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「同意の上よ。少なくとも途中までは。どう考えても女性側に不利だから、裁判で争うつもりはないけれど」
 この女って……。
 沢村は唖然としながら、普段通りの表情で上着の前をあわせる柏原を見下ろした。
 俺がちょっと遅かったらどうなってたか――。
 俺ですら、我を忘れるくらい凄惨な状況だったのに、何故だ? 泣きも震えもしていないじゃないか。
 その柏原の表情に、ふと不審の色がかすめる。
「まさか、沢村さんもドライブ?」
「はっ……? いや、……まぁ、俺はたまたま、ツーリングの最中で」
 振り仰がれ、思わず沢村は目を泳がせていた。
「休みの日はバイクで遠出して、この砂浜でぼんやりして過ごすんです。車に乗ったアベックはやたら見かけるけど、何か――不穏な空気感じたんで。そしたら知ってる顔だったし、こっちこそ吃驚しましたよ」
「……それは。……まぁ、その偶然には、感謝、ね」
 もちろん、全部嘘だったし、柏原も全てを信じている風ではなかった。
 ホテルの前からずっとついてきたと言ったら、この女はどう思うだろう。
 肝心のところで見失ったけど、最後の最後で、間に合って本当によかった。危険な相手だと聞いてはいたものの、正直、いきなりこんな展開になるとは思っていなかったのだが。
「本当に、警察に届けないんですか」
「届けない」
 きっぱりと言った柏原は、足元に転がったバックを掴んでようやく車外に降り立った。
「それより、一刻も早く逃げた方がいいのでは? 警察を呼ばれて、困るのは沢村さんの方でしょう」
「補佐は」
「……この手錠を、なんとかしなければ。これじゃタクシーも拾えない」
 さすがの柏原も手錠には困惑しているのか、眉根を寄せて自分の両手を見つめている。
「……自分、鍵屋に知り合いがいるんで、よかったら連れて行きますよ」
「そう? じゃあ悪いけれどお願いするわ」
 頬に鮮血が散っていた。
 上着を羽織っても、白い胸元がむき出しになっている。首には青いあざ、頬にも微かな擦り傷ができている。
 誰がみても――暴行された形跡だと推測できるだろう。
 しばらく、名状しがたい思いで、その姿を見ていた沢村は、おもむろに上着を脱いだ。
「サイズ、でかすぎると思うけど」
「……ありがとう」
 少し意外そうに目を開いた柏原は、初めてわずかに表情を緩めた。
「でも、無理ね。袖に腕を通せないから」
「…………」
 沢村は無言で、上着を女の肩にかぶせ、両袖をしばって胸元だけを隠してやった。
「ヘルメット、あるんで……バイクの後ろで、いいですか」
「乗ったことはないけれど……。でも、この腕じゃ何も掴めないし、2人乗りは危険なのでは?」
 不服そうに唇をとがらせた柏原が、両腕を前に持上げる。
 その表情が、始めてみるような子供じみた可愛らしいものだったので、沢村は――その刹那、美貌の上司を抱きしめて、思う様口づけたいという衝動に激しいほど突きあげられた。
 今なら……それも、可能な状況だ。
 誰もいない海岸。薄闇に包まれた空。
 抵抗する術も体力もなく、ただ安心して自分を頼り切っている女――。
「そうだ。電話」
 ふと、気づいたように、柏原はバックからもどかしそうに携帯電話を取り出した。
「? 雪村さんから入っている。職場で何かあったのかもしれないので、少し待っていて」
「……どうぞ」
 夢にみるまで願った状況がここにある。
 なのに俺は、何をしている?
 そもそも一体何がしたくて、こんなところまで来てしまったんだ? 俺は。
 俺の――本来の目的は。……
 束の間の葛藤は、しかし、電話を終えた柏原が戻ってくると同時に、引き潮のように消えていた。
 やめた。
 こんなに酷い目にあった女を、これ以上どうこうしようなんて、それは人間のする振舞いじゃない。
「タクシーにしましょうか」
 オートバイを振り返りながら、沢村は言った。
 もともと2人乗りを想定していなかったオフロードタイプのオートバイは、確かに走行時に運転手にすがれなくては、少しばかり危険には違いない。
「慣れた奴なら、乗れないこともないっすけど、補佐が乗り慣れてないなら、少し危ないかもしれないです」
「いや、いいことを思いついた。……少しばかり、迷惑な方法かもしれないけど」
「迷惑?」
「私にヘルメットを、それから先に乗ってもらえる?」
 訝しく思いながらも、沢村は柏原の頭にヘルメットを被せ、自分が先にオートバイに跨った。
 その背後に、続いて座った柏原が、手錠で繋がれた腕を――ゆっくりと沢村の首にまわす。
「えっ、ちょっ、何を」
「ごめん。ちょっと、我慢して」
 うっ、そこでいきなり女らしい声を出されても。
 凪いだ海にさざ波がそよいでいる。互いが被ったヘルメットがカチカチと音をたてる。
 ヘルメットを脱いでいなくて正解だった。いや、最初から脱げなかった。自分の目を――今夜だけは、どうしても相手に見られたくなかったから。
 回された腕は肩のあたりを窮屈にすり抜ける。ようやく女の意図を解した沢村は、肩をすぼめるようにして、自分の両腕を、女の腕の輪から抜き去った。
 極限まで密着した身体が、不意にまた離れていく。
 繋がれた両腕を沢村の腰に回すと、柏原はようやく安堵したように息を吐いた。
「申し訳ないけど、このままでお願いしてもいい?」
「…………」
 答えず、沢村はバイクのアクセルを蹴りあげた。
 無神経なのか無防備なのか――はたまた、俺を男して見ていないのか。
 それなのに、これっぽっちのことで、心臓が躍るほど動揺している俺って……
「さっきの電話、なんだったんですか」
「さぁ? よく判らなかった。雪村さんは日高と一緒で、2人とも、私のことを心配してくれていたようだったけど」
「……へぇ」
 そっか。もともとのリソースは日高だったな。
 癪に障るが……今回ばかりは、礼をしておくか。
 まぁ、俺なんかが来なくても、この人なら自分で切り抜けたかもしれないし。案外、この程度のことなら、なんでもなくスル―する人なのかもしんないけど。
「んじゃ、しっかり捕まっててください」
 アクセルをいれようとして、ふと沢村は気がついていた。
 臍のあたりで組み合わされた女の指が、――震えている。
 その震えを堪えるように、何度も、指を組みなしている。
「…………」
 自然に、無意識に、沢村は自分の指を、女の指に重ねていた。
 風がそよぎ、しばらく穏やかな沈黙があった。
「本当に、偶然……?」
「え……?」
「いや、なんでもない。……ありがとう」
「…………」
 神なんて、信じたこともないけれど。
 もしいるなら、なんでもするから叶えてほしい。
 この奇跡みたいな時間が、少しでも長く続けばいいのに――。
 
 
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 まぁ、とにもかくにも、柏原補佐は無事だった――みたいだ。
 雪村からの電話を切った成美は、首をかしげながら自室へ続く階段を上がった。
 それにしても、一体何があったんだろう。
 別の出口から外に出たというだけで、どうして雪村が、ああも血相を変えたのか――。
(電話通じて、無事だって判ったから。結局は、何もかも俺ら2人の勘違い。そういうことだからな)
 説明はそれだけで、雪村の口調も相当疲れていたようだったから、成美もそれ以上何もきけなかった。
 ――明日、補佐には謝ろう。
 余計な詮索をして、おせっかいをやいた。
 あの補佐のことだ。成美が同じホテルにいたことを、偶然で片付けてはくれないだろう。
 ――叱られるだろうな。それどころか口を聞いてももらえないかも。……うう、本気でへこみそう……。
 それもまた、経験かな。
 氷室さんに会ったらなんて報告しよう。何もかもあなたの言うとおりで、私の空回りに終わりましたって……。
 うう。またへこみそう。……まぁ、何もかも、自分で撒いた種だけど……。
「…………」
 そういえば、今日一日、何ひとつ反応を返してくれなかった携帯を見つめ、成美はそっと溜息をついた。
 ――氷室さん……怒ってるのかな。あまり、そのことは考えないようにしてきたけど。……
 鍵を開けて自室に入った成美は、えっと、思わず声をあげてしまう所だった。
 ――なに……?
 机の上に、薔薇の花束が置いてある。
 えっ、まさか――氷室さん? でも、まさか――まさか、でも。
 期待とも不安ともつかない気持ちのまま、成美は小さなテーブルの傍に駆け寄った。
 花束の下には手紙。急いで封を切ってみる。
 その瞬間、成美は凍りついていた。
 

「探偵ごっこ、おつかれさま。天と別れてくれてありがとう。 水南より」
 

 ……なに、これ。
 水南……、ミナ。
 じゃあ、ミナって人が、勝手に部屋に上がったってこと?
 血の気が引いた成美は、花束を逆さにし、テーブルの周辺をくまなく見たが、鍵らしいものはどこにも落ちていなかった。
「…………」
 鍵は、きちんと閉まっていた。ここは四階で、窓から入って来られるはずがない。
 なのに、テーブルの上に置かれた花束と、手紙。
 冗談でしょ。
 なにこれ。なにこれ――気持ち悪い。
 今さらのように思い出される。ミナと名乗る女と初めて会った夜も、確か成美の自宅前だった。
 あの人は――私のことなら、なんでも知っているということ?
 今日あったことも? というより、なんで私の部屋の鍵を持っているの?
 考えられることはひとつだけで、それ以外に答えなどどこにもなかった。
 成美のやっていることを知っていて、この部屋の合鍵を持っているのは、1人だけだ。
 ――氷室さん……
 今朝、雪村との待ち合わせの場所に行く前に、成美は氷室のマンションに寄ったのだ。
 そして、彼の部屋のポストに、鍵の入った封筒を入れた。この部屋の鍵――それが、氷室の問いかけに対する、自分の答えのつもりだったから。
 立ち上がり、成美はよろめいて後ずさった。
 やだ。
 怖い――。
 もう、何を信じていいか判らない。
 その時、がたり、と窓が揺れた。
 弾かれたように、成美は振り返っている。もう、部屋にいることさえ、恐ろしかった。どこかに――水南が真っ黒の衣装に身を包み、潜んでいるような気がしたからだ。
 ――どうしよう。
 ひとまず、警察に……。
 ああ、でもそれで氷室に迷惑がかかってもいけない。一体どうすればいいんだろう。
 その時、いきなり置いていたバックの中の携帯が震えた。
 成美は息だけをして、視線をおそるおそるバックの方に、向ける。
 ――誰……?
 もしかして、水南さん……?
 まだ、電話が鳴り続けている。
 成美は身じろぎもせずに、その場に立ちすくみ続けてきた。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。