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 屋上から階下に降りた時、昼休憩を告げるチャイムが鳴った。
 8階で降りたエレベーター。ホールはすでに、食堂に向かう人たちの群れでごった返している。
 ――今日、可南子休みだったっけ。週末結構食べちゃったから、お昼は野菜ジュースだけにしとくかな。
「ええ、本当ですか? やだぁ、氷室さんったら」
 いやに甲高い声がした。成美はぎょっとしてその方に視線を向けている。
 倉田真帆――その隣には、氷室と宮田が立っている。
「本当ですよ。課長は案外、顔よりもスタイル重視なんです。この間、管理課の中でグラビアアイドルの人気投票をしたことがあって」
「まいったな。僕は消去法で選んだだけですよ」
 苦笑した氷室の視線が、刹那、成美に向けられた。
「あれ? 成美?」
「あ、日高さん」
 倉田真帆と宮田の目もまた、同時に成美に向けられる。
 真帆は、若干迷惑気な――宮田は、少し嬉しそうな目だ。
「日高さん。僕ら、今から外に食事に行くんですけど、日高さんもどうですか」
「えっ」
「ははは、無理に誘うのもご迷惑だと思いますよ」
 低い声で優しく笑い、氷室は成美を見下ろした。
「あるいは、ダイエット中、ということもあるかもしれませんしね」
「…………………」
 なんて、意地が悪い人だろうか。これで十も年上なんて信じられない。いい年をして、本当に、心が狭いったら。
「ダイエット? すごーい、成美ったら、女子の鏡! 私なんて、面倒でしたことないのにぃ」
 と、異常に嬉々として倉田真帆。
「倉田さんはスタイルだけはいいから、そんなことが言えるんですよ」
 微笑した氷室の言葉には、明らかに毒を含んだ棘があったが、真帆はあっさりスルーした。
「いやだ。氷室さんにそんなに誉められたら、照れちゃいますっ」
「君のその素直さこそ、女子の鏡なのかもしれませんね」
 互いに裏があると知りぬいている男女の、本音を隠した上辺だけの会話。
 成美は初めて、真帆を心の底から強敵だと理解していた。この人、全然めげてない。どころか無意味にパワーアップしてる。
 もちろん、二人をいい人だと信じて疑わない宮田には、この会話の底にあるものは何ひとつ通じていないに違いない。
 なんだか必要以上の疲れを覚えて執務室に戻った成美は、そこでさらにぎょっとする光景を見ることになった。
「誰か、早く雑巾の追加もってきて!」
「てか、これで二台目だろ。今度こそ雪村さん、懲戒ものなんじゃないの?」
 雪村のデスクに、人だかりができている。人だかりといってもダブルオーと篠田だが、三人がわたわたしながら雪村のパソコンを引っ繰り返して叩いている。
 まさか――まさか、また。
「あっ、日高さん、いいところへ」
 篠田が、救いを求めるように成美を振り返った。
「一体何があったんですか」
「いや、僕らもさっぱり判んないんだけど、昼休憩のちょっと前、雪村さんが少し席空けて戻ってきたら、いきなりざばーって」
 机の上からはコーヒーの強い匂いが漂っている。
「てか、まるっきり廃人だったね、雪村さん」
「もしかして、告って玉砕?」
「柏原補佐も、昼前から戻んないし」
 一体何があったんだか、雪村主査。ああ……ここにも手のかかる人がもう1人。
 成美が雑巾を取りに給湯室に駆けこむと、そこにはほんやりと突っ立っている当の本人がいた。
「……あの、雪村主査……?」
「……ありがとうって」
「はい?」
「あの補佐が……俺に……」
 え――?
 いきなり振り返った雪村に、成美は抱きしめられていた。
 驚く以前に硬直した成美は、もう声も出てこない。なにこれ、なんなのこの状況。
 なんで雪村主査と私が、こんなことになってるわけ?
 てか、これって、立派なセクハラ……。
「昆虫、お前のおかげだ、よくやった!」
 ばんばん、と背中を乱暴に叩かれる。
「馬鹿にも使い道があるんだな。だからってお前個人を認めたわけじゃ決してないが、今回はお前に助けられたよ」
 呆気にとられる成美を離し、雪村は感極まったように頷いた。
「ありがと、な」
「…………いえ」
 上機嫌そのもので給湯室を出て行った雪村の後から、成美が首をかしげながら出てみると、ばっと、その場に立っていた人たちが顔を背けた。
 ダブルオーと篠田である。
「え……あ、あの」
 その不自然さに、成美が嫌な予感を覚えた時には、もう三人は逃げるように背を向けていた。
「さっ、仕事仕事」
「大地さん、例の案件、どうなってます?」
「ああ、あれね。もう整理できてるから、ファイル送るよ!」
 いや、あの。
 あの……今のは、完全に誤解っていうか、むしろ私が被害者っていうか。
「おい、日高」
 席に戻ると、雪村はすでに、通常の雪村に戻っていた。
 地底の底から響くような、冷え切った雪村の声と背中に、成美はたちまち硬直している。
「……お前が作成した資料を、今チェックしてみたんだがな」
「すっ、すみませんっ、申し訳ありませんっ」
「聞く前から謝るくらいなら、最初からちゃんとしたものを作成しろ!」
「すみせんっ」 
 ここにもまた、やっかいな二重人格者が1人いた。
 月の裏側なんて見たくもない。
 もういやだ。どうして私の周りには、こんなに性格に裏表がある人ばかりが集まってくるんだろう――。
 
 
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「日高さん、少しいい?」
 柏原補佐に呼び止められたのは、その夜、成美が帰宅しようと、更衣室から出たところだった。
「あ、はい」
「日曜は、心配をかけて悪かった。少しきつい言い方をしてしまって」
「……え、い、いえ。余計な真似をしたのは、私なんですし」
「…………」
「…………」
 柏原もまた、帰宅前だったのか、コートを着てバックを肩にかけている。
 何故か黙り込む柏原の意図が判らず、成美は少しばかり緊張して、彼女が口を開くのを待っていた。 
「あの……日高さん」
「は、はい」
 そして、また不可思議な沈黙。
 こんな柏原補佐は初めてで、成美はますます緊張する。
「実は……お礼を」
「お礼?」
「…………」
 え、なに? どういうこと?
 まさか補佐が、私にお礼?――あの程度のことで? むしろ、とんでもないおせっかいな真似をしてしまったのに。
「あ、あの、日曜のことだったら、別に私はもう、その――」
「いや、日高さんに、じゃなくて」
「………え」
 私にじゃないってことは――。
「雪村、主査ですか」
 柏原の表情が微塵も動かないので、それは外れだと成美は察した。
 じゃあ、誰? てか一体、今話しているのは何の話?
「正直、どうしていいか判らなくて。……いや、今の話はもう忘れて」
 ふっと諦めたように、柏原はひとつ溜息をついた。
「え、あの」
「足止めして悪かった。じゃあ、気をつけて帰りなさい」
 あの――。
 とりあえず、そう命じられたら帰るしかない成美である。が、失礼しますと言って歩き出したものの、背後の補佐のことが気がかりで、成美はそっと振り返っていた。
 柏原は視線だけを下げ、自分の手を見つめているようだった。
 ――補佐……?
 その時、バックの中の携帯電話が着信を告げた。
 成美は急いで電話に出た。相手は氷室からである。
「やぁ、昼間のお詫びに、食事でもどうかと思いまして」
「どういう厭味ですか、それ」
「フルコースのディナーをね。僕は、どちらかといえば、グラマラスな女性が好みなので」
 氷室の声は笑っている。
 成美もまた、昼間のわだかまりが溶けていくのを感じ、笑っていた。
「悪かったですね。その真逆で。いいですけど、今からだったら和食以外パスですから」
「車で、下で待っていますよ」
 よく判らないけど、ちょっとだけ普通の恋人に近づけたのかな、私たち。
 電話を切った成美は、そこはかとない幸福を感じながら歩きだす。そして、ふと気がついていた。そうだ――補佐。
 振り返った場所に、もう柏原補佐はいなかった。
 なんだったんだろう。さっきの……。
 うつむいて、自分の手を見つめていた時の、なんともいえない彼女の表情。何かに迷っているような、戸惑っているかのような――。
 不思議な胸騒ぎを覚えたまま、成美は軽く息をついて歩き出した。
 色々あったが、ひとまず大団円、のはずである。
 が、なんだかよく判らないけど、まだ、何か――解決していない問題が残っているような予感がする……。
 
 
 
 
「なに、さっきから自分の手ばっかり見て」
「別に」
 眉をひそめてグラスに手を伸ばした沢村を、女は冷めた目で見つめた。
「で?」
「で、とは?」
「なんであんたが、あの場面で出てきたわけ? マジであと少しだったのに」
「……悪趣味だね。隠しカメラでもつけてた?」
 沢村が問うと、女は形のいい唇をゆがめるようにして笑った。
「音だけは、あの馬鹿の携帯から拾ってた。だからきっちり証拠も残ってるのよ。もちろん、面倒なことになる前に、全部消去してあげるけど」
 店内の客が、何度か振り返っている。強面のマスターでさえ時々賞賛の目を女に向ける。
 それほどの美貌と、雄を吸い寄せずにはいられない強烈なフェロモンを放っている――女。
 が、その顔を覆う女優ばりのメイクを落とし、匂い立つ香水や、飾り立てた髪を取り去ってしまうと――そこには、沢村のよく知っている女の顔が現れるのだ。
「俺の仕事じゃなかったっけ」
 グラスを持ち上げながら、沢村は言った。
「やる気、ないでしょ」
「あるけど、機会が、ね。同じフロアで仕事してんだ。無理だろ、普通」
 声もなく笑い、女は煙草を唇に挟みこんだ。
「半年待っても、なんの進展もないから、大明君に頼んだのよ。たまたま行ったクラブでナンパされたんだけど、私と同じ顔した女っていったら、かなーり興味持ったみたいで」
「…………」
「ね、もしかして、お姉ちゃんにマジで惚れちゃった?」
「まさか」
 即座に否定した沢村の顔を、女はまじまじと見つめてきた。
「言っとくけど、私の恋人だってバレちゃった時点で、お姉ちゃん、あんたのことなんて死んだって相手にしないよ」
「…………」
「暴走族あがりのろくでなし。公務員なんて、世界で一番あんたに似合わない仕事だね。頭だけは良かったから、試験なんて余裕でパスしたんだろうけど」
 馬鹿にしたように鼻で笑い、女――柏原栞凛は、煙草を灰皿に押し付けた。
「やっぱり、烈士にやってもらおうかな」
「…………」
「これでも相手は選んでるつもり……。だって、一応、姉さんだから。あんまり堕ちてもらっても家族が迷惑するじゃない」
 ふふっと、含んだように栞凛は笑った。
 その眼から、唐突に全ての表情が消える。
「犯して、壊して、ぼろぼろにして――あの女の人格が変わるくらい!」
 深い憎しみがこもる声に、沢村は言葉を失くしている。
「あんたには、そうする義務があるはずよ。私をこんな女にしたのは、あんたなんだからね。――沢村烈士」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 第4話(終)
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。