27
 
  
「大丈夫ですか」
 それから5分も経たない内に、氷室は1人で戻ってきた。
 うなずく成美の傍にかがみこみ、彼は、何か忌々しいものでも触るかのように、口を覆うネクタイを解いて抜き去った。
 ようやく思いっきり息ができるようになった成美は、大きく深呼吸を繰り返す。
「す、すみません……」
「あの男とは、学生時代からの知り合いですが、女性に触れるだけで鳥肌がたつ異常体質でね」
 ネクタイをゴミ箱に投げ捨てながら、氷室は言った。
「そういう意味では心配していませんでしたが、まぁ、酷い目にあいましたね。女性を人以下の生物だと思っているような男ですから、逆に、いくらでも残酷になれるのかもしれない」
 ――そういう人だったんだ……。
 成美は、紀里谷のはにかんだ表情や、控え目な微笑などを思い出していた。どこをどうとっても、少しばかり女性に奥手な優しい青年弁護士だった。
 きっとそれは、成美だけでなく、彼の周辺全てに見せていた顔のはずだ。
 月の裏側。
 誰の顔にも裏がある――。 
「氷室さんとは、……どういう?」
「間違っても、恋愛関係ではありませんよ?」
 にこっと笑って氷室は言ったが、その笑い方も声も、抑えた怒りがなお滲んでいるようだった。
「高校の後輩で、少しばかり因縁のある相手ですよ。当時、彼はむしろ僕を憎んでいて、色々嫌がらせをされたものですが――いつの頃からか、犬より従順な男になり下がりましてね」
 そ、そそ、そうですか。
 なんだか、その過程は考えたくもない成美である。
「二年前に司法試験に合格して、先月、灰谷市の事務所に移ってきたのは知っていましたが、面倒で連絡していませんでした。もう判ったと思いますが、なにかと手のかかる、実にややこしい男なのでね。……それで腹を立てて、君に目をつけたのでしょうが」
 氷室の目が、はじめて上辺だけの笑いを消して、成美を冷やかに見下ろした。
「しかし、僕が今怒っているのは、何も紀里谷君にだけではないですよ」
「……私に、ですか」
 おそるおそる、成美は訊いた。とはいえ、漠然と、その気配は感じていた。
 氷室の表情がどこか冷淡で、今も、成美の腕を縛る戒めを解こうともしてくれないからだ。
「他に、誰が?」
 やっぱり――。
 一難去って、また一難。そう言えば、氷室に失礼だろうか。
 なんだか全然、危険な状態から脱していないような気がしなくもない。
「すみません……」
 成美は、泣きそうになって、顔を背けた。
「……私、本当に馬鹿ですね。あんな危険な人を部屋にあげたばかりか、自分で鍵を締めるなんて」
「それ以前に」
 氷より冷やかな口調で、氷室は続けた。
「まず、彼が君に接近してきた経緯から、疑ってかかるべきでしたね。不自然な点は色々あったはずですが、彼のルックスと経歴に迷いましたか」
「ちっ、違いますっ。柏原補佐のことがあったから――」
 それさえなければ私だって――。とはいえ、紀里谷の初恋の人似のルックスや、優しい態度に、確かに成美はほだされていた。そうでなければ、さほど親しくもない男性をこうも信じたりはしなかったろう。
 そうか、判った。それで松下弁護士事務所との合コンの話をした時、氷室は即決で却下したのだ。その時から彼は、紀里谷の意図に薄々勘づいていたのかもしれない。
 そうならそうと言ってくれれば――いや、仮に言われていたとしても、その時の自分は柏原補佐のことで頭がいっぱいだった。何を聞いたとしても、その忠告をまともに聞けていたかどうか。
 ――うう……。私って、本当に馬鹿だ。
 それでこんな目にあって、もし紀里谷が異常体質ではなく普通の男性であったなら、しゃれにならない結末を迎えていたかもしれないのだ。
 もし、氷室さんが来てくれなかったら――ん? そういえば、彼はなんで、この部屋に入っているわけ?
 氷室は無言で立ち上がり、テーブルの上に置かれていた花束と手紙を持ち上げて、それも――さも忌々しげに、ゴミ箱に投げ入れた。
「…………」
 彼の背中が、今、ひどく怒っていることだけが、成美には判った。
 そして、ようやくひとつの疑問が溶けて行くのを感じていた。
 もしかして。
 水南という名前は、もしかして――。
「……あの……」
「…………」
「ごめんなさい……」
「…………」
「今回も、ですけど、私が悪かったです」
「…………」
 彼の背中はしばらく動かなかったが、やがて振り返った彼は、いつもの――少しばかり意地悪い笑みを浮かべていた。
「はからずも、僕の願いが叶いましたね」
「え……はい?」
 抱えあげられた成美は、そのままベッドに下ろされた。
「少し、縛りが甘いな」
「ちょっ、ひ、氷室さん、まさか」
 解くどころか、いっそうきつく、戒めをきりきりと締めあげられる。
 まさか――。
「そんな真似したら、人格疑うっていいましたよね??」
「僕がしたことじゃありませんよ。あくまで、自業自得の結末です」
「そりゃそうかもしれませんけど、普通こんな目にあった彼女に対して――、いっ、いや……っ」
「声が、隣に響くのでは?」
「――っっっ」
 ひ、ひとでなし!
 ある意味、紀里谷以上の非道ぶりに、成美はもう声もでない。
「わ、私っ、氷室さんのこと嫌いになりそうです」
「どうぞ、ご勝手に」
 こんなの、絶対に間違っている。
 ここは、普通、仮に心で怒っていても、まず傷ついた女性を優しくいたわって――なのに、なのに。
 それきり、氷室は無言になる。
 彼がまだ怒っているのは、いつになく荒い愛撫から恐ろしいほど伝わってくる。
「っ……や、ひ、室さん」
 言葉もない。優しさの片鱗すら窺えない。この異常な状況を成美は畏れ、半ば本気で抗ったが、無駄だった。
 それどころか――
「……あ、……」
「僕のことを、嫌いになるのでは?」
 耳元で聞こえる、氷室の声が掠れている。
 成美は恥かしさから顔を背け、スカーフで縛られた両腕で顔を覆った。
「君は、本当に可愛いな」
 薄い唇からわずかに舌をのぞかせて、獲物を食する狩猟者のような目で、氷室は笑った。
「言葉と反応が、真逆ですよ。いつもより、身体も……溶けるほど、熱くなっている」
 違う、と成美は首を振る。が、それが自分の詭弁だということも判っている。
「僕の方が、……少し、おかしくなりそうだ」
 次に成美を襲った衝撃は、声を堪えるのが、いっそ辛いほどだった。
 わずかに双眸を潤ませて、成美は荒々しく動く氷室を見上げた。
 どうしてこの人は、こうも残酷に――容赦なく――私を、追い詰めることができるのだろうか。
 それが、愛なのかひとときの戯れなのかは判らない。
 でも――
 何故だろう。いつもよりなお、この冷たい人を愛おしく感じる。
 この人は、今、多分、何かを忘れたいのだ。
 忘れたくて、そうして私にすがっているのなら――
 縛られた両腕をぎこちなくねじり、成美は、氷室の頭に腕の輪を通した。
 一時動きを停めた氷室が、驚いた目で成美を見おろす。
 何も言わず、成美は氷室の首を自分の方に抱き寄せた。
 氷室さん。
 馬鹿な人。
 こんな真似をしなくても、私はいつだって、あなたの傍にいてあげるのに……。
 

 
「色々……お聞きしたいことがあるんですけど」
「まぁ、そうでしょうね」
 狭い、シングルのパイプベッド。
 暖房をつけても、なお寒い部屋の中で、2人は寄りそって横たわっていた。
 今、何時だろう、と成美は思った。
 月光が、青いカーテン越しに差し込んで、まるで2人して深海の底に沈んでいるようだ。
 あれから、互いにシャワーを浴びて、そしてもう一度、時間をかけて愛し合った。
 こうやって2人で寄り添っていると、もう何時間も――何日も、何年も、いや、この世界の始まりの時から、彼と2人だけだったような気がする。
「私、この部屋をお見せするのが、ずっと恥かしかったんですけど」
 氷室を見上げながら、成美は言った。
「不思議ですね。こうして2人でこの部屋にいると、ここが、すごく素敵な場所に思えてきました。いつまでも、こうしていたいと思うくらい」
「…………」
 それには答えず、氷室は優しく微笑して半身を起こした。
「コーヒーをお願いしてもいいですか」
「あ、はい」
 離れてしまう――その未練が、少しだけ成美を寂しくさせた。
 この夢みたいな空間と時間が、奇跡みたいにずっと、――ずっと続いていればいいのに。
「ご馳走になったら、帰ります。夜が明ければ仕事ですからね」
「はい。判りました」
 そうか。今日は日曜――いや、正確にはもう月曜で、あと数時間したら、出勤時刻だ。
 判っていても、少しばかり辛くなる。いつまでも一緒にはいられない。これが、今の2人の現実なのだ。
「日高さん」
 衣服を身に付けながら、氷室が言った。
「僕の部屋の鍵を、返してもらえますか」
「…………」
 一瞬、自分の表情を翳らせた成美は、すぐにその感情を顔から消して、頷いた。
「そ、そうですね。ずっと預かりっぱなしになっていたから……、お返し、しますね」
 そっか。
 まだ、それなりに、怒ってるって、ことなのか。
 ずっと持っていていいって言われた時より、私たち……後退しちゃったって、ことなのかな。
 成美は引き出しに収めていた氷室の部屋の鍵を取り出し、それを、ベッドに座る彼に差し出した。
「ありがとう」
「……コーヒー、淹れてきますね」
 寂しさと、少しばかりの不安を感じながら、コーヒーの準備を済ませた成美が振り返ると、食卓がわりの丸い小さな座卓の上に、青い、キーホルダーのようなものが置かれている。
「……?」
 歩み寄った成美は、それが北風君――キーホルダー付きの鍵だと知って、今度こそ顔色が変わるのを感じていた。
 鍵――。
 青い北風のキーホルダーをつけた鍵。
 私が、氷室さんのポストにいれた、この部屋の鍵――だ。
 彼がその鍵を使って部屋に入ったことは、察しがついていたが、それが今、テーブルの上に置かれているということは。
「お返ししますよ」
 平然とした声で、氷室は言った。
「そ……ですか」
 いらないということ。つまり、必要ないということなのだろう。
「受け取れないって、ことですか」
「そっちはね」
 何故か優しい苦笑を浮かべた氷室は、自分の掌に乗せたものを、成美の前に差し出した。
 ――え……。
 また、鍵だ。
 これには違うキーホルダーがついている。まん丸な、真っ赤な太陽。
「これは僕の鍵で、君の部屋を開ける鍵」
 小さな太陽を持ち上げながら、氷室は言った。
「今君に返したのは、以前から預けていた僕の部屋を開ける鍵。ただし、キーホルダーはつけかえました。僕に模したものを、僕自身が持つことに、何の意味があるか判らなかったので」
「え、あの、それは」
 まだ意味の判らない成美を見下ろし、氷室はわずかに首をかしげて微笑した。
「このキーホルダーの意味を?」
「え、い、いえ。ただ、氷室さんに雰囲気が似てるなーって思ったから」
「僕はすぐに調べました。先ほども言いましたが、これに何の意味があるのか判らなかったので。もしかすると、隠されたメッセージでも込められているのかと疑ってもみましたし」
「なっ、ないですよ。そんなもの――わ、渡せば判ると思ったから」
 私の気持ち――。
 どんな氷室さんでも受け入れたいと思った、私の気持ちが。
「君が先ほど勘違いしたように、僕も最初、自分が渡した鍵を返されたものだと勘違いしたんですよ。今驚かせたのは、その時のちょっとした意趣返しです。人にものを伝えたいなら、適切な言葉を添えなければ、なんの意味もない」
「…………」
 その言葉の持つ少しばかりの厳しさに、成美は胸を突かれていた。
 そのとおりだ。
 同じタイプの鍵なんて、一見して見分けがつかない。
 氷室は今日、ポストの中に、成美からの手紙を見つけたのだろう。そして、封を開けて中を見た。そこに鍵が入っていたら――まず、自分の鍵を返されたものだと思うだろう。
「特に、僕みたいな融通のきかない朴念仁にはね。――そんな顔をしないでください。僕もその時に気づいたんです。言葉が足りないのは君だけじゃない。僕も、ひどく言葉足らずで、そこからくる気持ちのずれを埋める努力さえしていなかった」
「……氷室、さん」
 優しく肩を抱かれて引き寄せられ、成美はもう、胸がいっぱいになっている。
「努力、してくださるんですか」
「多少はね。してみようという気になりました」
「……でも氷室さん。自分を変えられないと言われたのに」
「そう思っていました。でも、もしかしたら」
 太陽の鍵を持ち上げて、氷室は微かに苦笑した。
「もうとっくに、変わりはじめていたのかもしれないですね。それを僕一人が、認めたくないと頑なに意地を張っていたのかもしれない」
「そうなん、ですか」
 私には、そのあたりはよく判らないけど――
 成美は改めて、返された氷室の部屋の鍵を、そこにぶらさがっている青い北風のキーホルダーを見つめていた。
 もしかして、この人形が、私の部屋だけでなく、あなたの心も開けてくれたのかな……。
「さて、この正体不明の人形ですが」
「あ、はい」
 丸テーブルの上に、太陽と北風のキーホルダーが並べられた。
「調べたところ、北風と太陽という子ども向けアニメーションでした。国営放送でこの春から放送されているそうですが、ヤングミセスを筆頭に、若い女性に大人気だとか」
「そ、そうだったんですか」
 子供もいなければ、流行にとことん疎い成美には、もちろん全くの初耳である。
「冷たく意地悪な北風君に、一途に思いを寄せる天然の太陽ちゃん。北風に恋する冬将軍のレイカ様に、太陽に片思い中の、春一番のハルヒ君。四季を駆ける四人の恋の行方はいかに――公式ホームページ原文ママです。まぁ、俗に言う擬人化ものなのかな」
「あ、擬人化もの、結構面白いですよね」
「知りませんし、どうでもいい。僕はこのホームページを見た時――これは、もしかすると、君の放った皮肉の矢ではないかと思ったほどですよ」
「えっ、ええっ、そんなつもりは、全然」
 成美は大慌てで両手を振った。
 ただ、雰囲気が氷室さんに似ているから――。
 雰囲気。そう、ちょっぴり意地悪で、かっこいい感じの。
「確かに僕は冷たいし、意地悪な男ですからね。いずれにしても、こんなものを僕が身につけている理由がない。身につけるなら――そう、逆でしょう。普通は」
「…………」
 え、もしかして。
 もしかして、それで、この太陽のキーホルダーを、わざわざ買ってくれたんですか。
「なんですか、その笑いは」
「だって、と゜んな顔で買われたのかと思ったら」
「さぁ、どんな顔だったんでしょうね。そんなに笑うほど、おかしいですか」
「違います。嬉しいんです」
「―――っ」
 成美は、驚く氷室の首に両腕を回してしがみついた。
「嬉しいんです。すごく、嬉しい。……氷室さん、大好き!」
 少しばかり戸惑った風ではあったが、氷室はすぐに、成美の背中に手を回してくれた。
「女性は簡単で現金ですね。さっきまで、僕のことを嫌いになると言っていたのに」
「ふふ……。そうです、私は簡単で現金な女なんです」
「たかだか人形くらいで……こんなに喜ばれたのは、初めてですよ」
 そっと唇が触れ合って、キスはすぐに深くなる。
 急速に深まる彼の熱に、成美は少し――嫌な予感がして、顔をあげた。
「ひ、……氷室さん、コーヒーが」
「あとで」
「で、でもあの――今はもう夜中の2時で……」
 氷室はにこっと微笑んだ。
「今日は、仕事を休みましょうか」
「無理ですっ。だ、駄目っ。いや、もう――……」
 ああ……。
 平日だけじゃなく、今度から日曜の夜も駄目ってことにしておかないと。
 でも、そんなこと言えるかしら。
 今だって、本当は氷室さんと、朝までずーっとにいたいと願っているのに――
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。