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 七万三千円……。
 そして三時間後――自宅に敷いた布団の上で、成美はげんなりしながら、雪村から手渡された領収書を見つめていた。
 部屋の貸し切り代が二万五千円。残りが食事。それもコースの中では一番安いものだったのに……。
「あーー、全部奢りますなんて、言うんじゃなかった……」
 後悔してももう遅い。冬のボーナスは、新人職員にとっては初めて満額もらえるボーナスだが、それでもたかが知れている。
 そうでなくても最近、氷室につりあうように、と、服や靴やバックに、多少なりともお金をかけている。そのローンも残っているというのに……。
 あとは実家への仕送りとか、それを差っ引くと、成美の懐には殆ど残らない計算なる。
(どうせ持ってないだろ。俺がカードで払っとくから、ボーナス一括で現金払い、な)
 まがりなりにも先輩だから、せめて割り勘くらいには――と思っていたが、甘かった。
 きっちりと成美に領収を渡すと、「じゃ、日曜にここで」と簡単な約束だけをして、雪村はさっさと去っていった。まさに修羅雪姫。金にかけても、これっぽっちも容赦がない。
 でも――なんだか、意外だったな。
 雪村さんの素顔、想像もしていなかったけど、あんな人だったんだ。
 少しばかり、ついていきがたいロマンチスト、とでも言うのか。――
 ベッドの上に腹ばいになり、成美はくすっと笑っている。
 確かに1人完結型恋愛体質。なぁんだ、うちの係の人たちって、他人に無関心みたいでいて、結構人のこと見てるんじゃない。
「…………」
(それって、超寛大なんじゃね? 俺に言わせたら、ハードル低すぎ。だって考えてもみろよ。そんな簡単な条件って普通ありか?)
 簡単なこと。
 そっか。
 簡単なことだったのか。
 さすがは恋愛体質歴30年の雪村主査。すごい逆転の発想だ。
 そういう風には、考えてもみなかった。氷室さんが私に求めていたのは、そんなにもハードルの低い、簡単なことだったんだ。
 ――でも、私は。……
 成美は嘆息し、傍らの棚に置いていた、キーホルダーつきの鍵を持ち上げた。
 使うに使えないまま、ただ持っているだけの、氷室の部屋の鍵。
 渡せなかった北風君のキーホルダー。
「…………」
 恋愛相手に独りよがりな夢を見ている雪村主査。でも今は、その滑稽さが、悲しいくらい自分自身と被ってみえる。
 ――私も……そうだったのかな。
 氷室さんの理想を、完璧な女性だと決めつけて、自分がその理想にほど遠いと、1人で勝手に悩んでいたのかな。
 色んな意味で臆病になりすぎて、好きという――そんな簡単な気持ちさえ、上手く見せられなくなっていたのかな。
(――俺が好きだ。相手の何倍も俺が好きだ。相手はその半分くらいでも構わない。いや、それ以下でも構わない。考えてみろよ。両思いなんて、奇跡だぞ、お前)
「奇跡、か……」
 そして、少しばかり欲張りになっていた。いつの間にか、彼に好きでいてもらえることが、当たり前みたいになっていたんだろうな……。
 
 
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 封筒をポストに落とした成美は、その前で二度手を叩き、賽銭を入れた後みたいに頭を下げた。
 ――神様、これで、私の気持ちがあの人に通じますように。
 空は澄み渡るほどに晴れて、絶好のお出かけ日和だ。こんな日に、恋人と一緒に過ごせない寂しさを改めて噛みしめながら、成美は顔を上げて、歩き出した。
 さて、急がないと。
 今日はエックスデー。柏原補佐のデートの日である。待ち合わせの時間に遅れると、あの雪村主査にどんな厭味を言われるか判らない。
 とはいえ、今日のこれからを思うと、すこしばかり憂鬱になってしまう成美だった。
 ――やっぱり、間違ってるのかなぁ。こそこそ、人のデートを覗き見なんて。
 ふっと弱気になったものの、成美は急いで首を振って、その不安を追い払った。
 とにかく、最後まで自分の決めたとおりに行動してみよう。
 でなきゃ、氷室さんと、離れてしまった意味がないから――
 

 
「すみません、遅れちゃって」
「おせーよ。馬鹿」
 雪村との二度目の食事は、同じホテルの同じレストランで、そんな挨拶から始まった。
 白いシャツにVネックのニット、ダークブラウンのパンツ姿の雪村は、なんの意味があるのか眼鏡をかけ、いかにもいいところのお坊ちゃんという風情だった。
 そしてむっつりと押し黙っている。
 その不機嫌の理由は――なんとなく、成美にも察しがついた。
「……あの、金曜は、なんかすごく飲みすぎちゃったみたいで」
「まぁ、……お互い、な」
 沈黙。
「忘れろよ」
「あ、はい。もちろん」
 そしてまた、気まずい沈黙。
 頼んだランチが運ばれてくる。
「柏原補佐は?」
 成美が問うと、雪村は物憂げに顎をしゃくった。
「お前が来る5分前に、2人で貸し切りルームに入ってった。とりあえず、いい感じ。普通のカップルって雰囲気だったよ」
「そ……ですか」
 それもまた、雪村の不機嫌の理由だと、ようやく成美は気がついた。
 1人座る雪村の目の前を、大好きな星が、別の男と共に通り過ぎていったのだ。それが成美だったら――辛くて、席を立っていたかもしれない。
「で、どうすんの。マジで妨害に入るわけ?」
「……様子、みてから……。どこかで電話してみて、それで、……何もなかったら」
「自分を単なるおせっかいだと自覚して、この失礼な振舞いを、柏原さんに詫びるんだな」
「…………」
 成美はうなだれ、こくんと小さく頷いた。
 自分のできることなんて、多分、せいぜいこのくらいで――それは客観的にみたら、すごく馬鹿馬鹿しくて幼稚なことだ。
 氷室さんには多分、この結末が読めていたんだろうな。
「私、馬鹿ですね」
「この際、俺も同類だろ」
「まぁ、私が巻き込んだようなものですから」
 雪村が溜息をつき、成美もつられて、ついていた。
「今日も奢れよ」
「えっ、……あ、……う、……はい」
 雪村さん、……あなたって人は先輩の風上にもおけない、とことんケチな……いえ、確かに私が悪いので、そこはもう何も言いません。
 ゆるやかなクラッシック。窓の外は晴天の空。長閑でゆったりとした優雅な時間が流れている場所。
 ふと成美は、氷室のことを思い出していた。
 彼は――今頃、どこで何を思っているのだろうか。
「ま、……現実なんてこんなもんだよな」
 ふっと雪村が呟いた。
「そうそう漫画みたいな展開にはならないってこと。てか、何を期待してたんだろうな、俺。ピンチになった柏原さんを劇的に俺が助ける、とか。もしかすると、そんな展開、待ってたのかもしれないな」
 ――雪村さん……。
 その言い方があまりにも自虐的で、成美は胸が痛くなっている。
「あの、……結構現実にもありますよ、漫画みたいな展開。たとえば、ストーカー、とか」
「は?」
「あ、いえ。その――私の友達の、話なんですけどね」
 そう前置きして、成美はたどたどしく、例の「あなたのミナ」の一件を話した。
 果てしなく元気のない雪村を元気づけたいというのもあったし、沈黙が、気づまりだったというのもある。
「つまり、友達の前に顔を隠して現れた女は、友達の彼氏の元カノだったようなんです。その後、元カノが、友達と彼氏が働いている会社にまでやってきて――」
 自分のことだと言わなければ、間違っても氷室に話は及ばないだろう。
「そりゃまた、随分恐ろしい女だな。――その話が、本当なら」
 雪村は、話半分に聞いていたようだが、最後まで聞くと、少しばかり不快な表情になった。
「てか、お前からかわれたんだろ。それ、多分作り話だよ」
「えっ、まさか……。本当の話のようでしたよ」
 本当も本当。成美の経験談である。
「いや、その話には、矛盾がある」
 きっぱりと雪村は言い切った。
「まずは、ミナと名乗った女が、帽子で顔を隠す意味だ。意味なんてないだろ。日高の友達とそのミナは、そもそも面識がないんだから」
「……え、まぁ」
 そういえば。
「でも、本当の話なんですよ。嘘を言うような友達じゃないんですけど」
「だったら、そのミナは、会社に押しかけてきた女とは別者なんだよ。その子のもともとの顔見知りか、――もしくか」
「もしく、は?」
「これから、顔見知りになる相手、……かな」
「…………」
「でなきゃ、そんな芝居がかって顔隠す必要なんてそもそもないだろ。なんか存在自体が気味悪いけど、顔を隠す必要がある相手だってこと。彼氏の会社に堂々と押しかけたホステスさんとは、 ちょっとイメージが合わない気がするな。俺的には」
 それは……でも。
「じゃあ……その子にそう言っておきますね」
 釈然としないものを感じつつ、成美はそう言うしかなかった。まぁ、顔を隠していたというより、たまたま隠れていたのかもしれないし。
 あのシルエット――なにより、声のイントネーション。どう考えても、同一人物だという気がする。そこは、雪村相手に拘ったところでどうしようもないが。……
「ん?」
 不意に、その雪村の目が険しくなった。
「おい、出てきたぞ」
 アートフラワーで飾られたヴィップルームから、長身の男が出てきた。成美にも見おぼえがある。あの男だ――松下弁護士事務所で出会った、あのいけすかない優男。
 男は、そのままものも言わずに出口の方に歩いて行く。その右手には携帯電話が握られている。
「どっかで電話するつもりかな。俺、ちょっと後つけてみるから」
「え……」
 成美が躊躇っている間に、さっと雪村は席を立っていた。
 

 
「うーっす、俺。拓哉。今、予定どおり、会ってるから」
 そんな声が堂々とロビーに響き渡る。
 警戒心の欠片もない男に内心呆れながら、雪村は何気なさを装って、男の傍らにある応接ソファに腰掛けた。
 傍らにある新聞をとりあげ、視線を落とすふりをする。
 男は窓辺に立ち、なにやら上機嫌で電話の相手と会話しているようだった。
「公務員だなんて馬鹿にしてたけど、結構いい女だね。さすがはって……ところじゃね? ガード? 超固そうだけど、この後、ドライブする予定だからさぁ」
 殴りたい……殺したい……。
 こみあげる衝動と、雪村は懸命に闘い続ける。
 しかし、なんだってこんな軽薄そうな男と、柏原さんはデートの約束なんかをしたりしたんだ?
 いくら松下弁護士が仲介に立ったとはいえ――柏原が、それほど愚かでないことは、雪村がよく知っている。
「ま、そん時にな。……へっ、ちょろいって。一応俺、好青年演じてるし、そういうの慣れてるしな。で」
 そこで男は、携帯を口元に寄せ、声をひそめた。
「処女って、マジ?」
 ばりっと、雪村の手元の新聞が、裂けた。
「……??」
 ぎょっとしたように、男が雪村を振り返る。
 雪村は表情ひとつ変えず、破れた新聞をたたんで、立ちあがった。
 なんだ、こいつは?
「え、いや。なんでもねぇし。ああ、また連絡する。首尾よくやるよ。じゃあな」
 なんなんだ、今の会話は。
 日高のおかしな推測はあたり、だった。
 これは――絶対に放っておいていい相手じゃない。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。