。僕を育ててくれた姉は今でも、水商売をしておりますし)
 美和がそっと、ハンカチで目をぬぐった。
 いや、それ本当だけど、確かに嘘じゃないんだけど、この人の姉――月華さんってのも、なかなかの曲者よ?
 私のこと、ちんちくりんとか小猿ちゃんとか、相当好き勝手に言ってくれた人よ?
(まだ、僕の収入も少ないし、仕事も不安定なので結婚は少し先になると思います。というより、成美が今、……僕より仕事に夢中なのかな)
 成美って言うな!
 そんなこんなですっかり紀里谷を信じ込んだ両親は、ようやく重い口を開いてくれた。
 それは、かなり衝撃的な内容ではあったのだけど。
「……てか、紀里谷さん、演技しすぎ」
 これじゃ、完全に詐欺じゃない。自分の親、騙したようなものじゃない。結婚とか将来とか、そこは上手くぼかしてよ。後で、実は友達でしたって笑ってばらせる程度には。
 紀里谷のことだけでも、事前に氷室に相談しておいた方が――いや、もうすでに事前ですらないか。話せば、確実にエベレスト級のブリザード。遭難するのは紀里谷だけではない。ここまでいけば成美も思いっきり同罪だ。
「あー、もう、最悪……」
 最高のクリスマスから、急転直下で最低の年末に突入した。
 早くも年明け、氷室と再会するのが怖い。ちょっとやそっとのごまかしは、あの人には簡単に見抜かれてしまうだろう。最悪、ご実家はどうでしたか? と、そんな質問にもボロを出してしまいそうだ。
 ――やっぱり、そうなる前に正直に話そう。
 成美はうんうんと頷いてそう決め、仰向けになった。
 思考が止まると、秒針の音だけが、やけに大きく聞こえてくる。
「……………」
 本当は、解っている。
 今、私は、自分の動揺を、自分自身で誤魔化しているのだ。
 私の過去。
 正確には、私を産んでくれた人の現在。
 氷室さんはどう思うだろう。むろん、気にしないと言うだろう。君は君だから、そう言ってもくれるだろう。そんなところで不安にはならない。氷室という人を、そこで疑うことはない。
 でも、耳に入れたくはない。
 この胸がざらざらするような不安と不快感を、彼とだけは共有したくない。
 何故だろう。そもそも自分の過去をきちんと氷室に話すつもりで――そのために、紀里谷まで使って養親から実親の話を聴きだしたのに。
(お前、なかなかヘビーだな)
 両親との話の後、紀里谷はあっさりとそう言った。しかし彼はその口で、
(でも不幸自慢でいけば、俺のがかなり上だからな。ま、よくある話だよ。子どもは親を選べねぇし)
 と、多分慰めみたいなことを言ってくれた。
紀里谷に知られるのは、平気だった。一応弁護士だから、噂を撒き散らすような真似はしないだろう。でも、氷室には――
できれば、知らないでいてほしい。何を聞いても彼は気にしないだろう。それはよく解っているのだが。
 成美はぶるぶるっと首を振って、布団を胸まで引き上げた。
 駄目だ。考えても解らないことは考えないようにしよう。
 明日は初恋の人を探しに行く。
(成美が駅に1人で泊まった日のことは……、それは、確かに、憶えています)
(ただ、成美。お前がその日何を見て何を経験したのかは、実は私たちにもよく分からないんだ)
 あの雪の日の思い出を、1人で探しに行くのだから。

             14
 
 着信――
 突然響いた着信音は、5度ほど鳴って諦めたように切れた。
氷室は、少しだけ眉を寄せてポケットから携帯を取り出した。
休みの間は、誰からの電話にも出るつもりはなかったが、世間を騒がせているであろうニュースのことが、ふと気になったのだ。
 開いてみると、案の定何度も電話をかけてきた元上司の番号。そして、留守電マークが点滅している。
 少しの間そのランプを見つめた氷室は、指でキーを押してから、携帯を耳にあてた。
『氷室、俺だ。どうして連絡してこない。新聞みたか。青柳さんが逮捕された。すぐにマスコミがかぎつけると思うが、警察のホンボシは西東(さいとう)事務次官だ』
 西東事務次官。キャリアの頂点――国土交通省事務方のトップである。
『これは噂なんだが、西東さんはお前をスケープゴートにする腹積もりらしい。わかるだろ、お前の親父さんのことだ。――マスコミが最も喜びそうなネタだ』
「………………」
『とにかく一刻も早く連絡してくれ。俺でよければ力になる。嘘じゃない。お前には借りがあるからな。いつかはそれを返したいと思ってたんだ』
 
 メッセージが切れた後も、氷室はしばらく携帯を耳にあてたままでいた。
 霞ヶ関時代、確かに氷室はこの無能な上司に幾ばくかの助け舟を出してやった。でもそれは、決して親切心からではない。部下である自分にまで火の粉が散ってくるのが面倒だったからだ。
 力になる?
 もちろん、なんの役にも立たないだろう。だが氷室のような本筋を外れた人間に手をかせば、この男の出世の道も、同時に閉ざされることになるのだ。
 てっきり青柳さんの件で余計なことは喋るなと、釘をさされるものだとばかり思っていたが……。
 少しばかり意外さに打たれた氷室は、他の着信にも目を向けた。
 留守電が2件、見覚えのないアドレスからメールが1件入っている。
「…………」
 氷室は少しためらってから、まずメールの方を開いた。
 12月28日。2日前の夜に受信したメールである。

氷室課長。おかげんはいかがでしょうか  
U>ω<)ノ シッ!!

 え……?
 氷室は、面食らって瞬きをした。

灰谷市役所は、本日仕事納めを迎えましたっ

(゚∀゚)キタコレ!! 

 まさか……三ッ浦君?
 道路管理課の新人、三ッ浦靖人(みつうらやすと)。今年採用で、成美と同い年である。
 確かに、年末年始の緊急連絡用に、三ッ浦には携帯の番号とメールアドレスを知らせている。しかし、このメールは一体。

さて報告です( `_ゝ´)フォォー
沢村さんですが、やはり油断のならない女関係でした。

今日は法務の日高さんにロックオン。
(゚д゚)!

人がぞろぞろいるエレベーター前で、口説きまくっていたんです。
日高さんもなんだか優柔不断にデレデレした感じで、最後は法務の補佐に叱られて終わりです。

日高さん、法規担当のくせにそういうところ軽いんですよね( ´Д`)=3

同期として、僕はちょっぴり恥ずかしいです(´・ω・`)

氷室課長のおられない間は、こうして僕が沢村さんを監視していますのでご心配なく。

ではでは。よい休日を(´∀`σ)σ !

(✿❛◡❛)ノ㋔.♫♫


「………………」
 いや………。
 緊急連絡用って、こんなことか?
 三ッ浦が、相当ずれまくった青年であることは知っていたが、こんなものを普通上司に送るか? 
 確かに、沢村に何か不審な動きがあれば、すぐに報告するように、と三ッ浦には言っておいた。
 しかし、それは何も、日高さんの近況を知らせろということじゃないぞ。
 苦いため息と共に画面を閉じた氷室は、今度は留守電をきくために携帯を耳に当てた。
 すぐに、少し舌っ足らずの女の声が響きだす。
 
「こんにちはーっ。真ッ帆でぇす。氷室さん、お休みは有意義に過ごされてますかぁ? あ、私は明日から家族でグアム旅行です。来年は氷室さんもご一緒に……ふふっ。考えておいてくださいねッ」
 
 倉田真帆。
 次の脱力波が、容赦なく氷室に襲い掛かる。
 
「さて、本題です。実は成美――法務係の日高成美さんのことですけど、今日法務の人から聞き捨てならない噂を耳にしちゃったんです。お聞きになりたいですよね。
 雪村さんって知ってます? うちの局の担当で、見かけはともかく中身は最低の男なんですけど。
 その人が、どうも日高さんと隠れて何かやってるみたいなんです。今日も、2人でこそこそエレベーターホールの方に消えていったって係の人が。
 怪しいですよねー。
 雪村主査って一見大学生みたいですけど、年は、氷室さんとさほど変わらないんですよ。やですよね。おっさんの若作り。あ、氷室さんのことじゃないですよ。
 あまり知られてないけど、スノウ製菓の会長のお孫さんだって知ってました?
 最も雪村さんのご家族は会社には関わってなくて、お父さんは国税庁のえらい人みたいですけど。
 それにしても、氷室さんが東京に帰った途端に他の人にって、……日高さんも案外抜け目ないですよね。しかも、何気に玉の輿狙ってるようにも見えますし ?
 氷室さん、気をつけてくださいね。私はいつも、氷室さんの味方ですから。
 じゃ、電話は気が向かれた時でかまいません。よいお休みを!」
 
 
「…………」
 何故だろう。 
 別に指示したわけでも、仕組んだわけでもないのに、何故だか日高さんの情報が僕に集まる流れになっている。
 残るはもう一件の留守電だ。
 声は、部下の沢村烈士のものだった。
 
 
「あー、すんません、こんな時間に。別に、用ってほどでもないんすけど、ちょい、あんたの声がききたくなって」

 酔っ払っている。

「一度、あんたを押し倒しちゃった感覚が忘れられないのかな。あんた、綺麗なんだもん。マジでそのあたりの女より、よっぽどそそる顔してるよ」

 しかも、相当悪酔いしているようだ。

「あんたの代わりってわけでもないけど、今、俺の隣に成美……って嘘っす。ははは。でも寂しいんで、ぶっちゃけ今夜は、女なら誰でもいい気分なんすよね。……まぁ、いいや。じゃ、よいお年を」

 いきなり人の女を呼び捨てにした報いは、後でゆっくり考えてやろう。
 酔っ払ってもどこか冷めている沢村がこうも自棄になっている――その理由が少しだけ気掛かりだったが、氷室は携帯を閉じて元のポケットにすべらせた。
 いきなり現実の時が、止まっていた氷室の周りで動き出したようだった。
 ここではなく、別の場所で動いている時。
 忘れていた。俺の生きている場所は、もうこの屋敷だけではない――
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。