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「……日高さん?」
 サニタリーから出てきた柏原明凛は、当然ながら驚いた顔で眉をあげた。
「えっ、柏原補佐?」
 しらじらしいかな、と思いつつも成美は思いっきり驚いてみせた。
「どうされたんですか? こんなところで偶然会うなんて、びっくりです。あ、私は、友達と食事に来てて」
「……私もよ」
 微かに笑んで、柏原は手を洗うと、ハンカチで丁寧に指先を拭った。
「どうぞ、空いているけど」
「いっ、いえ。その……化粧直しに入っただけなので」
 本当は、席を立った補佐をおいかけてここまで来た。雪村は男の方を追いかけて行ってしまったし、偶然を装って話しかけるなら、今がチャンスだと思ったのだ。
「もしかして、この前言っていた人とデートですか?」
 冗談めかして言ったつもりが、やや声が上ずってしまっている。不自然な態度を見抜かれそうでドキドキしたが、柏原の表情は変わらなかった。
 黒い上着に、黒のパンツ。眩しいほどに白いシャツ。そして素顔。なんのことはない、職場と何ひとつ変わらない姿である。
「……そんないいものでもない。日高さんこそ、氷室さんと一緒?」
「ち、違います。いくらなんでも、こんな大胆な場所じゃ会えませんし」
「そう」
 相変わらずの、能面のような冷淡な表情だが、口調はどこか優しく聞こえた。
「じゃ、お先に」
「あの、補佐」
 背を向けた柏原に、成美は咄嗟に声をかけていた。
「……相手、補佐の、好きな人なんですよね?」
 振り返った柏原は、少しばかりその目に険を滲ませていた。
 たちまち成美の勇気は霧散し、下心を見抜かれた動揺で、しどろもどろになっている。
「どういう意味?」
「あ、いえ……その」
「課内であれこれ言われているからだろうけど、余計な推測で心配されても迷惑よ」
 冷徹な口調で、柏原はきっぱりと言い切った。
 今ほど自分のしていることが、馬鹿みたいにみっともなく思えたこともない。言葉が出ない成美がうなだれていると、微かに柏原の溜息が聞こえた。
「今は好きではない。でも、いまから好きになりたいと思っている相手だから」
 ――え……。
 何も言えない成美を残して、小気味良い足音が去っていく。
 成美はしばらく黙ったまま、身じろぎもできなかった。
 

 
「遅いですね。柏原補佐」
「まぁ、デートだからな。話も弾んでるんじゃないか?」
 食事が始まってから、かれこれ一時間半が過ぎようとしている。
 一度席を立ってからというもの、雪村はとんでもなく無口で不機嫌で、さすがの成美も、もう話しかける糸口さえ見つからなかった。
 無駄なことにつき合わされて怒っているのでは――とも思ったが、そのくせ雪村の目は間断なく個室の扉あたりを窺い、まるで目付の悪さを隠そうともしない刑事のようだ。
 成美もまた、沈み込んだ気持ちのままだった。
 もちろん、雪村に言えるわけがないが、なにもかもが氷室の推測どおり――そして雪村が思っていたとおり、柏原補佐は、最初から周囲の心配さえ拒否していたのである。
 それは、そうだよね。
 成美程度でも知っていた話を、補佐が知らないはずがない。
 何か理由があるんだし、考えがあったんだろう。
 それに――そもそも成美みたいな、友人でもない他人が、首を挟むことではなかったのだ。
「雪村さん」
「ん?」
「ここ……奢りますね。マジで」
「? なに、当たり前のこと言ってんだよ」
 ――雪村主査には悪かったけど、無駄なことさせちゃったな。
 せめて、食事代くらい出さないと、申しわけなさすぎる。
 本当は、もう帰りましょうと言いたいところだけど、それも今となっては説明しづらいし……。
 食事は残すところデザートのみ。時間稼ぎに何度もお代わりしたパンを口に運ぶ雪村を見て、ふと先日のことを思い出した成美は訊いていた。
「そういえば洋食、大丈夫なんですか?」
「は?」
「だって、洋食は胃にくるから駄目だって。正露丸、飲まれなくていいんですか」
 ぶっと雪村が吹き出した。
「ばっ、お前、まさか本気にしてんのか」
「……本気?」
 顔を赤くした雪村が、ナプキンで口を拭った。
「あのキモい連中と一緒に食事をした時だよ。あんなの演技に決まってんだろ。それくらい判れよ。鳥頭」
 演技……?
 今度は成美が、口をぽかんと開ける番だった。
 年を偽ったり、極端に自分を貶めたり、――それはまぁ、どうでもいいが、失礼な態度の数々が、全部、演技?
「あの……なんのために、そんな馬鹿馬鹿しいことを?」
「はあ? おま、そんなことも判ってなかったのかよ。あのな、あの連中は」
 その時、不意に雪村が表情を険しくさせた。
 成美がそれに気づいた時には、もう雪村は席を立っている。
「すみません」
「はっ、はい」
 美しい雪村に声をかけられ、ウエイトレスがぽっと頬を染める。
「個室に、今、新しい客が入られたようですが、あそこは今、別の客が使っているのでは?」
「え、は、はい」
 可愛らしいウエイトレスが、雪村の剣幕に慄いている。
 成美も慌てて席を立った。
 本当は、雪村の袖を掴んで「もう、邪魔する必要はなくなったんですよ」と言いたかったが、もうそんな段階ではない。
「あ、あの……私たち、できたらあのお部屋で食事したいねーって、そ、それを先を越されたものですから。その」
「大変申し訳ございません。あのお部屋につきましては、午後二時から、今入られたお客様のご予約が入っていたものでございますから」
 黒服のウエイターが、困惑顔で駆けつけてきた。
「最初の客は? 出てきたようには見えませんでしたが」
「あ……それなら、その、テラス側の階段から外に出られたのではないか、と」
「テラス?」
 あっと、成美は小さく叫び、雪村の目が、成美を素早く見下ろした。
「昨日、テラスに出た時に……確かに階段がありました。なんでこんなところに階段があるんだろうって思ったんですけど」
「馬鹿野郎っ」
 雪村が叫び、意味が判らない成美が吃驚している間に、彼は、レストランの外に飛び出していった。
 
 
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 ――手紙……?
 ポストの中に入っていた白い封筒を持ち上げ、氷室はわずかに眉を寄せた。
 裏面には、名前だけが記されている。日高成美。
「…………」
 これはまた、随分アナログな方法で……。
 午後三時、休日出勤だった氷室は、今、帰宅したばかりだった。
 持ちあげた封は、少しばかり重かった。中には、硬い塊が入っている。
 ふと、予感がして、氷室はその場で封を切り、中のものを手の上に出していた。
 ――鍵……。
 妙なキーホルダーがついているが、これは、――俺が、彼女に渡した鍵か。
 一瞬、思考が空白になり、氷室はその場に立ちすくんでいた。
 まさか――こういう結論を、いきなり出してこられるとは。
 予想していたといえば、動揺していないといったら嘘になる。いや、こういう結果になっても不思議ではない振舞いを自らしながら――それでも氷室は、彼女が自分から離れることはないと、どこかでたかを括っていたのだ。
 こんなにも驚いている自分に、氷室はむしろ驚いていた。
 立ったままの氷室の背後を、マンションの住人たちが訝しみながら通り過ぎて行く。
 ようやく我にかえった氷室は、ポストの扉を締めて、ロックを回した。
 とにかく――部屋に戻らなければ。
 鍵は、そのまま封に戻して捨てようと思った。もう、二度と見たくはない。この瞬間、昨日から続いていた何かが終わったのだ。はっきりと。
 鍵につけられた、まだ真新しいキーホルダーだけが、少しだけ気になった。 子供向けのキャラクター人形のようだが、こんなものをわざわざつけて、人に返すものだろうか?
 やはり、最近の若い女性の感覚は、理解し難い――。
(氷室さん、キーホルダーとか、使われます?)
「…………」
 何故かその時、不意に数日前の記憶が喚起された。
(この前ふらっと寄ったお店で、すごく可愛いの、見つけたんですよ)
 まてよ。この鍵は……もしかして。
 
 
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「すみません。そろそろ……帰らなければならないのですが」
 腕時計を見下ろして、柏原明凛はそう言った。
「まさか。もう、ですか?」
 男は、さも心外そうに柏原を見下ろす。大明拓哉。顔は、言っては悪いが昨年一発屋として一世を風靡したお笑いタレントにどこか似ている。
 背はひょろりと高く、印象は全体的に頼りないのに、目だけが妙に力強い。
「夕陽を見たいと思って連れてきたんですよ」
「夕陽、ですか」
 時計を見てから、柏原は言った。午後三時。まだ日の入りまでは相当な間がある。
 2人を乗せた車が停まっているのは、人気の途絶えた海岸沿い。
 このあたりは、大明グループのプライベートビーチなんですよ。と男が自慢げに語ったとおり、周囲に人影はひとつもない。 
「素敵なお誘いですが、家の者と約束があるので。……今日はこれで失礼させていただきます」
 本音を言うと、長々と続く男の自慢話に少なからず辟易していたところだった。
 辛抱強いことにかけては、多少なりとも自信があったが、さすがに限界が近づいている。
「そうですか、それなら、無理にとは言いませんが」
 にこっと男は笑うと、車のステアリングに手をかけた。
「国道あたりで下ろしていただければ、後は1人で帰れますので」
「そうですか? 家までお送りしたいのですが、柏原さんがそう仰るなら」
 存外素直に大明が同意してくれたので、少しばかり意外な感を覚えながら、柏原はシートベルトをつけなおした。
「今回は、無理なお誘いを受けてくださって、どうも」
「いえ……。こちらこそ、ご馳走になってありがとうございました」
 淡々と答え、柏原は窓の外に視線を向けた。
 まだ車は動き出さず、大明はステレオをいじっている。
「本当は、断られると思っていたんですよ。僕のひどい噂は、――松下のおじさんから聞いていたんでしょう?」
「いえ、特には。それに、お会いしてお話してみないと、なんともお答えできませんので」
 冬の海が、目の前に広がっている。ホテルを出てから車で走ること30分余り。随分寂しい場所まで来てしまったものだ。夏になれば、ここも、少しは賑やかになるのだろうが――。
「……柏原さん」
「はい」
 振り返ると、大明はいたずらめいた笑みを浮かべていた。
「実は、最後に渡そうと思っていたプレゼントがあるんです。手を」
「……手?」
「そう、両手を前に出してみてもらえませんか」
「……分不相応なものはいただけませんが」
「まぁまぁ、そんな硬いことを仰らずに、気に入らなければ、もちろんお受け取りいただかなくても結構ですよ」
 多少の訝しさを覚えながら、柏原は手を出した。
 その手が素早く掴まれて、金属の冷たい感触が手首に絡む。それがあまりにあっという間の出来事だったので、柏原はしばらく、自分の身に何が起きたのか判らないままでいた。
「これは、……」
 両手首に絡んだものを見つめたまま、柏原は呟いた。
「手錠、ですか」
「レプリカですが、よくできているでしょう。本物とほぼ変わりません。施錠術は本当の警察官に習ったんですよ」
「なるほど」
「なるほどって……」
 苦笑した大明が、のしかかってシートを倒す。
「本当に冷静な人ですね。それともまだ、自分が置かれた状況が判らないですか」
「手錠の鍵は?」
 掴まれた腕をシートの上部に回される。手錠で繋がれた両腕が、輪のようになってヘッドシートにひっかかる。
 鎖の一端を大明がしっかりと握っているから、柏原はあげた両腕を拘束されたまま、身動きがとれなくなる。
 そうしながら、大明は慣れた手つきで女の身体を弄びにかかる。ブラウスをひきあげ、手を腹部に滑り込ませ、あっと言う間に胸に指を這わせている。
 息を荒げながら、大明は囁いた。
「鍵は、ホテルの僕の部屋です。スペアはこの世にそれしかない。外してほしければ、どうしても一緒に戻るしかないということになりますね」
「では、戻った方が効率的では?」
「そうは思いましたが、ここで……。あなたが、あんまり冷静だから、小憎らしくなったのかな」
「…………」
 そんなに冷静でもなかったが、さほどの驚きもまた、同じようになかった。
 予想していなかったといえば嘘になるし、同時に、心構えができていたといえば、それもまた嘘になる。
 今も、どうでもいいという気持ちと、絶対に嫌だという感情が、同じレベルで交錯している。
 足元に落ちたバックの中で、携帯電話が震えはじめた。それはすぐに途切れ、留守番メッセージが流れ始める。大明がステレオの音量をあげ、音はそれにかき消された。
「もう、こんなに熱くなって……」
 息を弾ませながら、大明が囁いた。「冷たい、氷みたいな身体がこうやって溶けていく。僕は、それが大好きなんです。安心していいですよ、乱暴にする気はありませんから」
「部屋に戻りませんか」
 視線だけを逸らしながら、柏原は言った。
 胸をいやらしく撫でまわしながら、男の舌が耳や喉を舐めている。それは、ぞっとするほど気味が悪かった。
「こんなみっともない真似をなさらなくても、拒んだりはしませんよ。こういうのは……好きじゃない」
「そうですか。でも僕は――むしろ、こういうのが好きなんです」
 男の声は、嗜虐的な悦びで上ずっている。
「でも意外でした。こんなに大人しいなんて、あなたもまんざらじゃなかったんですね。……ふふ、手錠は余計だったかな」
 獣のような息遣い。ざらざらした手が胸の上を我がもの顔で這っている。
 数秒、柏原は考えていた。どうすべきか。ここまできたらもう逃げられないのは明らかだ。
 黙っていいなりになれば、苦痛も屈辱も一過性のものだろうか。
 いや、もともとそのために……自分は、ここまで来たのではなかったか。
 考えは本能的な部分で定まった。
「大明さん」
「……え?」
 次の瞬間、柏原は渾身の頭突きを、大明の鼻あたりにぶつけていた。
「……っっ、たっ」
 鼻をおさえた大明がのけぞる。一瞬自由になった両腕をシートから外し、柏原はそのまま外に出ようとした。
 ロックを外した途端、背後から首に腕が絡まる。
「くそっ、この女……っ」
 一瞬、息が詰まったものの、柏原はすぐに両腕を背後に振りあげ、拳で相手の目のあたりを思いっきり殴った。
「この……っ」
 一瞬呻いてのけぞったものの、男はますます凶暴に、女を本気でねじ伏せにかかった。
 反撃が、さほど意味のないものだと、柏原はすぐに理解した。
 怒り任せの男の力には敵わない。喉を掴まれたまま押し倒され、霞んだ視界に、鼻血を出した大明の怒りに満ちた顔が迫ってくる。
「この女、下手に出ればつけあがりやがって!」
 振りあげられた拳が視界の端に映る。 さすがに本能的な恐怖から目を閉じていた。
 が、――
「うっ、うわっ、なんだ、お前」
 素っ頓狂な声と共に、身体にのしかかっていた重みも消える。
 柏原は即座に身を起こしたが、目の前にあったのは、思いもよらない光景だった。
 開かれた扉。その向こうで、ガツッ、ガツッと、人を殴る気味の悪い音がする。
 砂浜の上、なすすべもなく殴られ、蹴りあげられているのは大明で――その前に仁王立ちになっているのは、禍々しい黒ずくめの男だった。
 真っ黒の、フルフェイスのヘルメット。
 全身黒ずくめのライダースーツ。
 まるで、夜から舞い降りてきた死神のようだ。
 ――よく判らないが、最悪の展開だな。
 何が起きたのか判らないが、もっとやっかいな危険が降りかかってきたのは、どう考えても明らかだった。
 確率的にアベック強盗だろうが、強盗で済めばまだましな方だ。ここに、あまりに無防備な姿で、手錠までされた女が転がっているのだから。
 が、意を決して逃げようとした柏原を、黒ずくめの男がいきなり振り返った。
「ひっ、だ、誰か……助けて……っ」
 束の間自由になった大明が、転がるように助けを求めて駆けていく。
 車のドアは空いたままだ。シートに腰掛けたまま、柏原は打たれたように動けない。黒ずくめの男が、砂を踏みしめて近づいてくる。
 ドアの前に立ちふさがり、男は柏原を凝視する。フルフェイスの奥の目が、破れたブラウスや、はだけた胸元を見つめている――。
 が、いまだかつて感じたこともない恐怖の中で、ふと柏原は、相手の輪郭によく知った男の影を感じていた。
 もしかして。
「……沢村さん?」
 いきなり――雷にでも打たれたように、黒ずくめの男がよろめいた。
 その反応を訝しく思いながら、ようやく柏原は心の底から安堵していた。
「助かった……。実はやっかいなことになって、少しばかり困っていたのよ」
「す、少しばかりって、……」
 ヘルメットの下から、くぐもった声がした。もう確信していたが、予想通りの声である。
「それ、少しとか、そういうレベルじゃないでしょう!」
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。