|
鏡に問うまでもない。
この世で一番美しいのは僕だった。
しかし、その自信と自惚れは、貴女と会ったその日に、粉々に打ち砕かれてしまったのだ。
(ちょっ、な、なに、やってんですかっ)
(わーっ、誰か、このパソコン早くひっくり返せーーっっ)
あの日、僕の世界は一変した。
柏原さん。
僕は、貴女のためなら、死ねる。――
1
「なに、そのしみったれた顔は。氷室課長に浮気でもされたの」
ぶっと成美は、口に含んだ水を吹き出してしまうところだった。
対面に座る長瀬可南子は、そんな成美を冷めた目で見つめている。
「さっきから溜息ばかり……。それに今日もジュースだけ? 馬鹿ね、たかだか男の1人や2人にふられたくらいで」
「ふ、ふられてないし」
昼の職員食堂は、珍しく空いていた。
「ダイエットしてるのよ。最近ちょっと油断してたし、そろそろ忘年会シーズンだから」
成美は、半ばまで飲んだ野菜ジュースのパックをそっと押しやる。溜息ばかりか……まぁ、確かに、そうだったかもな。
「仕事のことで、ちょっとね」
成美が言うと、「ふぅん」と可南子は、信じているのかいないのか微妙な風に答えてくれた。
もちろん、憂鬱の種は氷室のことである。なにしろ、たった半月前のことなのだ。あなたのミナから宣戦布告をされたのは。
顔も背も迫力も自信も、何もかも成美より上だった。
間違いない。今はどうか知らないが、あの人は確かに、かつて氷室さんとつきあっていたのだろう。そして今も……。
心配の種は、もうひとつある。
沢村がおせっかいにも忠告してくれた、クラブのホステス――韓流女優ばりの美女のことだ。
可南子に話せば、それみたことかと鼻で笑われてしまうだろう。そうだ、結局可南子の言うとおりだったのだ。
氷室さんの周りには、過去現在未来を問わず、いくらでも素敵な女性が集まってくる……。
「あー、いたいた。久しぶり〜」
異様にテンションの高い声に、成美もそうだが、可南子も眉をひそめて顔をあげた。
うっと、成美は詰まっている。
トレーを片手に、にこにこと手を振っているのは広報課の倉田真帆。
成美の同期で、少し前まで恋のライバル? だった。
これは想像でしかないが、かなりてひどく氷室に振られた――はずの女性である。
「やっと見つけた。2人の事、探してたんだ」
断りもなしに成美の隣に腰掛けると、倉田真帆は、上機嫌で成美と可南子の顔を交互に見た。
「なに? なにかいい話?」
早速可南子が乗ってくる。また上辺だけトークが始まると思った成美は、「悪いけど、仕事があるんで」と、席を立とうとした。
その腕を、いきなり真帆がぎゅっと掴んだ。
「成美も聞いてよ。すごくいい話、逃したら損するから」
「あ、うん……」
なんだろう。なんだか気味が悪いな。ひたすら自分のことにしか興味がない人に、こんな風に誘われたら。
まぁ、恐ろしいほど冷静で客観的な可南子がいるから、うかと騙されることはないだろうけど。
「弁護士」
いきなりのドヤ顔で、真帆はそう切り出した。
「全員が若くて、そこそこのイケメン揃い。どう?」
どうって……?
成美は意味が判らず、可南子を見たが、可南子はすでに話の流れを理解しているようだった。
「いいわね」
「相手5人で、こっちも5人揃えないといけないの。もちろん、参加するでしょ。2人」
合コン――。
成美も遅ればせながら理解した。
確かに真帆が自慢げに話すだけはある。弁護士と、一介の市職員が合コンなんて、まずありえない組み合わせだ。
しかし、真帆の人脈を持ってすれば、そういう伝手もゲットできるのかもしれない。なにしろ父親は政治家、祖父なる人は元道路局長で、今ではどこぞの企業の監査役についているらしい。
「そりゃ、逃す手はないけど、そんな格差合コンってありなの?」
さすがに可南子は冷めていた。
「弁護士さんの相手なんて、いくらでも凄いのがいるでしょ。昔でいえばスッチーとか、女子アナとか。地味で安月給の市職員と合コンなんて、どれだけ慈悲深い弁護士さん?」
「まぁ、こっちは東京と違って地方だから」
やや鼻白んだ風に真帆は肩をすくませた。
「そりゃ、弁護士のグレードだって下がるでしょうよ。別に格差コンだとは思わないし、相手、いい人たちだよ。しょせん勉強ばっかだから、純粋で扱いやすいとこあるし」
「そんなもの?」
それでも可南子は――おそらく別の部分で疑っているようで、いまひとつ乗り気ではないようだった。
「ま、何も私たちが行かなくてもね」
その可南子の眼が、残念そうに成美に向けられた。
「広報や秘書課に美人ならいくらでもいるじゃない。いい話だと思うけど、ちょっと私には分不相応って気がするから」
いかにも控え目な言い方だが、その実プライドの高い可南子は、自らが格下の――いかにもがっついた風に見える合コンなどには、死んだって参加しないだろう。
成美は少しばかりほっとしながら、可南子に追従する風に頷いた。
真帆は――それこそ、吃驚するほど残念そうな顔になった。
「えっ、マジで? そんなぁ、……こんな美味しい合コン、滅多にないよ。せっかく私が親切で誘ってあげてるのに」
そんな訳はないだろうと言うのは、成美にだって判った。
どうにも面子が集まらなかったのか。もしくは、私と可南子を女として安全牌だとみなしているのか。
いずれにしても、倉田真帆が要注意人物(成美にとって)ということだけは間違いない。氷室との一件がどういう形で決着をみたのか、今、真帆が氷室に対してどんな感情を持っているのか、成美には全く判らないのである。
「待って……、成美」
が、立ち上がってトレーを返そうとした成美を、真帆が素早く呼びとめた。
「あ、可南子は行っていいよ。成美に少し話があるから。合コンの件は了解。またいい話があったら、誘うね」
――え?
「そ、ごめんね。また誘ってね」
あっさりと成美を見捨てて去っていく可南子。えーっ、か、可南子、行かないで! と思ったが、成美は再び真帆の隣に座らされていた。
「……あの、私も……合コンとか苦手だし、ちょっと無理だと思うんだけど」
真帆は無言で、ジュースを飲み、サンドイッチを二口ほど食べた。
そしておもむろに口を開いた。
「氷室課長、大変だったんだってね。水森博の関係で」
そっちから来たか、と成美はぎこちなく視線を逸らした。
心臓がにわかにドキドキといい始める。
いったい真帆は、私と氷室さんのことをどこまで知っているのだろう。
「……素敵だよね。氷室さん」
「そ、そうだね」
「私……」
「…………」
ふっと真帆は、気鬱そうな溜息をついた。
「もしかして、エムだったのかな」
「はい??」
「あれだけいたぶられたのにむしろ快感が……ま、いいか。ねぇ、成美。イプセンって知ってる?」
今度こそ成美は、目をしろくろさせてしまうところだった。
「……イ、イプセン?」
知るも知らないも、それは氷室が勝手につけた成美のハンドルネームである。
ノルウェーの劇作家で、……よくわからないけど、幽霊というおどろおどろしい戯曲を書いたという人。何故だかそれが、氷室の中では成美とイコールなのだ。
しかし、何故そんな極めてマイナーな作家の名が、真帆の口から出てくるのか。
「どうも、その人が氷室さんの恋人みたいで。知らない? 成美なら知ってると思ったんだけど」
ちらっと横目で成美を見る――その真帆の眼は、知ってるわよ、と言っているように成美には思えた。
「行ってくれるよね。合コン」
いや、あの、それは。
「実は可南子なんてどうでもよかったの。目的は成美。だって相手弁護士でしょ。成美いた方が俄然話が盛り上がるじゃない」
「私、話なんて全然できないよ」
「現場の弁護士さんに色々話きけるチャンスじゃない。成美の勉強になると思うし、相手は、ほら――市の顧問弁護士もいる大手弁護士事務所の」
「……松下弁護士事務所?」
「そそ、そこに所属してる若手弁護士さんが中心だから。ね、全然安心の相手でしょ」
全然とは言わないけど(問題は相手ではなく、氷室だから)、まぁ、確かに……。
少しばかり成美にも興味が湧いてきている。
市が抱えている訴訟や、法規係との関わりなど、色々な裏話がきけるかもしれないし、場合によっては仕事上で大いに参考になる話が耳にできるかもしれない。
それに……。
先月以来、成美には、少しだけ気がかりがあった。
あれもまた、あなたのミナが現れた日のことだ。松下弁護士事務所を出た後、妙に不機嫌そうだった成美の上司――柏原補佐。
松下弁護士は、補佐を過剰に気にいっていて、プライベートでも補佐を食事に誘うほどの間柄である。まさか70近い老人から、そんな――男の匂いは感じられなかったが、それでも、まさかということもある。
「うん、……行ってみるかな」
成美は頷いていた。
「ほんと? うれいしい、約束だからね。絶対よ! いまさら裏切りはナシなんだから!」
まんまと罠にはめられたという気もしないでもない。
が、相手が市の顧問弁護士絡みなら、氷室もそうは怒らないだろう。
しかも、柏原補佐のことが気がかりだと打ち明ければ、きっと――。
2
「駄目ですね」
氷室の答えはむべもなかった。
「ど、どうしてですか。さっきも言いましたけど」
「どうもこうもありませんよ。駄目なものは駄目。もうこの話は二度と僕の前でしないでください」
「…………」
唖然とする成美を尻目に、氷室は腕時計に視線を落として立ち上がった。
アフターファイブ。
2人はまだ庁内にいた。ここは、氷室が時折休憩に立ち寄る15階の休憩スペースである。
例の事件で会議室を使わなくなって以来、最早ここでしか2人きりで会える場所はない。
「さてと、そろそろ行くかな」
「ちょ……」
成美も立ち上がり、氷室の後を追っていた。
「私、……なにも合コンそのものに興味があるわけじゃないんです。それは、判ってくださってますよね」
「もう、その話はしないのでは?」
「…………」
歩き出した氷室の背は、すでに取りつく島もない。
悔しさとも違う、やるせなさにも似た感情が、成美の胸に溢れだした。
そうだ。私と彼は対等ではない。いつだって私が追いかけて――彼の言いなりになるしかない関係なのだ。
いつもはここで――15階で別れるのに、成美は初めて彼の後についてエレベーターホールにまで行っていた。
「今夜も、誰かとお約束ですか」
決して厭味のつもりではなかったのに、口調は、少しばかり冷たくなっていた。
成美はそんな自分に動揺し、居心地悪く視線を下げた。
5時過ぎの15階には、今も人影はほとんどない。表示灯は直ぐ下の階まで上がってきている。
最近の氷室は、毎晩のように市の幹部連中の飲みに誘われている。今も、時間ばかり気にしているから、きっと誰かと約束しているのだろう。
(――そこのナンバー1が、月華っていう女……いくつかな。27、8くらいかな。ちょいと見、韓国人女優みたいな美人だよ。その子が今、氷室さんに夢中なのさ)
氷室が浮気していると信じているわけではないが、まだ会ったこともないその女の存在が、少しばかり、胸を重苦しく塞いでいる。
それから――ミナ。おそらく、だけど、氷室さんの、かつての恋人。
過去のことは気にしない。色々考えた挙句、成美はそう決めたし、あれ以来接触のないミナのことは、氷室にはまだ打ち明けてはいなかった。
「どうしたんですか、急に」
氷室はわずかに眉をあげたが、すぐに成美の気持ちを察したのか、ふっと笑った。
「平日に会うのは、日高さんのご迷惑だったのでは?」
「た、確かにそう言いましたけど、……その、次の日の仕事に影響するので」
成美がそれを氷室に言ったのは、先月の終わりのことである。もちろん、それには今の話とは全く違う理由があって――が、今、そのことを、氷室に打ち明けるつもりはなかった。
「土日は土日で、体調が悪いだの、急用が入っただの。ずっとお預けをくらっていますからね。僕でなくとも、浮気のひとつやふたつはしたくなるというものですよ」
「えっ、……」
「冗談ですよ」
微笑したままの氷室の眼が、そっと周囲を見回した。肩を抱き寄せられ、唇が軽く額に触れる。
「じゃ、今度こそ週末に」
にこっと笑んで、彼はエレベーターに乗り込んだ。成美は……乗らずに立っていた。目の前で扉が閉まる。
手を振って氷室を見送った成美は、自分を照らす光が消えると同時に、笑顔も曇るのを感じていた。
――せめて……少しくらいは、考えて返事をしてくれてもいいのに。
合コンのこと。駄目なら駄目で仕方ないけど、あんなに、きつい言い方で否定してくれなくてもいいのに。
私――何も、男の人と出逢いたくて、飲みに行きたいって言ってるわけじゃない。それは、ちゃんと理解してくれたのだろうか。
「…………」
今回だけじゃない。いつだって、そうだ。
年も立場も上の彼の言うことは、いつだって絶対で、成美には従う以外に道はない。
これで、いいのかな、私たち。
今までは、それでよかった。私1人が氷室さんを追いかける関係で。でも――。
でも……この先も今みたいな関係で、本当にそれでいいのだろうか。
|