26
 
  
「大丈夫ですか」
「は……はい」
 電話で話した後、ものの五分で駆けつけてくれた紀里谷は、立ちすくむ成美を心配そうに見下ろしてくれた。
 マンションのエントランス。
 部屋を飛び出したものの、どこにも行き場のない成美は、エントランスの柱の影で、「今から、すぐそっちに行きます」と言ってくれた人を待っていた。
 あのタイミングで、助け舟のような電話をくれた紀里谷である。
「警察には?」
「い、いえ、そんな……大袈裟なことには」
 成美が躊躇いながら首を横に振ると、紀里谷はわずかに溜息をついた。
「通報した方が、間違いないと思いますよ」
「…………」
 そうしたら、氷室に迷惑がかかってしまう。それだけは、絶対に嫌だ。
 再度、紀里谷が溜息をつく。
「何か、事情があるのかもしれませんが、こういうことは最初が肝心なんです。せめて、写真だけでも撮っておきませんか」
「……写真、ですか」
「現場を、保存しておくんですよ。万が一、ストーカー行為がエスカレートした時、警察に動いてもらうためには、全部記録にとっておかないと」
「…………」
 それは――。
 なんだか、話を大袈裟にするようで嫌だったが、弁護士の紀里谷に言われると説得力がある。躊躇いながらも、結局成美は頷いた。
「さしつかえなけれぱ、僕が写真をとりましょう。いざという時は、僕が証人になりますから」
「わかりました。でも――でも、今は本当に、話を大きくしてほしくないんです」
 懸命に言い募る成美に、紀里谷は安堵させるように微笑みかけた。
「わかっていますよ」
 まだ、躊躇いは残っていたが、結局紀里谷の後について、成美は階段を上がっていた。
「エレベーター、ないんですね」
 一見、いかにもエレベーターがありそうなみてくれの建物だけに、内装の貧しさにはとほほである。
「す、すみません。実際は、おんぼろアパートみたいなものなんです」
「はは……、僕も、似たような部屋に住んでいますから」
 頼もしい背中を見ながら、成美はようやくほっとしていた。
 よかった。紀里谷さんから偶然電話がかかってきて。
 今日の顛末を確認するためにかけてくれたそうだが、1人では本当に、どうしていいか判らなかった。しかも弁護士さんなんて――本当に心強い。
「ここなんです」
 なんだか、ノブに手を掛けるのさえ気持ちが悪かったが、忌わしい現場の扉を開ける。
 電気は、つけっぱなしになっている。夢であれば、と思ったが、机の上には赤い花束が置かれっ放しになっていた。成美は顔を背けている。
「じゃあ……失礼します」
 靴を脱いだ紀里谷が室内にあがる。休日でも折り目正しいスーツ姿の彼は、仕事の帰りなのか、片手にビジネスバックを持っていた。
「僕の携帯で撮りますね。もしよければ、日高さんも撮ってください」
「あ、はい」
「それから、念のため、扉に鍵をかけてください。万が一ということもある。部屋に侵入したのが、どういった相手なのか判らないので」
 少し厳しい紀里谷の横顔に、薄らいだ恐怖が再び蘇る。
 ――鍵なんて閉めたって……どうせ、相手は、合い鍵を持っているんだから。
 そう思ったが、紀里谷に危険が及んでもいけない。言うとおり、成美は扉を施錠して、念のためにチェーンをかけた。 
 室内にあがった紀里谷が、自身の携帯で写真を取り始める。
 成美も、おずおずと部屋にあがろうとして――その時、再び電話が鳴った。
 どきん、と心臓が跳ね上がる。
 が、持ち上げた携帯を見た時、成美の緊張は緩んでいた。――雪村主査だ。
「すみません。職場の同僚からです」成美は断って、携帯を耳にあてた。
「どうされたんですか?」
「いや……。ちょっと言い忘れたことがあったから」
 相変わらず雪村の声は沈んでいて、聞いているこっちまで、なんだかブルーになりそうだった。
「金曜に一緒に食事に行ったろ。松下弁護士事務所の弁護士2人と。あいつら、何? お前と一体どういう知り合い」
「え、どうもこうも……」
 成美はちらっと部屋の中にいる紀里谷を見た。
 彼は花束の傍らにしゃがみこんで写真を撮っており、成美には無関心のようである。
「なったばかりですけど、お友達です。あの――あの夜は、嘘をついて、すみませんでした」
「いや、んなことどうでもいいけど。――紀里谷って人は別にして、宮原って男は、弁護士じゃないぞ」
「えっ」
「職務上知り得た秘密を喋りすぎ――弁護士、ならな。あんな口の軽い奴が弁護士なわけないと思って、ちょっと俺、調べたんだ。宮原要なんて男は、灰谷市の弁護士名簿に名前がなかった」
「…………」
 どういう、意味?
「それだけとっても、得体が知れない連中なんだ。あまり、お前みたいな子供が関わり合いになるなよ。それに――」
「……それに?」
 雪村は言いにくそうに黙っていた。成美もまた、渦巻く不安で、胸が重く塞がれている。
 紀里谷さんは、確かに宮原さんのことを弁護士だと言って紹介してくれた。それが、――それが嘘だった?
「俺の勘に狂いがなければ、あいつら、ノーマルな連中じゃない。だからどうだって話じゃないけど、あまり連中と関わるなよ」
「え、ノーマル?」
「俺は、ああいう輩に、昔っから、嫌と言うほど追いかけ回されてきたんだ。あの夜俺が取った行動は、言ってみれば自己防衛だ。――それだけだ、じゃあな」
「えっ、ちょっと待ってください。雪村さん?」
 電話は切れて、それきりだった。
 どういうこと――?
 ノーマルじゃないって、どういう意味?
 そもそも、紀里谷さんが、宮原さんを弁護士だって紹介した意味は――。
「日高さん」
「はっ、はい」
 何故かびくっと肩を震わせて、成美は振り返っていた。
 にこっと紀里谷は、彼らしい笑顔になる。
「月の裏側を、あなたは見たことがありますか」
「え……?」
 月の、裏?
「月はね、常に地球に同じ面を向けているから、地球からは、決してその裏面を見ることはできないんです。不思議な話だとは思いませんか」
 彼の笑顔はそのままなのに、何故か不気味な感じに気圧されて、成美は後ずさっていた。
「僕らは夜ごと月を見ている。形も周期もよく知っている。なのに、それは月の表の顔であって、決して裏の顔ではない」
「…………」
「人にもね。日高さん」
 成美は咄嗟に、背後の扉のノブに手をかけていた。鍵――しまった、ご丁寧に、チェーンロックまでかけている。
 慌てて鍵を外そうとした手を、上からやんわりと掴まれる。成美はもう、恐怖で息もできないでいる。
「決して見えない、裏の顔というものがある。誰にも――君がよく知っていると信じている人にも、ね」
 眼鏡を外し、紀里谷は静かに微笑した。
 切れ長の目。形のいい顎と唇。筋のとおった鼻――。
「……ミナ、さん?」
 成美は咄嗟に呟いて、その瞬間、それが真実だと理解した。
「あたり」
 にこっと紀里谷は、掠れた笑いを唇から洩らした。
「もうちょっと早く気づくと思ってたんだけどな……。面白かったけど、ゲームは、これで終わりだね」
 初めてその口調に、関西訛りが滲みでた。もう、間違いない。あの夜に訊いた水南の声だ。
「……男、の、人ですよね」
 成美はそれだけを聞いていた。血の気が引いて、眩暈がした。
 まさか――まさか、紀里谷がその人だったとは。
 雪村の推理は、当たっていた。役所の屋上で見た女性と黒服の女は、全くの別人だったのだ。
 おかしそうに、紀里谷は笑った。
「男だよ? あんたが自ら部屋に招き、自らの手で鍵を締めた。後で現場を調べたところで、その鍵からは、俺の指紋はでてこない。――法律的にそれがどんな意味を持つか、頭の悪いあんたに判るかな?」
「…………」
「ここで何があったとしても、合意の上だったって、こ、と」
 成美は叫んで逃げようとしたが、口を塞いで押さえこんだ男の動きの方が早かった。
「いや……っ、離してっ」
 組み敷かれながら、成美は懸命にかぶりを振った。
「な、なんで、こんな真似をするんですかっ」
「なんで? 天さんのことが好きだからに決まってんだろ」
 天さん? それはもしかしなくても氷室さんのこと?
 一瞬、は? と、思ったが、すぐに雪村の電話のことが思い出された。ノーマルじゃない……つまり、つまりはそういうことだ。
「へ、変態!」
 紀里谷の端正な顔が、苦く歪む。
「よくこの状況で、そんなセリフが言えたもんだな。俺が変態なら、天さんも同類じゃないか」
「あっ……」
 腕をねじられ、成美は恐怖と痛みで悲鳴をあげた。
 が、声を出せたのはそこまでで、口は、紀里谷の外したネクタイで塞がれる。
「騒ぐなよ」
 凄味を帯びた声は、もう彼の本性なのかもしれない残忍さを隠そうともしていない。
 成美の首からスカーフが抜かれ、両手首を重ね合わせるようにして縛られる。床に転がったままの成美は震えながら、覆いかぶさる男を見上げた。
 大丈夫――。
 心臓が、恐怖と不安で波打っている。
 なにか、されるわけじゃない。この人は、つまるところ同性愛者で、私に、手は出さないはずだ。
 じゃあ、何故こんな真似をするんだろう。もしかして、殺すため? まさか――まさか。
 紀里谷が実際に弁護士であることは間違いない。いくらなんでも、恋敵を殺すほど直情的だとは思えない。
「……安心してるだろ。俺が、ゲイだから」
 薄らと影になった紀里谷は笑った。
 その手は、成美の腰のあたりをくすぐるように撫でている。
「でも残念なことに、俺ってバイセクシャルなんだよねー。18でカミングアウトするまで、女とフツーにつきあってたし、今だってフツーに勃ってるし。あんたは好みの対象外だけど、天さんに抱かれた女というだけで、俺に犯される価値がある」
 な、なんて勝手な――。
 涙目になって成美は男を睨みつけたが、のしかかられ、両腕を縛られた状態では、もう何もできそうもない。
 鍵は内部からチェーンロックをかけており、口も塞がれて声も出ない。
 助けは――どこからも、きそうもない。
「俺と同じで、天さんにもまた、絶対に他人に見せない顔があるのさ」
 成美を見下ろしたまま、笑うような声で、紀里谷は続けた。
「天さんがどれだけ非情な男か、あんたはまるで知らないんだろうね。あの人は、いわば天性のハンターで、一度狩って食べ尽くした獲物には、もう二度と目もくれない。俺の姉さんもそうやって捨てられたし、俺だって、飽きられた途端にお払い箱だ」
 紀里谷の手が腿に触れる。成美は首を振って細く呻いた。
「そう、つまり俺は、天さんのことを恨んでいる。これは、ちょっとした意趣返しの意味もあるんだ。判るかな?」
 判らない。判るはずもない。
 何もかも勝手な理屈で、思い込みだ。
 が、暴れる足を力一杯抑えつけられ、力尽きた成美は観念して顔を背けた。ベルトを外す禍々しい音が死刑執行人の足音のように虚ろに響く。
 まさか――想像さえしていなかった。紀里谷さんが、紀里谷さんが――こんな――。
 しかし、何度も夢だと思っても、腹部を圧迫する重みも、縛られた両腕の痺れも、全てが現実に違いなかった。
「女の身体って、妙にふにゃふにゃして苦手なんだよねー。前戯は割愛すっけど、構わないよね?」
 耳元で囁く紀里谷の声は、完全にこの状況を楽しんでいる。
 悔しさと恐ろしさと絶望で、涙が一筋、鼻の脇を伝って零れた。
 氷室さん、ごめんなさい。
 もう、何をしたって、二度とあなたには会えないですね。
 私……私、……もう、このまま、死んじゃいたい……。
「なんで、女装したのか教えてやろうか。俺はゲイだがオカマじゃない。あれは、お前に思い知らせるためにしたことだ」
 なに、を……?
「天さんの、心の裏側には」
 紀里谷の指が、嘲笑うように、成美の髪を弄んだ。
「昔っから1人の女が住んでいて、他の誰もその裏側に入ることはできないんだ。あんたが天さんの何もかもを知ったと思っているなら、それは大いなる錯覚だよ。俺は、あんたにそのことを、まず思い知らせてやりたかったんだ」
 ――誰……?
 成美は何故か、その女のことを知っているような気がしていた。
 そうだ、彼の心には、最初から別の人が住んでいる。
 それは――それは、思い違いでなければ。
「お前みたいな、なんのとりえもない女が、天さんの彼女面をして、ふんぞりかえっている。腹立たしくて、仕方がない」
 紀里谷の口調に、突然怒りが滲み出た。
「だいたい、天さんが、お前みたいな女のことを本気で」
「僕が何か?」
 水が流れる音がして、脱衣場の扉がいきなり開いた。
 

  
「すみません。洗面台をお借りしました。ついでにバスの掃除も済ませておきましたよ」
 ハンカチを手にした氷室がそこに立っていた。
 彼は目元に微笑を滲ませ、異常なほどの穏やかさで、床でもつれあう2人を見下ろしている。
 成美はぽかんと口を開け、――おそらく紀里谷は、それ以上に開けていた。
「やぁ、久しぶりですね。紀里谷君」
「た、……たた、天、さん」
 紀里谷が、みるみる蒼白になるのが、成美には判った。
 氷室は、にこっと笑うと、わずかに首をかしげるような仕草を見せた。
「……ズボンのチャックが開いていますよ。昔からだらしのないところがありましたが、相変わらずですねぇ」
 成美にしても、氷室の笑顔に、ここまで恐怖をあおられたのは初めてだった。まるで、青白いオーラが、彼の目といわず全身を包みこんでいるかのようだ。
 氷室の目が、すうっと糸のように細められた。
「一度、教育しなおした方がいいのかな……」
「い、いえっ、ほんと、そのっ、――これは――ちょっとした――悪戯心で!!」
 飛ぶように成美から離れた紀里谷は、いきなりがばっと、頭を下げた。
「たっ、天さんだって知ってるじゃないっすか。お、俺、女は駄目なんです。脅かしてただけで、何もできやしませんよ! 今だって、ど、どうやって、引いたらいいのか、それで迷ってたくらいで」
「へぇ」
「いくらメールいれても、天さんが連絡してくれないから――。お、俺だって、寂しかったんです。天さん追いかけて、こんな田舎くんだりまできたのに、あんまりな扱いじゃないっすか」
「へぇ」
「……いや…………、だから…………」
「…………」
「…………」
 もはや、その沈黙は死に等しかった。
「少し外で話しましょうか」
 死微笑みたいな笑顔のまま、氷室は言った。
「え、……あ、はい……」
 もはや、紀里谷は、死者の世界の人だった。首に紐をつけられて、ひっぱられているようなものである。
 ふらふらと立ち上がった彼は、まるで見えない糸に引っ張られでもしているかのように、氷室の後をついて、部屋を出て行った。
 成美はただ、あっけにとられたまま、転がっている。
 え……?
 氷室さんが、なんで私の部屋の中に?
 あれ、幻じゃなかったら、脱衣場の扉だった、よね?
 え? ええ? どういうこと?
 バラの花といい、氷室の出現といい、この部屋、どこかに抜け道があった?
 ――てか、氷室さん。
 成美は息苦しさで、わずかに呻いた。
 助けに来てくれたのなら、まず、私の戒めを解くのが先なんじゃないかと思うんですが……。
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。