それからほどなくして、氷室はこの街にひとつだけある名門私立小学校に転入することになった。
 氷室家の経済状態ではありえないことであり、また、同小学校にテストなしで中途入学したケースも氷室が最初で最後である。
(後藤さんがね、お前の頭がいいのを惜しんで、お嬢様と同じ学校に通わせてくれると言ってくださったの。学資も全部援助してくださることになって……本当に天は運がいい子だわ)
 その時には、氷室にももう判っていた。
 母は、尻尾を振って飼い主に服従した犬なのだ。
 なにをされても歯向かえないどころか、歯向かう意思があったことさえ忘れた動物なのだ。
 アパートを引き払い、母共々後藤家に住み込むことになった時も、氷室はもう驚かなかった。
 それが最初からだったのか、成り行きでそうなったのか。どちらであっても、もう構わなかった。派手になり、体臭や表情までも変わってしまった母は、もう、氷室には異種の人だったからだ。
 また、母のことに構う余裕もまた、その時の氷室にはなかった。
 転校先の学校は、金持ちしか入学できないエスカレーター式の進学校で、創設者は後藤家の祖先である。当然、後藤家の娘である水南の権力は絶対だ。
 そんな閉鎖された学校で、転入したばかりの氷室が徹底的に疎外されたのも、当然といえば当然だったろう。
 季節外れの転校生。母子家庭。後藤水南の父親の愛人の子供。虐げられる理由は、もうそれだけで十分すぎるほどである。
 そのカーストの頂点にいるのが水南なら、氷室は確かに最下層だったのである。
 そして、階層があるのは学校だけではない。
 後藤家が造った会社、工場、学校、街を構成するあらゆるパーツ……つまりこの街には、後藤家を頂点にしたピラミッドが昔から構築されていたのだ。
 その狭い異常な世界で、いわば氷室はたった1人の異端者だったのだ。――
 水南の取り巻きたちは、まるで女王様のごきげんをとる、それがたったひとつの方法でもあるかのように、氷室を徹底的に虐めぬいた。
 その残酷さは、“いじめ”などという生ぬるい言葉では語り尽くせない。いわば精神の虐殺である。当然、容赦無い暴力もそこに加わる。
 その先頭に立っていたのが、校内のボスであり、当時から『水南の婚約者』を称していた三条守だった。
 三条は、ことあるごとに氷室の首を柔道技で締め、意識を失うまで傷めつけた。
「知ってるか? 仮にお前を絞め殺しても、これはスポーツ事故なんだよ。お前みたいな虫ケラ1人死んたところで、だぁれも騒ぎゃあしねぇんだよ」
 愛犬家の三条家は幾種の大型犬を飼っており、その犬たちに、服や学用具をずたずたに食いちぎられたことも一度や二度ではない。
 後藤家に居候をはじめて1ヶ月も経たない内に、このままでは本当に殺されるかもしれない――と、氷室は真剣に考えるようになった。
 そしてその死は、誰にもかえりみられはしないのだ。
 子どもとはいえ、親が絶大な権力を持つ連中は、何をしても責められることはない。どんな結末も、事故で処理されてしまうだろう。
 一方で水南は、彼女の取り巻きたちが必死になって氷室をいじめる様を、煽り立てもしなければ止めもしなかった。
 彼女の采配がどう動くかで、氷室の学校での立場はまるで違ったものになっていただろうが、水南は文字どおり何もせず、むしろ氷室の出方を静かに観察しているように見えた。
 ――試しているのか。
 もしかすると、いずれ姉弟になるかもしれない愛人の連れ子が、この難局にどう対処するか、それを確かめようとしているのかもしれない。
 負けたくない。
 あの女にだけは、負け犬だと思われたくない。
 そう思うようになった時、ただ黙って耐えるだけの存在だった氷室は、ようやく反撃を開始した。
 勝機を得る方法はひとつしかない。四面楚歌のこの世界で、確固たる自分の味方を作ることである。当然、友情を構築する以外の方法で。
 じっくりと人間関係を観察し、やがて狙いを定めた氷室は、少しずつ敵の牙城を崩しにかかった。
 方法はしごく簡単だった。相手のウィークポイントを探り出し、いざという時にそれをつきつけてやればいいのだ。
 どんな馬鹿げた理由でも、当人には死にたいほど恥ずかしいことがこの世にはある。幼稚な子どもなら、なおさらだ。
 そうやって掴んだ尻尾は、さらに深くたぐり寄せ、内臓までしっかり掴みとる。
 氷室は同級生たち巧妙に罠にかけ、その弱みを意図的に増幅させた。そうして力関係を存分に判らせてやれば、一度刷り込まれた主従関係からはそう簡単には抜け出せない。手足のように動く下僕が、こうやって1人完成するのだ。
 結局、1年も経つ頃には、氷室は校内の一大勢力のリーダーになっていた。2学年年上の三条ですら、容易に手出しできない存在になっていた。
 あの頃の経験には、むしろ氷室は感謝している。そうやって自分という個ができた。いまでも、何者をも恐れてはいない。誰にでも生きている限り、隙というのは絶対にある。それを、あの頃の経験が教えてくれたからだ。
 が、どんな動物にも天敵がいるように、どう狡知をこらしても、絶対に叶わないのではないか――と思える相手が、1人だけいた。
 水南である。
 氷室が中学にあがるのを待っていたかのように、水南はようやくその本性を顕にした。
『ゲーム』
 三条がそう名づけたものに、以来氷室は、常に悩まされることになる。
 それはいつも、ささやかな異変からはじまる。
 いつもそこにあるものがない。いつもの場所から、少しばかり何かの配置が変わっている――
 その異変が端緒であり、やがて氷室の身近な人間が危機的な状況に陥るのだ。
 大切なものが紛失していたり、人生を左右するようなイベントのある日に突然姿を消してしまったり、状況的にその人物が犯人としか思えない状況で、なにかしらの盗難が起きていたり、といった具合にだ。
 そうして、それを解決するヒントが、何故か氷室にだけに判る形で与えられる。
「ゲームだよ。天。光栄に思え。あの水南がお前を試してるんだ。水南に認められたきゃ、お前がその謎をとくんだな。解けるものなら」
 三条に挑発されたことよりも、氷室はただ、証明したかった。
 水南に――自分を犬か虫のように見下すあの女に、頭脳では決して負けてはいないと。
 が――
 それは、まるで写し鏡を見ているかのような恐怖だった。
 どんなに先じて行動しても、必ずその先には水南の空洞のような目が待っている。一手も、二手も先を読んでいるつもりでも、その先には必ず水南の次の手が待ち構えている。まるで、「遅かったのね」とでも言っているかのように。
 かなわない、と氷室は思った。
 理解しないわけにはいかなかった。たった2歳しか年の違わないこの女は、俺より格段に頭がいい―― 
 が、水南とそんなゲームをしていた頃は、ある意味まだ2人は対等であったのかもしれない。
 結局氷室の母は、後藤家の後妻にはならなかった。氷室はどこまでいっても愛人の息子であり、後藤家の養子にはなれなかった。
 そうした氷室の微妙な立場は、中学3年の時にはっきりと「執事見習い」なるものに確定したのだ。
 つまりは使用人。しかも、水南専属の使用人だ。
 以降、氷室は、彼女の小間使いであり、奴隷も同然の立場となった。
 彼女が指を鳴らせば氷室はかけつけ、どんな願いでも聞き遂げなければならない立場になった。
 常に水南と対等であろうとあがいていた氷室にとって、それは言いようのない屈辱である。今考えても判らない。それがいつ、恋慕に近いものに変わっていったのか――
 いや、それもまた、巧妙に仕組まれた罠だったのだ。
(――天……)
 悪魔。
 今でもその単語以外に、水南という女を表現する言葉を氷室は知らない。
 その悪魔に、氷室は二度、地獄の底に突き落とされた。
 なのに、思い出の中の水南は、今も天使のように優しく氷室に微笑みかけている。
(――そうよ。そうやって、私を見て――私をずっと追いかけて)
(約束したわ。天、あなたの時間は生きている限り、ずっと私のものだって)
(たとえ、私が先に死んでも)
「……水南」
 氷室は呻くように呟き、額に手をあて、うなだれた。
 いくら首を振って拒絶しても、水南の吐息と囁きが、耳にからみついて離れない。
 ――気が……狂いそうだ。
 もう、どこにも逃げ場がない。
 こうして目が覚めている時でも、心を奪われ続けている。過去に。もう夢でしか会えない人に。
 ――判ったよ、水南。
 君の遺言は、俺への罰といましめだ。
 君は今でもこの部屋にいて。
 俺の心変わりを約束が違うと責めている。
 本当に卑怯だ。君自身は、俺を一度も愛したことがないくせに。……
 本を投げ出すようにして置き、氷室は脚立を降りると、水南の肖像画の前に立った。
 ――僕は……君を、手放せない。
 そうだ、もう抗うのはやめて、ずっと君の側にいよう。
 俺もまた君と同じ魂になれば、君の許しを乞うことができるだろうか。
 そこには、微笑んだ君が、両手を広げて立っている。――天、おかえりなさい。幸福の極みだった頃のように、そう言って。
 ――水南……。
 氷室は微笑し、そして一歩前に踏み出した。
 どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。
 本当はずっと、7年も前から、俺は君の側にいきたかったのに、水南。
 そっと手を伸ばしてみる。指は、10代だった少年の頃のように震えている。
 水南――俺は、もう一度君に触れたい。
 その時だった。胸におさめていた携帯が、突然電子音をたてて低く震えた。



 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。