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「全く、今回は災難だったね。氷室君」
「まぁ、よくあることですよ」
 氷室は勧められるままに、柔らかな革張のソファに腰を下ろした。
「時間外だ。コーヒーは出せないが、構わないかね」
「結構です」
 総務局、局長室――。
 役所内では、鬼の藤家と呼ばれ、畏れられている藤家局長のオフィスである。
 午後8時。
 すでに総務課は、係長1人を残して全員が帰宅している。
 外から扉がノックされ、もう1人、この席に呼ばれた人が顔を出した。
 行政管理課課長補佐、柏原明凛である。
「遅くなりました」
 柏原は、冷たい横顔で丁寧に一礼し、心得たように氷室の隣に腰掛けた。
「話と言うのは、他でもない。例の……水森博の実行委員会のことだがね」
 ソファに背をあずけるようにして、藤家は鷹揚に切り出した。
「出席するつもりかね」
「約束させられてしまいました」
 苦笑して、氷室は傍らの人を見下ろした。
「森田課長は、全く人の心を動かす術に長けておられる。まんまと乗せられてしまいましたよ。今さら、行かないとは言えないでしょう」
「私が同行します」
 柏原補佐が、藤家より早く、今夜の会合の本題を切り出した。「そうさせていただけませんか。氷室課長」
「……そうしないか。氷室君。何もかも相手方の手中というのは、いかにも危険だ。君の発言がどんな形で記録されるかも定かではない」
「それほど、僕は頼りなくみえますか」
 氷室は唇に拳をあてて、こみあげた笑いを噛み殺した。
「むろん、誰が同行されようと構いませんが、今夜は管理課のほぼ全員に志願されましたよ。ぜひとも自分を連れて行けと」
「ほう……管理の連中が、か」
 意外だったのか、藤家は白く染まった眉をあげた。
「今回の一件で、君に一番気の毒だと思ったのは、管理課内で、おそらく君が孤立するだろうという予測だったのだがね。……人の心を掴む術は、実は君の方が長けているのではないかね」
「僕は、何もしてはいませんよ。局長に指示されたこと以外は」
「想像以上の騒ぎになったが、君は実によくやってくれたよ」
 藤家は軽く息を吐いて立ち上がった。
「全くもって、バカバカしい役回りだがね。だからこそ、いずれ国に帰る君らを頼るしかなかった。これも役所の……悪しき習慣であり、どろどろに溜まった膿でもある」
「まだ、僕には極めてさらさらと……清流とまではいかないですが、泳ぎやすい場所に思えますがね」
「霞ヶ関と比べたら、そうなのだろうな」
 藤家は苦く笑い、並んで座る氷室と柏原を見下ろした。
「悪いが、あと少しの辛抱だ。なんとか森田君の猛攻をしのいでくれ。なにしろ、表沙汰になれば、何人の幹部連中の首が飛ぶか判らない。――氷室君にしてみれば、全くもって、馬鹿らしいとしか言いようがない役回りだろうがね」
 
 

「氷室課長」
 執務室に戻ろうとした氷室は、柏原に呼びとめられて足を停めた。
「まだ、何か僕に忠告がありますか」
「ありますが――その前に」
 総務課は静まり返っている。ただ1人残っている庶務係長の耳を気にしてか、柏原は目線で執務室の外を指示した。
「今回は、本当にご苦労様でした」
「あなたにそう言われると、全てが報われる気がしますよ」
 氷室は軽く肩をすくめた。エレベーターホールで2人きりになって、少しだけ抑えた地の感情が顔を覗かせかけている。
 全く持って――馬鹿馬鹿しいと。
「柏原さんも、気苦労なことでした。今度2人で慰労会でもやりましょうか」
「ぜひともご遠慮させてください。私は、森田課長にアドバイスするだけの立場でしたが、氷室課長は……真っ向から敵に回る役回りでしたから」
「ま、そういうポジションですからね。とはいえ、最終的に森田さんを言いくるめたのは柏原さんでしょう。いくらでもある法の抜け道を――あたかもないように説得するのも、難義ではなかったですか」
「彼のような男は扱いやすいです」
 柏原の横顔に、あるかないかの微苦笑がかすめた。
「ある意味、驚くほど素直で、純情な男性なのかもしれないですね。ただその馬力の持って行き場所をたがえているだけで」
「僕も、基本的には嫌いな人ではないんですけどねぇ」
 氷室は少し考えてから、にこりと笑った。
「ただ、それは、柏原さんとは違う意味で、ですけどね」
「……? そうなんですか?」
 氷室は微笑し、改めて柏原に向きなおった。
「で、僕に忠告とは何でしょう」
「本当は夕方に言ってあげるつもりでした。ただ、あの時は日高がいたので」
「……ああ」
 少しばかり、自身の眉が曇るのを氷室は感じた。
 全く――俺から逃げているのか、傍にいたいと思っているのか。あの子の本心はどっちなんだ。
 あんな目で俺の前に飛び出してきておいて――余計な連中がいなければ、うっかり抱きしめてしまうところだった。
 そのくせ、やっと2人になれそうなタイミングになると、そそくさと逃げ出してしまう。一体、何を考えているんだか。
「脇が甘いと言いましたが、それは決裁箱のことだけではありません」
 やや、硬質な口調で柏原が口を開いた。
「日高のことです」
「…………」
「このようなことに口を挟むつもりは毛頭ありませんが、……最近、日高と、きちんと連絡をとっていますか」
 ひどく痛いところを突かれた気分だったが、氷室は微笑して、眼差しで話の続きを促した。
「以前から気になっていましたが、どうも、観光企画の綾森課長が日高に接触している向きがあるんです。……課長はご存じないと思いますが、綾森課長は」
「知っていますよ。それで?」
 初めて急くように先を促した氷室を、柏原は冷やかな目で見上げた。
「また決裁箱のようなことにならなければいいと、それだけです」
「…………」
「課長には、想像さえできないかもしれませんが」
 微かに息をついて、柏原は言った。
「女というのは、時に想像もつかないことまでやってのけるものなのです。そこに恋情が絡むと、なおさらかもしれません」
 答えず、氷室は静かに微笑した。
「ありがとう。忠告、胸にとどめておきます」
 女の怖さなら、多分あなたより、よく知っていますよ。柏原さん。
 いざという時、女という生き物が、どれだけ残酷に、どれだけ冷酷になれるものなのか。
(――天……)
 掠れた甘い、冷たい囁きを、氷室は静かに振り切った。
 とにかく、今はあの子のことだ。
 1人になった氷室は、眉をひそめて携帯を取り出すと、急いで番号をコールして耳にあてた。
 行政管理課に、柏原以外に残っている面子はいないようだった。
 確かに脇が甘かった。そして、何ひとつ忠告めいた言葉をかけることさえしてやらなかった。
 ――出ない……。
 氷室は軽く舌打ちし、再度番号をコールした。
 そうしながら考える。最悪中の最悪の事態を想定したとして、彼女は今、どこにいる?
 俺は馬鹿だ。考えもしなかった。
 決裁の三つや四つがなくなったところでどうでもいいが、まさか、連中が、彼女に目をつけるとは。――
 
 
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 ――携帯……!
 闇の中でいきなり震えだした携帯電話。しかも、一回切れたと思ったら再度鳴った。成美は大慌てでポケットから携帯を引き出して、着信も見ずに電源を切った。
 誰からか判らないけど、とりあえず、――後でかけなおせばいいとして。
 問題は、この暗さで、目的ものが見つかるかどうかである。
 14階の第7会議室。
 会議に使う部屋の下見をしたいから、――そう言うと、可南子は、特段気にするでもなく、14階全てのマスターキーを貸してくれた。
 窓から見える隣の議会棟が、わずかな光源となっている。あとは月明かりだけ。
 第7会議室の内部では、至る所に段ボールが乱雑に積み重ねられていた。
覗いてみると、中は、殆どがグッズである。タオル、ぬいぐるみ、ティシュ、うちわ。そんなものが、整理されて収められている。
 ――まさか、段ボールの中じゃないよね……。
 何十個もある段ボールをひとつひとつ確かめるなんて、到底成美1人では出来そうもない。
 懐中電灯でそろそろと周囲を照らしてみると、会議室の前面に長テーブルがあり、そこに筆記用具やファイルの類が積まれているようだった。
 ようやく、目も暗がりになれてくる。成美はまず、そのテーブルの周辺から探してみることにした。
 テーブルの下にも段ボール箱があった。開いてみると、中にはグッズではなく沢山の書類が詰め込まれている。殆どがコピーものだが、いくつか、決裁用の鏡がついているものもある。
「…………」
 成美は携帯してきた小型の懐中電灯で、そっと中を照らし出してみた。
 探し物の特徴は判っている。
 水と森の博覧会準備室が起案したもので、道路管理課が合議先になっているものを見つければいいのだ。
 とすれば、簡易決裁ではない。おそらくは局長級の決裁が必要なものに違いない。役所の中に、そこまでの判を要する決裁の数は多くない。多分、見ればすぐに判るはずだ。
 ――違う……これじゃない。
 しゃがみこんで段ボールの中を探りながら、成美は少しだけ不安になる。
 本当にこんなところにあるのだろうか? 隠し場所としてはあまり賢いとは言えない気がする。もう少し冷静になってみれば、こんな、誰でも出入りできる場所に――
 コンコン、と扉がノックされる音がした。
 成美はびっくりして、咄嗟に懐中電灯を切っている。鍵は、内側からしめた。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。
 マスターキーは一本だけで、それは成美が持っている。本物のキーを持っているのが森田だとしたら、ノックしてくるはずがない。
 成美はテーブルの下に、背をかがめるようにして身を隠した。心臓がドキドキいっている。今さらながら、自分がとんでもないことに手を染めていることを思い知らされている。
 ――どうしよう。見つかったら。
 もし、見つかってしまったら……。
 コンコン、ともう一度ノックされた。周囲をはばかるような、密やかな音だった。
 そして、躊躇ったような声が聞こえた。
「……日高さん」
 ――!
 成美は弾かれたように顔をあげた。途端にテーブルの板で頭をしたたかに打っていた。ごん、という音が闇夜に響く。
 ガチャガチャと、ノブを回す音がする。成美は頭の痛みに顔をしかめながらも、急いで扉の鍵を外して、内側から、開けた。
「氷室さん!」
「……君は……」
 息を乱した氷室は、すぐに成美の腕を掴んで引っ張った。
 ――嘘でしょ……。
 成美は、驚きのあまり声もでない。
 どうしてここに、氷室さんが。
 絶対に来るはずのない人が、何故。
「何を馬鹿な真似をしているんですか。すぐにここを出るんです」
 囁くように、氷室は言った。険しい、感情を殺した声だった。
「でも」
「鍵は」
「も、持っています」
「中に忘れ物は」
「ありません。あの、でも」
 失くした決裁――もしかしたら、この部屋の中にあるかもしれないのに。
「急いで」
 氷室に腕を引っ張られる。成美から鍵を奪い取ると、彼は即座に外から扉を施錠した。
 背後で、駆けるような複数の足音が聞こえたのはその時だった。
 ぱっと照明があてられる。氷室は成美を庇ったが、成美の顔にも、あかあかと照明があてられた。
「……参ったな。氷室さんだったのか」
 その勝ち誇った声で、成美は凍りついていた。
 森田課長――
 どうして。森田なら今夜はもう帰宅したと、綾森課長から聞いていたのに。
 
 

「これは……」
 氷室が言葉に詰まったのは一瞬で、彼はすぐに普段の彼を取り戻していた。
「森田さんですか。奇遇ですね」
「奇遇もなにも、あんたら、そこで何してたんだ」
 どすの聞いた声が近づいてくる。
「行きなさい」
 振り返った氷室が囁いた。
「でも」
「行きなさい。君がいると面倒なことになる」
「そこにいるのは、行政管理課の新人サンじゃないですか」
 楽しそうな森田の声――もう、とっくに顔を確認されているのだ。
 初めて氷室が、微かな息を唇から洩らした。
 森田の傍には、部下と思しき若い男性職員がついている。男は猜疑心たっぷりの眼で2人をねめつけると、鍵を開けて会議室の中に入っていった。
「課長、明らかに荒らされてますよ」
 電気がついて、中から大きな声でそう告げる。
 成美はもう、恐ろしさで立っているのもやっとだった。
 なんて馬鹿な真似をしたんだろう。私――私。
「あの、私がやったんです」
 成美は震えながら、前に出ようとした。すかさず氷室が手を出して止める。
「僕が頼んだことでした。日高さん。ご協力いたみいります。鍵を返して来てもらえますか」
「――氷室さん!」
 血相を変えた成美を、氷室は冷たい目で見下ろした。
「お願いします」
 氷のような目と冷たい声に、成美は息を引いていた。
 考えるまでもない。今、氷室がひどく怒っていて、成美に呆れ果てているのは明らかだった。
 ――私……。
 私……どうしよう。どうしたらいいの。
 背を軽く押され、成美はふらふらっと歩き出した。
 もう、氷室の顔も声も、目にし、耳にすることはできなかった。怖くて――そして、この現実を認めるのが辛すぎて。
「さて、どうしようかね。氷室さん。あんた、いくら意趣返しとはいえ、大変なことをやらかした」
 背後で、森田の声が聞こえた。舌舐めずりでもするような声音だった。
「そのようですね」
 氷室の声が、冷静にそれに答えている。
「しかも、その相棒に、自分のガールフレンドを利用したとなると……。法規係のエリートさんか。あの子ももう終わりだな。泥棒の片棒かつぐようじゃ」
「もう、もってまわった言い方はなしにしませんか。森田課長」
 ――氷室さん……。
 彼の声に、はっきりとした苛立ちが滲んでいる。もう聞いていられなかった。成美は駆けだしていた。
「判りました。今回は僕の完敗です。判でもなんでも押しますよ。ただし、今さら僕の一存では決められないので」
 聞こえたのはそこまでだった。
 エレベーターに乗り込んだ成美は、激しい動揺でしゃがみこんでいた。
 氷室さんが大変なことになった。
 私のせいで、とんでもないことになってしまった。
 私……、私、どうしたらいいの。
 
 

  
「……日高さん?」
 携帯に出てくれた人は、成美が泣きじゃくっているのに、驚いたようだった。
「何があったの。今、どこにいるの」
 簡潔な冷たい声――。
「や、役所の、すぐ傍、です」
 しゃくりあげながら成美は、今自分がいる場所を言った。「ど、どしていいのか、わからなくて。ご、ごめなさい。こんな、……電話」
 初めて掛けた柏原補佐の携帯電話。
 緊急連絡用に、係員にだけ知らされているものである。
「落ちつきなさい。何があったか、説明できる?」
 補佐の背後から、車のクラクションの音が聞こえる。
「ひ、氷室課長の、ことで、私」
「今からそちらに行く」
 成美が続けようとすると、遮るように柏原は言った。
「タクシーを拾えば、十分もすれば役所につく。それまで、そこで待っていなさい」
「は、はい」
 ようやく荒波みたいだった心が少しだけ穏やかになっていた。成美は涙を拭って携帯を切った。
 絶対に、氷室課長に罪を被せるわけにはいかない。
 私がやったと、正直に名乗り出なければ。
 が、そうなれば、動機の部分が問題になる。正直に言えば、ますます氷室に迷惑がかかる気もしたし――可南子にも、類が及ぶのは避けられないだろう。
 どうしたらいいの……。
 再び零れた涙を、成美は急いで両手で拭った。それでも涙は後から後から零れてきた。
 こんな馬鹿な真似をした理由は判っている。
 多分、冷静ではなかったし、焦っていたのだ。
 彼の役にたちたくて――。
 柏原補佐に負けたくなくて――。
 その焦りや嫉妬が、成美から冷静さや常識的な思考を奪っていた。
 そして結局、その後始末すら自分で出来ず、柏原補佐に助けを求めているのだ。
 ――なんて、なんて情けない。馬鹿な、駄目な女なんだろう、私は……。
 涙に潤んだ目で、成美は庁舎14階をみあげた。
 まだフロアの半分には、明々と灯りがついている。
 そこで今、氷室がどんな目にあっているのか――。
 想像するだけで、胸が重く軋み、成美は歯を食いしばるようにして泣き続けた。
 
 
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「とにかく、気にしないようにと――。彼女に、そう伝えてもらえませんか」
 氷室は微かに息を吐いて、空いた方の手でパソコンを起動した。
 朝8時。かかってきた電話の相手は行政管理課の柏原補佐だった。
 今日、日高成美を無理に休ませたという連絡だ。懸命な選択だった。思い詰めた彼女がまたぞろ騒ぎを起こしたら、今度こそ収集がつかなくなる。
 昨夜の顛末は、既に報告を受けていたが――それにしても。
「どうされるんですか」
 柏原は声をひそめた。
「今回の件は局長には報告しません。日高があまりに可哀想ですからね。それは課長も本意ではないでしょう」
「ありがとう。君ほど、僕を判ってくれる人もいませんよ」
 苦笑してそう答えると、電話の向こうの人は、少しばかり無言になった。沈黙の背後で雑踏の気配がするから、まだ通勤途中なのだろう。
「……直接、連絡されないのは、何故ですか」
 硬質の声は、出過ぎた質問を躊躇うように、彼女らしからぬぎこちなさがあった。
「私の穿ちすぎですか? 課長が、あえて日高を遠ざけているように見えるのは」
 わずかに黙り、氷室は受話器を持ち換えた。
「参ったな。そんなつもりはありませんが、今は、こういう時期なので」
「あえて距離を取られているというわけですか。……最も日高は、そういったことにからきし疎いので、課長の意図にはまるで気がついていないようですが」
 まぁ……、そうだろうな。
 氷室は、微かに息を吐いて、電話を切った。
 男心に疎いのは、電話の女性も同じだと思うのだが――その柏原にからしき疎いと言われるのだから、どちらに同情していいのやら。
「…………」
 さて、どうする。
 とはいえ、こうなった以上、どうもこうもないし、迷っている暇もない。
 解決方法は、小学校の算数よりも簡単だ。判を押して、森田の思い通りにさせてやればいい。たったそれだけのことなのだ。
 そして氷室は、半ばそうするつもりでいた。
 問題は、期せずして自分が作ってしまった梯子を、今さら下ろすということだ。
 ――まいったな。さすがの墨田局長も怒るだろうし、問題は藤家さんだ。今さら、降りますって……ちょっと言いづらい気がしないでもない。
 その程度には、俺も情が移ったのかもしれないな。客人として招かれている、この小さな田舎町に。
 それともうひとつ。墨田や藤家より気がかりなことがあった。
 自分はいずれ市を去るが、日高成美は違う。
 こんな形で性質の悪い連中に弱みを握られ、そのままにしておくことが、果たして彼女のためだろうか?
 それから昨夜のことで、もう一つ。氷室には判ったことがあった。
 俺は――、これ以上……。
「課長、コーヒーが入りましたっ」
 その時、新人職員三ツ浦の、嬉しそうな声がした。
「よ、よければお持ちしても、よろしいでしょうかっ」
「? ああ、ありがとう」
 どうでもいいが、なんだって朝からこうもテンションが高いのだろう。
 首をかしげながら、パソコン画面を個人メールに切り替える。
 件名、――日高成美。
 沢山のメールの中からみつけたそれに、氷室は眉を寄せていた。
 送り主は、外部だ。
 庁内LANを使ったメールではない。氷室は素早くそのアドレスを確認した。――携帯電話。添付ファイル付のメールである。
「…………」
 ひとまず、ウイルスの心配はないだろう。それよりなにより件名が、そのままスルーしてはいけないと告げている。
 眉をしかめたまま、氷室は添付ファイルをクリックした。
 ――これは……。
「――氷室課長?」
 三ツ浦が、コーヒーをトレーに乗せてやってくる。
 が、青年は課長席の手前で足を止めると、何故か蒼白になって後ずさった。
 
 

「た、大変ですっ。かっ、課長の背後にオーロラが!」
「ついにオーロラ?」
「どんだけ極寒の地にいるんだよ。氷室さん」
 やれやれ。
 横目で、同僚たちの騒ぎを見ていた沢村は、嘆息して肩をすくめた。
 よくわかんねぇけど、とんでもなく怒ってるぞ。氷室さん。
 一体誰が、何をやらかしてくれたんだか。
 ここ数日の騒ぎで、あの夜の報復攻撃(成美を連れ出してしたたかに酔わせた)はないままだが、どちらにしても、あの程度では氷室の地雷に届かなかったのだろう。
 が、どこぞの誰かさんが、今、思いっきりその地雷原で、地中の地雷をご丁寧にほり起こしてくれたらしい。
「さて……これからがお楽しみじゃねぇの」
 沢村は、くくっと笑うと、課長席を立って外に出て行く氷室の背を見送った。

 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。