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24
「同意の上よ。少なくとも途中までは。どう考えても女性側に不利だから、裁判で争うつもりはないけれど」
この女って……。
沢村は唖然としながら、普段通りの表情で上着の前をあわせる柏原を見下ろした。
俺がちょっと遅かったらどうなってたか――。
俺ですら、我を忘れるくらい凄惨な状況だったのに、何故だ? 泣きも震えもしていないじゃないか。
その柏原の表情に、ふと不審の色がかすめる。
「まさか、沢村さんもドライブ?」
「はっ……? いや、……まぁ、俺はたまたま、ツーリングの最中で」
振り仰がれ、思わず沢村は目を泳がせていた。
「休みの日はバイクで遠出して、この砂浜でぼんやりして過ごすんです。車に乗ったアベックはやたら見かけるけど、何か――不穏な空気感じたんで。そしたら知ってる顔だったし、こっちこそ吃驚しましたよ」
「……それは。……まぁ、その偶然には、感謝、ね」
もちろん、全部嘘だったし、柏原も全てを信じている風ではなかった。
ホテルの前からずっとついてきたと言ったら、この女はどう思うだろう。
肝心のところで見失ったけど、最後の最後で、間に合って本当によかった。危険な相手だと聞いてはいたものの、正直、いきなりこんな展開になるとは思っていなかったのだが。
「本当に、警察に届けないんですか」
「届けない」
きっぱりと言った柏原は、足元に転がったバックを掴んでようやく車外に降り立った。
「それより、一刻も早く逃げた方がいいのでは? 警察を呼ばれて、困るのは沢村さんの方でしょう」
「補佐は」
「……この手錠を、なんとかしなければ。これじゃタクシーも拾えない」
さすがの柏原も手錠には困惑しているのか、眉根を寄せて自分の両手を見つめている。
「……自分、鍵屋に知り合いがいるんで、よかったら連れて行きますよ」
「そう? じゃあ悪いけれどお願いするわ」
頬に鮮血が散っていた。
上着を羽織っても、白い胸元がむき出しになっている。首には青いあざ、頬にも微かな擦り傷ができている。
誰がみても――暴行された形跡だと推測できるだろう。
しばらく、名状しがたい思いで、その姿を見ていた沢村は、おもむろに上着を脱いだ。
「サイズ、でかすぎると思うけど」
「……ありがとう」
少し意外そうに目を開いた柏原は、初めてわずかに表情を緩めた。
「でも、無理ね。袖に腕を通せないから」
「…………」
沢村は無言で、上着を女の肩にかぶせ、両袖をしばって胸元だけを隠してやった。
「ヘルメット、あるんで……バイクの後ろで、いいですか」
「乗ったことはないけれど……。でも、この腕じゃ何も掴めないし、2人乗りは危険なのでは?」
不服そうに唇をとがらせた柏原が、両腕を前に持上げる。
その表情が、始めてみるような子供じみた可愛らしいものだったので、沢村は――その刹那、美貌の上司を抱きしめて、思う様口づけたいという衝動に激しいほど突きあげられた。
今なら……それも、可能な状況だ。
誰もいない海岸。薄闇に包まれた空。
抵抗する術も体力もなく、ただ安心して自分を頼り切っている女――。
「そうだ。電話」
ふと、気づいたように、柏原はバックからもどかしそうに携帯電話を取り出した。
「? 雪村さんから入っている。職場で何かあったのかもしれないので、少し待っていて」
「……どうぞ」
夢にみるまで願った状況がここにある。
なのに俺は、何をしている?
そもそも一体何がしたくて、こんなところまで来てしまったんだ? 俺は。
俺の――本来の目的は。……
束の間の葛藤は、しかし、電話を終えた柏原が戻ってくると同時に、引き潮のように消えていた。
やめた。
こんなに酷い目にあった女を、これ以上どうこうしようなんて、それは人間のする振舞いじゃない。
「タクシーにしましょうか」
オートバイを振り返りながら、沢村は言った。
もともと2人乗りを想定していなかったオフロードタイプのオートバイは、確かに走行時に運転手にすがれなくては、少しばかり危険には違いない。
「慣れた奴なら、乗れないこともないっすけど、補佐が乗り慣れてないなら、少し危ないかもしれないです」
「いや、いいことを思いついた。……少しばかり、迷惑な方法かもしれないけど」
「迷惑?」
「私にヘルメットを、それから先に乗ってもらえる?」
訝しく思いながらも、沢村は柏原の頭にヘルメットを被せ、自分が先にオートバイに跨った。
その背後に、続いて座った柏原が、手錠で繋がれた腕を――ゆっくりと沢村の首にまわす。
「えっ、ちょっ、何を」
「ごめん。ちょっと、我慢して」
うっ、そこでいきなり女らしい声を出されても。
凪いだ海にさざ波がそよいでいる。互いが被ったヘルメットがカチカチと音をたてる。
ヘルメットを脱いでいなくて正解だった。いや、最初から脱げなかった。自分の目を――今夜だけは、どうしても相手に見られたくなかったから。
回された腕は肩のあたりを窮屈にすり抜ける。ようやく女の意図を解した沢村は、肩をすぼめるようにして、自分の両腕を、女の腕の輪から抜き去った。
極限まで密着した身体が、不意にまた離れていく。
繋がれた両腕を沢村の腰に回すと、柏原はようやく安堵したように息を吐いた。
「申し訳ないけど、このままでお願いしてもいい?」
「…………」
答えず、沢村はバイクのアクセルを蹴りあげた。
無神経なのか無防備なのか――はたまた、俺を男して見ていないのか。
それなのに、これっぽっちのことで、心臓が躍るほど動揺している俺って……
「さっきの電話、なんだったんですか」
「さぁ? よく判らなかった。雪村さんは日高と一緒で、2人とも、私のことを心配してくれていたようだったけど」
「……へぇ」
そっか。もともとのリソースは日高だったな。
癪に障るが……今回ばかりは、礼をしておくか。
まぁ、俺なんかが来なくても、この人なら自分で切り抜けたかもしれないし。案外、この程度のことなら、なんでもなくスル―する人なのかもしんないけど。
「んじゃ、しっかり捕まっててください」
アクセルをいれようとして、ふと沢村は気がついていた。
臍のあたりで組み合わされた女の指が、――震えている。
その震えを堪えるように、何度も、指を組みなしている。
「…………」
自然に、無意識に、沢村は自分の指を、女の指に重ねていた。
風がそよぎ、しばらく穏やかな沈黙があった。
「本当に、偶然……?」
「え……?」
「いや、なんでもない。……ありがとう」
「…………」
神なんて、信じたこともないけれど。
もしいるなら、なんでもするから叶えてほしい。
この奇跡みたいな時間が、少しでも長く続けばいいのに――。
25
まぁ、とにもかくにも、柏原補佐は無事だった――みたいだ。
雪村からの電話を切った成美は、首をかしげながら自室へ続く階段を上がった。
それにしても、一体何があったんだろう。
別の出口から外に出たというだけで、どうして雪村が、ああも血相を変えたのか――。
(電話通じて、無事だって判ったから。結局は、何もかも俺ら2人の勘違い。そういうことだからな)
説明はそれだけで、雪村の口調も相当疲れていたようだったから、成美もそれ以上何もきけなかった。
――明日、補佐には謝ろう。
余計な詮索をして、おせっかいをやいた。
あの補佐のことだ。成美が同じホテルにいたことを、偶然で片付けてはくれないだろう。
――叱られるだろうな。それどころか口を聞いてももらえないかも。……うう、本気でへこみそう……。
それもまた、経験かな。
氷室さんに会ったらなんて報告しよう。何もかもあなたの言うとおりで、私の空回りに終わりましたって……。
うう。またへこみそう。……まぁ、何もかも、自分で撒いた種だけど……。
「…………」
そういえば、今日一日、何ひとつ反応を返してくれなかった携帯を見つめ、成美はそっと溜息をついた。
――氷室さん……怒ってるのかな。あまり、そのことは考えないようにしてきたけど。……
鍵を開けて自室に入った成美は、えっと、思わず声をあげてしまう所だった。
――なに……?
机の上に、薔薇の花束が置いてある。
えっ、まさか――氷室さん? でも、まさか――まさか、でも。
期待とも不安ともつかない気持ちのまま、成美は小さなテーブルの傍に駆け寄った。
花束の下には手紙。急いで封を切ってみる。
その瞬間、成美は凍りついていた。
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「探偵ごっこ、おつかれさま。天と別れてくれてありがとう。 水南より」
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・
……なに、これ。
水南……、ミナ。
じゃあ、ミナって人が、勝手に部屋に上がったってこと?
血の気が引いた成美は、花束を逆さにし、テーブルの周辺をくまなく見たが、鍵らしいものはどこにも落ちていなかった。
「…………」
鍵は、きちんと閉まっていた。ここは四階で、窓から入って来られるはずがない。
なのに、テーブルの上に置かれた花束と、手紙。
冗談でしょ。
なにこれ。なにこれ――気持ち悪い。
今さらのように思い出される。ミナと名乗る女と初めて会った夜も、確か成美の自宅前だった。
あの人は――私のことなら、なんでも知っているということ?
今日あったことも? というより、なんで私の部屋の鍵を持っているの?
考えられることはひとつだけで、それ以外に答えなどどこにもなかった。
成美のやっていることを知っていて、この部屋の合鍵を持っているのは、1人だけだ。
――氷室さん……
今朝、雪村との待ち合わせの場所に行く前に、成美は氷室のマンションに寄ったのだ。
そして、彼の部屋のポストに、鍵の入った封筒を入れた。この部屋の鍵――それが、氷室の問いかけに対する、自分の答えのつもりだったから。
立ち上がり、成美はよろめいて後ずさった。
やだ。
怖い――。
もう、何を信じていいか判らない。
その時、がたり、と窓が揺れた。
弾かれたように、成美は振り返っている。もう、部屋にいることさえ、恐ろしかった。どこかに――水南が真っ黒の衣装に身を包み、潜んでいるような気がしたからだ。
――どうしよう。
ひとまず、警察に……。
ああ、でもそれで氷室に迷惑がかかってもいけない。一体どうすればいいんだろう。
その時、いきなり置いていたバックの中の携帯が震えた。
成美は息だけをして、視線をおそるおそるバックの方に、向ける。
――誰……?
もしかして、水南さん……?
まだ、電話が鳴り続けている。
成美は身じろぎもせずに、その場に立ちすくみ続けてきた。
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