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「冗談でしょ? いまさら? そんなの許されるわけないじゃない!」
 翌週の月曜日――予想通り、倉田真帆は即効で怒りだした。
 昼休憩。今日は可南子が年休を取って休みだったから、成美は自席で簡単な食事をして、すぐに広報課に向かったのだ。
 氷室にああも反対された以上、どう考えても断った方が無難だし、断るなら、直接でないと失礼だと思ったからだ。
「ほんと、ごめんっ。あの日は別の予定が入っていて……執務室にもどってから気がついたんだけど」
 とにかく、平謝りだった。なにしろあれだけしつこく誘われたのだ。漠然と――断ったらまずいんだろうな、的な空気は察している。
 真帆のテリトリー。十階にある総務局広報室広報課。
 このフロアには、市長室、人事課、広報課、国際交流課などの花形エリート部局が勢ぞろいしていて、成美にしてみれば、足を踏み入れるのも気遅れを感じる場所であった。
「予定って?」
「課内で、……勉強会が」
 成美は適当なことを言った。真帆は不機嫌そうに自席に座ったままで、横柄に足を組んでいる。時折、広報課の職員数名が、2人のやりとりをチラ見しているようだ。 
「じゃ、成美にあわせるから」
「――は?」
 爪をいじりながら、真帆は言った。
「日にち、成美にあわせるから空いてる日、言って」
「え……」
 てか、そこまでしてくれなくても。
 口ごもる成美を見上げ、真帆は微かに息を吐いた。
「あのさ……。もう本当のこと言うけど、実は成美をご指名だったのよ」
 真帆は面白くなげに前髪を払った。
「写メ送ったでしょ。あの人がそもそも、うちの法規の女の子紹介して欲しいって。それでトントン拍子に決まった合コンなの」
 三拍の後、成美はようやく口を開いていた。
「――私??」
「時々、あの弁護士事務所に顔出してるんでしょ? 成美みたいな真面目そうで清楚? なタイプ? 好みだったんだって。信じられないけど」
 それでも信じられず、成美はぱちぱちと瞬きをしている。
「柏原補佐と間違えてるんじゃ……」
「は?」
 初めて真帆は、あんた馬鹿じゃない、とでも言わんばかりの眼で、まじまじと成美を見つめた。
「どこをどう勘違いしたら、あの柏原さんと成美を間違えるわけ」
「そ、そうよね」
 え、なになに? じゃあ、もしかして第一印象では相思相愛同士だったんですか。いやいや、そんなことで微妙に浮かれてる場合じゃなくて。
 だとしたら、なおのことまずい。そんなパックグランドを聞いてしまった以上、胸を張って氷室に「潔白です!」とは言い難くなるではないか。
「ごめん、倉田さん、実は私」
 つきあってる人が――かなり嫉妬深い、もとい疑り深くて――しかもその人、デビルマンなみの聴力と勘の鋭さを持ってるのよ!
 その時、成美の背後に、2人の女子職員が歩み寄ってきた。
「日高さん、お願いねっ」
「こんな美味しい合コン、二度とないから、ものすごく感謝してるの」
「今さら行かないなんて言わないで。お願いっ」
 広報課の、倉田真帆の先輩にあたる女子職員である。市の花形部局に抜擢されただけあって、女子アナ風のしっかり系美人。絶対私なんかより、あなたたちの方が魅力的だと思うんですけど――。
 結局、断りの言葉を口にできないまま、成美は広報課を後にした。
 ど、どうしよう。断れない――。
 こうなったら、相手には申し訳ないけど掟破りの当日キャンセルしか。
 倉田真帆が絡んでいる以上、氷室の眼を盗んでとか、絶対に無理だ。はっきりつきあっていると言えさえすればいいんだけど――それも、無理。
 待てよ。誰か役所外に彼氏がいることにしてみれば……。
 そうか、その手があった。が、元来嘘がつけない成美は、その手の誤魔化しを上手くやり通せる自信すらない。絶対、どこかでばれて痛い目にあうような気がしてしまうのだ……。
 
 

 
 昼休憩はエレベーターが込み合うので、非常階段で階下に降りようとした時だった。踊り場から階段に出た途端に、下から上がってきた人と目があった。
 ――沢村さん……。
 成美は、見てはならないものを見たような気持ちで、さっと視線を下げていた。
 むっつりとうつむき加減に階段を上がってきた沢村は、眼光はいつにも増して刺々しく、いかにも不機嫌そうだったからだ。
 なんとなく……その不機嫌の理由が窺い知れるだけに、下手に絡まれたくない成美である。
「おい」
 が、こそこそと傍らをすり抜けようとした途端、低い掠れ声が成美を呼んだ。
「あ、こんにちはー」
 成美は笑顔でやりすごそうと思ったが、無駄だった。
 沢村はにやにや笑っている。絶対に何か、よからぬことでも言いそうな目だ。
「飯の帰り?」
「え、まぁ、……そんなところです」
「んじゃ、ちょっとつきあえよ。屋上」
 えっ、なんで――?
「いい情報、教えてやるよ。うちのアイスマン関連」
「な、なんですか。それ」
 後ずさって逃げようとした成美を壁に追い詰め、沢村は片腕で囲い込むようにした。
「あんたさ、俺には逆らえないだろ」
「は、はぁ?」
 さ、逆らえますよ。何言ってんですか。
 もごもごと反論する成美の視界――沢村の肩越しに、なにやってんだこの人たち役所の中で、と言わんばかりの眼をして通り過ぎていく庁内の通行人。
 成美は赤くなったり青くなったりしながら、沢村を睨みつける。
 が、沢村は相変わらず、冷めきった皮肉な笑みを浮かべていた。
「氷室さん、先月、あんだけ庁内に敵作っちゃったからさ。今だけは日高さんの存在を隠し抜きたいところだろうな」
「な……何が言いたいんですか」
「な? 俺には逆らえないだろ? あ、そうだ。なんだったら俺が、カムフラで彼氏になってやろうか」
「――え……?」
「安心だろ。その方が。氷室さんを蹴落とそうとしてる連中が、これからはお前にちょっかい出してくることだって考えられるしさ」
 沢村さんが……。
 そ、そっか。こんな強面の彼がいたら、誰も近寄らないのはおろか、倉田さんだって納得してくれるに違いない。
 が、そんな風に思ったのは一瞬で、すぐに成美は氷室の冷え切った笑顔を思い出した。唇だけ笑んで、目が完全に静止している笑い方――。ひやっと背中に、氷の塊を滑らされた気分になる。
「じょっ、冗談じゃないですよ。絶対にお断りです!」
 成美は毅然と言って、沢村の腕を押し退けて歩き出そうとした。背後から腕をぐいっと掴まれる。
「! 何すんですか」
「ちぇっ、そこまで馬鹿じゃなかったか」
「当たり前ですよ。――てか、沢村さんは氷室さんが怖くないんですか」
「あん?」
「わ、私は怖いんです。あの人本気で怒らせたら――」
「はぁ? お前ら、どういう付き合い方してんだよ」
 どきん、と成美はわずかな胸の痛みを感じていた。
 なんの気のない軽口なのに、何故だか、ひどく痛いところを突かれたような気持ちになる。
「ちょ――っ、離してくださいよ」
 ひきずられるように階段を上がりながら、成美は控え目に抵抗した。騒ぎたてなかったのは周囲の目が気になったからだ。通常使わない非常階段とはいえ、決して2人きりではない。
 しかし沢村は、周囲の目など、まるで意に介していないようだった。
「ふふ……怖さ余って憎さ百倍……。男の闘争本能ってやつ?」
「な、何言ってんですか。全然、意味不明なんですけど」
「俺も俺で、ある意味氷室さんに惚れてるのさ」
 なんだ、そりゃ……。
 あなたの好きな人は、柏原補佐でしょ、とずばっと言ってやりたいところだが、もちろん、そんな反撃ができるはずもない。それが、沢村という男の地雷だというのは、鈍い成美にだって判るからだ。
 絶対に、踏みたくない。
 結局、成美は屋上まで連れて行かれた。秋も後半、寒さの際立つ時節ともあって、屋上の人影はまばらである。はっきり言えば、もっぱら喫煙者のみだろう。
 ようやく腕を振りほどいた成美は、警戒しながら沢村を見上げた。
「一体、なんの話なんですか」
「だーから、氷室さんの話だよ」
「私は、別に」
「しっ」
 不意に肩を掴まれて引き寄せられる。成美はぎょっとしたが、結局沢村の意のままに、昇降口のある建物の影に引きずり込まれていた。
 なにするんですか――と、抗議の声をあげる直前だった。
「じゃ、今日はこれで。気をつけて帰ってください」
 氷室さんの……声?
「今日は、本当にすみません。……役所にまで来てしまって、ご迷惑だったんじゃないですか」
 柔らかな関西訛りが混じっている。少し掠れて艶めいた女性の声。
 どきり、と、成美の胸のどこかが嫌な音を立てた。
 まさか――。
「いいえ。全然」
 氷室の声。
 にこやかに笑む、彼の表情まで目に浮かぶようだった。
「お話がきけてよかったです。こんな時間でなければ、送ってさしあげたいのですが」
 呆然とする成美の前に、ようやく全景が現れた。
 予想通り、男は氷室。その隣に、少し距離を置いて、長身の女性が立っている。
 お、おっきい……。
 と、思ったのが、成美が最初に抱いた感想だった。ヒールのせいもあるだろうが、氷室と目線がさほど変わらない。多分、柏原補佐より上背がある。まるでモデルみたいな凹凸のあるスレンダーな体型。髪はさらさらのストレートで、肩甲骨のあたりまで伸びている。
 厚手のジャケットの下は黒っぽいワンピース。長くて細い膝から下。造り物みたいな繊細な足首。
 声を聞いた時もまさかと思った。が、今成美は、半ばそれを確信している。
 この人が――多分、あなたのミナだ。
 掠れたハスキーな艶っぽい声。関西なまりの言葉づかい。そうだ、何もかもが、あの夜現れた黒服の女と同じだ。
「とんでもありません。あの……できたらでいいんですけど、またお店の方にも来ていただけます?」
「もちろん。ただ、一介の公務員には、なかなか敷居の高い店ですが」
「氷室さんなら、料金はいりません。あの、これ、セールストークじゃありませんから」
「判っていますよ」
 氷室と女。2人の微笑が空で交差し、それが優しさの余韻をもって逸らされた。
 沢村は壁に背を預け、のんびりと煙草を唇に挟みこんでいる。
 空は秋晴れ。涼しい風。ゆっくりと雲が流れていく。なのに、成美の周囲だけ時は止まり、やがて、声も足音も聞こえなくなった。
「……すっげ、美人だろ」
 沢村の声で我に返る。
「例の月華ちゃん。最近この街に来た子らしいけど、あっと言う間に高級クラブのナンバー1。市のおえらいさんが軒並み気にいってるって噂だから、氷室さんにとってはいい人脈になると思うけどさ」
「……わざわざ、私に見せるために」
 動揺と、それに続く怒りを押さえながら、成美は言った。
「私をここに連れてきたんですか。沢村さん、相当性格悪いですね」
「あんたの彼氏には負けると思うよ?」
 沢村は、おかしそうに片眉をあげた。
「俺にしたって、まさか、噂の彼女が堂々と役所に訪ねてくるとは思わなかったよ。水商売の子は積極的だね。横からかっさらわれないように、あんたもせいぜい頑張りな」

 


 間違いなく掴んだ――いや、掴まされた浮気の証。
 今度という今度は、氷室にさしたる理由はないだろう。もちろん、浮気でもなんでもなくて、単によく行く店のホステスと客として会っていたのかもしれないが――。
 いや、そんなことより。
 間違いない、あの人がミナさんだ。
 あの声――スタイル――細工物みたいにほっそりとした足首。なにより、あんな美人は滅多にいないから、ほぼ同一人物とみていいだろう。
 ――どういうこと……?
 もしかして、私と氷室さんのことを最初から知っていて……、それで、別れさせようとしているとか?
 2人は、そもそも知り合いなの? それとも、灰谷市で知り合ったの? ミナっていうのは、あの人の本名……?
 考えても、答えはちっとも見えてこない。
 ただ、確かなことが二つあった。
 ひとつは、その人が氷室に接近しているということ。
 そして、同時に、成美にも影で接触をはかっているということだ。
 それだけで、とんでもない強敵が現れたことが判る。
 ライバルであることはもちろん、ある意味危険なまでに積極的な女。目的のためなら、汚い手を使うことなど全く厭わないほどの――。
 それらの理由以上に、あまりに美しい女の容貌に、成美は、波立つような胸の動揺を抑えることができなかった。
 あんなに綺麗な人だとは思わなかった。
 そして、あれだけ綺麗な人の隣に立っているのに、全く遜色がないどころか、恐ろしいほど似合っていた氷室さん。
 そう、最初から判っていたことだった。彼には、あれくらいグレードの高い女性の方がお似合いだ。私は、……最初から、彼には分不相応だったのだ。
「じゃ、僕はこれで失礼します」
 聞き慣れない男の声が聞こえたのは、ぼんやりと歩いていた成美が、執務室に入ろうとする直前だった。
 男にしてはややトーンが高い。そして、声優のように聞き触りのいい声だ。
「わざわざ、こんなところにまでお出でいただきまして」
 続く柏原補佐の声――。エレベーターホールと執務室の間を仕切る、観音扉を開けようとしていた成美は、その声で足を止めていた。
 ――補佐……?
 何気に振り返った成美は、非常階段に続く踊り場に、長身の2人の影が立っているのに気がついた。
「でも、こういう真似を職場でされるのは、どうも」
 白い薔薇が、まず飛び込んできた。結構な大きさの花束だ。全部白薔薇で――本数にすれば、30本近くはあるだろうか。
 その花束を胸に抱いているのは、信じられないことに柏原補佐である。気のせいだろうか、薔薇の白さに比較してだろうか、彼女の白い頬が、薄く染まっているように思えるのは。――
「すみません。お話を受けていただけたのが嬉しくて、つい」
 男の声に、若干の照れが窺える。補佐の方に向いているので、成美の位置からは背中しか見えない。背が高い――そして、仕立てのいいスーツ。トップをたてた流行の髪型。後ろ姿だけだが、美貌の補佐と並んでいても遜色のないように見える。
「いえ、お気持ちは、とても嬉しかったです」
「そうですか? そう言っていただけると僕も嬉しいです」
 ええ――? と、成美は、にわかに胸の高鳴りを覚えている。
 屋上で氷室さんの密会現場を見て、次は柏原補佐だなんて――同じ霞ヶ関出身の2人は、こうまで波長があうものだろうか。
 とはいえ、意外さにおいては、柏原補佐の方が遥かに上、だ。
 まさか、あの冷静沈着な堅物補佐が、役所で男の人と、密会なんて……。
「じゃあ、日曜日に」
「はい。私も楽しみにしています」
 にこっと笑った(幻だと成美は思った)補佐が、小さく頭をさげ、それで話は終わりのようだった。
 男の方がこちらに向きなおったので、成美は慌てて観音扉を開いて執務室に滑り込んでいる。
 いったん止まった心臓が、再びドキドキ音をたてはじめた。
 ――補佐の、恋人……。
 花束を持って職場に来るなんて、ちょっと常識外れ、という気もしないではないが、それはそれで、男の純粋さの表れかもしれない。
 だいたい補佐にしても、少しばかり女性として浮世離れしたところがあるから、そういう意味ではお似合いなのかもしれないし――。
「日高」
 自席に戻ると、おそろしく冷え切った声が、成美を出迎えてくれた。
 自席のノートパソコンを叩きながら、顔をあげもしない雪村主査である。
「お前、呑気にメシ食ってる場合なのか。朝用意しろっつった資料、どうなってる」
 ゆ、雪村さん。
 目が――目に、青白いものが揺れているんですけど!
「そ、それなら、すぐに。……あの、でも別に急ぎじゃないって、雪村主査が仰ったから」
「一分、二分で揃えなくてもいいって意味だよ。それくらい判れよ。いちいち俺に説明させんな」
「は、はいっ」
 ひっと背筋を伸ばしながら、成美は慌てて自席に駆け戻った。
 雪村主査――。正直言うと、その口の悪さに、最初は泣いた。
 普段がいつもそうではなく、切羽詰まっている時や相当苛立っている時だけに、そんな非道なセリフを吐くのだが、いつ聞いても慣れるものではない。
「うわぁ……だね」
 席につくと、隣席の篠田がそっと囁いてくれた。
 その時には、柏原補佐がもう執務室に戻ってきて、手持ちの花束を、庶務係の女性職員、佐東由美に手渡している。
 補佐は相変わらず平然としているが、庶務の佐東がとんでもなく泡を食っているし、補佐のライバル(ただし一方的な)、近宗主幹はきりきり歯を食いしばっているし――その一種異様な雰囲気で、成美にも察しがついた。
 白薔薇を抱えてやってきた伊達男は、すでに皆に目撃されていたのである。
「雪村さん、時々劇的に人柄が変わるからね」
 そう言った篠田がほっと息をついた時、昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「原因は日高さんじゃないし、 直に嵐も収まるから。少しだけ、辛抱するんだよ」
「はい」
 篠田の人当たりのよさはいつものことだが、その日の成美には、少しだけ違う意味を持って感じられた。
「え、なに? 僕の顔になんかついてる?」
「いえ、……なんにも」
 今、考えていることがなんだか篠田に申し訳なくて、成美は慌てて首を横に振った。
 なんにもない、――というのが、実は篠田の特徴である。
 はれぼったい瞼に、ちょっとぼんやりした表情。ガチャピンというあだ名をつけたのはダブルオーらしいが、その呼び名がまさにぴったりのキャラクターだ。
 誰にも、自分に相応しい相手がいるなら――。
 篠田さんこそ、私に相応しい相手、なのかな?
 成美は、失礼だとは思いつつ、ついそんなことを考えてしまっていたのだ。
 少なくとも、氷室よりは一緒にいて自然なような気もする。もちろん、私なんて、篠田さんから見ても女として論外なんだろうけども。――
「日高、頼んだものはお前の机のどこかにあるのか?」
 その時、雪村の冷え切った声がした。
 ひっと成美は、硬直したまま立ち上がる。
「しょ、書庫に行ってきます!」
 まさに、とんだとばっちりだ。
 それでも、この騒ぎで、少しでも氷室のことを忘れていられるのは嬉しかった。

 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。