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「日高さん。お客様。もしかして、日高さんの彼氏?」
 庶務の佐東由美に囁かれ、成美は嫌な予感を覚えながら、カウンターの方を振り返った。
「やぁ、こんにちは」
 控え目な微笑で、折り目正しく目礼する青年弁護士。
 ――紀里谷さん……。
 脱力とも、恐怖ともつかぬ思いのまま、成美は席を立ってカウンターの外に出た。
「日高の彼氏……」
「ガチで?」
「でも来たの、二度目だよね」
 ダブルオーとガチャピン篠田がひそひそ囁き合っている。
「勤務時間中に、全く、何を考えているのかしら」
 近宗女史は鼻を鳴らし、雪村は眉をひそめていた。多分、まだあんな奴らとつきあっているのか、そんな風に思われているに違いない。
 柏原補佐だけが、全くの無関心のようだった。
 今朝、彼女の首にまかれた包帯と頬に残った擦り傷の痕は、少しばかり課内の話題になったが、本人があまりに平然としているので、誰も何もつっこめなかった。
 成美としては、補佐は大丈夫だと言った、雪村の言葉を信じるしかない。
「何の、御用ですか」
「ちょっと屋上まで、おつきあい願えませんか」
 成美が警戒しながら問うと、紀里谷は、まったく普段の彼らしい、紳士的な態度のまま、そう言った。
「え、嫌です。仕事中ですから」
 もちろん成美は速攻で断る。
 はっと、紀里谷は溜息を吐いた。
「天さんの指示……あんたに、会わせたい人がいるんだよ」
「え?」
 思わず紀里谷を見返した成美に、男は声をひそめたままで、続けた。
「とにかく来て。これ以上、天さん怒らせたらマジやばいから。はぁ……全く、なんだってお前みたいな女のために、俺がここまでしなきゃならないんだか……」
 

 
 
 渋々屋上までついていった成美は、今度こそ驚いて息を引いていた。
 そこに立っていたのは――そして、成美を見るなり、丁寧にお辞儀してくれたのは。
「姉貴」
 紀里谷は、そっけなく紹介してくれた。
「双子なんだ。二卵生だけど、まぁ、そこそこ俺と似てるだろ」
 その弟と、ほぼ同じ背丈、ほぼ同じ骨格を持つ長身美貌の女性は、切れ長の目を優雅に細めて一礼した。
「紀里谷葉月です。もしかしたら、氷室さんには、月華って、聞いているかもしれませんけど」
 セクシーな掠れ声。口調に混じる関西訛り。
 弟の紀里谷とは、こうして並び立つと別人だ。でも――紀里谷が女装した姿は、確かにこの女性とよく似ている。
 いずれにしても、姉弟揃って、相当な美形であることは間違いない。
 月華――シンクロナイトのホステスで、この屋上で、氷室と2人でいるところを、成美が目撃してしまった人。
「もしかして美人すぎてびびってる? この人、顔あちこちいじってるから。あんま、見かけに騙されないようにね」
「もうっ、理人」
 顔を赤くして、月華――いや、葉月が抗議する。
「誰のおかげで、大学まで出られたと思っているの。この顔は大切な商売道具なんだから、メンテするのは当たり前なの」
「わかってるよ」
 なんだか胸が温まる会話である。――いや、そこでほだされている場合ではなかった。
 この点については、氷室に確かめてはいなかった。もしかすると、この人は、氷室の昔の恋人で――紀里谷の言葉を信じるなら、氷室に飽きられて捨てられた人?
「ああ、それ違う違う」
 まるで成美の心を読んだように、紀里谷が無造作に片手を振った。
「姉貴が天さんに片思いしてたのはマジな話だけど、この人、告白もできずに自己玉砕した人だから。もちろん、天さんは何も知らないし、多分、この人の顔さえ記憶にない。まぁ、そう言うことだから」
「もう、……本当に理人ったら」
 微かに頬を染めた葉月は、控え目に傍らの弟を睨む。
 ちっと、紀里谷が舌打ちをした。
「てか、それくらい、なんで天さんから直接聞かないのさ。……ったく、いい迷惑だよ。マジで」
「氷室さんに、誤解を解くように言われたんですか」
 おそるおそる成美は訊いた。
 実は氷室と成美は、今朝から少しだけ微妙な断裂状態に陥っている。
 あれだけ幸福な時を2人で過ごしたのに――亀裂のきっかけは、ごくささやかなことだった。
(そういえば、ひとつ聞いていなかったことがありましたが、君が僕を避けていたように思えたのは、一体、どういう理由だったのですか)
 成美は正直に打ち明けた。
 実はちょっと太っちゃって……、それで、痩せるまで、身体を見せたくなかったんです、と。
 氷室は、おそらく、たっぷり三分は呆れ果てていただろう。
 そして、彼は心底疲れたように呟いた。
(僕は――君を理解し、理解されようと思っていたのですが、少しばかり考え直したい気持ちになりました。まさか、そこまでくだらない理由だったとは、ね)
 成美も成美で、その言い方にはかちんとして、なんとなくむっとしたまま、2人は別れた。
 ほんと、恋の理想に現実を近づけるのは難しい。特に、私たちみたいに、年がこんなに離れていたんじゃ……。
「本当に、ごめんなさいね。日高さん」
 声も眼差しも、いや、存在自体がセクシーな人は、そう言って長い髪をさらさらとなびかせ、頭を下げた。
 彼女は心底申し訳なさそうな顔をし、むしろ謝られる成美が居心地が悪くなるくらいだった。
「理人も、ほら」
 その葉月が、隣の弟をそっと促す。
「合コンの席で、隙をみてこの人の部屋の鍵を型取ったり、女装してストーカーまがいの行為をしたり、挙句は部屋に入り込んで強迫したり、――あなた、弁護士資格をはく奪されてもおかしくないことを、何度もこのお嬢さんにしているのよ」
「そ、そりゃ……、ちょっとした……遊び心で」
 紀里谷は不服そうだったが、結局は渋々頭を下げて謝罪した。
 この状況では、許すしかない成美だが、どう考えてもとんでもない弁護士であった。
 鍵は、最初に出会った合コンの店で、成美1人を残して飲み物を取りに戻った時に、どうやら型を取られたらしい。テーブルの下に置いていたバックからこっそりと鍵を取り出し、粘土をつかって型どりをした。これひとつ取って見ても、犯罪のプロ? といいたくなる。
 実際、氷室もこう言っていた。
(紀里谷君が司法試験に受かった時、僕は内心こう思ったものですよ。いずれ被告人席に立つべき男が、とんだ面白い回り道を選んだものだと)
 つまり――紀里谷という男は、結構とんでもない小悪党のようなのだ。それでいて、頭がいいのだから、なんだか末恐ろしい――言っては悪いが、悪徳弁護士まっしぐら、という気がする。
 そうやって鍵の複製に成功した紀里谷は、成美が確実に外出している時間を選んで、部屋に侵入し、件の手紙と薔薇の花束を置いた。
 多分、そこで終わっていたら――氷室に見抜かれていたことをのぞけばだが、完全犯罪のはずだった。
 が、成美の恐怖に慄いた顔を見たいと思った紀里谷は、ちょっと調子に乗って――悪ノリしてしまったらしい。
 氷室が成美のマンションに到着したのは、偶然にも成美が恐怖にかられて部屋を飛び出した直後だった。そこに紀里谷が現れ――おかしいと思った氷室は、先回りして部屋に入り、様子を窺うことにしたのだという――。
 それが、氷室に聞かされた事の顛末だった。
「また、理人が、氷室さんを困らせているような気がして」
 ふっと、葉月が気鬱そうな溜息を吐いた。
「それで、偶然お店においでになった氷室さんに、ご忠告したんです。理人、昔から氷室さんのこととなると……少し、異常な執着を見せることがあるものですから」
「そうだったんですか」
 それで、わざわざ役所に来てくれたんだ。
 しかも今も、弟の悪事のために、見ず知らずの女に頭を下げるなんて。なんていい人なんだろう。葉月さんって。
 話から察するに、自身は水商売をしながら、弟の理人を大学まで出させた。こんなに凄い美人なのに、とんでもなく苦労の人である。
 ああ――こんないい人を疑ってしまった自分が本当に恥かしい。
「あの、宮原さんって、どういう方だったんですか」
 念のため、と思って成美は訊いた。雪村が擬態を装ってまで警戒を固めたその筋の人。弁護士でないというなら、一体件の男は何者なのか。
「宮さん? 知り合いのフリー記者だよ。まがりなりにも弁護士の俺が、大明の個人情報べらべらしゃべるわけにはいかないでしょ。宮さんは、個人的に大明を調べたことがあって、今回も善意で協力してくれただけだから、そんなに警戒しなくても大丈夫」
 どういう知り合いですか、とは、さすがに姉の前では聞けなかった。
 しかし、そんなどうでもいいところでは、しっかり弁護士の自覚を持っているんですね。この人も。
「ぶっちゃけて言えば、あの夜は、ちょっと頼まれたんだよね。合コン組んだ時、お世話になった女の子に。名前忘れたけど、俺とあんたをくっつけようと、なんだか必死になってたみたい。今にして思えばだけど、あの夜写真かなんかとられて、それが天さんに渡ったんじゃないかな。――ま、俺にしてみれば、渡りに船だったけど」
 ――倉田真帆……。
 成美は軽い眩暈を覚えた。
 予想しなくもなかったが、ここにも1枚、黒い陰謀が噛んでいたか。
「じゃ、姉さん、僕は仕事があるんでそろそろ帰るけど」
 突然、紀里谷が好青年に戻った。控え目な笑顔で、はにかんだように成美を見下ろす。
「それでは、日高さん。きっと、またお会いすることになると思いますが、せっかく友人になれたのですから、これからもよろしくお願いします」
 えっ……。
 と、友達なんですね。一応、私たち。
 それにしても、なんて恐ろしい人格の使い分けだろうか。――できれば、もう二度と関わり合いになりたくない。
「……日高さん」
「あ、はい」
 気づけば、葉月という人と2人きりになっている。
 この人とは、もしかすると友人になれるだろうか――成美は笑顔で葉月を見上げた。
「整形のこと、氷室さんに喋ったら殺します」
「え……は、はい?」
 なに? 今の聞き間違い?
「どこがいいのかしらねぇ。あの完璧な氷室さんに、あなたみたいなちんちくりんの小猿ちゃんなんて。自分でも分不相応だと思うでしょう?」
 え――え?
 見上げた葉月は、とんでもなく優しい目で微笑んでいる。
「私も、理人と一緒で、彼を追って灰谷市まで来たんです。この半年、シンクロナイトで、ずーっと氷室さんが来てくれるのを待っていたわ。ライバルがあなたみたいなモンキーちゃんで、本当によかった」
「………………」
「じゃ、これからも、弟ともどもよろしくお願いしますね」
 最後まで優しい笑顔のまま、葉月は丁寧に頭を下げてきびすを返した。
 え――え、え?
 もしかして、弟以上の二重人格??
 氷室さん。
 なんだかとんでもない人たちが、この恋に参戦しちゃったみたいなんですけど――。

 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。