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「日高、俺が送っていこうか」
 雪村がそう言って立ち上がったので、成美は少し吃驚して足を止めていた。
 午後六時。仕事帰りに、ついでに市内の弁護士事務所に届け物を頼まれた成美は、荷物を持って、まさに執務室を出る直前だった。
「え、……い、いいんですか」
「俺も、担当の先生に届けもの。ついでだから、送っていってやるよ」
 ざわっと、心なしか、執務室内がざわめいた。
「あの雪村さんが、日高の送り……?」
「雪村さん、なにも、そんなに自棄にならなくても」
 ダブルオーの言いようにはカチンときたが、誰よりも不審だったのが、当の成美本人だった。
 他人の仕事には一切、不干渉。
 それが雪村のポリシーのようなものである。
 もちろん、新人の成美が質問すれば(その勇気はなかなか持てないが)、お前は馬鹿か、という目でたっぷり成美を罵倒した後、冷やかに答えを教えてくれる。が、全く噛み砕いてくれない説明は、成美には大抵理解できない。
 つまりは――教えてくれる気がないと、そう判断するしかなかった。
 それ以外の面でも、基本、雪村は新人の成美には無関心だ。助けてくれることはおろか、普段から優しく話しかけられたこともない。
「あ、あの、結構ですよ。道路こんでそうですし、帰り道ですから、本当に」
 成美は強張りながら、かぶりを振った。
 ――絶対に、……怒ってる。……
 なにしろ、その雪村を食事に誘い(後で冷静になって考えると、大変な暴挙であった)、挙句、彼の純情な聖域に土足で踏み込むような――まったく、無神経な真似をしてしまったのだ。
 それが昨夜のことで、一夜明けた今日。
 朝から雪村は、剃刀みたいに切れ味が凄まじかったし、誰がみたって、相当機嫌が悪かった。原因は――考えるまでもない。
「日高。新人が遠慮なんて、可愛くないぞ」
 傍目には、世にも優しいセリフを吐いた先輩が、微笑して成美を見ているように見えるだろう。指でこつん、と額を弾いているような、そんな昭和なラブコメ風景さえ想像できる。
 が、正面から雪村の顔を見ている成美にだけは、判る。
 目が、――全く笑っていない。  
 こ……、怖いんですけど。とんでもなく。
「じゃ、日高と行ってきます。今夜は、このまま直帰しますので」
「えっ、あ、あの、私」
 有無を言わせずに引っ張られた成美は、あっと言う間に執務室から連れ出される。
 廊下に出た途端、ぱっと、汚れものを突き放すかのように手を離した雪村が、冷淡に成美を見下ろした。
「この俺が送ってやるんだ。断る資格がお前にあるとでも思っているのか」
「…………」
「行くぞ、昆虫」
 顎を軽くしゃくって、雪村は先に立って歩き出した。
 と、とんでもない傲慢キャラ――。
 とにかく、断らなくちゃ。
 断るために、成美は急いで雪村の後を追った。
 今夜は金曜日でデートは日曜。ということは、今夜しか時間がない。なにがなんでも、今夜は柏原補佐と話をしなければならないのだ。
「あの、今日は執務室にもどります。私、補佐に話があるんです」
「用事がすんだら、食事にいくぞ」
 あっさりと、前を行く雪村は遮った。
 ――食事???
 もう成美には、意味も訳も判らない。
「あのですね。だから私に、そんな暇は」
「お前のやろうとしていることに手を貸してやると言っているんだ。いいから黙ってついてこい!」
 
 
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「……え、ここって」
「お前の、奢りな」
 慄く成美の前に、タキシード姿のウエイターが近づいてきた。
 ワインのテイスティングを慣れた仕草で済ませ、雪村がナプキンを首につける。
 成美は慌てて真似をしたが、「女は膝だ。お前、そんな最低限のマナーも知らないのか」
 と、雪村に冷えた目で睨まれた。
「大明ホテルのレストラン帝。ここが最上級の個室だから、日曜のデートは、多分ここだ」
 前菜に手をつけながら、雪村が言った。
 ――え……。
「入口、出口、店内のどの位置にあるかくらいは確認しておきたかったからな。ちょっと高くつくが、実際に利用してみるのが一番だろう」
 成美は呆然としながら、あらためて店内を見回した。
 海沿いに、いかにもリゾートホテル風に建てられた、22階建の高級ホテル。
 ここ――フレンチレストラン帝は、その2階部分にある。
 2人がいる部屋は個室だが、天井が高く広々としていて、窓からは海と空が見渡せる。2人用の部屋、というより、少人数用の部屋のようだ。
 サラダの皿を引き寄せながら、雪村が続けた。
「まだ判らないのか。お前の馬鹿げた企みに乗ってやるって言ってんだよ。補佐のデートを妨害すれば満足なんだろ」
 ――雪村主査……。
 成美は、信じられない思いで雪村を見上げている。
「ただし、雰囲気をよく確かめてからだ。……俺だって、馬鹿な真似はしたくない。……柏原さんが、幸福なら……」
 そこで俯いて沈み込む雪村に、成美は慌ててワインを注いだ。
「さ、飲んで下さい。今夜はぐっと」
「馬鹿か。車だ。さっきのテイスティングも真似だけだ。お前1人でそれ、あけろよ」
「え……」
 ええええっ。
 だったら、ワインのボトルなんか頼まなきゃよかったのに。
 禁酒してるし、ダイエット……。三キロ減の誓いはどうすればいいのか。
 が、勝手にオーダーを済ませた雪村の好意?はもちろん踏みにじれない。
「……なんで、急に気持ちを変えてくださったんですか」
「……調べたんだ。俺なりに」
 スープを丁寧に口に運びながら、雪村は言った。「おい、音をたてるな、みっともないぞ」
「す、すみませんっ」
 思いの外マナーに厳しい……、というより、エスコート慣れた雪村に、成美は少しばかり驚いている。
 もしかして雪村さんって、こういう場所での食事に慣れてる……?
 公務員って、私も含めてそんなに裕福な人がなるもんじゃないと思うけど、雪村主査って、実はいいところのお坊ちゃんか何かだったのだろうか。
「奴の大学の線から当たってみた。俺と同い年だからな。同じ大学の同級生に知り合いがいるんだ」
「それで?」
「最悪、だよ。性質の悪い連中と徒党を組んで、酒の席で女の子を落としては、遊んでたらしい」
 雪村は美しい眉を曇らせた。
「落とした女の子を連中の部屋に連れ込んでは……何をしていたのかな。少なくとも、集団レイプが話題になって2人の女の子が退学したらしい。一度訴訟騒ぎにまでなったそうだけど、それも金の力で解決したんだろうって」
「…………」
「夕べは、話半分で聞いていたが、信用おける奴に聞いてしまうとな。……そいつ、言ってたよ。あんな男にひっかかる女は金目当ての馬鹿だって。俺は補佐が……そんな馬鹿だと思いたくない」
「…………」
「お前が言うところの、事情だけでも確認したいと思ったんだ。もちろん、やばい雰囲気なら止めに行く。……尾行することが、適当な方法だとは思えないけどな」
 ――雪村主査……。
 そっか。……やっぱり、本当の話だったのか。
「お前、この状況で、よくそんなにものが食えるな」
「えっ」
 最近我慢していたから、食べるしかないと覚悟した食事は全てが美味しく、成美は残らず平らげていた。
「す、すみません。深刻な気分だったんですけど、残したらもったいないから、つい」
「いや……いっけど」
 何故か優しく笑んだ雪村が、自分の皿を成美の前に差し出した。
「食え。お前見てると、昔飼ってた文鳥のパー子を思い出した。そういえば、鳥も脳容積が少なかったんだよな」
 なんだろう。ひどく温かな目で、極めて残酷なことを言われたような……。
「雪村主査は、脳容積が大きい人が好きなんですね」
 ちょっとした皮肉をこめて言ってみたが、雪村はわずかに眉を翳らせた。
「……俺はあの人の前だと、自分が馬鹿だと思うことがある」
「…………」
「前の夜から、一生懸命、明日は何を話そうかとか考えても、全部が全部空回りだ。多分、あの人の立っている場所と俺の場所は違いすぎて、視線が絡まりさえしないんだろうな」
 不意に沈み込んだ雪村の視界には、すでに自分だけの世界が広がっているのかもしれない。
「もっと男らしければいいのか? 背があと二十センチあればいいのか? 金か? 権力か? 学歴か? いったいどこまで行けばあの人の理想に近づけるのか、俺には全く判らないんだ」
 なるほど。これが篠田さんが言っていた自己完結型恋愛体質ってやつか……。
 成美は少しばかり同情しながら、でも、少しばかり呆れながら雪村の話を聞いていた。
 もちろん、口は挟めないが、雪村の言う全てのことが、言っては悪いがすでに空回りという気がしないでもない。
 補佐は、そんなもの求めてはいない。
 何故なら、補佐の好きな人は……それは、まだ成美の憶測だけれど、高校卒の自衛隊員……それも、妹のご主人、だからだ。
「まぁ、飲んで下さいよ」
「……そうだな。車は代行に頼むか。言っとくが全部お前の奢りだからな」
「いいですよ。来月は初めてのフルボーナスですから!」
 なんだか気の毒な人だ。雪村さんって。見かけは補佐と同じくらい綺麗で、仕事もできて、完璧な人なのに……。
 多分、好きな人を偶像化しすぎて、本当の姿を見失っている。
 補佐だってただの女の子だ。いや……ただと言ったら言い過ぎだけど、そういう部分は絶対にある。そして、恋とは、絶対にただの女の子の部分が大きく出てくるものなのだ。
 しかし、そんな風に他人を冷静に分析できていたのもごくわずかで、三十分後には、成美も引きずられるように自分の世界にはまりこんでいた。
「雪村さんは、まだマシな方ですよ」
 成美はグラスを持ち上げながら言っていた。
「私なんて、ですね。好きな相手にこう言われたんですよ。俺が好きなのは、俺のことが好きなお前であって、そうでないお前には興味がないって。意味判ります? それってすごい格差恋愛ですよね?」
「……お前、酒癖最悪……。ここはそういう店じゃ……ま、いっけど」
 そういう雪村も、結構酔っているようだった。
「いやいやいやいや。それって、超寛大なんじゃね? 俺に言わせたら、ハードル低すぎ。だって考えてもみろよ。そんな簡単な条件って普通ありか?」
「簡単、ですか?」
「だって、好きなだけでいいんだろ? もう、超楽勝。俺なんてあの人が好きって気持ちだけでご飯が三杯食えるからな」
「おかず、ですか」
「ひっ、卑猥な言い方すんな。女のくせにっ。違うよ。その気持ちだけで何もいらないってくらい、純粋に好きって意味だよ」
 ――卑猥……?
 それはよく判らなかったが、簡単という言葉だけが、成美の胸に引っかかり続ける。
 簡単……。簡単、か。
「お前が鳥頭でも昆虫でも、チビでもちんちくりんでも構わないってことだろ。昔の彼氏だろうけど、そんないい奴、まさかお前から振ったとかいう、アメリカンジョークみたいなオチじゃないだろうな」
「ば、馬鹿にしないでくださいよ。そこまで主査に言われる筋合いはありません」
 ――私が……なんであっても、構わない。
 そういうこと?
 ああ、酔った頭では上手く整理できないけど、そういうことなの? 氷室さん。
「……主査は、そう言われたら、嬉しいですか?」
「は?」
「私、あの時は……別の意味では嬉しかったけど、そのことでは、少しだけ傷ついたんです。だって、私ばっかりが好きな恋愛って、ちょっと辛いじゃないですか」
「そうか? 別に」
 雪村は心外そうに眉をあげた。
「俺はそれでいいよ。むしろ、そっちが幸せだ。……俺が好きだ。相手の何倍も俺が好きだ。相手はその半分くらいでも構わない。いや、それ以下でも構わない。考えてみろよ。両思いなんて、奇跡だぞ、お前」
 奇跡……。
「ちょっと来い」
 えっ、という間もなく、強引に腕を引っ張られ、成美はテラスに連れ出されていた。
「さっ、寒いんですけど、主査っ」
 2階とはいえ結構な高さだ。ヨーロピアン調のテラスからは、眼下に広がる海が一瞥できる。潮と風の匂い。さざなみの音。星が海に降り注ぎ、最高にロマンチックな光景――。
「見ろ」
「い、っ、いたっ」
 が、そんなロマンスとはほど遠い関係の2人は、完全に酔っ払った雪村が成美の髪を掴み、やはり半ばハイになっている成美は、その異常事態をごく自然に受け入れて、視線を空に向けていた。
 雪村の指が、星空を指し示す。
「星の数以上に人はいるんだ。その中で、たった2人が惹かれあって結ばれる。生まれも育ちも別々だ。そんな2人がさ――お互いにとってたった1人の人になる。どうだ、奇跡以外の何ものでもないだろう」
「…………」
 お互いにとって。
 たった1人の人になる。
 成美は黙って星空を見上げた。
 雪村の言葉がひとつずつ、酔っ払ってぼんやりした頭に落ちていく。
「俺の好きな星は、まだ俺に気づいてさえいないけど」
 雪村は手すりで頬づえをつき、夢見るように美しい双眸を潤ませた。
「好きになってくれなんて言わない。気づいてくれればそれだけでいいんだ。振り向いて……そして、僅かでも微笑みかけてくれたなら……」

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。