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「初めまして、松下弁護士事務所の、紀里谷理人です」
 それから三十分たった七時半。
 社会人になって初めての合コンは、そんな挨拶から始まった。
「は、はじめまして……日高、です」
 成美も、おずおずと挨拶をした。
 別に意識しているわけでもないのに、わけもなく頬が熱くなる。顔をあげると紀里谷も耳のあたりを赤くしていた。
「紀里谷、頑張れよ」
「紀里谷君は奥手だからな。今、捕まえとかなきゃ、多分一生独身だぞ」
 周囲は最初から冷やかしムードで、さすがに広報課の女子たちも鼻白んでいるようだった。
 市内繁華街にある集合ビル。その上階にあるフレンチレストランが、今夜の合コンの舞台である。
「じゃ……、あの、お世話になります」
「い、いえ、こちらこそ」
 2人で並んで席につきながら、成美は初めて、この人のよさそうな弁護士に、申し訳ないと思っていた。
 向こうにどう思われようと、成美の気持ちは決まっている。
 氷室がどんなに冷たい男でも、2人の関係が終わったとしても――それでも、成美が好きなのは氷室1人だけなのだ。
 とても、こんなに性急に、他の男に興味を持ったりできそうもない。
 むしろ、あんな風に冷たく突き放された直後だからこそ、いっそう、氷室のことばかり考えてしまう。
「ま、あの2人は放っておいて、こっちはこっちで楽しみましょうよ」
 どこか白ける女連中の中で、倉田真帆だけが、えらくご機嫌のようだった。
 ――倉田さん……。氷室さんに、今日の話をするんだろうな。
 そう思うと、胸はますます塞がれたように重くなる。色んな意味で憂鬱で、成美は隣の男の会話にも、半ば虚ろに相槌を打つだけだった。
 ともすれば、ここに来た目的さえ、どうでもいいものに思えてしまう――。
 やっぱり、氷室の言うとおり、来るべきではなかったのかもしれない。仮に柏原補佐の相手の素性を知ったとして、それでどうだというのだろう。
 補佐は、おそらく何もかも承知の上で、――推測ではあるけど、松下の顔をたてるために、その男との交際をオーケーしたのだ。
 その補佐の決断には、成美だけではなく、氷室だって口を挟めないに違いない。
 なのに――私は……一体、何をするつもりで。
「気分でも、悪いんですか」
 気づけば、隣の人が、心配そうに見下ろしていた。
「え、いいえ、ごめんなさい。ちょっと……酔ってしまって」
 成美は申し訳なく言い訳した。
「正直言えば、合コンなんて久しぶりで……学生の頃、無理に頭数あわせにつれていかれたきりなんです。ちょっと、空気に慣れないっていうか」
「……少し、外に出ませんか?」
 紀里谷の声は優しく、眼鏡の奥の目は、成美への心配なのか、少しだけ翳ってみえた。
 写真の印象どおり、紛れもない好人物――。
 それが、成美の下した紀里谷という人の結論である。
 控え目で、シャイで、喋り方はぎこちなく、だけど気づかいに満ちている。
 顔は――想像以上のイケメンだった。眼鏡と髪型だけは、いかにも勉強漬けの日々を送っていたらしく野暮ったいが、その下の顔は――色白で端正で、見ようによっては相当の美男子である。
「もしかして、気のり、しませんでしたか?」
 店には、屋外ラウンジがあり、広々としたテラスの上にテーブルや椅子が用意されていた。そこには今、来客がなく、成美は紀里谷にうながされるままに、席をたってテラスに出た。
 倉田真帆が、興味津々の目でこちらの様子を窺っている。
 どう告げ口をされるか察しはついたが、成美はこれを機に、紀里谷に謝って合コンを抜けさせてもらうつもりだった。
「うちの同僚が、無理に誘ったみたいで、すみません。僕は――その、ご覧のとおり、あまり、女性が得意ではなくて」
 2人になると、紀里谷は余計にぎこちなくなり、みるみる頬を赤くした。
 並んで立つと、男の背の高さがはっきりと判る。氷室ほどではないが、180センチ近くはあるだろう。それで顔もよくて、職業は弁護士。なのに女性が苦手なんて……。
 野暮ったい眼鏡や髪型のセンスを見るに、少し、残念な人なのかもしれないが。
「昔から、どうも女性に積極的になれなくて……、失礼な言い方をして、すみません。実は、日高さんをうちの事務所で見た時」
 もしかして――
 ふっと成美は、わずかながら、紀里谷の本心が判ったような気がしていた。
「もしかして私に、自分と同じ匂いを感じたんですか」
「えっ、……どうして、それを」
 紀里谷が顔を赤くして絶句する。
 やっぱりな、と成美は思った。
 こんな人が、私を見染めるはずがない。どうせ合コンするなら、自分に見合った地味な女を――と、勝手に思い込んでいたに違いない。
 成美にも、その気持ちはなんとなく判る。いや、自分も同じだからこそ、判ってしまったのかもしれない。
 氷室と一緒にいる時の、なんともいえない幸福と、居心地の悪さ――そして不安。
 自分が、いつになっても彼に相応しくないという寂しさ……。
「紀里谷さんは、素敵ですよ。私なんかに言われても、なんの足しにもならないと思いますけど……」
 溜息をついて、成美は言った。
「私……ごめんなさい。今は、誰ともおつきあいする気はないんです。紀里谷さんは、席に戻るべきだと思います。倉田さんもそうですけど、多分皆さん、紀里谷さんに興味を持っていると思いますから」
「興味を持たれることには、慣れています」
 視線をさげ、少しはにかんだように、紀里谷は言った。
「それで、失望されるのにも……慣れているのかもしれないです。僕は、見かけとは違うんです。派手で、賑やかな女性は、苦手です。僕自身が、地味で、つまらない人間だから」
「そんなこと、ないですよ」
 もっと地味でつまらないはずの自分が、なんでこんな素敵な人を慰めないといけないんだろう――そんな不思議に駆られながら、成美は紀里谷の隣に立った。
「私は、少なくとも失望しなかったです。色んな人がいるから……、派手で賑やかな人が、紀里谷さんに失望するとは、限らないですよ」
「日高さんは、僕より年下なのに」
 紀里谷は、切れ長の目を細めて微笑した。
「随分、ものが判ったような言い方をなさるんですね。まるで、年上の女性とお話しているようです」
「そ、そんなこと、ないですよ」
「……僕らは、友人にはなれませんか? 本当は、ずっとそう言いたかったんです」
 友人……。
 いいのかな、と思ったし、本当に友達になれるのかしら――と、不安ではあったが、断る理由は何もなかった。
 成美が頷くと、紀里谷はようやく、安堵したような笑顔になる。
「あははっ、よかった。実はすごく緊張してたんです。昔っからそうですけど、こういう場合、僕は大抵ふられてしまうパターンが多いので」
「……そうなんですか?」
 いったいどんなハードルの高い女が、紀里谷みたいな素敵な人を振るんだろう。
 しかも、友達からって……いい年をして、こんな可愛いことを言う人を。
「私も、ちょっと本音で喋っていいですか」
 友達、となると、成美も肩の荷が降りていた。ようやく――少しだけ気楽な、楽しい気持ちになりかけている。
 見かけは手の届かないイケメンだけど、中身の地味さは自分と一緒。もしかして――私は今、すごく素敵な人と知り合えたのかもしれない。
「実は、紀里谷さんのお写真を拝見した時、以前、どこかで会ったような気がしたんです」
「……僕に、ですか」
 思わぬ言葉だったのか、紀里谷が戸惑ったように瞬きをする。
「ええ。もちろん私の勘違いなんですけど、――その理由、今日お会いして、ようやく思い出したんです。紀里谷さんは、少しだけ似てるんです。私の……多分、初恋だった人と」
「初恋ですか?」
 紀里谷はますます困惑気味に瞬きをする。成美はちょっと慌てて言い訳した。
「ええ、でも、多分ですから。その――他にどう言っていいか判らなくて。どちらかと言えば、恩人って言った方が適当なのかもしれないですけど」
 成美は、無意味に照れながら、紀里谷を見上げた。
「本当のことを言えば、相手の顔も名前もほとんど覚えていないんです。雰囲気は多分、紀里谷さんによく似てたと思うんですけど――もう、15年以上も前の話だから、相手、きっとおじさんになってますね。すみません、いきなりつまんない話をして」
「いえ、つまらなくはないですよ」
 紀里谷はにこっと微笑んだ。
「ぜひ、もっと聞かせてください。どういう出会いだったんですか」
 紀里谷の声は優しく、成美は自然に心の警戒が解けるのを感じていた。
「……駅員さん、なんです」
「駅員?」
「昔……すごく昔なんですけど、1人で電車に乗ったことがあったんです。……どういう経緯か忘れたんですけど、途中下車した駅で迷子になって、雪が降って……寒くて……」
(――君の手は暖かいね)
 凍えそうな私に、君の手は人を幸福にする手だと言ってくれた人。
「よく判らないけど、日高さんにとっては、素敵な思い出なんですね」
「……はい」
 今となっては、子供の頃の、おぼろな思い出――。
 不思議だな。昔はあれほど、あの駅員さんにもう一度会いたいと思っていたくせに、いつから思い出すこともなくなっていたんだろう。
「すみません。なんだか1人の世界に入っちゃって。記憶も曖昧だし、知らない人が聞いたら、すごくへんな話ですよね」
 成美がそう言うと、紀里谷は優しく笑んで、首を横に振った。
「そんな話を打ち明けてもらえて、むしろ、すごく嬉しいですよ」
「………え」
「僕の独りよがりかな。なんだか、本当に友達になれた気がしませんか?」
 にっこりと笑う紀里谷を見上げた成美は、初めて氷室に対する強い後ろめたさを覚えていた。
 この話は、氷室には、まだしていない。
 だって、彼相手に初恋の話なんて、口が裂けたってできやしない。一体、どこがあの人の地雷原か判らないから……。
「喉、かわきませんか? 僕、何か飲み物を取ってきますよ」
 ふと気付いたようにそう言った紀里谷が、室内の方に戻っていく。
 成美は1人で、星の瞬く秋空を見上げた。
 こんなことで。
 本当につきあってるって、言えるのかな、私と氷室さん……。
「……あの、紀里谷さん」
 戻ってきた紀里谷を、成美は少し真剣な目で見上げていた。にわかに高まった氷室への後ろめたさも相まって、ようやく本題を切り出すふんぎりがついたのかもしれない。
 結局は、氷室への言い訳を心のどこかで考えている。片思いみたいな両思い。でもそれは、きっと最初からそうで、これからもずっとそうに違いない。
 それでもいいと思ったから、きっと、今でも彼の恋人でいる。
「実は、教えていただきたいことがあるんです。ご存じだったら、で、構いません。私の上司、柏原のことなんですけど――」
 
 
             10
 
 
「氷室課長……?」
 唇に指をあてていた氷室は、何度目かの呼びかけでようやく顔をあげた。
「何か?」
 にこっと笑ったはずなのに、隣に座る新人職員――三ツ浦が、ひっというような奇妙な声をあげる。
「い、いえ。先ほどから全く飲んでおられないから。な、何か別のものを頼みましょうかッ」
「いえ、今夜はこのくらいにしておきますよ」
 微笑すると、ようやく三ツ浦の表情が安堵したように柔らかくなる。
 今夜は、道路管理課の恒例の課会だった。
 男所帯の管理課とあって、店は居酒屋チェーン店の飲み放題コース。
 六時から始まりの宴会は、すでにたけなわ状態である。阿古屋補佐を初めとする老人グループは老後の年金や人間ドックの結果のことで盛り上がり、沢村や宮田のような二十代、三十代初めの連中は、仕事の話や趣味の話で盛り上がっていた。
 男13人。空けたピッチは幾つになるか。無論、全員が結構できあがっている。
 煙草はもちろん吸い放題で、喫煙嗜好のない氷室には、若干不快な状況ではあった。
「さっきの電話、彼女からでしょ。さっきっても、一時間も前の話だけど」
 いきなり、膝でにじり寄って絡んできた男がいた。見るからに今夜は、相当よっぱらっている感がある――沢村である。
「氷室さん。ほんっとモテモテっすよねー。誰ですか。氷室さんの携帯の番号知ってる幸運な女の子は」 
「沢村さん!! 氷室さんにおかしな絡みかたはやめてくださいッ!」
 何故か氷室より先に、血相を変えた三ツ浦がくってかかる。
「うるせぇな。俺、氷室さんが好きなんだよ。課長、今夜は俺と、もう一軒行きましょうよ。ね」
「うわっ、沢村さんが、ひ、氷室課長を押し倒した!! だ、誰かっ、誰か―っっ」
「うるさいな、黙れよ、三ツ浦」
「沢村さん、酔っ払ってんだろ」
「氷室さん綺麗だから、女と間違ったんじゃねぇの?」
 狭い室内が爆笑に包まれている。
「日高さんでしょ?」
 ほぼ無抵抗の氷室の上に重なった沢村は、耳元でいたずらっぽく囁いた。
「怒ってただろ? こないだの昼、たまたま彼女と2人で屋上に行ったらさ……。氷室さんが悪いんだぜ。あんな目立つ人と、役所内で2人で会ったりするから」
「……知っていましたよ」
 氷室は、沢村の厚い肩を押すようにして、身体を起こした。
「構いませんよ。別に隠すつもりもありませんでしたからね」
「……へぇ」
 沢村は意外そうに、目をぱちぱちさせている。
「三ツ浦君、やっぱり何か頼んでいいかな。アルコールではない飲み物と、果物を見つくろっていただけるとありがたいのですが」
「は、はいっ」
 目を輝かせた三ツ浦が、メニュー表を持って退席する。氷室は沢村と肩を並べるようにして壁に背を預けた。
「んじゃ、あんた知ってたの。俺があの子連れてったの」
「いかにも、君がやりそうな企みですからね」
 沢村は、呆れたように肩をすくめた。
「そりゃ、よほど自信がおありのようで。俺が見たところ、彼女、相当ショックを受けてたみたいですけど?」
「……あの程度で」
 言い差した氷室は、軽く息を吐いて、顔をあげた。
「もう一軒行こうか。沢村」
 いきなり口調が変わったのに驚いたのか、沢村が困惑気味に顎を引く。
「え……、そ、そりゃ、いいっすけど、あんた、早く帰って誤解といた方が」
「……俺の方も、お前に話があるんだよ」
「………………」
「なんだ? そんなに驚かなくてもいいだろう? ここは職場とは違うんだ。仕事を離れれば、俺たちは対等の間柄だろ」
 一瞬、気を飲まれたように呆気にとられていた沢村は、しかし、すぐに自分を取り戻したようだった。
「……あんたの、ターンってわけですか」
「……どうかな。ささやかな情報提供だよ。――の件で」
 声を密めて囁くと、沢村の横顔がみるみる険しく強張った。
「ちょっ、それ」 
「単に君があまりにも気の毒だから、少しおせっかいをやいてあげたくなったのかもしれませんね。――ま、がっつかなくても、後でゆっくり話してあげますよ」
 氷室はにこっと笑うと、駆け戻ってきた三ツ浦から、冷茶のグラスを受け取った。
「ありがとう。三ツ浦君」
「い、いえ、僕は氷室課長のためなら――なんでもやりますっ」
「ふふっ、頼もしいですね」
 グラスを唇にあてる氷室を、三ツ浦は庇うように囲い込むと、きっとした目で沢村を睨みつけた。
 しばらくその有様を、何か恐ろしいものでも見るようにして見ていた沢村は、やがて独り言のように呟いた。
「……俺、やっぱり、日高さんの気持ちがわかんねー。なんだってあんたみたいな二枚舌の底の知れない男のことを……。気の毒に……」
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。