15
 
  
「おい、ふざけんなよ」
 空には、三日月が薄くかかっている。
 しんしんと寒い夜――冬はもう間近だった。前を行く雪村の声に、成美はびくっと肩を震わせていた。
「何が言い寄られてる、だよ。もともとありえないとは思ったけど、余計なことに首つっこむなら、自分1人で勝手にやってろ」
「……すみま、せん」
 それきり雪村は無言で、成美も、何も言えなかった。
 バス停までは後少し。が、雪村がすたすた先を行くので、じゃあここで、と、いうタイミングがなかなか掴めない。
「俺が面白いか」
「えっ」
「どうせ、みんなで笑ってんだろ。俺が柏原さんを好きなこと――知らないのはどうせ、本人くらいだしな」
「……笑ってなんか」
 それでも成美は、今夜の自分が、雪村の気持ちを踏みにじってしまったことを、今さらながら思い知らされていた。
 周りからみたら、ギャグみたいな片思いでも、もちろん、本人にとってはとんでもなく真剣で、深刻なのだ。今回のことだって、成美以上に、雪村は心を痛めていたに違いない。
 なのに――。
「……すみませんでした」
「俺はいいよ。……でも、補佐のこと、いちいち嗅ぎまわったりすんな」
 その声は、どこか寂しげだった。
「あの人が自分で決めたことなら、見守るしかないだろ。それに、柏原さんなら、平気だよ。あっさり男の言いなりになるような人じゃない」
 そうだろうか?
 補佐だって、女性だし、肉体的には弱いはずだ。
 しかも――
 自分の上司を殴って左遷されるという、とんでもなく愚直で不器用な一面を持っている。
 今回のことだって、松下弁護士の反対を押し切って、自分で危険な男との逢瀬を決めた。
 義理がたくて……結構、お人好しな面も、あるのではないだろうか。
 成美は、非常階段の前で、薔薇の花束を手にした補佐が、わずかに頬を赤らめていたことを思い出していた。
「あの……、あの、私、考えたんですけど」
 バス停はとうに通り過ぎていた。成美は、意を決して、言った。
「来週の日曜、大明ホテルの帝ってレストランで、2人はデートするみたいなんです。そこに、私たちが偶然を装って合流するというのはどうでしょうか。それで、何か急用ができたことにして、補佐を退席するよう仕向けたら」
「私たち?」
 足をとめた雪村が、ぞっとするほど毒をこめた目で振り返った。
「お前、それ、誰を勘定に入れてんだよ」
「い、いえ……あの」
「馬鹿か。俺の言った意味が判ってんのか。あの完璧な補佐の決めたことに、俺らが首つっこむ必要なんて、何もないんだよ」
「…………」
「考えてみろ」
 吐き捨てるように、雪村は続けた。
「あの補佐が決断したことに、ただの一度だって間違いがあったか? あの人は完璧なんだ。やってることもそうだが、セルフコントロールに一部の隙もない。あんな凄い女性を、俺は今まで見たことがない」
 確かにそうだ。
 補佐はいつでも正しくて、誤った決断は、決して、しない。
 でも――。
「何か、わけがあるような気がするんです」
「わけ?」
「その……宮原さんも言ってたじゃないですか。大明さんの好みと補佐がかけ離れてるって。私の勘違いじゃなきゃ、確かに大明さんの方も、なんだか乗り気じゃないような」
「おい、……誰が、柏原さんが、貧乏くさいって?」
「え……いえ」
 そういう意味で言ったんじゃ……。
 雪村の全身を包む怒りのオーラに、成美は気圧されて後ずさる。
「好みとかけ離れている――? どこのどいつが、そんなふざけたことを言いやがった?」
 そっか――最後の宮原の独り言。
 それが逆鱗に触れたから、雪村はいきなり席をたったのだ。
「死ね。役立たず。二度とそんなふざけたことを口にすんな。てか、そこまで脳容積のない女だとは思わなかった。ここまでいくと、いっそ、昆虫なみだな」
 う……。
 ここまでズタズタにやられたのは初めてだ。
 しかし、雪村は勘違いしている。成美が言いたいのは、――言いたいことは、そこではない。
「あのですね」
「黙れ、もう何も言うな」
「あの、ですね」
「黙れっつってんだろ」
「補佐は――柏原補佐だって、女の子ですよ!」
「………は?」
 三拍の後、片眉をあげた雪村が、訝しげに振り返った。
「ち、力は弱いし、素敵な人に優しくされれば嬉しいし、結構、寂しがり屋だったりするんです。完璧なんかじゃありません。雪村主査は――夢を見ているんだわ。それって、きっと主査の幻想の中にいる柏原補佐のことです」
「…………」
「私、自分で補佐を説得してみます。なんだったらホテルまでついていきます。だって――」
「…………」
「私も補佐が大好きなんです。多分、雪村さんには、負けません!」
 
 
           16
 
 

 
 氷室さん。お久しぶりです。
 その節は、私の未熟さから、氷室さんを怒らしてしまったみたいでごめんなさい。
 実は、とても気になる情報を得たので、お伝えしたくてメールしました。
 ご迷惑だったら削除して、このメールのことは忘れてください。
 実は、行政管理課の日高さんのことですけど。
 
 

 その前振りだけでうんざりして、氷室はメールを削除したい衝動にかられた。
 そして、つくづく思っている。
 人間の意地の悪さには、底もなければ救いもない。
 もちろん氷室も、このメールの差出人、倉田真帆と、ある種同類だという自覚はある。
 他人を見下し、足を引っ張って貶めることへの快感に、確かに一時――氷室も酔っていたことがあるからだ。

 
 
 なんと、そこで意気投合した弁護士さんと、昨日も2人で食事をしたみたいなんです。
 たまたま、なんですけど、私が友人と飲んでいた店に2人が入ってきて……念のため写真をとったので、ご確認くださいね。
 それにしても成美って……、氷室さんがいるのに、案外浮気っぽいところがあるんですね。びっくりしちゃった。
 それとも、もしかしてケンカ、ですか?
 あ、お二人がつきあってることは、成美から打ち明けられたので、ご心配なく。絶対に誰にも言ったりはしません。
 でも、成美――、本当に氷室さんのこと、好きなのかな?
 私だったら、氷室さんがいるのに合コンなんて、まず考えられないですけど。
 じゃ、また新しい情報を得たら連絡します。その弁護士さんの名前とか? もしお知りになりたかったら、直接連絡してくださいね。
 真帆より。
 
 

 
「……あの、氷室課長?」
 氷室は、ゆっくりとパソコンから顔をあげた。
 そこには、毎度のことながら、新人の三ツ浦が表情を強張らせて立っている。
「何か?」
 氷室は極めて優しく訊いたが、何故か三ツ浦は、唇までも青くさせた。
「い、い、いえ。き、き、今日は残られるのかな、と思っただけで。だったら、残業の届けを、」
 にこっと笑って氷室は言った。
「庶務のお仕事、ご苦労様です。でも気がつかなかったかな。課長級には、残業手当はつかないんですよ」
「えっ、僕四月から庶務やってますけど、そんなの初めて……」
「ははは。本当に三ツ浦君は愉快な人ですね」
 氷室は立ち上がり、背後のロッカーから上着を取りだした。
 振り返ると、何故だか課内は異様なくらいの静けさに包まれている。
「じゃ、お先に失礼します。みなさんも、残業はほどほどに」
 
 

 
「……ど、どうなんだ? 今の課長の乾いた笑い……」
「俺、今、マジで血の気が引いたよ」
「最近はずっと、沢村さんが凶悪なオーラ出しまくってるし、うちの課、実は猛禽類の巣だったんじゃ……」
 慄いた囁きが飛び交う係席に、蒼白になった三ツ浦が戻ってきた。
「僕、何か失礼なこと言いましたか? ぜ、絶対に言ってませんよね? 言ってないですよね?」
「まぁ、三ツ浦の空気の読めなさは置いといて、だけど」
 宮田は顎に手を当てながら呟いた。
「最近、課長がご機嫌ナナメなのは間違いないなよ。水森博の騒動も落ち着いてきたってのに、今度は何があったんだか……」
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。