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「雪村さん」
 翌日――木曜日。
 午後五時少し前、柏原補佐の淡々した声が、前席の雪村の名を呼んだ。
「はい」
 あっさりと顔をあげて、雪村が答える。
 それと気づいてしまえば、そのポーカーフェイスは、驚嘆に値する。
 補佐がいない時には、あれほど取り乱したり人格が変わるほどの凶暴ぶりを発揮するくせに、この……冷静でクールな対応ときたら。
 成美はちらっちらっと、上席に座る柏原と雪村を見たが、係内の誰にとっても、すでに見慣れた光景なのか、意識している者は誰もいないようだった。
「この案件で、少し相談したいことがある……。どうも、二、三、腑に落ちない部分があって」
 額に皺を寄せる柏原は、珍しく悩ましい顔をしていた。
「僕も、整理に苦慮しましたから、補佐の仰る部分は判ります」
 やはり、事務的に応える雪村。傍目には、むしろ女上司を敬遠しているようにさえ見える。
「五時過ぎになって悪いんだけど、少し残ってもらえますか」
「わかりました」
 うわっ。と、何故か頬を熱くしたのは成美ばかりで、当の雪村は水のように静かな目をしたままだ。
「日高さん」
 隣の篠田に囁かれ、思わずはっと我に返る始末である。
「気になるからって眼見しすぎ。それじゃ、雪村さんにバレちゃうよ」
「そ、そそ、そうですね。すみません」
 しかし、――気にするなという方が無理である。
 今まで意識したこともなかったが、課内恋愛って、こういうものなのかもしれない。いくら好意的に見守ろうとしても、彼らの一挙手一動に、何か、別の意味を含めて考えてしまう。
 うん――原則禁止、なのも頷ける。やっぱりバレないようにするのが、一番だ。
「日高さん」
 不意に背後から、庶務の佐東由美の声がした。
「カウンターにお客様……。日高さんを訪ねていらしたみたいよ」
「はい?」
 何気なくカウンターの方を振り返った成美は、そのまま椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「き……紀里谷さん?」
 にこっと笑った紀里谷が、丁寧に会釈する。
「すみません。近くまで寄ったものだから」
 いつもの眼鏡に、ぼさっとした野暮ったい髪型だが、美男子のオーラというのは如何ともしがたい。
 さっき、眼見しすぎ。――と注意してくれた篠田はおろか、全員が、成美を訪ねてくれた長身の男を物珍しげに見つめている。
「お、お友達なんですよ」
 聞かれもしないのにそう言い訳して、成美は大急ぎでカウンターを出た。
「すみません。ご迷惑だったんですね」
 さすがに空気を察したのか、ロビーに出ると、紀里谷はみるみる赤くなった。
「役所なら、今までも時々顔を出していましたし、問題ないと思ったんですけど、……」
「いえ、基本問題はないはずなんですけど」
 成美はへどもどと言い訳した。
 それにしても、まさか、昨日の今日で、こんなに早く連絡があろうとは。
「もしかして、夕べお聞きしたことですか」
 成美が声をひそめて問うと、紀里谷は控え目に微笑んだ。
「はい。電話でご連絡するつもりだったのですが、よく考えたら、連絡先を知らなくて」
 その通りだった。
 漠然と――紀里谷が職場の番号を知っていると思っていた成美は、 自分の携帯番号をあえて教えなかったのである。
 その時は氷室と喧嘩した直後だったから、なんとなく、後ろめたい気がしたというのもある。
「ご依頼の件、色々調べてきたんです。……でも、ちょっと、簡単に話せるような内容じゃないかな」
「そうなんですか?」
 頷いた紀里谷は、腕時計に視線を落としてから顔をあげた。
「ご迷惑でなければ、夕食でも一緒にいかがですか」
 ――え……。
 それは、でも、……ちょっと、まずいというかなんというか。
 今の紀里谷と成美は、友人というより、弁護士と依頼人という関係だが――それにしても。
 いくら自由にしていいと言われても、昨日の今日で別の男性と夜間2人きりで食事となると、成美の貞操観念的に躊躇いが残る。
「心配しなくても、僕の友人も一緒なんですよ」
 成美の内心を見抜いたかのように、紀里谷は少し申し訳なさそうに笑った。
「同じ弁護士仲間で、……件の人物にとても詳しい人なんです。直接話したいから同席させてくれと言われたのですが、とても気さくで楽しい人物ですので」
「でも……」
「本当を言うと、ぜひ、ご一緒してほしいんです!」
 なおも迷う成美に、突然、両手をあわせた紀里谷が、哀願するような眼差しになった。
「とても世話好きな先輩で……実は、何度も見合いをすすめられて、辟易しているんです。今度もその話になりそうなので、……その」
「…………」
「交換条件だと、思ってもらえれば」
 おそるおそる成美を見下ろす紀里谷は、成美のような年下からみても、ひどく可愛らしく見えた。
 まるで、いたずらした子供が母親に謝っているようだ。
 それにしても、困った。
 気にしなくてもいいと言われればそれまでだが、ほとんど面識のない(成美の中では、紀里谷もまだそのカテゴリーである)男性2人と、私1人が食事なんて……。
「……あの、友人に、同席してもらってもいいでしょうか」
 少し考えて、成美は言った。
「ご友人、ですか」
「ええ。……」
 そこで頭に浮かんだのは、庁内唯一の友達である可南子ではなく、沢村の顔だった。
 少し前から、漠然と思っていた。氷室に指摘されるまでもなく、成美1人では何もできない。もし、誰か、誰でもいいから信用のおける協力者がいてくれたら――。
 他の面では信用度ゼロだが、柏原補佐のこととなると、あるいは沢村が適任なのかもしれない。柏原補佐の一大事だと知れば、あの男も乗ってくるのではないだろうか。
「もちろん、構いませんよ。日高さんも、その方がリラックスできるでしょうし」
 紀里谷は、特に拘ることなく頷いた。
「あの……お返事をする前にお聞きしたいんですが、それって、いい話ですか。それとも、あまりよくない話になりそうですか」
 成美が問うと、紀里谷の端正な顔が、わずかに翳った。
「うーん……。かなり、悪い話になりそうです」
 そっか――。
 どうしよう。沢村さん――あの人しかいないんだけど、あの人しか思いつかないのもなんだか癪だ。
 しかも、よく考えたら、先月沢村と2人で飲みに行って、ひどい目にあったばかりだ。こんな状況で氷室に仲を疑われたら、ますます複雑なことになりそうな気もする。
 氷室さん――駄目だ。当然のことながら、今は彼を頼れない。
 可南子――だめだめ。柏原補佐の足どころか首までぐいぐい引っ張りかねない。
 倉田真帆――明日には、柏原補佐の醜聞が役所中に知れ渡っているだろう。
 ああ、こうして改めて考えてみると、私の人脈のなさって悲しいほどだ。
「あの……日高さん?」
「あ、いえ、すみません」
 1人で行きます。そう言いかけた成美は、執務室から出てきた人に、ふと視線を止めていた。
 そっか。
 とんでもない人選だけど、もしかしてあの人なら――。
「判りました。そういうことならご一緒します。あの、少し、遅れて合流するかもしれませんが」
「はいっ、ありがたいですっ」
 力いっぱい頷かれ、成美は思わず苦笑している。
 なんだか、ますます紀里谷への好意が深まるのを感じつつ、成美は意を決して、エレベーターホールの方へ歩いて行く雪村主査の背を追った。
 
 
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「失礼ですが、女性……の方ですか」
 そう問われた雪村は、三拍の沈黙の後、にっこりと微笑んで、黒っぽいコートを脱いだ。
「申し訳ないが、男です」
「えっ、……失礼しました。あまりに、お綺麗だったから」
「いいえ、よく間違われますから」
 傍で聞いている成美は、全身が冷や汗ものだった。
 雪村主査――。
 実のところ、綺麗という誉め言葉ほど、この冷徹な毒姫を怒らせるワードはない。
 ああ、よりにもよって、とんでもない道連れを選んでしまった――
 が、柏原補佐のピンチとあらば、雪村ほどの適任もないように思われた。少なくとも、沢村なんかよりは何倍も信用できるし、雪村の助言であれば、補佐も聞いてくれるのではないか――そう思ったのだ。
 もちろん、面と向かっては言えやしない。
(あの……実は、松下弁護士事務所の方に、お食事に誘われて――、私、女性1人で、ちょっと心細いものですから、よ、よろしければ、ご一緒してもらえないでしょうかっ)
 まるで、絶対ふられると判っているハンサムな王子様相手に、乞食の少女が告白するようなものである。
 誤解されたらどうしよう、どう言い訳しよう、とあれこれ考えていた成美だったが、意外にも、帰宅間際だった雪村は、渋々ながらも了承してくれたのだった。
「こないだ来た奴? 言い寄られてんのかよ。もしかして」
「そ、そうなんです。きちんと、お断りできたらって思ってるんですけど」
「お前……」
 その時雪村は、おそらくたっぷり一分は、成美の顔を見ていただろう。
「とんでもなく身の程知らずだな。――ま、いいか、つきあってやるよ」
 無駄に傷つけられた成美だったが、それでも、男2人に女1人の食事に行くよりはずっといい。
 しかも、もし補佐のことで、何かあれば――雪村が味方になってくれるのならば、これほど心強いものはない。
「日高さん」
 成美が席につくと、早速紀里谷が囁いてきた。
「申し訳ないです。一応……僕が、片思いしてる相手ってことに、なってますから」
「わかりました。こっちは……その、私が調べていることだけは知られたくないので、そのあたり、ぼかして話をしてもらってもいいですか」
 簡単な打ち合わせが終わると、四人の自己紹介が始まった。
 まず、成美と紀里谷が名乗り、そして雪村の番になる。
「雪村脩二です」
 へぇ……と、成美は思わず雪村の横顔を仰ぎみていた。
 雪村さん、名前そんなだったんだ。結構渋いというか、普通にかっこいい名前だな。
 そしてもう1人、成美には初対面の弁護士は、宮原要、と名乗った。
 年は、30半ばくらいだろうか。印象はひょろっとしていて、天然かパーマか、くしゃくしゃの髪にやたらボリュームのある男である。グレーのパンツにカーキ色のミリタリーコート。言っては悪いが、あまり弁護士という雰囲気ではない。顔立ちは――好みにもよるが、整った部類といってもいいだろう。
 その宮原は、この場で紅1点の成美より、むしろ雪村に興味を持ったようだった。
「いやぁ、本当に綺麗な方ですね。失礼ですが、お年を聞いても?」
「こう見えて、41なんですよ」
 ぶっと成美は吹き出しかけていた。雪村の実年齢は――成美も最近知ったのだが、まだ30歳かそこらだったはずだ。それでも、見かけはせいぜい20代前半くらいにしか見えないのだが。
「え? そ、そんな風には見えないなあ。でも、お年を聞いたら、余計落ち着いて見えますね」
「無理して若作っているんです。髪は白髪がひどくて月イチで染めてますし、最近は老眼がひどくて虫眼鏡が欠かせません。あと、下の方も緩んで緩んで」
 ゆ、雪村さん??
 どうしてそこまで、美しい自分を貶める??
「あ、僕、梅干しとごはんをください。基本、洋食は胃にくるんで」
 そして、フレンチレストランで、この横暴なオーダーぶり……。
「おっと、正露丸を飲まなきゃな。すみませんねぇ。ちょっと匂いますけど、勘弁してくださいよ」
 もう、成美は声も出ない。
 雪村の機嫌の悪さが、ここまで窺い知れたこともない。成美はもう、早くも席を立ちたくなっている。
「そういえば、日高さんの職場に柏原さんと言う女性がおられるでしょう。背が高くて、お綺麗な」
 その時、紀里谷が、何かのついでのようにごく自然に本題を切り出してくれた。
「あ、ええ、それなら柏原補佐のことだと思いますけど」
 成美はほっとしつつ、打ち合わせ通り話を合わせる。
「いや、今度、松下弁護士の紹介で、彼女……柏原さんですか、僕らもよく知っている男と、おつきあいするようになったと聞いたものですから」
 その瞬間、ご飯をかきこんでいた雪村の箸が止まった。
 そ、その言い方、いくらなんでもストレートすぎ!
 成美まもた、箸どころか思考ごと止めている。隣の雪村の顔は、おそろしくて、確認さえできない。
「別に告げ口をするわけではないのですが、ちょっとお耳に入れておいてもいいような気がしまして。――ね、宮原さん。知ってますよね。大明の次男坊」」
 と、紀里谷が、多少のわざとらしさをもって、宮原に相槌を求める。
「大明の次男坊だろ? あの男はねぇ、……あんな男とつきあうなんて、俺の身内だったら、なんとしてでも止めてやりたいところだけどねぇ」
 そこも打ち合わせがしてあるのか、宮原が心得たように眉を寄せる。
 嫌な胸騒ぎと、多少の雪村への申し訳なさを覚えつつ、成美は続けた。
「どういう意味なんですか? そんなに……評判の悪い人なんですか?」
 後を継いだのは、紀里谷だった。
「大明拓哉。大明ホテルオーナー一族の次男坊ですよ。うちの先生が、昔っから顧問弁護士をしてるホテルだから、それで先生が仲介に入ったそうなんです。まぁ……先生も、紹介しろとせっつかれて随分困っておられたようでしたよ。なにしろ、大恩がある相手の息子さんなので」
「今の顧客も、ほとんど大明オーナーの口ききだって話だしな」
 宮原が、気の毒そうに合いの手を入れた。
「まぁ、その次男坊ってのは、とにかくひどい男ですよ。女にだらしのない男で、学生の頃から数えりゃ、一体何人のガールフレンドを妊娠させてきたことやら。その示談金だけで、家が建つんじゃないかって噂があるほどですからね」
 苦々しそうに言うと、宮原はジョッキを口のあてて、残りのビールを飲みほした。
「しかも……証拠は何もないですが、犯罪めいたセックスに……おっと、失礼、女性の前でした。手を染めていた可能性もある。女が泣きをみて終わってますが、大学の頃、何度か集団……まぁ、女性の前だから、そこは想像にお任せしますがね。とにかく、ひどい男なんですよ」
 ――そんな……。
 宮原の話の途中から、成美は全身の血が引くような気持ちになっていた。
 冗談じゃない。どうしてそんな下劣な男と、よりによって、青竹を割ったような、清廉潔白な補佐が、つきあわなければならないのだろう。
「まぁ、実際には、真剣交際するとか、そういうレベルの話では、ないようですよ」
 顔色をなくした成美をとりなすように、紀里谷が言った。
「うちの先生も、むしろ断るようにと柏原さんを説得したくらいですし、……大明の顔をたてて、一度デートするだけのようです」
「まぁ、その一回ってのが、逆に危ないって気もするんだけどねぇ」
 宮原が首をひねる。
「もっと判らないのは、なんだって大明の馬鹿ボンが、貧乏くさい市職員なんかを――ああ、いや、これは失敬。お綺麗な人なんでしょうが、どうも馬鹿ボンの好みとはかけ離れているような気がしましてねぇ」
「すみません。トイレ――大の方です」
 その時雪村が、深刻なムードもへちまもないことを言って立ち上がった。
 雪村の華奢な背を見送った宮原が、けげんそうに首をひねりながら成美を見た。
「……日高さんの上司ですか? ちょっと変わった……、いや、面白い人ですね」
「い、いつもは、あんな人じゃないんですけど」
 そこは恥かしさに頬を赤らめた成美が、さらに大明拓哉なる人物のことを聞こうとした時だった。
 いきなり携帯が鳴って、成美は慌ててそれに出ている。
「おい。表で待ってるから、早く出てこい」
 声は、いきなりそう告げた。――雪村のものである。
「え、でも、お会計だって」
「そんなもん、奢らせとけ。いいから出てこい! 俺に何度も同じことを言わせるな!」
「はっ、はい」
 さーっと血の気が引いた成美は、「父が、とんでもなく激怒していて」と、お礼とお詫びを言って、逃げるように席を立った。
 とにかく、雪村が怒っている。かなり本気で怒っている。
 もしかして――いや、もしかしなくても、余計な真似をしたことを、見抜かれてしまったのだろう。
「日高さん。なんだか、申し訳ないことになってしまったんじゃ……」
 その成美を追うようにして、紀里谷が出口まで来てくれた。
「いえ、私が雪村主査をお誘いしたのがいけなかったんです。主査なら、事情をご存じだからと……。でも、あさはかでした」
「来週日曜日の正午、大明ホテルのレストラン帝で、食事をする約束だそうです」
 口早に、紀里谷は言った。
「今夜は、ありがとうございました。おかげで宮原さんの見合い攻勢から逃れられそうです。感謝しています」
「いえ、……こちらこそ」
 実際には、何の役にたったのか、いまひとつ判らないけど。
 互いに丁寧に辞去の挨拶をして、成美は急いで店を出た。

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。