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「柏原さんに、恋人」
 それには氷室も意外だったのか、声にはわずかな驚きが含まれていた。
 が、彼はすぐに興味をなくしたように、視線と意識をフロントガラス越しの道路に戻す。
「なるほど」
「なるほどって、それだけですか」
 助手席の成美は、その反応に少しばかり焦れて運転席の氷室を見上げた。
 翌日――金曜日の夜。
 珍しく飲みがなかったらしい氷室が、家まで送ってくれるというので、残業を終えた成美は、役所から少し離れた場所で彼と落ち合うことにした。
 彼は、時間より少し遅れてきたが、既にスーツを脱いで普段着に着替えている。体のラインに沿った黒っぽいVネックニットにジーンズ姿の氷室は、役所で見せる姿より何倍もセクシーで――危険に見えた。
 成美の抗議に、氷室は片眉だけを上げる。
「それだけといわれても、他になんと言っていいのか」
 まぁ、確かにそのとおりである。
 傍から見れば親しい仲のように見えるが、氷室と柏原の間に、プライベートな情報交換はほとんどない、といってよかった。
 たとえば氷室は、柏原がどこに住んでいるかも知らないし、信じられないことに携帯番号もアドレスも知らないという。
「だって、あの柏原補佐に、恋人、ですよ。気にならないほうがどうかしてますよ」
 が、なおも成美が言い募ると、氷室は呆れたように嘆息した。
「僕に言わせれば、他人の私生活を気にするほうが、よほどどうかしていますけどね」
「…………」
 多分、なんの気なしに言った言葉だろうが――成美は少しだけ傷ついていた。
「そうですね。……じゃあ、もう、気にしないようにします」
「それが賢明だと思いますよ」
 ――なにも、そんな突き放したような言い方しなくてもな。
 成美は、少しばかりの不満を抱いて、視線を窓の外に移した。
 氷室との年の差を感じるのは、こういう時だ。
 成美の関心事と、氷室の関心事は、多分すごく遠い場所にあって、互いにリンクしていない。というより、氷室は自分が何に関心をもっているかさえ、なかなか明かしてはくれないのだ。
 成美が知っているのは、活字フェチで、性格に表裏があって――思いのほか嫉妬深くて執念深い。それくらいだ。
 彼の生まれ、家族、――結婚していた人のこと、夢や信条などは、なにひとつ、知らない。
 それ以上に――氷室もまた、成美のことを何も知らない。
 多分……、あまり考えないようにしているけれど、知ろうともしてくれない。
「もう遅いですが、どこかで食事でもして帰りますか」
 氷室がそう言ったので、はっと我にかえった成美は慌てて首を横に振っていた。
「あ、今夜は食事はいいです。あの――夕方に食べちゃったので」
「そうですか?」
 嘘だった。
 最近スカートがきついな、と思い始めたのは、先月の半ば頃である。学生時代から、成美の体型はほぼ変わらない。ちょっとした体重の増減だろうとたかをくくっていたら、崩壊の時は、実にあっさりとやってきた。
 あなたのミナ――。そう、あの夜だ。いきなり突きつけられた過去の女の挑戦状に、半ば呆然としながら部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした刹那、ぶちっと音がして、スカートのホックが弾け飛んだのだ。
 いつのまにか指でつまめるようになっていた腰の贅肉に、成美は真っ青になっていた。
 私――こんなみっともない身体で、今まで氷室さんと――。
 太ってしまった原因もまた、間違いなく氷室である。
 氷室が好む店は、大抵、結構なフルコースを出すグレードの高い店で、しかも彼の仕事が終わってから食事というパターンが多いため、深夜近くに高カロリーの食事をとることもしばしばだった。当の氷室は、贅肉とは一切縁のない、引き締まった綺麗な身体を維持しているというのに……。
 三キロ減。
 それが、成美の当面の目標であり、実のところ、平日彼の誘いを断っている理由は、それが一番大きかった。
「いつも奢ってもらうのも申し訳ないし、これからは、極力夜の食事は、役所の食堂で済ませようと思っているんです」
「へぇ……」
「あ、でも、もし氷室さんがまだなら、おつきあいしますけど」
「いえ――僕も済ませてきましたから」
 なんとなく会話が途切れ、成美は所在なく外を見た。
 たとえば、ですけど――。
 そのあたりのうどん屋さんで、軽いおうどんくらいなら食べたいんですけど。
 お休みの日だって、いつもフレンチとかお洒落なレストランじゃなくて、たまには牛丼とか簡単なファーストフードとか。……そういうの、もちろん氷室さんのイメージとはかけ離れているって、それは判ってるんですけど。
「あ、そうだ。氷室さん」
 ふと、思い出して成美は言った。
「キーホルダーとか、使われます? この前ふらっと寄ったお店で、すごく可愛いの、見つけたんですよ」
「申し訳ないですが、僕は私物に余計なものを身につけない主義なので」
 苦笑しながら、氷室は言った。
「だいたい、僕の年で可愛いものは似合わないでしょう。日高さんが使われるといいですよ」
 ま……そうですよね。
 なんとなく答えは予想していたものの、それでも成美は少しばかり気持ちが萎れるのを感じていた。
 そりゃ、無理に使ってほしいとは思わなかったけど、少しくらいは興味を持ってくれてもいいんじゃない?
 それ、氷室さんのイメージにぴったりの、すごく可愛いキーホルダーだったんですよ。
「そういえば」
 成美が黙っていると、不意にいたずらめいた声で氷室が言った。
「まだ一度も、日高さんの部屋にあがったことがなかったですね。このまま、お邪魔してもいいですか」
「えっ、いえいえいえいえ。前言ったじゃないですかっ。それは、もっと――後っていうか、私がもっといい場所に引っ越してからだって!」
 成美は大慌てで両手を振った。
 なにしろ学生時代から1人で住んでいる1DKの部屋である。昨年外壁改修をしたから、外見はなんだかよさそうな自称マンションだが、内装はぼろぼろ。
 よくあんな部屋に、以前氷室をあげようと思ったものだと、今さらながら成美は頬が熱くなる思いだった。
「いい場所、ね」
 氷室は少しばかり、呆れたように肩をすくめる。
「薄給の身で、それはいつになるのかな」
「だから今、お金を貯めているんですよ」
 ちょっとムキになって、成美は言った。
「今の部屋は、防音のぼの字もないから、隣の部屋のテレビの音とか、シャワーの音まで筒抜けなんです。同じ大学だった子もまだ近所に住んでたりしますし――なんていうか」
「声が漏れたら、まずい?」
「違いますっ。う、噂になりたくないんです」
 全く――。成美は顔を熱くして氷室を見上げたが、彼の横顔は思いのほか冷めたままだった。
「まぁ、いいですよ。君がそう思うなら」
「…………」
 あれ。
 今、私、なんかまずいこと言ったかな。
 そんなつもりはないけど、――ないよね? だったら、私が今した話題が、彼の興味を引かなかったということ?
「じゃあ、今夜は送るだけにしておきましょうか。僕も明日、仕事があるので」
 が、口を開いた氷室の声は優しく、成美は少しだけほっとしていた。
「そうなんですか。じゃあ、明日はお会いできないですね」
「鹿児島に出張なので、帰ってくるのは日曜の夕方くらいかな」
「えっ……。休日に出張って、ありですか」
「鹿児島市の道路イベントの視察なんですよ。本来局長が総務課長と行かれる予定だったのですが、急きょ、僕が代理を仰せつかりまして」
「そうなんですか……」
 じゃあ、今週は全く、会えないってことなのか。……
 あ、だめだめ。またじめっとモードになっている。ここは大人になって、さらっと彼を見送らないと。
「じゃ、私も1人の時間を満喫します。なんだか週末がフリーなのって、久しぶりな気がするから」
 その時、成美の膝の上のバックが震えた。
「あっ、ちょっといいですか、電話みたい……」
「どうぞ」
 慌ててバックから取り出してみると、着信は倉田真帆だった。
 しまった、忘れてた!
 例の合コン――柏原補佐の騒動で、すっかり頭から吹っ飛んでた。
 しかし、なんて嫌なタイミングで掛ってくるんだろう――。何も、氷室がいる時に掛ってこなくても。
「成美? 合コンの日時だけどね、来週の水曜日の午後六時半始まりで場所は」
 いきなり用件から切り出した真帆を、成美は慌てて遮った。
「あの……、ごめん。その話なんだけど、……実は」
「なに? 言っとくけどいまさらキャンセルは絶対駄目。向こうに全員の顔写真送ってるし、メンバーの変更は厳禁ってことで、相手と約束してるから」
「はっ、はい?」
 なに? そんなに縛り合う合コンってあり?
 さすがは弁護士相手――もしかして、契約書でも交わしているんじゃないだろうか。
 成美は氷室を、おそるおそる見上げた。
 運転に集中しているのか、氷室は気にもとめていないようだ。
「でも……その、なんていうか、やっぱり私、そういうの苦手で」
「大丈夫だよ。写真、見たでしょ? 彼が向こうの幹事なんだけど、彼も成美のこと可愛いって言ってたよ。ていうか、松下弁護士事務所で何度か見かけたことがあるんだって」
「え、本当に?」
 不謹慎だが、そこで少しだけ成美はときめいていた。
「絶対オッケー。成美はさー、私から見ても引っ込み事案で、扉締めすぎなんだからさ。そういうの一度はぱーっと解放して、新しい風取りこまなきゃ」
「…………」
 新しい、風……。
「その年で、もう引きこもりパバアになるつもり? もしかして彼氏がいるのかもしれないけど、それが何よ。私だってキープの1人や2人はいるし、他の子だって彼氏持ちだよ?」
「そう、なの?」
「狭い世界に閉じこもってちゃだめ。これ、マジで忠告するけど、小さな世界で同じ人とばかりつきあってたら、人間、成長が止まるんだから」
「…………」
「じゃ、そういうことだから、水曜、送れないでね。現地集合」
「あっ」
 ぼんやりしている間に電話が切れる。
 し、しまった――。
 また断りそびれてしまった。どうも、倉田真帆のペースにのせられると、成美は上手く抗弁できない。
「す、すみません。長くなっちゃって」
「いいえ」
「えと……なんの話でしたっけ」
「もう、着いたようですよ」
 微笑した氷室が成美を見下ろした時、車はすでに成美のマンションの前に停められていた。
「じゃあ、今夜はここで」
「あ、はい。ありがとうございました」
 もう……?
 そんな寂しさが胸の中で膨らんだが、顔に出さないようにして、成美は笑顔で頭を下げた。
 去っていく車を見送りながら、また別の寂しさが胸をよぎる。
 私には分不相応な恋人。年齢も立場も何もかも。
 そう、丁度この辺りで見かけたのだ。さらさらの長い髪。造り物みたいな細い足首。――ミナ。氷室さんの、昔の恋人……。
「ダイエット、がんばらなきゃな」
 ふっと溜息をついて、天を見上げる。
 恋って、本当に果てしないなぁ。
 片思いが両思いになって、それでも一向に安心できない恋模様。
 私みたいななんの取りえもない女が、彼に相応しい人になれるのは――一体、いつのことだろうか。
 
 

 
 どうやら、間違いなく避けられている――。
 1人になった氷室は、携帯のマナーモードを解除しながら、少しだけ眉を寄せた。
(デートは、お休みの時だけにしませんか。その……平日は仕事に差し触りがありますし、毎日お邪魔するのも、どうかと思いますし)
(ごめんなさいっ。今夜は――その、体調が悪くて、そういうのはナシにしてもらえれば助かりますっ)
 原因はなんだろう。最近は無茶な要求もしていないし、先月ひどい目にあわせたばかりだから、相当優しくしているつもりである。
 会えないと言われれば素直に引き下がり、今みたいに見え見えの言い訳で断られても、特にこだわらずにスルーしているし……。
(じょっ、冗談じゃないですよ。それだけは絶対に嫌です。そんなことしたら、私、氷室さんの人格マジで疑いますから!)
「………………」
 もしかして、あれが原因か?
 先月の半ば、ベッド上で起きたささやかな諍い。いや、まさかな。俺も半ば冗談だったし、結局は途中で断念したし。
 いずれにしても、今度ばかりは、彼女の真意が計りしれない。
 今夜は、そのあたりを少し訊いてみるつもりだったのだが、なんとはなしに会話の波長が合わないまま、――そのずれを埋める気にもなれないまま、氷室は帰途についていた。
(成美、合コンの日時だけどね)
 静かすぎる車内と、やたら甲高い女の声。
 携帯から洩れた声の殆どが耳に入ってきたと言ったら、あの子は嫌な気になるだろうか。
 別に、盗み聞くつもりもなかったが、少しばかり、俺は耳がいいのかもしれない。
 ――合コンね。……そういえば、そんな話をされたような気がするな。
 その話を、日高成美から聞かされた時の――なんとも言えない不快な感情を思い出し、氷室はわずかに眉を寄せていた。
 ああいうことを、普通、つきあっている相手に直接伺いに来るものなのか。
 氷室の感覚では絶対にあり得ないし(当然、秘密にするべきだと思っている)、そのあたり、最近の若い女性の感覚というのは、理解しがたいものがある。
 今だってそうだ。大切な相手と会っている時、もし携帯に電話がかかってきたら、よほどの緊急事でない限り、氷室なら必ず断って掛け直す。
 が、日高成美に関わらず、最近の若い――若くない者も含めてだが、大抵の人は、割と平気で長話をしたりする。その感覚もまた、氷室には今一つ理解し難い。
(狭い世界に閉じこもってちゃだめ。これ、マジで忠告するけど、小さな世界で同じ人ばかりとつきあってたら、人間、成長が止まるんだから)
「…………」
 倉田真帆か。
 ただの馬鹿だと思っていたら、思いの外、まともなセリフを吐いたものだ。
(彼が向こうの幹事なんだけど、彼も成美のこと可愛いって言ってたよ。ていうか、松下弁護士事務所で何度か見かけたことがあるんだって)
(え、本当に?)
 嬉しそうな顔だったな。
 俺が何度可愛いと言っても、あんな顔を見せたことはないくせに――
「…………」
 判っている。
 女とはそういうものだ。
 1人では足りない。満足できない。
 女とは根源的に――生きているだけで、幾人もの賛辞と賞賛を、果てしなく欲っする生き物なのだ。容姿でも、仕事でも、ライフスタイルでも。
 ――でも俺は……。
 自分の女に、そういう生き方は認めたくない。
(私……仕事、もっともっと頑張りたいんです。わ、笑わないでください。柏原補佐みたいになるのが……理想ですっ)
 そして彼女は、俺が閉じ込めてしまうには、まだまだ若くて幼すぎる――。
 ホルダーの携帯が着信を告げたのはその時だった。氷室は、イヤホンを取り上げ、耳にあてた。
「はい、氷室です」
「あの……氷室さん。……私です。月華」
 声にまじる優しい関西訛り。氷室はわずかに眉をあげた。
 なんだ? 今さら。
 もう水森博の一件は、片がついたはずだったが。
 月華――ナイトクラブ「シンクロナイト」のナンバー1ホステス。あの店が観光局長の行きつけで、局長が月華の上得意客であることは承知している。
「おひさしぶりですね。すっかりご無沙汰してしまって」
「あの、今から会えないですか」
 挨拶の半ばで、女はいきなり本題を切り出してきた。
「今夜、店はお休みなんです。少し……あの、ご相談したいことがあって、以前、お電話した件ですけど」
「…………」
 休み?
「金曜日の夜に休みなんて、随分と呑気な客商売なんですね」
 窮したように女が黙る。氷室は微かに息を吐いた。
「申し訳ありませんが、今夜は人と会う約束があるんですよ。また、店の方に顔を出しますので、話ならその時にお聞きしましょう」
「あのっ……、私、言いましたよね。あなたとは、どこかで会ったことがあるって」
「…………」
「それ、勘違いでもセールストークでもなんでもないんです。私、最初から氷室さんのこと知ってました。あなたが、初めて店に来た時から」
「…………」
「奥さま、……お亡くなりになったんですね。ご愁傷様です。本当はとても動揺しました。……氷室さんが、すごく……あの人のことを好きだったの、知ってましたから」
「………………」
 誰だ?
 氷室の中に、初めて疑念が渦を巻く。
 確かに、どこかで見たような印象はあった。いや顔はともかく声にはっきりとした覚えがあったのは間違いない。
(あの人のことを好きだったの、知ってましたから)
 こんな言い方をする以上、――役所に入る以前の氷室を知っているとしかいいようがない。
 一体、この女は、何者だ……?
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。