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 <事務連絡>
 なる件名のメールが、成美の個人アドレスに届いているのに気づいたのは、氷室と別れて執務室に戻った直後だった。
 午後5時45分。法規係は、まだ全員が残っている。
「だから、そういうことまでうちに相談されても困るんですよ。誓約書の書き方なんて、本でも買って調べてみたらいかがですか」
 執務室に響く、険を帯びた刺々しい声――ここまで傲慢非道な対応ができるのは、法規係の中でもただ独り。修羅雪姫こと、雪村主査だけである。
 自席で受話器を耳にあてている雪村を、成美は横目でちらっと見上げた。
「あのねぇ」
 その雪村が、ふっと冷淡に鼻で笑う気配がした。
「うちは、困り事相談センターですか。僕はコールセンターのお兄さんですか。そう、なんでもかんでも些細なことで、いちいち電話なんかかけてこないでくださいよ」
 うわっと成美は思っている。言うなぁ、雪村さん。誰もが思っても口に出せない法規担当の本音をズバリと。
 契約書の文言の是非から、主管課でしか判らないはずの条例制定のバックグランドまで、とにかくなんでもかんでも教えてコールがかかってくる。絶対に法律の解釈とは関係のないことまで――それならまだしも、本来なら主管課で判断すべき事例まで、いちいちお伺いをたててくる。それは、おそらく新人の成美でなくとも溜まらない。
 当然のことながら、法規担当者が市役所の仕事全てを頭に入れているわけではないし、その必要だってないのである。
「すみません。今まで相手が人間だと思って喋ってましたけど、実は違ったんですね? 人間以下の生物に、人の言葉は全く理解できないでしょう。え、僕ですか? 法規係の雪村です。どうぞ、課長でもなんでもお連れください。構いませんよ。こちらは一向に」
 成美は気にせずに、眼前のパソコンに向きなおった。最初は恐ろしかった雪村の残忍な対応も、今は普通に聞き流せるパックミュージックだ。
 <事務連絡>の差出人は倉田真帆。
 <事務連絡>とは、役所内のネットを利用して、個人的な用事を伝える時によく使う件名である。
 件名がいかにも私用だったら、情報システム課のチェックが入るから――というまことしやかな伝説のためだろうが、実際、職員1人1人の私用アドレスにまでチェックが入るものなのかどうか、成美は知らない。
 ――倉田さんからかぁ……。
 気持ちが、少しだけ重くなった。
 用件は判っている。昼間誘われた合コンの詳細に違いない。
 真帆には悪いが、どうせ断らなくてはいけない。どうせだったら、このメールに返信して断ろうか……。
 メールには、添付ファイルがついている。成美はひとつ溜息をついて、まずメールを開いてみた。
 
 合コン相手の写真ゲット(゚∇^*) テヘ♪
 松下弁護士事務所の紀里谷理人(きりや りひと)くん
 イケメンだお(*ノノ)キャッ(*ノ▽ノ)キャッ(*ノ▽゚)ゝチラッ(*ノ▽ノ)キャッ(*ノノ)キャッ
 
「………………」
 いや……。
 これ、万が一システム課のチェックが入ったら、即懲戒もののメールなんじゃないだろうか。
 さすがは市のサラブレッド、倉田真帆。
 私なら何をしても許される感が、この馬鹿……あけすけな文面から漂っている。
 軽い頭痛を感じながら、成美は添付ファイルを開いた。
 「……あ」
 とくん、と胸のどこかが小さく鳴った。
 あれ……この人……もしかして、知り合い?
 写真の青年は、確かに倉田真帆の形容どおり、イケメンと言っていい程度には、端正な顔をしていた。
 ただ、成美の場合、何を基準にするかで男性のハードルはかなり……一般より上がりがちで(当然、氷室が標準となる)、……成美は氷室のことを頭から追い払うことにした。
 そうしてみると、掛け値なしのいい男といえる。
 かっちり固めた髪と黒のセルフレーム眼鏡が、少しばかり男の印象を野暮ったくみせているが、整った目鼻立ちといい、切れ長の眼といい、地の顔はかなりのハンサムだ。 
 それよりなにより、表情が素敵だと成美は思った。爽やかで控え目な笑顔。どういう経緯でとられた写真か知らないが、少し照れたように、片手で自身の顔を遮るような仕草を見せている。
 もちろん、こんな知り合いは逆立ちしたって成美にはいない。
 一見した時の既視感の理由がわからないまま、成美はまじまじと写真の人を見つめた。
 ――でも、この人……、結構私の好み、かも……。
 当然、容姿は氷室には及ばないが、好みのタイプでいえばど真ん中。学生時代に憧れた、心優しい優等生の先輩タイプだ。物静かで、頭がよくて、そして生徒会長とかしてそうな。
 てゆっか、こんな素敵な人が松下弁護士事務所にいたっけ?
 まぁ、真帆が興奮するだけのことはある。この写真が本物なら、……何も脅迫まがいに私なんて誘わなくても、合コンに参加したい女子は、いくらでもいるのではないだろうか。
 とはいえ、まったく――この写真ひとつとっても、倉田真帆の罠に落ちたも同然だと、成美は思った。こんなものを、勤務時間内に、公用パソコンを使って眺めていたと知れてしまえば――。
「なんだ、それ、お前の彼氏?」
 ぶっと成美は吹き出していた。
「へぇ、いい男じゃん。……てか、どっかで見た顔な気もすっけど」
 よりにもよって、最低最悪の男が、成美の背後からのぞきこんでいた。道路管理課の沢村烈士――成美は大慌てでパソコンを閉じたが、その時には、ガチャピン篠田、ダブルオーなどが興味津々とばかりにこちらを見ている。
「い、いたずらメールだったんですよ。うっかり開いたら、それで」
「いたずらメールの添付ファイルまで開くんだ、お前」
 にやにや笑う沢村は、ひたすら楽しそうだった。
「法規担当が、そんな不用心なことじゃまずいだろ。気をつけないとな」
「……は、はぁ」
 悔しいが何も反論できない成美である。
「日高に彼氏?」
「まさか」
「しかもいい男とかあり得ないだろ」
 無神経にかけては他の追随を許さない大地と織田が、ひそひそ囁き合っている。
「ほ、本当にいたずらですからね」
「いちいち言い訳しなくてもいいよ。言いつけやしないから」
 なおも振り返って言い募る成美に、沢村は辟易したように唇を曲げて、数枚のファックス文書を差し出した。
「区から届いた資料……宮田君が午後から帰ったから、届けに来た。日高さんが頼んだんだろ」
「あ、すみません」
 市の訴訟を受け持つ顧問弁護士から依頼されたものである。成美が書類を受け取り、沢村がきびすを返した時だった。
「あら、補佐。もう帰られるんですか」
 上席の方から、ひどく厭味な女の声がした。
 近宗主幹――筆頭係員で、この法規係では柏原補佐に次ぐポジションである。
 が、年齢は補佐より二十は上。総務局の中では他の追随を許さぬおつぼね様だ。
 主幹とは、柏原と同等――つまり、課長補佐級であるが、係員を持たず、また課長の補佐役でもないだけに、単なる年功序列昇格という意味あいが強い。
 その近宗が、厭味たっぷりに言っている相手――柏原明凛は、すでに立ち上がり、首にかけた職員識別用名札を外していた。
 月を通した残業時間では、柏原の方が遥かに上なのに……と、成美はむっとしたが、もちろん、近宗みたいな恐ろしい女相手に何かが言えるわけもない。
「お先に失礼します」
 低い、しかしよく通る声で柏原は答えた。
「今夜は、人と会う約束があるので」
「あら、まさか、デートとかじゃありませんよね」
 どうしてそんな厭味が立て続けに言えるのか、自分に全く男縁がないからなのか――近宗女史。
 しかし、柏原はあっさりと答えた。
「男性と私的に会うのをデートというなら、そうなのかもしれません」
 
 

 
 数秒――、法規係を、死にも似た沈黙が押し包んだ。
「はあ?」
「はいっ?」
「ぶっ」
「えっ……」
「補佐??」
 上から、近宗、大地、織田、篠田、そして成美の順であった。
 近宗同様、補佐席に一番近い場所に席を持つ雪村は、ぽかんと口を開けている。
「……? 私が、デートをしたらおかしいか」
 誰もが衝撃を受ける中、柏原1人が平然としていた。
 いや、おかしいというか、早く帰宅する理由に、それをわざわざ報告する必要はそもそもなくて、そんな常識に捕らわれないストレートさが、確かに補佐のいいところなんですけど!
 成美が動揺しながらそこまで考えた時には、すでに補佐の背中は更衣室の方に消えていた。
「……今の、空耳?」
「男性として敵に会うのをディベートと言うなら、競うのかもしれないな」
「どういう空耳だよ! しかも全く意味なしてないし!」
「いや……とりあえず補佐の言いそうなワードを繋げてみたんだけど」
 大地と織田の、平常心を欠いたとしかいいようのない漫才。
「本当に……なんなの、最近の若い子はっ」
 何故かますます悔しそうな顔になった近宗主幹(いったいこの人は、自分のどこに自信があって、いちいち補佐と張り合おうとしているのか謎なのだが)。
「なんかショックだなぁ。……上手く言えないけど、漠然と、残念な感じだよね」
 と、何故か成美に同意を求めるガチャピン篠田。
 成美はなんとも言えなかった。成美の勝手な――極めて勝手な推理では、補佐の思い人というのは――彼女の双子の妹の……。
「ゆっ、雪村さん、零れてますよ!」
 その時、大地の泡を食った声がした。
 成美は驚いて上席の方に視線を向ける。
「あ、ああ、悪い」
 マグカップを片手に持った雪村主査――顔だけはいっそメイド服でも着せちゃえば的な美少女――もとい美青年雪村が、ふらふらっと立ちあがった。
「ゆっ、雪村主査?」
 成美もまた、唖然とした声をあげていた。
 なんとなれば、雪村の白いワイシャツの胸元が、コーヒーの染みで一面薄茶色になっていたからだ。
「ああ……零れたのか」
 雪村は他人事のように呟くと、カップを手にしたまま、おぼつかない足取りで歩き出した。
 成美は、何かありえないものを見るような気持ちで、その華奢な背を見送った。
 仕事の完璧さとスキルの高さでいえば、間違いなく柏原補佐に次ぐナンバー2。
 近宗には悪いが、柏原補佐が係内で一番信頼を置いていると言っても過言ではない存在なのである。
 その雪村に一体何が? 
「……そりゃ、ショックだろうな」
「あの人、見かけによらず恋愛体質だから」
 大地と織田がひそひそと囁き合っている。
 成美がびっくりして隣の篠田を見ると、篠田でさえ、「あれ? 知らないの?」的な目で成美を見た。ま、まさか――今の状況を見て、さすがに疑わないわけにはいかなかったが、もしかしてここでは周知の事実?
「本人たちには、言わないでよ」
 成美が唖然としていると、声をひそませて篠田は言った。
「去年、柏原さんがうちに来た時からからね。……あの時も吃驚したよ。あの冷徹極まりない雪村さんが、柏原補佐が執務室に入ってきた瞬間、パソコンにコーヒーを、ざばーっと」
「はっ、はい?」
「大変だったよ。あのあと、みんなしてパソコンをひっくり返して、必死で機械の中に入りこんだコーヒーを外に出したんだけど……ま、結局、おしゃかになったんだけどね」
「はぁ……」
 本当なら、漫画みたいなリアクションである。
 な、なんて判りやすいんだ、雪村さん。そりゃ、篠田さんにすら見抜かれているはずだ。
 どこか感心したように、篠田は腕組みをして頷いた。
「よく判らないけど、ああいうのを一目ぼれっていうんだろうねぇ。……ま、幸か不幸か、補佐は全然……。雪村さんも、へんにストイックで、自己完結型なところがあるから、どこまで行っても平行線、というか」
「そ、そうだったんですか」
 自己完結型? そこは意味がよく判らなかったが、聞き返す前に、たちまち織田と大地が口を挟んだ。
「女が鈍くて、男が純情ときたら、そりゃ永遠に叶わないよな」
「それ以前に、柏原さんの方が身長あるような気もするし。それもまた、致命的」
「そそ、明らかに柏原さんが王子で、雪村さんがお姫様 キャラだもんな」
 うん、それは確かに――と、ついダブルオーに同調している成美である。
 あだ名通り、グリム童話のヒロインみたいな可愛らしい容貌を持つ雪村主査。雪の頬に林檎の唇。髪は夜のように真っ黒で、絹糸みたいに艶めいてさらさらしている。
 ただ黙って微笑んでいると、どれだけ愛らしく見えるだろうか――が、その諸手には、常に抜き身の日本刀が握られているのだ。
 片や、柏原補佐――。女性ながら、身長は170センチ超え。一部の隙もない氷の美貌と、男顔負けの冷徹な性格を併せ持っている。
 普段は女性らしい言葉を使う(らしい)が、仕事になると完全に男モード。髪はきっちりと一つに束ね、信じられないことにノーメイク。ファッション面でも、スカート姿をいまだ披露したことすらない。滅多に感情を顔に出さず、要点しか口にしない。その冷たい目にじろっと睨まれると、局長クラスでも黙ってしまうという……。
 とにもかくにも、信じられない。そんな雪村さんが、そんな柏原補佐を……。だいたい年ってどうだったっけ。童顔の雪村さんが遥かに年下に見えるけど、実際のところは――。
「雪村主査の机、誰か拭いてやんなくていいの」
 その時、背後から冷めた声がした。
 成美はようやく思い出していた。まだ、背後に沢村が立っていたことを。
「あ、わ、私が……」
 その雪村の机からは、ぽたぽたコーヒーの滴が床に落ちている。
 成美が立ち上がった時には、もう沢村は背を向けていた。
 ――そっか、もしかしなくても、沢村さんも補佐のことを……。
 なんだか、複雑な人間関係の小爆発が、この執務室で起きちゃったみたいだ。
 しかし、爆発を引き起こした張本人は、乱れる男たちの想いに何ひとつ気づくことなく、…………一体、誰と会っているのだろうか?

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。