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 ――何を、1人で苛々しているんだ、俺は。
 飲み会の喧騒の中、氷室は1人で、日高成美との電話を思い返していた。
 全く俺らしくもない。なんだってあれくらいのことで、ああも大人げのない言い方をした。
 相手は十も年下の、実際、子供みたいに頼りないところのある女性だというのに。
「…………」
 少し、距離を開けた方がいいのかもしれない。
 グラスから唇を離しながら、氷室はふとそんなことを思っていた。
 無意にそう思った後、そんなことを考えた自分に少しばかり驚いてもいる。
 先月、一度は迷って、そしてふっきれたはずの感情。でも、何故迷い、そして何故ふっきれたのか。
 いや――迷った理由は判っている。
 俺は少しばかり深く、あの子に傾きすぎてしまったのだ。
 自分が思う線を遥かに超えて、時に、冷静さを見失ってしまうほどに。
 水森博の時もそうだった。そして、今夜も――
(ミ、ミナって)
「…………」
 グラスを置き、氷室は立ちあがっていた。
「課長?」
「すみません、お先に失礼します」
 上着を手にした氷室は、見上げる課員たちに微笑みかけた。
「えっ、もう」
「課長、今日は最後までって約束したじゃないですか」
「大切な用事を思い出したので」
 コートを羽織り、氷室は宴会の輪を抜けた。
「なんすか、大切な用事って」
 いきなり約束を反故にされた沢村が、不満げな顔をあげる。氷室は静かに微笑した。
「自宅の窓に鍵をかけ忘れていたようです」
「……窓?」
「心配事は放っておけない性質なので。今夜はこれで失礼します。では、また明日、執務室で――」
 
 
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 ――よかったのかな。 これで、本当に。
 タクシーを降りた成美は、軽く息を吐いて、夜空を見上げた。
(それは……僕は、詳しくは知らないです。今知っていることを話してもいいですが、根拠のない噂であっても失礼ですし……、しかも、仕事上知り得た情報となると)
 真面目な紀里谷は、成美の問いに相当真剣に悩んでくれたようだった。
(じゃあ、こうしませんか。これは日高さんの依頼、ということで。そのお相手の身辺調査、僕が確かにお受けしましたよ)
 つい、頷いてしまったけど、料金とかどうなんだろう。
 しかも、補佐になんの断りもいれずに、こんな勝手な真似をするなんて――これでなんにも出てこなかったら、私ってただの興味本位のおせっかいじゃない。
 いずれにしても、1人になると、現実がひしひしと押し寄せる。
 ――氷室さんに、謝らなきゃ、な……。
 結果、彼の思惑に背いて、反対されていた合コンに行ってしまった。しかも、その間際――本当は理解しあいたくて電話したのに、皮肉にも互いに傷つけあう結果になってしまった。
 どう、謝ろう。最後はひどく怒らせてしまったようだった。単に怒ったと言うより、彼の何かが不意に切れてしまったような――。
 成美は掌に握りこんでいたものを開いてみた。
 氷室の部屋の鍵。
 もう随分前から預かっているのに、一度も無許可で使ったことのない鍵――。
 つけているキーホルダーは、成美が以前、氷室にあげようと思って、つい衝動買いしてしまったものである。
 おそらく風を擬人化したもので、流れる風の形をした青い金属の型の中に、ちょっと皮肉そうな顔をした――割とイケメン風の男性の顔が描かれている。
 きっと、キャラクター商品のひとつなのだろう。
 裏面を見るとkitakazekun@kitakazetotaiyouと刻まれていたが、その出典が何なのか成美は知らない。
「北風、君……か」
 ただ、ちょっと意地悪そうな北風の顔が、氷室に重なって見えた――本人に言ったらあまりいい顔をしないだろうが、それで、つい買ってしまったのだ。
 目の前には氷室の住むマンション。そのエントランスの手前で、成美は足を止めていた。
 鍵――。彼の部屋の、鍵。
 今夜、この最悪なタイミングで使うことが、果たして正解なのだろうか?
 判っているのは、早く謝らなければ、ということだけだった。
 多分、電話じゃもう無理だ。直接会って、理由を話して――それから、彼を怒らせたことを謝らないと。
 私が悪かった。……のだろう、多分。
 彼の言うとおりにしておけばよかった。……のだろう、多分。
 なのにこの期に及んで、反省する一方で、密かに反発している自分がいる。彼の意のままになって従うことしかない関係。そんなのは間違っているのではないか、という疑問。
 柏原補佐のことだって、氷室は絶対に反対するに違いない。
 わからない。そういうの、どうやって解決すればいいんだろう。
 そもそも10も年が違う2人が、まともに話し合いって、できるのかな?
 そして、話したところで――、私の気持ち……きちんと判ってもらえるのかな、氷室さんに。
 ああ、なんだか、何から解決していいいかさえ、判らなくなってきた。氷室さんのこと、柏原補佐のこと、あなたのミナのこと、私自身のこと――問題が、ありすぎて。
 その時、いきなり携帯が震えた。成美は急いで、それをバックから取り出した。
「えっ」
 ――氷室、さん。
 嘘。まさか、なんだか夢みたいだ。このタイミングで彼からかかってくるなんて。
「……あっ、ひ、氷室さん?」
「まだ、外ですか」
 氷室の声は、静かで、そして穏やかだった。
「お楽しみの時間に、お邪魔をするようで申し訳ないですね。さっきは悪かった。それを言いたくて電話しました」
「いえ、……あの、……」
 本当に?
 嘘だ――まさか、氷室さんから謝ってくれるなんて。
 悪いのは私の方です。私も、あんな言い方をするつもりは――
 成美が、そう言いかけた時だった。
「僕らは少し、距離を開けてみませんか」
「えっ……」
 一瞬、氷室が何を言ったのか判らなかった。成美は携帯電話を握り締めていた。
「心配しないで。ずっと、という意味じゃないですよ。君の――今抱えている問題が、片付いて、そして落ち着くまでの間です」
 問題とは、もしかしなくても柏原補佐のことだろうか。それとも氷室さんとの関係のこと? ミナという女性のこと?
 問題は色々ありすぎて、どこから手をつけたらいいかさえ判らなくなっているのに。なのに――。
 氷室の言いたいことが理解できず、成美は不安でいっぱいになりながら、さらに携帯を握り締める。
「ここ数日、僕らの関係は、漠然とずれていましたね」
 氷室の声は優しかった。成美は、なんと答えていいのか判らない。
「もしかして、それは僕の態度が原因だったのではないですか。僕の言動や振舞いに、君は少しずつ、違和感を覚えていったのではないですか。でも、残念なことに、その原因がなんであろうと、僕は自分を変えることができそうもない」
「…………」
 口調だけは、今までにないほど優しく聞こえる。なのに、気持ちだけがどんどん深い場所に落ちていく――感覚。
「僕が、というより――今は、君のためにそうするべきなのかな、と思いました。僕が自分を変えられない以上、君にそれを強いるしかないでしょう。……僕は」
 氷室の声が、掠れて途切れる。
 まるで、悪い夢でも見ているようだ、と、成美は思った。
 たった一度のケンカで、もうこんな展開になっている。
 これは別れの電話だろうか? だとしたら私は、どう答えればいいのだろうか。
「僕は、君が好きですが」
 しばらくの沈黙の後、氷室は言った。
「僕が好きなのは、僕のことを好きな君なんです。……その意味が、判りますか」
「……なんと、なく」
 動揺を押さえながら、成美は答えた。
 つまり――つまり。
「言いかえれば、氷室さんのことを好きではない私には、興味がないということですよね」
「……端的ですね。そうはいいませんが、否定もしません」
 なに、それ。
 つまり――つまり。
 彼が好んでいるのは、今の、どちらかといえば、成美の一方通行的な格差恋愛なのだ。
 私が彼の好みや意見に従い、彼の言いなりになる関係。
 つまりは――そういう意味だろう。
「じゃ、今の関係は、氷室さんの理想、ですか」
「今の関係?」
 それには氷室が、やや言葉に詰まったようだった。
「そうかもしれませんね。でも君にはそうじゃない。ごく普通の、当たり前の感情だと思います。だから、君のために、少し距離を開けるべきだと思ったんです」
「……氷室さん」
「そんなに、泣きそうな声をしないでください。君のためには、その方がいい。今そうしなければ、僕は君のすることにいちいち口を出すでしょうし、場合によっては双方悪感情だけ残して離れていくことにもなりかねない。……そうは、思いませんか」
 そうなのだろうか? ――そういうものなのだろうか。
 でも、氷室が自分を変えず、成美の不満だけが募っていったら、確かに、そういう未来もあり得る。
 でも、そんな冷静な判断――普通、できるものだろうか? 私たち、まだつきあって、半年も経っていないのに。
「僕らは本当の意味で、互いをまだ、知らないのかもしれないですね」
「…………」
「いや、少しずつ判ってきたのかもしれない。だからこそ、取り返しのつかないことになる前に、少し距離をおいて、自分の気持ちを見つめ直してみたらどうかと思ったんですよ」
 優しい声は、本当に優しく、泡立つ成美の胸に落ちて、そして静かに広がっていった。
「お別れとかじゃ、ないんですよね」
「違います。ずるい言い方ですが、それは君が決めてください」
「氷室さんは、決めないんですか」
 その質問には、彼はしばし、言葉に迷っているようだった。
「……最初に言ったとおりです。僕は、僕のことが好きな君が、好きなんです」
「…………」
「君がそうでないなら、……僕の答えも決まってくる。それだけです」
 ほんと、ずるい。
 自分は何ひとつ手を汚さず、全て相手の選択肢に委ねるなんて、大人の優しさの仮面を被った――ただの逃げだ。
 それでも、今の感情が氷室の真実なら、仕方ない。
 追う恋愛より、追われる恋愛のほうが好きだというのは理解できる。追うばかりの成美にしたって、逆だったらどんなにいいかと思うほどだ。氷室の性格や経歴からすれば、それは当たり前の感覚なのだろう。それに――
「……なんとなく、わかります。氷室さんの言いたいこと」
「そうですか」
 そういうずるさも含めて、彼を好きでい続けられるかどうか?
 悔しいけど、そこを考え直して出直してこいと、つまりはそう言われているのだろう。
 これが、格差恋愛かぁ……。
 あまりにも厳しい現実に、成美は、溜息が出そうになっている。
 なのに、氷室が好きな成美には、何ひとつ反撃できないのだ。
「あの……」
 それでも、念を押すように成美は聞いていた。
「私のこと、もう……嫌いになったとか、そんなんじゃないんですよね」

 


「もちろん、違いますよ」
 今、自分の声は、どういう口調でもって彼女に届いているのだろうか。
 目の前には見慣れた五階建のマンション。この四階に住む人の部屋は、今は無人で――扉は氷室のために、今まで一度も開けられたことがない。
 会って話すつもりだったが、会わなくて正解だったのかもな。
 そう思いながら、氷室は続けた。
「最初に言ったじゃないですか。僕らの意見が対立した、例の一件が片付くまで、だと」
「それは……、そうですけど」
 頼りない、不安げな声が返ってくる。
「……本当言うと、正直、よく分からないんです。自分のやっていることが正しいかどうか、とか」
 氷室が黙っていると、成美は躊躇いがちに言葉を継いだ。
「柏原補佐のこともそうですけど、他にも、いろんな問題がありすぎて……。何から手をつけていいかもわからないし、どうすれば一番いいのかさえ自分じゃ結論が出せません。こんな私が、人のことにかまけてる場合なのかな、とか、そんな風にも思ってしまいますし」
「…………」
「ご、ごめんなさい。……関係ないことばかり言っちゃって。今夜は、そういう話も少し聞いてほしいなー、なんて、図々しいことを思っていたので」
「……いっぺんに考えないことですよ」
 氷室は携帯を耳に当てなおしながら、言った。
「自分事も他人事も、その中で今君が、一番大切で一番緊急性が高いと思うものから始めてみればいいんですよ。ひとつひとつ、落ち着いて片づけてみてごらんなさい。結局は君というパーソナリティが解決していく問題である以上、ひとつの事件で、すべてに共通する成功体験が得られるはずですから」
「…………」
「思うままに、自由にやってごらんなさい。君はまだ若く、行動の翼はいくら広げても足りるものではない。男女問わず交際の輪を広げ、得られる相手からは多くのことを学びなさい。すべてが君の年では経験で、失敗もまたしかりです。最悪、柏原さんに激怒されることも含めてね」
 電話からは沈黙だけが返ってくる。氷室はらしくないことを言った自分に苦笑した。
「――と、君が僕にとってなんら特別な人でなければ、僕はきっと、そうアドバイスしていたと思いますよ」
「それ……」
 聞こえてきた声は、少しだけ最初より落ち着いて、そして柔らかくなっていた。
「そんなこと言われたら、多分、ますます氷室さんのこと、好きになると思いますよ」
「残念なことに」
 氷室は微笑し、視線を暗い空に向けた。
「僕という男は、好きな相手ならなおさら、その人を寛容に見守ることはできないようですよ。狭い檻の中で、僕だけを見つめ、どんなに理不尽であっても僕の言いなりになって生きてほしい。僕はともに暮らす相手に、経済的にも精神的にも自立を求めてはいません。ありていに言えば、僕以外の何であっても、関心を持ってほしくない」
 沈黙――
 今、彼女が抱いたものを思い、氷室は自嘲気味に唇をゆがめた。
「……そういう女性でなければ僕の方が耐えられない。白状すれば、僕はそういう男なんです。そのような女性は、もしかするとこの世界のどこにもいないのかもしれないですけどね」
「いえ、なんとなくわかってますから、氷室さんの気持ち、みたいなもの」
 あっさりと言われ、氷室は少しばかり面喰っていた。
「本当に? 僕が君だったら、少なからずぞっとして今後のつきあいを考えますが」
「はい、もちろん考えます。でも、なんだか今は嬉しいんです。嬉しいっていうか、ほっとしちゃって……。おかしいですか、こんな私」
 ――嬉しい?
「今だって、私のことを束縛したくないというか……上手く言えないですけど、大切にしたいと思ったから、距離を開けたいと言って下さったんですよね」
 一瞬どう答えていいか判らず、氷室は言葉に詰まっていた。
「さっきも氷室さんに背中を押してもらって、すごくほっとしているんです。色々迷ってましたけど、なんだかやれそうな気がしてきました。……なんだか、なんていうか」
 しばらく言葉に迷っていた成美は、突然あっと言うような声をたてた。
「ごめんなさい。余計な話になっちゃいましたね。仰られるとおり、氷室さんとのおつきあいの仕方、考えます。自分の考えがまとまったら、また電話しますね!――って、しても、……いいですか」
「待っていますよ」
「よかった。じゃあ」
 なんと……。
 怒りもしなければ泣きもしない。
 よりにもよって、嬉しいだと? 確かに彼女が言ったことは間違ってはいないが、それにしても。
 おかしいな。なんだってそんなに元気いっぱいに電話を切れる?
 この電話の意味が、君にはわかっていないのか。
「……僕は、窓を閉めたんですよ」
 二人の間に線を引いた。
 これ以上――僕の何かを、君に変えられたくなくて。
 
 

 
 そっか。
 携帯をバックに滑らせた成美は、久しぶりに肩の力が抜けたような気がして、ふっと息を吐いていた。
 私……色んなことをいっぺんにやろうとしすぎていたんだな。
 少し整理してみよう。
 それから、一番大切で緊急性の高いものから、はじめてみよう。
「……ありがとう。氷室さん」
 そして、……やっぱり、ごめんなさい。
 電話じゃ言えなかったけど、私の悩み事の三分の二くらいは、全部氷室さんのことなんですよ。
(僕が好きなのは、僕のことを好きな君なんです。……その意味が、判りますか)
 わかります。つまり私は、いつも氷室さんのことが大好きで、どんなものより最優先して、あなたを追いかけて行かなくちゃいけないんですよね?
 氷室さんが好きでいてくれるのは、そういう私、なんですよね?
 なんとなく判っていたけど、改めて思い知らされた格差恋愛。
 ショックといえばショックだけど、そんな勝手なことを言う氷室さんの気持ちは、なんとなく判るような気がする。
 でも、今回は、それでも氷室さんではない他のことを、――勝手に優先させてもらいます。
 多分氷室さんも、私がそうすることが判っているから……。
 ううん、そうさせるために、あえて距離を開けてくれたんだって、今はそう思っていたいから――。

 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。